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Posts Tagged ‘不安’


「1964年15歳だった。2020年71歳時に見られるだろうか」


   


     9月 9th, 2013  Posted 12:00 AM

2020年オリンピック・パラリンピック開催地は東京。
真夜中から明け方まで、TV報道を見続けてしまいました。
プレゼンテーションを見届けて発表の瞬間を撮りました。
この国難、福島原発事故は汚染水の大問題を世界の不安材料とし、
開催地国家への不信感を高めていました。
被災地の方が、とてもこの機運とは別世界にいるという発言は、
私には身につまされる思いにさせられました。
それでも、オリンピックが決定したことは本当に幸運でした。
人生にはやはり喜怒哀楽がこれほど巡り巡っていること。
3.11で私たちは哀しみのどん底に落とされ、
しかも、その後の復興では国民の思想も2分されました。
しかし、私は、この開催地決定が明確に「景気」になるでしょう。
プレゼンを成し遂げた、アスリート、高円宮妃、首相、都知事と、
主体者であった委員のチームワークは素晴らしいものでした。
彼らがプレゼンに込めた願望の下敷きには、
3.11以来、アスリートたちやスポーツの効能性が、
「復興」の大きな力になるという認識を共有していたのでしょう。
人間には、「感激・感動・感謝」という感性サイクルがあります。
そして、感激と感動を最も効能を与えるスポーツと、
勝利を獲得するためのアスリートたちが、
必ず、応援に感謝するこのサイクルの効能性を私は、
デザイン・デザイナーにも好ましく・望ましいことだと思います。
私は「価値」というのは、好ましいこと、望ましいこと。
この定義を語ってきましたからこの決定は「価値」だと思います。
少年の頃、オリンピックがあったことを思い出します。
おそらく、自分の人生でもう一度開催されること、
これは、国難の哀しみに対して大きな喜びであり、楽しみです。
今、確かに不確定で不安極まりない時代、その社会にあって、
スポーツが成し遂げる力をこれからの7年間が過程でしょう。
そしてこれからの7年間こそ、国難脱出の機会になるでしょう。
「危」険を体験した「機」会こそ、「危機」でした。
その解決の大きな一つのきっかけの一夜だったと思います。


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「現在使用のバッテリーパック・・・携帯電力を再考」


   


     6月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

3.11以来の国難によって、日本人はエネルギーを知りました。
しかし、私は電力=エネルギーは間違いだと言ってきました。
エネルギーは、「水・食糧・電力」と定義しています。
また職能として「急速充電バッテリーの開発」に関わっています。
したがって、バッテリーパックは私の日常や出張時の必需品。
だから、いつでも最新の容量性能の進化を追いかけ、
携行時のデザイン機能のモノを選び抜いています。
急速充電バッテリーは、3年前に価格は20分の一になりました。
これは日本だから可能にしたMade in Japanの技術進化です。
日本のこの技術力を私は確信していましたが、
専門家としても相当に日本の技術の信頼感は正直揺らいでいます。
それには大きな理由があります。
つまり、このバッテリー領域は日本技術であるべきですが、
開発するべき企業力に大きな不信と不安が芽生えています。
結論を言ってしまえば、マスコミ報道への信頼を離れるべきです。
それは「再生エネルギー」への期待感などは無謀だと断言します。
2030年の米国政府のレポートでも、
再生エネルギー(太陽発電や風力発電など)が成功しても、
全エネルギー=電源の5%程度だということです。
私は、金属素材のイオン化傾向で、
バッテリー素材を再考すべきでしょうと主張します。
簡単に言えば、イオン化傾向の隔絶性と、
その二つの金属間にあるべき媒介物が問題だと思っています。
さらに、発電形式の再熟考不足を見ているのです。
たとえば、ソーラーバッテリーの蓄電地が、
リチウムバッテリーだという程度では、何も解決していません。
ところが、マスコミが仕掛ける風潮操作は間違いだらけです。
その実例をあげれば、キリが無いほど出てきます。
だからこそ自分用の携帯バッテリーは最新のモノにしています。
残念ながら、この島国は地震列島ですから、
少なくとも、ケータイとパソコンのバッテリーは、
最低、3日間の連続使用を考えておくべきでしょう。
私が提唱する「危機管理デザイン工学」でも、
携帯用のバッテリー開発デザインは最大のテーマです。


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「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」


   


     12月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

ロボットに心を待たせることができるのだろうか。
これはロボット学の大きなテーマです。
「ロボットは心を持つことができる」と石黒教授は断言しています。
それは、J・ボードリヤールの指摘への反論がベースだと想像します。
ひとつは、
「ロボットは想像的なものの局面が、
神話として到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」ということと、
「もしもロボットが行動の柔軟さというところまでの人間の分身であれば、
それは「不安」を呼び起こすだろう。」
という私のロボットの「身体論」的な解釈を喜怒哀楽表現を、
表情表現に求めたものです。
そこで、「舞」というロボットの動作は、まさしく「舞」ゆえに、
足の裏を決して見せないという行動とともに、
哀しいときには、
一緒に泣いてくれる表情=涙(LED発光)を流す形式を造りました。
ヒューマノイドでもなく、
なんとかメカノイドからも開放された造形言語でまとめました。
そして、まさしく「泣く」のは、
ジェームス=ラング説をそのまま摘要して、
「悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しい」ということを
人工知能的な反応と表現へ技術具現化を求めています。
だから、人間が泣いていれば、
まずロボットもそれをキャッチして泣くのです。
だから、泣くから悲しいという表情が表れることは正当性を担保できます。
心理学・生理学的な「泣く」という
ひとつの心があると思わせるようなことは可能になるということです。
これは、人間もロボットも「泣いて」こそ、
「悲しみ」を共有できるということは、
決して、
ロボットの存在が「不安」を与えることを消去してくれるはずです。
やはり、ロボットには、
形態としての表情=顔的な造形言語があれば、
その表情あるロボットの形態言語は、
喜怒哀楽ができることが「意味されている」ということになるはずです。


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「憂国のパロールの思考定本から知ること」


   


     7月 18th, 2012  Posted 12:00 AM

祖国への憂国はずーっと心にありました。
特に、海外に出ると比較することができます。
良いところ、ダメなところ、必ず心に残ります。
それでも日本は素晴らしい祖国、
それなのに憂いは拭い去ることができませんでした。
当然です。
人は、生きていることが死に向かっている不安を、
そのまま祖国への愛着と重ね合わせることができる、
そんな知性と感性を人は持っているからでしょう。
友人・松岡正剛氏は「連塾」最後に25冊の書籍を紹介してくれました。
その中に、エドマンド・バーク「崇高と美の観念の起源」がありました。
本棚にありました。読んだ記憶はありましたが再読しました。
彼の近著「3.11を読む」をテキストに、
私は、この三冊を憂国のパロール、
いやナラティブ・セラピーとして選んでいます。
松岡正剛は、ポール・ヴィリリオ「情報化爆弾」を紹介しています。
私は「民衆防衛とエコロジー闘争」を挙げたいと思っています。
そして、ウルリヒ・ベックの「危険社会」と「世界リスク社会論」を
まずテキストにしておくべきと考えます。
「憂国」はすでに「対立」も「衝突」も
超越した思想の創出でなければなりません。
その思想らしきことに近接するデザインを
祖国=日本のためにと考えています。


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「語り部仕草は、再出発するべきです。」


   


     5月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛「連塾」、その他の舞台演出は、
いわゆる講演スタイルにオリジナリティが顕著です。
私は、彼の講演での話し方、語り部仕草は、
まったくのインプロビゼーションであり、
観客を引き込む術において、
あるいは、プレゼンテーションとしては、
世界的にもトップランクだと思っています。
故スティーブン・ジョブスがプレゼンテーターとして、
最高の人物評がありますが、
私は松岡氏の方がはるかに彼をしのいでいると思います。
なぜなら、製品を題材に語るより、
抽象論理を語ること、文化の根底を語ることは
とめどなく困難だからです。
頬に押し当てた掌は、思考を巡らしているわけではなく、
不安や欲求不満などありえず、
いわゆる心理学でのパフォーマンスに深層心理表現は
まったく当てはまっているとは思えません。
彼の言葉に、「読欲」があります。
ともかく「本を読む」という欲求が強い人なら、
多分、頬杖ではない頬に掌は、私にもその癖があります。
だから、読欲あれば思索サイクルの表出が舞台上に出る、
そんなことはありえません。
すでに反芻された思考結果を語るだけだから、
観客は引き込まれるのでしょう。
ひょっとすると、写真撮影禁止だったのかもしれませんが、
私は、私記録としてシャッターを押しました。
ここで「連塾・最終回」のレポートをしたわけではありません。
「九景」として構成された最終回は、
なぜ、九景だったのか、
それも私には推測がついています。
彼の「自叙伝」がどうだったのかは、
書物となって出版されるでしょう。
おそらく、その「語り」と「身振り」による空気感までを
編集されることはとても困難だと思いますが、
その記録、あるいは・・・
私はその出版を心待ちにしています。
男として惚れ込んでいる「ち」としての松岡正剛です。
「ち」とは、
私が常用する「いのち・きもち・かたち」の「ち」であり、
知・血・地・致・智・値・治・置・稚など、
日本の森羅万象を受け止める統合的な百科的認識を表してます。
10年に及んだ「日本という方法」、
その結論を師範として松岡正剛は最後に提示しました。
それらが何であったのかも、
是非に出版を待っていただきたいと思います。
私はその出版を待って、再び松岡正剛を伝承したいと考えています。
「グレン・グルードのごとくありたい」と、
松岡正剛は声を詰まらせたとき、私も同様に胸が詰まりました。
私はあらためて、10年の結論こそさらに「日本という方法」、
それが3.11からの復興と復活の「ち」ゆえに、
松岡正剛は、その師範役を引き受けるべきと伝えます。
「連塾」は、9.11をもって開塾されたのですから。


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「ロボット・『踊』の意図すること」


   


     4月 28th, 2012  Posted 12:00 AM

私のロボットデザインは「舞」から始まりました。
それは、「形態論+身体論」=Nomenclatorです。
哲学者・中村雄二郎先生の明確な方向づけがあったからでした。
したがって、あの「不気味の谷」に落ち込んでいる多数のロボットから、
確実に離脱することができたと自負しています。
ロボット学者や企業ロボットが
最も見失っていることを具現化できるのです。
すでに遺産的なアシモフのロボット原則もさることながら、
J・ボードリヤールの次の指摘も乗りこえていると自己評価しています。
「もしもロボットが、
機械的な人工補綴というその性質を
はっきりと示していれば、
それはまったく「安全な状態で魅力」を発揮するためである。」
さらに、
「もしもロボットが、
行動の柔軟さというところまで人間の分身であれば、
それは「不安」を呼び起こすだろう。」
そして、二本足より確実な四輪・四つ足で、階段を上り、
飛び超す動作体系を目的化したデザインです。
そして、「表情化の実現」です。
これにはまだまだロボット設計学の進化を待たなければならないでしょう。
ヒューマノイド的なまさに人間の「顔」からの離脱が
当然でなければなりません。
そして、ヒューマン・ロボット・インタラクションという学域が
これから構築されていくことを「意図」して、
CGでそのデザイン設計に至りました。
「舞」は足裏を見せませんが、
「踊」は、足裏をまさしく小躍りして見せることになります。
安全+安心、
つまりまず安全であることを確約することで安心できるというのは、
スポーツの型のようなことです。
「受け身」という型をマスターするとか、
「準備体操」を十分にしてということが物語っています。
安心+安全は、
小動物のごとくまったく攻撃はしてこない「かわいさ」です。
かわいさという安心が成り立ってから、
その行動体系で安全が確保されていることを意味しています。
「舞」も「踊」も、「表情」でのかわいさが的確に、
人間とロボットとの相互性を保全できればいいというのが、
私の基礎学的なデザイン意図ということです。
ただ、まだこの「踊」にはメカノイド的な印象が残っています。
その改良と改善がいまだに私のテーマです。

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9月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 15th, 2011  Posted 11:05 PM

9月15日 先勝(癸酉)

私自身も大学を卒業するときに、
四年間に渡って
デザインを学んだはずだったが、
大きな不安にとりつかれたことを
今でもはっきりと覚えている。

『デザインという先手』掌


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9月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 2nd, 2010  Posted 11:50 PM

9月2日 赤口(乙卯)

好奇対象から
自分を見失うほどの刺激を受ける。

その瞬間、世間的で一般的な判断、
すなわち常識が存在しない関係が
対象との間に生じ、
自分はその狭間に放り出される。
そこでドギマギし不安になる。

こうした経験を積み上げていくことが
最も大切だと確信している。

『デザインは言語道断』好奇


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