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Posts Tagged ‘企業’


「地方都市の産業活性化策定は金太郎飴」


   


     11月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

かつて名古屋市立大学時代には、
名古屋市の教職員だったので、
「名古屋市2010年計画」の策定に加わっていました。
当時は、「企画」なのか「計画」なのかから、
詰め寄って議論をしたことがあります。
福井時代にも、そして、御用学者的にも国の政策策定、
こうしたことに関わってきましたが、
私の極めて正確無比な言動ゆえに、今ではすっかり、
そうした政策策定には関与していません。
ただし、企業の戦略策定はプロとして関わっています。
理由は簡単です。
地方行政や国家行政はいい加減なことがあまりに多い、
これが私の結論です。
しかし、企業ではそうはいきません。
最も、企業コンプライアンスをいい加減にしている、
そんな企業も最近は見受けられるようなりました。
でも、私にはこのような企業は「やっぱり」なんです。
ところで、「名古屋市2010年策定」は今もその展開、
進行結果の報告がありますから、評価しています。
ところが最近、幾つかの地方都市の2020年から2050年など、
そうした「地方行政政策策定書」、
特に「産業活性化」をいくつか読む機会がありました。
どこでも、項目がすべて同じ=金太郎飴であり、
「企画」なのか「計画」なのかも定かではないのです。
ひょっとして大手広告代理店、銀行系のシンクタンク、
そして大学教授という学識人の委員会だと、
「このようないい加減な策定案」が最もらしく文案に
なってしまうのでしょう。
特に、3.11以前の策定案ならば、もう即刻に書き直すべきです。
「スマートグリッド」・「クリーンプラン」・「再生エネルギー」など、
幾つかの術語がコンセプトになっていて、
その定義が脚注に書き込まれています。
プロとしての判断では、この定義は間違いだらけです。
TVのコメンテーター=評論家といわれる人たちの言説も、
間違いだらけが特に最近は目立っています。
「だから、わが国はシステムが壊れてしまった」。
私は相当に怒らざるをえません。
私は少なからず「商品」という具体物で勝負してきました。
さらに、「地方行政」には、自分たちのふるさと再生、
地方産業の活性化政策で、ブランディングとかマーケッティングとか
グローバリゼーションというキーワードがとても氾濫しています。
ところが、
「デザイン」という言葉が全く無い政策案もあって驚愕です。
それは、地方行政ではいまだに「デザイン」に信頼が無いのか、
あるいは「デザイン」を付加価値程度にしか認識が無いのでしょう。
とても「いい加減な言説」には、徹底的にプロとして言説で抵抗します。


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「仮面社会=ペルソナか、マスカレードか」


   


     11月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

資本主義社会の終焉は、
民主主義構造を脆弱にして、これをも破壊するだろう。
この予感を大学人になって以来持ち続けてきました。
その兆候というより、現実化・現前というより
事件が取り巻き始めてきました。
東日本大震災も原電事故、そしてこれから起こりうること、
すべてに、「仮面」ある人と策略が見え隠れしています。
「やっぱり、あの企業は」とか、
日和見的な企業人=経営者とか大学人が出てきています。
彼らや彼らの組織は仮面を被っていたにすぎないのです。
企業がブランドと呼ぶものは仮面だったのかもしれません。
ペルソナとはパーソナリティの原意であり、
マスカレードとは実体を化粧し隠匿させる美的手法です。
いづれも、日本的伝統、伝統的美学・倫理性の前では、
「剥ぎ取られるべき」ものにすぎません。
「能面」の表情には、陰影でその能面という仮面下の
実体をさらけ出す美学的手段があります。
資本主義を手段化し、経営トップだけが「経営=自己利益獲得」、
技術者は知的使い捨て労働者にしていただけです。
民主主義こそ、人類の最高理想主義とかに、
そろそれその仮面=マスカレードとペルソナを
剥ぎ取る時期が到来してきたのでしょう。
それは、さらに仮面を被った国際関係の中にこそ、
巨大で太刀打ち困難な「国家危機」すらまちうけています。
私は、日本の伝統芸「能」の根本に、
仮面、ペルソナか、マスカレードか、
この分別を見極める日本民族の美的智恵があると通告しておきます。
本来、社会的リーダーたる人のが、
もし仮面だけならば、剥ぎ取るべきでしょう。

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9月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 18th, 2011  Posted 10:00 AM

9月18日 仏滅(丙子)

これからのデザインの対象を
現状の産業界の構造に
押し込めたくないと思っている。

なぜなら、
企業そのものが相当に
変革をしなければならないはずだが、
企業存続の限界に接しない限り、
その認識は低いままだからだ。

『デザインという先手』触手


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「日本システムが壊れた理由のひとつ」


   


     8月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

敗戦後懸命だった日本。
それからの日本システム。
それは日常性が確約されていた、
今となってはパラダイス国家でした。
大震災と原発事故はこのパラダイスを破壊しました。
しかし、それ以前、政権交代を希求に至ったのは、
すでに崩壊していたと思います。
格差社会とか「勝ち組・負け組」とかという言葉が象徴でした。
日本システムは中産階級がほとんど日本流システムの中核。
それは企業の家族的な情緒性と完全雇用体制の完備でした。
現在は正社員と派遣社員という企業構造が、
企業中心の日本システムを失いました。
しかも、正社員より派遣社員の方が企業機能を果たしています。
雇用体制での差別社会、リストラと呼ばれる「解雇」、
これは日本システムの根幹=骨抜きにしています。
無論、この方向に追い詰められた原因は少なくとも、
五つあるでしょう。
◆ 政治能力・政治的リーダーがいないこと。
◆ 国際的経済破綻の連続とその政治対応無策性。
◆ 企業法人税はじめ税制度の無策性。
◆ 未来不安が次世代の精神性を低能力化。
◆ 教育システムー小学から大学までの教育者能力不足。
理由はまだまだありますが、無策性と能力不足が、
あらゆる局面、あらゆるコミュニティ、
そして高密度情報社会での情報格差が覆い被っています。
たとえば、コールセンターなども外注であったり、
サービス性だのCRM、ISOだの、さらにはブランド化だの
この喧騒性の中で、肝心のことが見失われています。
私は 47歳で大学人になりました。
すでに16年になります。大学環境と世間との隔離を見ています。
新設される公立大学の学長候補になったこともあります。
そして辞退したこともあります。
すべからく、日本システムの崩壊が見えていたからです。
一方では、現役のデザイナーですが、
それゆえに、企業と大学の断絶性や、
法人化大学から公益法人までがまったく「革新性」皆無を
毎日体験しています。
ある予測には2300年には「日本人」という人類は滅亡、
これは「少子化」や今回の日本列島・放射能汚染からも
かなり想像可能になってきています。
だとするなら、東日本の復興ではなくて、
日本列島全体の復興という名の「新生日本システム」化です。
無策性と能力不足への対策は、想像性と創造性、
懸命さと賢明さ、精神性・日本人としての意識改革、
これらを各個人意識とそれを先導するリーダーが不可欠です。


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3月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 21st, 2011  Posted 10:00 AM

3月21日 赤口(乙亥)

私が口癖とする、
デザイナーの提案は、
社会が容認するわがままに他ならない。

わがままの強烈さに、
社会が、企業が
どうイエスといってくれるかである。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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「資本主義からの逃走」
   「企業理念は五つに分類可能、さらに詳細に」


   


     2月 16th, 2011  Posted 12:00 AM

五つの理念分類
企業は組織体系ゆえに方針が必要。
方針とは企業力を示した「理念」です。
しかも、企業は経営=儲けてその分配構造体。
どうやって「儲けて」、組織体系の運営と維持管理、
これらの構成・構造・体系をことばで記述することが「企業理念」と言われています。
私は40年デザイナーという立場で、様々な企業の生態と接触し関係し、観察評価をしてきました。
デザイン職能とのこうした関連事項での相互作用性は、実体験の経験値になっています。
結果、すべての企業体系の方針は五つに分類ができそうです。
詳細にまで企業理念を整理すれば、見事な曼荼羅になっていますが、この五つをあげておきます。

  ■ 理由信念 
  ■ 道理概念 
  ■ 条理入念
  ■ 理論観念
  ■ 理解通念

私がデザイナーとして、クライアントであった様々な企業理念の表現を観察してきました。
その企業形容はすべからくこの五つに集約されたディスクールだと思います。
だから、ディスクールという理念が資本主義というイデオロギーで守護されてきたことも事実です。
ところが、企業という人間組織の集合体での体系は、大きな変動をむかえてきました。
この五つが社会と時代との即応性が崩壊したとき、
その企業自身も消滅していきます。
企業が起業し、成長し、発展し、時に崩壊消滅も随分とみてきました。
やがて金剛界曼荼羅へ
まさしく、企業理念は、企業存在・企業C.I.と照合すれば、
「アイデンティフィケーション」を心理学的に整理したE.H.エリクソンの8段階説に適合しています。
さらに、私は人間界を区分した金剛界曼荼羅に重ねて
企業理念の詳細を確認することができるとも考えています。
結局は、日本文化の進展と深度はまさしく企業理念と同様な構造を持っています。


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「資本主義からの逃走」
   「社名・C.I.・ブランド、その認知度の意義は理念評判」


   


     2月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

何が「企業」か。
営為組織をなぜ「企業」というのでしょうか。
「企」とは、つま先立ちしている形象。
「業」はぎざぎざやでこぼこであり、困難さや苦労を象形しています。
合わせて、苦労を超えて善の奉仕仕事という意味にまで昇華されています。
まさに人の「業」という報いを生じる基となる善悪までの意味(仏教用語)があります。
ブランドブーム、ブランドデザインブームはまったく軽薄で安易な流行でした。
ただ「儲けたい」という経営手法でしかありませんでした。
「信用される者」=儲のはずが、つま先だって、転んだ企業が増えました。
しかも、不景気脱出の手法というノウハウ本やブランドプランナーなどまで出現しました。
私は、企業はその成り立ちからのC.I.から企業ブランドが成立するという論理と経験値があります。
たとえば、企業名の成り立ちには、次のような分類が可能です。

  ● 創立者や創業地場からの名辞
  ● 企業内容や企業理念からの統語的や略語的な伝達名辞
  ● 商品名をそのまま企業名への名辞

私の名前はKAWASAKIゆえに、海外での日本製を表現する認知度があります。
私のメガネが話題になったとき、川崎重工の製品と報道されたことまであるほどです。
ある著名な創立者が、最も失敗したのは「自分の名前を企業名」にしたという話もあります。
しかし、日本では当然ながら創立者名の大企業が多く、
それが日本製であることを明示しているのは蓄積されてきたブランド価値と言ってもいいでしょう。
ただし、信用・信頼を失った場合には企業存続まで危機になります。
私の経験値では、ずばり商品名が企業名というのが「ブランド認知」は確実度を持っています。
したがって、ブランドブームを煽動する評論家はこのことを主張していますが根本は違っています。
社名を上記のように三つに分類しても、
すべての共通項は、「企業」ということばに集約されています。
理念あっての企業
それはなぜつま立ちして過去・現実・未来まで見ようとする組織だろうかということがあります。
そして、人間の営為の根本にある「業」=欲望の善悪判断です。
この二つを「理念」として整理し共有する組織こそ企業であり、
その識別が「ブランド」に他なりません。
そして、その識別は「何をその企業が社会に対して果敢」であるのだろうか、その評判です。


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『資本主義からの逃走』
「Business Modelの経営仮説と収益構造の破綻」


   


     4月 5th, 2010  Posted 12:01 AM


企業は、「企」という漢字が表現している意味があります。
「企」は、つま先を立て佇んでいるということです。
これは、遠方=将来に向かっている意味があります。

経営仮説・収益構造
その目標と目的には、「経営仮説」という、
商売による「儲ける」という「経営仮説」があります。
その経営仮説は、「収益構造」を意図しています。
収益構造は、まず商売によって利益を獲得します。
その利益だけではなくて、
企業は社会に存在している意味として、
利益を還元していく義務があってこそ、
利益獲得の権利があるわけです。
ところが、「収益構造」は、
その企業が経営仮説は独自の発想や表現を流通させる、
という独自性をもっていますから、
利益獲得を独占することの権利だけ、
その主張企業が派生しているわけです。
特に、不況となれば、健全な経営は歪んできます。
健全な経営というのは、
まず、「企業の存在」=社会的な役割の認識が基軸です。
その基軸には、「義務」としての社会還元があります。
当然の税金、さらには奉仕的な社会文化を
形成していく支援、そうした事業があります。
スポーツや芸術、さらには社会保障から教育支援を、
経営仮説による収益構造の利益配分が「義務」なのです。

Business Modelの破綻
現代、これだけの不況感・デフレスパイラルの中では、
経営仮説を独占しているのだから、
当然ながら、利益獲得は、企業が独占し、
社会還元・文化の形成支援は不可能、
すなわち、権利だけを主張し存在義務の放棄が拡大しています。
結局、この義務をつくして権利である利益獲得では、
企業の経営仮説でなければならない社会文化の形成が不可能となり、
経営仮説そのものが破綻していくことになります。
私は、明らかに「経営仮説」+「収益構造」=義務+権利
このBusiness Modelの破綻が、
相当に蔓延していると指摘せざるをえません。


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『資本主義からの逃走』
「ビジネスモデルが見落としてきた欠陥とは、
           実は無視出来た資本主義」


   


     2月 16th, 2010  Posted 10:00 AM

Money
Laundering
経営資産には、実は二つ歴然とあるのです。
たとえば、「顧客」・「製品」・「サービス」、
そして「従業員」です。
が、表面化してこないのが、「金融資産」です。
経営資産での「金融資産」は、一人歩きするのです。
それが、株式という流動性ある企業経営の資産要因。
企業家が、本来、支配構造化する実力はこれだけです。
だから、美学だの倫理だのを唱えるデザイナーなど、
徹底的に労働者まぁ「知的・労働者」ぐらいなのです。
「金融資産」は、マネー・ロンダリング。
● 詐欺を隠せ!
● 粉飾決算を隠せ!
● 裏金を隠せ!
「金融工学」の本質は、この工作ノウハウ術です。
見事、政治家もこの手法に長けてしまったのです。
そこを、国家間の情報戦争が入り込んでます。
資本主義の倫理感は、労働者への幻想的「働きがい」、
その正当性は宗教に載せて語る手法が最適だった、
のかもしれません。
私が、資本主義の終焉を語るのは、
これまでの企業=Associationの謀議性の崩壊です。
となれば、
「綺麗事の神髄」はデザインに任せてほしいのです。
これからの記述は、差し控えつつぎりぎりまで、
デザイナーとして語っていくことにします。

●?美しいことの意味

●?善でなければならないことの意義

●?義であることの自己存在とその確認

これらを、「企業」に自分を預けられるのでしょうか、
ということになるでしょう。


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『資本主義からの逃走』
 *「無思考とは、思考無しではない、
   思考空であろう」*


   


     2月 1st, 2010  Posted 1:00 AM

無思考
私はほとんど外出してデパートやショッピングモールなどは、車イスになる前から、好きではありませんでした。ミッドタウンをワイフに車イスを押してもらいつつ、いわゆるデザイン系ショップを久々にのぞいて見ました。デザインは、相変わらず「進化」がありませんでした。学生たちが憧れているモダンデザイン系ショップに陳列されているモノに、愕然としました。1960年代よりは素材がカラフルだったり、プラスチックや電気回路が進歩したから、「ソレナリ」のモノがこれほどコピーされて氾濫しているとは、驚きでした。まるで、浦島太郎の心境になって、もう本当に目眩がしました。外出して、書店に行っても、あまりのカラフルさは、車イス視線からでは、目眩がします。まして、コピー製品があまりに「それっぽいデザインした風」なのですから、耐えかねます。また、店員さんの商品知識も格段に低いと思いました。せめて、これぐらい知るべきでしょう。カタログにも肝心な性能表が無くなってきています。それは駄目でしょう。企業の商品化能力を疑います。また、あるアイテムの展示会に招かれました。有明ビッグサイトでの見本市企画企業から、あらたな業種の展示会へのアドバイスを、ということでVIPカードで見て回りました。流ちょうな日本語の外人からいっぱい声をかけれられました。なんとしても商談!という意気込みです。比して、肝心な見本市担当者の無口なことにあきれました。これじゃ、凋落する産業のさらなる凋落が予知出来ます。ともかく、思考していない=薄思考です。これを私は、無思考とは言いません。無思考とは、思考が「無」の状況や事態を指示していると私は考えています。なんでもいいから、まだ一度も使ったことの無い、edyカードで買い物をしてみたかったのですが、「欲しいモノ」がありませんでした。いわゆる今、旬の若手デザイナーの作品である商品も、デザイン設計で、「金型チェック」もしていないのでしょう。3D-CADやCGレンダリングなら、多分、「カッコ良かった」のでしょうが、さらに中国製となると、成形精度も格段に悪くて、これは必ず経年変化を起こすと見抜けてしまいます。さらに、恩師の名作も、カーブや板厚も微細に変貌しています。もはや、高齢になられた先生の眼力チェック無しの復刻品も見かけました。これが、現代の日本の商戦現場だとするなら、どうやって、立て直すべきかと考えさせられました。明日、Gマーク賞制度審議委員会があります。この私が最年少ですから、今年の「Gマーク賞制度は、国際化戦略」の一つの核心となる「戦術」にしていきたいと考えています。私の発言が了承されるかどうかは不明ですが力説します。よって、審査委員も少数精鋭で海外審査委員を投入することを、私の私見として発言するつもりです。昨年のある事件見解も、公表すべきことは、審議委員会からだと私は考えてきました。ある種、審査委員がデザイン界のエリートならば、「敵前逃亡」や「自分勝手さ」はNoblesse Obligeも果たせなかった審査委員資格は審議委員会にての裁決をしなければならないしょう。なぜならば、「Design made in Japan」を象徴化しているGマーク賞制度は、一つの国家戦略です。だからこれは、日本の産業から現代文化の最前線でもあると考えるからです。「無思考」は「思考空」だとも考えています。思考結果がデザインとなり、無思考結果がデザイン効果であるとするなら、思考空は、デザインへの憧憬になります。憧憬は常に潔しが基本です。
思考空


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