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『資本主義からの逃走』
   「包むことと詰めることの大きな違いを知った頃」


   


     7月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

産地で知った動詞
「包む」ことの意味を知ったのは、ふるさと福井。
越前和紙の産地に関わったことでした。
東京でのデザイン活動に「負けた」という想いと、
車椅子生活でどうやって「生きていく」のかという時に、
出会った言葉がありました。
「切る」・「包む」・「打つ」・「漉く」・「磨く」・「塗る」など、
すべてが伝統工芸産地に入って行った時の動詞でした。
こうした動詞から形容詞をMac関連雑誌に連載していました。
「デザインの極道論」などという物騒なタイトルで出版もしました。
この動詞を形容詞にしていく、これが「直感」でした。
直感から公案
私の「直感」は、こうした言葉と向かい合うことで、
「直感」は「直観」になり、
「公案」という論理を「造形」の背景になる、という想いしか無かったのでしょう。
「和紙」は包む素材になるのです。
しかもそれは「真っ白」でなくてはならないのです。
その「真っ白」は、楮・三椏・雁皮は陽に晒されば晒されるほど、
「真っ白」になることを知りました。
「真っ白」に水引きで締めて閉じることが「贈る」ことの作法だということでした。
詰める
それなら、「詰める」というのは、
日本的には、「追い詰めたり」、「詰め込んだり」ということで、
あまり良い印象の言葉ではありません。
「詰め込み」・「缶詰」・「腸詰め」、これが欧米的なパッケージでした。
そして、つましい・つつましいというのは、
自分の生活は「追い詰められているのではない」、
「つつましい日常であるべき」ということで、
「生きていく」作法があるのでは、と確信したわけです。
それから、日本経済、
福井からは東京での喧噪が、「変だ!」と思えるようになりました。
ちょうど、その頃、Apple社との仕事で、
いわゆる「バブル経済」は傍観できる立場だったのです。
「包む」とは「包まれている」ことの記憶の言葉です。
まさしく、胎児が母親の子宮に包まれている象形があります。
「詰める」とは、口を締め付けて閉じる象形からも、
厳しい言葉で責めなじることまでの意味があります。
包む、という言葉から「つつましい」という言葉に出逢いながらも、
私は自分を追い詰めていました。
つつましさと美しさ
あれから30年、自分を追い詰めること、他人を追い詰めることへの大きな反省があります。
だから、今、敢えて私自身がもう一度、
「包む」こと、「包まれてきた」ことに立ち戻りたいと思っています。
「つつましい」という、伝統的日本人の感性・直観公案として、
デザイン表現の「つつましさ」は、
きっと、「美しさ」に連鎖し連動するという、直観があります。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵を断ち切った、都と鄙
           けれどもNetwork社会に希望」


   


     12月 8th, 2009  Posted 10:00 AM

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米国に従属してしまった日本は分断された。
戦後生まれの私には、
米国のあらゆるモノが眩しかったのです。
大きな冷蔵庫、自家用車、電化製品、・・・
そして、「アイビースタイル」で、ファッションを、
それこそネクタイの結び方まで学びました。
正直、60年代の「安保闘争」を田舎のTVで見つめる時、
日本が壊れていく、そんな東京でのデモ行進の異様さは、
とても、悲しかったのを覚えています。
70年代には、まさに、私も大学生になっていました。
完全なる「ノンポリ」でした。
むしろ、学生運動に走る連中を殴っていました。
それよりも、音楽やデザインに、心惹かれていました。

やがて、知るのです。
三島由紀夫の切腹が訴えようとしていたことに、
私は目覚めました。「日本が壊れていく」と・・・
明らかに、東京一極集中は日本を分断していきます。

私は、北陸の地方都市から東京を「対象化」しました。
そして、「雛美人文化論」を心底にしながら、
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伝統工芸産地に、「デザインの導入」に関わります。
やがて見えてきます。
「鄙」と「都」の関係です。
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明らかに、唯一の「都」=「東京」には、
「クロノフィリア(時間偏狂者)」が集中していきます。
一方、日本全国の地方都市は「鄙」と化します。
そこでは「トポフィリア(場所偏狂者)」で、
「土地自慢」こそ「地方の活性化」だという偏狂さです。
今なおこれは歴然とした、
「資本」としての「土地」感覚そのものです。
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「都」での金融資本と、「鄙」での土地資本が意識分断、
すなわち「花綵の国」は、金融資本も土地資本も、
価値を喪失して、私たちの心まで分断しました。

ところが、
情報時代=ネットワーク社会」は、この分断を、
新たな「花綵」にしてくれるのかもしれません。
すでに、「都」も「鄙」も、
ネットワーク社会=意識社会によって、
「bit資本」が、金融・土地・資材・食糧に至るまで、
「花綵ネットワーク社会」が創出されるでしょう。
私は「逃走」します。
それでも明らかに私の「希望」は、
このネットワークが、再び「花綵の国」へと、
デザインが導いていくものと確信している次第です。


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