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Posts Tagged ‘伝統’


『最高級品=最高価格であるべき万年筆の登場の意義』


   


     8月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

「弘法筆を選ばず」という有名な言葉が残っています。
素直には、弘法という達筆者は筆という道具などはどれでも構わない、
という、拘りなどには屈していないという意味です。
「拘る」ということなどは、両刃の剣だという解釈が成立しています。
しかし、自分は「拘る」ということではなくて、「こだわる」ことには、
大きな意義を見いだしています。
その最大のことは人か物か自然かということへの哲学性かも知れません。
とりわけデザイナー、デザインというモノと対峙して生きる人間にとっては、
「こだわり」=「木垂れ」からの原意ある伝統的なモノづくり観は不変です。
自分自身も筆記具その集大成である万年筆はコレクションの対象。
国内の万年筆メーカーのモノは世界的にも素晴らしいのですが、
どうしても海外の万年筆ブランドに「価格で負けています。」
文具大賞の審査委員長もさせられていますから、ことさらに日本の文具は、
世界で最高のモノにしてがほしいという日本人としての拘りがあります。
そう思っていたら、日本で最高、それは最高価格であるということ、
この単純ないわば公式ですが、見事な提案がありました。
自分にとってはようやく日本の万年筆の存在をアピールしてきた勇気でした。
如何せん、こうした万年筆にとっても、高額製品としてはどうしても
日本の伝統、蒔絵あるいは真珠という加飾性が必要です。
確かに海外の有名ブランドも漆芸や蒔絵、螺鈿、真珠などは見事で、
商品価値を向上させる装飾性に優れています。
しかし、とりあえず万年筆で、誰しもが「エッ!」っと驚く、
それほどの万年筆が日本にあるということです。
かつて、洞爺湖サミットでは伝統工芸を使った万年筆が採用されましたが、
万年筆コレクターから見ればその伝統工芸そのものが駄目なのに、
「なぜ?」と、モノそのものが最悪だと言うことになります。
今回のこの商品化は、しかもわがふるさとの文具屋さんの提案でした。

@ Kadobun

* 『ずばり、自分ぴったしのモノ世界のモノマガだ』
* 『勘違いディフォルメ写生は伝統では無い』
* 「パーカー『5th』という筆記具の進化」
* 『「機能」と「デザイン」=日本文具大賞の審査基準』
* 『クリスマスプレゼントは万年筆を語れる少女から』


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『Line発想により倫理性としての機能が明確化する』


   


     6月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

Lineと言えば、
現代はSNSの一つの代表的なスマートホンの手法です。
しかしこれ以前に、米国の日常語=ほぼスラングに登場したlineには、
”a story or argument used to seduce someone”という意味があります。
この現代的な使用語の登場こそ、これまでのconceptでは到底困難であった
イメージや印象をすべて捨て去ることが可能です。
特に、「美的」であることの包囲性がconceptにあれば、
それは論理を超えた倫理性の必要性を再訴求することでした。
つまり、プラトンが「美しさ」を判断の決定要因に用いたということは、
論理ではなくて倫理的な判断によるものです。
倫理的な判断は、それこそカントの「純粋理性批判」で、
ようやく「感性」と「理性」を同格とした判断基準が最重要視されます。
デザインにとって、
「感性」と「理性」の合致性は「倫理性」になるわけです。
それは間違い無く「機能美」とデザインの再考を余儀なくしています。
まさに機能論はデザインの登場で語られる以前から論議されてきた
実際的な美学的な理性判断であったということです。
その理性判断の曖昧さを感性的な見方には理性判断と同等と決定した、
それこそカントの判断すらconcept発想は破壊してきたと断言しておきます。
もはや伝統となったことを曖昧にしてきたことがconcept発想であった、
というのがデザインでの美の創出で明確になったのです。
黒は全てを飲み込むブラックホールであり、
それは思考・論理をも飲み込むでしょうが、
ブラックホールとホワイトホールに設けた境界ラインに、
実は倫理としての「美学的な」決定ラインが表れていると主張します。
コンセプトという境界が、物語性すなわちアフォーダンスの配置は
決して登場させられない機能の再構成と構造を決めるでしょう。
その決定によって、性能・効能、そして機能として個別的、複合的、
さらに、統合的な倫理感覚をLine発想が可能になります。
それこそ、初めてコンセプト発想を解放することとなり、
その拡大的かつ深度を知ってもらいたいと自分は真剣に考えています。

*『コンセプト主義からの解放=デザインテクノロジスト』
*『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』
*『モノの神話性から物語り性がアフォーダンスを超えていた』
*『難問解決の大ヒントは「素材」開発デザインの美です』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


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『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


   


     5月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

政治思想はすぐに国際関係論という
結局は得体の知れない論理で国際間には軋轢、
そしてそれは戦争に至り、限りない悲しみは歴史汚点になります。
しかし、強靱なまさにレジリエンスな美学的な文化論は
この国際関係論以上の力を有しているのです。
かつて、朝鮮が日本に与えた多くの民衆文化は、
「民藝論」として、その言葉に強力なモノの美学性を与えていました。
柳宗悦によって唱えられた「民藝」という美学論理の核心であり革新は、
有事状況である戦時中に、この美学論理は、
朝鮮文化の象徴である「光化門」の破壊を主目的としている軍部にむけて、
それこそ「ペンは剣よりも強し」を貫いていました。
あらためて「光化門破壊を食い止めた民藝美学論」、
その中心人物であった柳宗悦の「民藝」、
その基盤を再興すべきと考えます。
それは、京都破壊を食い止めた米軍の本土攻撃否定論理と同等です。
つまり、「民藝」として、それこそ「井戸茶碗」を持ち出してきた
陶磁器の歴史は、元来は朝鮮の美学文化を剥奪した野蛮さに対して
日本は「民藝」という名辞とその論説によって御礼を返したということを
もう一度、再認識をしておくべきだと記述します。
青磁があり白磁があり、高台があり、日本の陶磁器は
「民藝」抜きで語られるべきではないということです。
それこそ、ある伝統工芸産地が400周年記念を語り宣伝する前に
「民藝」が護り抜いた「光化門」を語るべきでしょう。
その見識も知識もなく日本の伝統工芸は語られてはならないのです。
柳宗悦の「軍部への絶対抵抗」は、
妻である声楽家柳兼子女史は決して軍歌を歌わない、
という美学が、さらに後押ししていました。
柳宗悦は、恩師・柳宗理の父であり、
柳宗理は「デザインと民藝」への距離感を
確かに教え子の私たちには独学を強いていたと思い出します。
しかし、アノニマスとゲマインシャフトという連鎖を
民藝からデザインへのコンシリエンスを支えている主張は
常にデザイナーの「耳鳴り」になっています。

*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』
*『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
*『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』
*『いつも見かける私の作品はすでにアノニマス』


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『端午の節句だが、かつての日本の田舎が豊かだった。』


   


     5月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

北陸・福井生まれの自分にとって、端午の節句には
幼い頃の強烈な思い出が残っています。
端午の節句飾り・チマキ・菖蒲の湯の香りです。
チマキもすでに京都の日本風スゥーツ?になっていますが
全くのインチキだと思います。
というより、田舎の方が豊かだったと思います。
幼少の頃は祖母が大釜でチマキを大量に茹で上げていました。
もう一度食べたいと思い出します。
その大量のチマキは宮大工大棟梁一族全てに配るためであり、
台所が大騒動であったことや、きな粉の香りが今も残って居るほどです。
そして菖蒲の湯のために職人さんが菖蒲の俵巻きを
荒縄でいくつもつくっていました。
高校生になっても、それは家に届いていました。
そして、何と言っても、端午の節句のお飾りは、
最初の外孫であったために、ミニチュアの弓矢や刀がありました。
残念ながら飾りの弓矢などは水害で無くしましたが、
刀といっても小刀は残っていて、
しかもそれは本物でありそれほどの切れ味ではありませんが、
小学生の頃は、山で遊ぶときには有効な刀になっていました。
端午の節句、その直前には、父の日本刀の手入れを離れて観ていました。
その時に日本刀の手入れや、
菖蒲の俵巻きの方法などは習っておくべきでした。
すでに端午の節句での鯉のぼりや5月飾りなどを見ると、
あたかも日本の伝統は、お土産物や観光の小道具になっています。
それは伝統文化を商業的に利用しているだけの、
きわめて「貧しい継承」だと思ってしまいます。
日本の伝統継承が貧しくて、
余程、昔の田舎の方が豊かだったと思います。

写真は私の自宅:マンション(集合アパートの玄関飾り)

*『最近見なくなった竹藪、その思い出』
*『享保の手帖から私が学び直したこと』
*『* 夢の大きさは、祖父への約束 *』
*『大風呂敷という喧嘩手法、その肝心要』
*『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』


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『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


   


     11月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「影向」:yow gowという松岡正剛の提示は、
流石と言わざるをえませんし、それは彼の膨大な認知力でした。
「かげ」には、光との関係が明白にあります。
それは私が「陰翳礼讃」では語りきれなかった不平不満を
全て取り出して、一挙にそれが、納得し解決しました。
陰翳とは、
確かに日本的な暗闇に存在する物への美学的アプローチでしたが、
私には、特に、デジタル化された光と、その影と陰には、
もっとその根幹であるひかりとあかりの翳りという動態こそ重要でした。
そこに、「影向」という言語が身体性で語り直されたわけです。
影にはあかりの翳り具合の形が、
それこそ夢幻抱影な印象解が必要でした。
それこそ薄暗闇にあたかも浮かび上がる世界観が「影向」だったのです。
しかし、影にはあかりに浮かびあがる形があっても、
陰には陰陽五行での遮断されている翳りだけでは、日本の美学は、
翳りのアナログ性を引き継いでもデジタルな翳りへの進化は
決して語り次ぐことは不可能なのです。
陰翳では日本の伝統へその美学性のコンテクストを引き継げません。
これが私的には不満足であり、大きなストレスでした。
デジタルサイネージが結局は電子看板という軽薄さでは日本流は不可能。
「影向」という、暗闇は翳り動態をしながらもあかりある影の形態こそ
抱影されたイメージそのものをデジタル変容させるのです。
だから私はサイネージを超えた「デジタルアッサンブラージュ」という
その新語による映像・照明・空調もデザイン表現を提案し始めました。
「影向」は、言語が場踊りという身体パフォーマンスを、
舞台芸術として革新するとともに私のデザイン表現そのものを
陰翳礼讃どころかデジタル光線の陰と影との翳り制御を発見させました。
私は「KK塾」第1回目の冒頭で「影向」にデザイナー感性を知り、
破壊されていた気分や気配でこの講座を始めることを宣言しました。
この一枚の演劇ポスターですら、
銀塩版での初期写真機撮影で、光の翳り具合撮影であったのです。
世界的なカメラマンが、群像写真撮影ならば絶対に断ったにも関わらず、
「影向」表現の演出には
ここまでのデザイン的な配慮があったと聞きました。
偶然といえば済んでしまう話ですが、
私は「コンシリエンスデザイン」を開始するにあたって
「影向」という、それこそイノベーションという誤解だらけの定義を
「コンシリエンス」=新結合=コンバイネーションを
手に入れることが出来たのです。


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『勘違いディフォルメ写生は伝統では無い』


   


     7月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「伝統って何ですか?」とこれまで何度も聞かれてきました。
私が伝統工芸にデザイン導入をして、
ふるさと福井では特に「タケフナイフビレッジ」を創ってきたからです。
伝統=トラッドは、世界的に一つの意味に集約されています。
「統」という漢字には明確にその意味がありました。
それは糸口となることを単に伝えていく伝承とは、
全く意味が違っていて、「裏切る」という意味があります。
端的には、父親の仕事を裏切って=破壊して、
新たな技法を発明して繋いでいくことを伝統というわけです。
ところが、最近の焼き物や日本的な文様を見ていて、
とても気になるのは、日本に限らず欧州の伝統工芸と思える意匠に、
デッサン間違いを多く発見します。
特に、意匠とすべき写生体験の欠落です。
鳥の嘴や足の形、魚の口、植物に葉脈、花弁などはデッサンが狂い、
それをあたかもディフォルメされたかのような意匠にしていること。
こうしたお店で、私は」ついつい大声でワイフに言います。
「コレ、またデッサン間違っているぞ〜」と、
ワイフはそんなに大声で言わないことと窘められます。
が、時には、お店のご主人が出て見えて、
「そうなんです、間違っていますが、日本画の大家の先生なので・・・」。
そんなとき、私のような者でも発見していたと伝えて下さいと。
美大生時代はスケッチの基礎である写生で植物や鳥などを随分描きました。
元来、美大ではすでに高校時代に絵が上手かった級友だらけでしたから、
彼らについていくには、私自身、相当に写生で静物画が描き、
特に、葉脈や花弁、嘴、魚などを描きましたから、
デッサン無しの伝承的なまやかしディフォルメは認めることが出来ません。


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『デジタル筆記具の認められるそれなりの進化』


   


     5月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

デジタルペンについては発明販売されてきたモノは、
私はおそらくその全てを試用してきたと思ってきています。
デジタルメモの進化は、すでにApple社1社の独壇場ですが、
アジアのある1社は果敢に闘っていますが、
なかなか私にはまだまだ納得はできません。
これは日本製ですが、ようやくここまでの進化を認めて、
私自身も使っています。
ただし、紙とボールペンそして通信性の性能性のみです。
それでも私は着実な進化だと思って喜んでいます。
デジタルペンの技術進化は、現在、二つの方向になっています。
デジタルペンはともかくボールペンを主体にして、
デジタルペンそのモノにCCDを搭載して、ノートとの関係性と
ペンよりもそのノートパッドに通信性をiPadでのアプリと統合、
この二通りですが、いづれもノートとペンとiPadが必要です。
これはやはり、人間はiPadとペン=スタイラスとの関係からは
まったく解放されていないからだと思っています。
紙墨相発ということばがありますが、人類は紙と身体、
その文房具としての墨とのインターラクション性にはすっかり、
馴れ親しんでしまったからに違いありません。
私自身、スタイラスとiPad画面と身体性=手の感覚は、
ほぼこの一年、トレーニングをして、スケッチと書道感覚を
身体化させたと思っています。
それでも、やはり、このデジタル文房具はようやく快楽です。
しかし、このシステムはやがては2~3年はあるのでしょうか?
多分、このボールペンにこそ、もっとボールペンそのモノの
歴史ある伝統性を革新する何かが欠落していると考えます。
それでも、少なからず、このシステムは、
私がふさわしいミーティングには使っています。


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『4年ぶりの金沢、駅のホームで・・・』


   


     5月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

東京でインテリアデザイナーの森田恭通氏と夕食。
彼のデザインした有名なレストラン、話はどんどんと拡大しました。
いつも帰阪時に伊丹行きジェットで出会ったり海外で会う偶然の仲。
翌朝、北陸新幹線「かがやき」乗車、
新幹線列車は、このデザイナーの苦労がずっしりと分かる。
「柳宗理生誕100年記念」で、私は先輩同輩からの指名で、
使命として、先生の作品と先生の私流の作品から学んだ思想、
先生との思い出を話して、母校=金沢美術工芸大学の伝統と未来、
「これからのデザイン・コンシリエンスデザイン」を話ました。
翌朝、伯母が100歳で美しく眠るように逝った話が入りました。
大往生ゆえ、仕方なかったけれど、従兄弟の心情が急に心配。
彼に電話をして、福井に寄るべきかを確認したら、
設計図どおりだったと極めて冷静で、エンジニアらしさに驚きましたが
全て終わったとか。私と彼とでは故郷では言い出せないからこのままで。
従兄弟をこの春から大阪大学大学院の招聘教授に迎えていました。
この話は、伯母はとてもうなづいて聞いたよ、と。
彼は、宇宙工学・信頼安全性工学の権威であり、
彼がヒューストン駐在時には宇宙ステーションの設計をしていました。
だから、彼の仕事場と住居も訪ね、今や私の危機解決学を
招聘教授として相談をかけ、支援をしてもらっています。
今はJAXAから関連企業の社長を務めるけれども、
ロケット発射ではいつも海外に出張、JAXA関連を教えてもらっています。
私は47歳の母と死別したけれども、年毎、母が恋しくなります。
従兄弟は、覚悟を決めていたとはしても100歳母と別れて、
「大きな虚脱感がある自分に気づいている」と言っていました。
「いや、虚脱感は必ず、母恋しさ、今ならこれを母に出来る」とか、
私は彼に先輩ぶった話をしていることに気づきました。
母が危篤と言われて、福井帰郷のために、駅のホームにいた、
あの当時の思い出が一遍に襲ってきました。
もう、金沢は私には遠い存在の街になっているなー、
おそらく北陸新幹線には乗らないだろう、と思った次第でした。


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『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』


   


     4月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

「柳宗理生誕100年記念講演」を私が担うことなりました。
金沢美術工芸大学は今なお先輩後輩の結束は堅くて、
先輩からの指示には最大限の寄与をすることになっています。
同級生が支えてくれていますから、私の役目は懸命に果たします。
講演内容は、柳先生の作品解説と、私なりの、先生との思い出があります。
正直、若い頃は入学直後に、私は覚えられるほど反発していました。
それなのに、東芝に入社すると、新人研修でまたもや先生の講義を受け、
これまた、もう何度も聞いているからと断りに行って、
「お前などもう来なくて良い」と言われました。
ところが、車イスになって母校に非常勤でもどると、
「なんでお前はそんな体になった」と心配を受け、
福井で先生の講演会準備に駆け回りました。
先生が高齢になられてからは、同級生が先生を見護り、
先生の作品収蔵や記念館設立、そして生誕記念講演、
その役目を私に与えてくれました。
先生への反発も、先生から教わってきたことは、今も私の根幹です。
私の世代の美大は赤レンガ校舎で元兵器庫跡ゆえ、
結局は薄汚れた倉庫で、室内には雪が舞い込むほどの寒さでした。
ある時、同級生が教室で煙草を消し去り投げ捨てました。
柳先生は突然、大声で顔を真っ赤にして怒鳴られました。
「煙草を平気で投げ捨てるお前はクビだ!」、
「煙草を捨てる者にデザイナーになる資格が与えられるか!」、と。
私はこの瞬間に、デザイナーと社会の関係を学んだと、
今なお思い続けてきました。
卒業間際になってまだ私にはデザインの真意が分かりませんでした。
あのモホリ・ナギの「デザインは社会に対する態度である」。
このことを目前で教え込まれました。
アノニマスデザイン、
強固なるゲマインシャフト、
伝統は創造である、
発明あるデザインなど、
先生の作品を再度厳密に私は見直し、
これからのデザインを、柳デザインから引き継いで語る、
その覚悟づくりをしています。
先輩たちが私の語らせる役目を果たすべく、
これならデザイン評論になると思っています。

柳宗理生誕100年記念講演
* 東名高速道路・東京料金所ー防音壁


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『ガラスの茶室・吉岡徳仁氏の作品発表に出向く』


   


     4月 9th, 2015  Posted 12:00 AM

今年は山桜をいっぱい見ることができました。
京都の将軍塚青龍殿に設えられた吉岡徳仁氏デザインの茶室発表を
ワイフとそのレセプションに出かけました。
正直、次世代デザイナーの作品には、なかなか気を惹かれません。
理由はすでにモノ真似(次世代はその存在を知らない)であったり、
突き詰めた造形美の見落としが多く、その欠落を見てしまいますが
吉岡徳仁氏のデザインにはそれがまったくありません。
そういう意味では、彼の作品発表会はいつも出かけたいと思いますが
今回は京都であり、若手建築家夫妻にも声をかけて、
青龍殿を訪ねました。
当然、車イス対応を一番気にしていましたが、
電動車椅子の馬力で砂利道も通過できました。
将軍塚には見事な舞台が彼のデザインで出来上がっていて、
彼がすでに知り尽くしているガラス素材の茶室がしつらえていました。
私は量産を薦めたほどでした。在外大使館には配置すべき茶室でした。
故・田中一光先生がおられたら、「茶美会」の象徴になっていたでしょう。
茶道とデザインの革新運動は現在途絶えていますが、
私はこの茶室を見て、プロデュースしてもらうべき人物に気づきました。
茶道は日本の統合的な伝統ゆえに、革新されるべき設えには、
デザイナーの革新的な特に現代素材、その技術が求められます。
茶道に彼がやはりデザイン対象を見つけ出している心情が理解できます。
その茶室設えの舞台のモデルが会場の一角、ガラスケースにありました。
京都は景観法が厳しい場所なので、その苦労は大変だったでしょう。
それに打ち克つ造形力が見事に周囲の山桜のように開花していました。


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