kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘伝達’


12月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 27th, 2011  Posted 10:00 AM

12月27日 友引(丙辰)

「自分だけの発想、
 自分だけの表現、
 自分だけの伝達方法」、
こうしたことに捕らわれていては、
デザインは日の目を見ない。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

12月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 26th, 2011  Posted 11:50 PM

12月26日 先勝(乙卯)

誰しもが、
きっと一度は経験したことのある
恋愛感情を思い出すこと、
これが
プレゼンテーションの基本である
「発想・表現・伝達」の
一体性を理解する近道である。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

12月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 25th, 2011  Posted 10:00 AM

12月25日 赤口(甲寅)

恋愛感情というのは、常に
「発想と伝達」(親近感の構築)が
同時進行している。
また
「表現と伝達」(親密感の構築)も
同じタイミングで
進行しているものである。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

12月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 24th, 2011  Posted 10:00 AM

12月24日 仏滅(癸丑)

相手を好きだと思った瞬間、
あなたはその気持ちを知らないうちに
「伝達」してしまっているのである。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

12月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 22nd, 2011  Posted 10:00 AM

12月22日 友引(辛亥)

「発想・表現・伝達」を
同次元で考えていくとは
どういうことなのか。

実は、これまでの人生の中で、
僕たちは知らず知らずのうちに
この感覚を体験しているはずだ。

それは恋愛である。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

12月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 10th, 2011  Posted 10:00 AM

12月10日 友引(己亥)

基本的に、
ものを発想するとき、
「思いついた」ことは、
すでにその段階でどうやって
「思いついた」ことを相手に伝えるか、
伝達するかということまで
考えておかなければならない。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

12月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 9th, 2011  Posted 10:50 PM

12月9日 先勝(戊戌)

「発想・表現・伝達」。
これらは、
プレゼンテーションをするための
基本要素である。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

「Smart Communityへの社会と人間の進歩」


   


     7月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

TwitterとFacebook。
この二つの登場、
あたかもSocial Networkの時代という印象。
さらに、Smart Gridが加わり、
Cloud Computingは、
かねてより私が予測していた「見えないコンピュータ時代」、
あるいは「コンピュータが消える日」ですが、
私の予測意図にまではまだまだ至っていません。
結局、Twitterは日本語140文字表現の「つぶやき」で、
それなりのコミュニケーションが可能でした。
大震災時に最も有効な通信手段となったことは大きな功績、
このツールがSocial Mediaづくりになりました。
しかし、Facebookについては、
まだまだ日本人には普及しづらいNetwork Mediaだと評価します。
理由は、二つ考えられます。
まず、Facebookが英語的な発想によるインターフェイスであること。
そして実名主義であり仲間意識の判断を明確にするということには、
日本人の曖昧主義では受け止めがたいものなのかもしれません。
PCでのNetworkにはやはりまだ概念でしかありえない、
Smart Gridというインフラが不可欠になっていることは確かです。
その最大の理由は電力というエネルギーと情報を不可分にしてこそ、
ようやく社会構造の全体像=新世界観になると私は思うからです。
そのとき、私は次の二つの言葉は再定義されることになるでしょう。
CommunicationとNetworkです。
一言日本語で言い切るなら、「伝達」と「関係網」です。
つまり、つぶやきでの伝達、その有効性は効能であり、
グリッド化されていくエネルギーと情報の関係性は機能です。
したがって、CommunicationとNetworkの統合化には、
確約された性能性が求められてくるでしょう。
それはSocial Mediaが何になっていくのかという性能が希求されます。
Social Communityが本当にSmart Communityの基盤になる前提です。
Communication・Community、
いづれもCom=二つが対等化するには
まだまだ社会も人間も進歩し直さなければならないでしょう。
この進歩を阻んでいるのは「政治」という手法形式かもしれません。
特に、現在のわが国では「政治」は阻害要因です。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「 文脈の遮断こそ、デザイン意図を共有させるかも」


   


     8月 31st, 2010  Posted 12:00 AM

遮断する文脈
デザインにとって、デザイン表現が投げかけることは、
デザイン意図を確実に伝達することです。
したがって、当然ながらデザインされたモノ・コトには
必要十分な脈絡を込めておく必要があります。
それは、ユーザーとモノ・コトの「対話」性が確実であることでしょう。
しかし、あくまでも文脈・コンテクストには、
連結性・連鎖性・連続性を遮断することでこそ、
受け手が送り手の意図を読み込むことでの共有感が残ることがしばしば起こることです。
もっと端的に言えば、
主語なく述語だけで、
その主語を補綴する読解力を期待するデザイン意図のコンテクストがあります。
5W1Hすべてで語ることなく、どれか一つのWかHかを遮断する手法も確約としてありうるのです。
「Less is More」というのは、
もしかすると、遮断したコンテクストを仕込む手法かもしれません。
これがデザインにはありうると考えています。
「Simple is Best」とは明らかに違うのです。
しかし、これはある意味では高度な手法でしょう。
遮断文脈は高度な手法
なぜなら、これまでデザインは応用美術ゆえという誤解のために、
科学性や技術性を無視しているという批判や非難は、
遮断の仕組みをコンテクスト化してきたことかも知れません。
ユーザビリティというのは、確実なコンテクスト化です。
しかし、ユーザー経験を強化するには、
遮断化を仕組んだデザイン表現も、一方ではとても重大だと私は考えています。
けれどもこの文脈を仕組むには相当の表現力が求められていることを覚悟する必要があるでしょう。
遮断されている文脈を与えることで「美しさ」なることを与えることができるのかもしれない。
ただし、これは私の希望的な観測にすぎません。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「つつましさによるインクルーシブデザインへ」


   


     7月 6th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト否定論
おそらく、「デザイン教育」の基本には、
発想=コンセプトの立案とそのスケッチ技術習得
表現=レンダリングはじめモデリングなど
伝達=プレゼンテーションによるデザイン具現化訴求
に集約できるでしょう。
以上のことが、「デザイナー育成教科書的」だとすれば、
「コンセプト発想の否定」は、
これまでのデザイナー教育を破壊していることになるでしょう。
しかし、本来は、「コンセプト立案ができる能力の否定」と受け取ってください。
なぜなら、デザインとコンセプトの関係もわからずに、「その否定は不可能」です。
よく、「企画職につきたい」という学生がいますが、
「企画」は「計画」が出来ない限り絶対に不可能なわけです。
いづれこの話に入るでしょう。
ともかく「コンセプト否定」をする、その直観デザインはどうすることなのだろうか?
インクルーシブ・デザイン
私の応答を記します。回答でも解答、まして正解ではありません。
私はこの考え方をそのまま、「研究室名」にしています。
「インクルーシブ・デザイン」であることです。
つまり、「直観」と「直感」が連動し合うのは、「会話」です。
「私」と「あなた」という「情景」です。
この会話においては、お互いが「私」と「あなた」が交換されて会話が成立しています。
「私=xは、あなた=yがAであってほしい」。
「いや、私=yは、あなた=xがBであってほしい」。
さて、この場面です。
この場面でのAとBが何かは不明ですが、
xさんとyさんが会話の話題がA・B になっています。
この情景では「一人称」と「二人称」、「私」と「あなた」の関係が成立しています。
この会話関係に、「三人称」(彼・彼女・彼ら・彼女ら)が入ってきます。
この会話関係の「内部会話」をinclussiveと呼びます。
Inclusive Design
つまり、『Inclusive Design』とは、この情景内の対象すべてをデザインすることです。
「インクルーシブ・デザイン」を包含されたとか、
包括的という抽象的な定義は、何も定義していません。
『Inclusive Design』は、まず「一人称」=私が対象とするデザインを、
「二人称」あなたのためにを基本にしてこそ、
「三人称」までをも対象にできるデザインと考えるべきです。
したがって、まず、自分が望んでいるデザインは、
あなたから、彼らまでの「望んでいるモノ・コト」であり、
そこに、デザイン対象へのコンセプトは不要です。
「自分が欲しい」・「きっとあなたも望んでいる」・「彼らの夢」
というインクルーシブ=内情を最も意識することです。
だからこそ、このインクルーシブの関係では「つつましさ」が無い限り、
基本の「会話」は成立しません。
ただし、「つつましい」とは、精神性の表現ですが、
この精神性は、基本的能力であり、
能力から姿勢・態度にまで自己修練は限定されたデザイナーになるでしょう。
その理由を語る必要はないでしょう。


目次を見る