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Posts Tagged ‘体験’


「カラーの決定のために・HSB色空間」


   


     5月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

美大時代の色彩実習はとてもハードな作業でした。
指定されたケント用紙をチップ=正方形や長方形、
時には、2mm幅10cmなどにカットして、
外国製、かなり高価なポスターカラーを手塗り。
それをB3サイズのパネルに貼り込んで提出でした。
1年間に30数枚程度がポートフォリオになりました。
まず、手でポスターカラーも混色しました。
したがって、
「色彩学」というより「色彩論」を学びました。
この作業はいわゆる「減色混合」でした。
ところが、コンピューターの出現によって、
RGBで「加色混合」を体験することになりました。
大学人になってから、私は「色彩論」を教える立場になりました。
そこで、徹底的に議論をして「色彩実習はパソコン上」で、
基礎課題=グレースケールや色環、
応用課題としてカラーコーディネーションや配色デザインを
学生に、これもすべてパソコン上で制作させるようにしました。
名古屋市立大学芸術工学部での私の「色彩論」は、
とても厳しかったということになっています。
少なからず、入学すると1年次から必須でしたから、
芸術工学は「色彩論」から始めていました。
多分、建築志望でも色彩には馴染むことを強いました。
私自身が、コンピューターによって「色彩論」が大きく転向しました。
まだCGが開始された頃、トロントでEWS-UNIX上で、
減算混合から加算混合へと自分を転向させた体験が源でした。
もうすっかりソフトウエアでは、HLSやHSBとRGBを切り替えて、
自分なりの使い方が可能になりました。
しかし、光での色空間と色料(顔料や染料、インク)空間を
明確に区分して認識しながら使いこなしているとは思えない事が、
そのまま、印刷・映像・室内配色・ファッションなどの
カラーコーディネーションを数多く見かけます。
まずは、HSBとRGBについては、
Apple Store 銀座で、実演しながら簡単な講義もするつもりです。
ともかく、色彩は「育った環境」に影響されていると思います。
私は北陸育ちゆえに、彩度と明度は必ず度数を上げています。
「見かけの色空間」というのは、
とてもデザイン上では大きな課題だと考えています。


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「『3.11』復興デザイン計画をこれから開始する」


   


     3月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

私の生涯において、交通被災で車椅子生活はまさに想定外でした。
しかし、東日本大震災と福島原発事故は今なお私を打ちのめしています。
10ヶ月間、私はひたすら「復興計画デザイン案」を書いてきました。
そして、自分が障害者になった以上に
これほどの「哀しみと悲しみ」に対峙したことはありませんでした。
とてつもないほどの記録を読みました。
とてもデザインという職能では、
この復興に立ち向かえないと何度も思い知らされてきました。
1000年に一度というなら、
その事を体験せざるをえなかった自分の生涯に位置づけること、
それが「行学」としての
デザイナーの生き様だと自分に言い聞かせてきました。
当初から、私は「真手」=までいという東北地方の言葉を
タイトルにしようと思いました。
ふるさとでデザイン実務をした者ゆえの発想だったと思います。
政府を信じない、大企業を信じない、
学者を信じない、東京流発想を信じない、
これは現代地方の奈辺意識だと確信しています。
地方でデザイン活動をしてきたからこそ、
東京からの発想を持ち込んだところで、
特に、被災地の信頼は受けられるはずがないと思っています。
そしてここに掲げたデザイン計画は
「壮大」でなければならないと考えてきました。
これが資金的にも技術的にも可能ならしめる組織・企業はどこかと考え、
自分なりの選択で持ち込んでプレゼンテーションをしてきました。
このブログタイトル「までい」とは、
真摯に、地道に、真剣に、誠実に、という東北の言葉です。
私自身、残された時間、体力はすでに視界に入ってきました。
技術的可能性を持って、いよいよ現地に入って、
「制度設計案」のプレゼンテーションをする段階になりました。
私自身の「真手」さで、このプロジェクトの実現に、
一人のデザイナーとして向かう決心と覚悟です。
これから、この計画の実現への
困難さや可能になったことをここで記録していきます。

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「63歳まで生きました・母より年上です。」


   


     2月 26th, 2012  Posted 12:00 AM

63歳です。
母は47歳で逝きましたから、年上になったと思います。
交通事故被災28歳で、40歳までと言われながらも、
確かに45歳で心臓も交通事故の後遺症で悪くし、
その後も心臓発作や敗血症で重篤を3度も体験しました。
「生きています」。
まだやり遂げなければならないことがあります。
まして、国難の最中にある時代を
最期になんとかデザインで復興を仕掛けたいと思っています。
子供時代に最も集中して工夫をしていた「糸車」を再現してみました。
本当は「糸巻きの芯材」を使いますが、
もうほとんど芯材はプラスチックですから、
やはり銀座の手芸店でみつけた糸車を使いました。
子供時代には、輪ゴムを3本程度、
それだけでどれほどスピードが出るかを工夫しました。
この「糸車」から、
次にモーター駆動の自動車づくりをしていった思い出があります。
デザイン課題で、「動具・音具」という課題を出しますが、
その原点は私のものづくり起点に重なっています。
あらためて今年の誕生日は金沢です。
この街での4年間が私の人生の大きな下敷きです。
この「糸車」を徹底してデザインで
「より美しいモノ」にしてみたいと思っています。
63歳の誕生日は子供の頃のものづくり原点を再現してみました。

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1月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 21st, 2012  Posted 10:00 AM

1月21日 先負(辛巳)

自分の体験から出た
ひとりよがりの
「思いつき」のアイディアを、
世間と共有し、
なるべく多くの賛同を得るために、
「思い込んだ」言葉と話題を選びながら
「伝達」を続けていくに違いない。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


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「これからの命五年は保障された年でした。」


   


     12月 31st, 2011  Posted 12:00 AM

2010年9月末に私は東芝の原子力研究所を訪ねました。
「あと20年、貿易立国・日本は大丈夫」、
原子力技術の進展ぶりに驚愕しました。
「はやぶさ」と「南極観測船・しらせ」に、
わが国の高密度技術あってこそ、
私なりのデザインは寄り添えられるという確信でした。
3.11 PM2:46 M9.0 東日本大震災
大地震・大津波・フクシマ原電事故は、
わが国を「ゼロ」にしてしまいました。
3月からほぼ半年は、瓦礫と破壊された東北景観に涙しました。
そして、1000年に一度を、すでに残されたわが生涯に、
真正面から「祈望と企望」にして対象化しました。
ところが体内のICDが電池切れ、またもや入院手術。
けれども、中国と韓国では、
「国際貢献のデザイン」を講演するチャンスをいただきました。
キーボード・スポーツ眼鏡フレーム・血圧計を世に出しました。
講演も「3.11以後のデザイン」を次世代に語りました。
東芝にもどって、
「復興計画●●●PROJECT」に取り組んだ年となりました。
来年、この提案が受け入れられるかどうかです。
提案はたとえ東芝で出来なくとも後世に残す覚悟でいます。
それは、自分へのある種の決着です。
デザイナーとしての生涯の証です。
身体は、新たなICDでまた五年の心臓制御は保障されました。
日本のデザイン界は低迷しデザイン行政は為体です。
それは日本の政権交代の大失敗と連関しています。
正直、心なき中傷も受けますがそんなものは、
命がけを体験してきた私に届くわけがありません。
私は、地道に懸命さで、
そして最も過激で敵をつくろうが生命の限りを使い果たす覚悟です。
祖父や父の世代がやっと敗戦からつくり直した日本を、
もう一度、私はデザイナーとして大学人として、
私の微力を捧げます。

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12月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 22nd, 2011  Posted 10:00 AM

12月22日 友引(辛亥)

「発想・表現・伝達」を
同次元で考えていくとは
どういうことなのか。

実は、これまでの人生の中で、
僕たちは知らず知らずのうちに
この感覚を体験しているはずだ。

それは恋愛である。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


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「消えた自動車は今も語り継がれている」


   


     11月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

ポップコーンの甘い香り、
今では日本の映画館の香りになっています。
私がニューヨークの映画館で体験したとき、
この香りいっぱいに、これがアメリカ!という印象でした。
その時に観た映画がコッポラ監督「タッカー」でした。
しかもそのタッカーというのは親友デザイナーの名前であり父上でした。
1988年にTucker Viemeisterはニューヨークのデザイン団体、
弱冠40歳の議長でした。その時、この映画が封切られました。
その会議に友人として参加しました。
そしてパーティで彼の両親を紹介されました。
父上がプレストン・トマス・タッカーで、
「タッカー・トーピード 」の設計者でした。
この車が果たした役割で現代にも通じている代表例、
それは次の三つが重要なことです。 

  • リアエンジンというエンジンの配置。
  • ディスクブレーキの採用。
  • シートベルトなどの安全対策でした。

映画を観ていただければ、この自動車が消滅した理由は明らかです。
たまたま、Facebookで親友は「父の誕生日」を示しました。
ところがリツイートが多く、私もこれをシェアしました。
日本でも、「タッカー・トーピード 」ファンが多くいました。
そこで私はあえて、このブログに取り上げました。
資本主義の怖さ、社会心理の嫉妬などがこの車の誕生にあります。
そして、この車メーカーそのものが消滅してしまうのです。
おそらくこれは資本主義の悪弊が伝統になる最初の事件でしょう。
日本が再生するとするならこうした悪弊を断絶する国家になるべきです。
先般、ブータンの若き国王がわが国に期待し希望したこと、
それは資本主義の革新であり、その先導役を願ったのだと解釈します。
「タッカー・トーピード 」は消えた自動車ですが、
米国でも映画となって語り継がれていたということです。
コッポラ自身が今もこの車を所有していると聞いています。
是非とも、この映画を知らない方には観られることを薦めます。


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9月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 16th, 2010  Posted 10:00 AM

9月16日 仏滅(己巳)

人は体験を聞かされることが、
物事を「知る」うえで、
最も鮮烈に意識に蓄えられるに違いない。

特に、他人の不幸な体験や、
笑いや哀しみほど、
自分の気持ちのひだに貯まっていくのだろう。

『デザインは言語道断』知行


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『資本主義からの逃走』
    「話し合う、この実体験から文脈へ」


   


     8月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

文脈の身体化
人間は「ことば」を持っています。
初めに「ことば」ありき、ということは、
自分が母親から「ことば」を身体化していきながら、
体験・経験でその「ことば」の内容と質をさらに「身体化」していくわけです。
私は、交通被災というとんでもない状況の実体験の中で、
その事件・事象・状況の中での「ことば」を「身体化」してきたのだと考えます。
そして、見つけ出しているのは「文脈」という「ことば」の脈絡性やその順列性で、
それらの意味を獲得することを、自分なりに創りだしたり制御できるということです。
しかも、この言葉の脈略性=文脈をさらに深く詳細にしていくこと、
それはそのままデザイン=造形による問題解決までを体験から決着させたいという意志と意欲です。
そこで、次のことばを並記してみます。
●「会話・会談・談話・対談・対話」です。
つまり、ひとまとめで言えば、言葉がこうした中で、
どのような脈略=文脈を持っているかを確認しておこうということです。
「会話という談話」対「対談という対話」は、
デザインという問題解決の中で、コンテクスト=contextが必ず常駐しているということです。
私が車イスという、いわば「不幸な事態」が、実際はその逆転であって、
「コンテクストへのまなざしを得る」=幸運さにつながっているということです。
私がデザイナーであったことは、
「問題解決」にコンテクストからの解答を造形化できるという自信を「身体化」できたことです。
それは「会話:対話」に、
コンテクストを必ず位置決めをして配置しておくことが必要十分条件だということを
車イスの「身体」・「身体の精神性」体験から教えられて知ったという幸運だったのです。


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7月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 5th, 2010  Posted 5:19 PM

7月5日 大安(辛亥)

人は体験を聞かされることが、
物事を「知る」うえで、
最も鮮烈に意識に蓄えられるに
違いない。

特に、他人の不幸な体験や、
笑いや哀しみほど、
自分の気持ちのひだに
貯まっていくのだろう。

『デザインは言語道断』知行


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