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Posts Tagged ‘使用感’


11月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

11月11日 先勝(壬寅)

「時計」、「時刻」、「時間」とは、
目に見えない「時の経過」と「瞬時」を
測定する計測器であり、
モノとしての「使用感」と「所有感」を
満足させうる「存在感」が問われるモノである。



倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』16 時の経過と瞬間


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12月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 28th, 2016  Posted 1:00 AM

12月28日 仏滅(甲申)


使用感と所有感は、
最も自分の体験が居る。
そして
何が使用感で、
所有感で、
何が可能かを
確かめることだ。



川崎和男の発想表現手法


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『スマホは使用感だけでは技術進化は見えない』


   


     12月 28th, 2016  Posted 12:00 AM



ケータイ、スマホ、という日常道具の使用感の進化は、
目を見張るべきです。
しかしスマホの進化はいわゆる使用料の廉価競争に巻き込まれていて、
進化技術と日常道具感、さらに所有感に大きな差異性が出てきました。
その使用感は電話使用料の企業競争にかき消されています。
友人がスマホの使用料廉価性で使用感どころか、
所有感を失っているコトを見て、私は厳酷したほどです。
なぜなら、
もはやスマホの使用感はおそらく私の選択が最も的確でしょう。
まず自動車制御、時計制御、メモ制御、サイフからカード制御、
そしてオーディオ制御にまで及んでいることです。
とりわけ電話通信の使用量ほど不明点が多くて、
結局、自宅WiFiまで、全てを変革させましたが、
自宅のシステム対応は完全に無理でした。
つまり、どこまでWiFiや赤外線対応で、
TV、照明、オーディオ、電話、だけで無く、
デジタルアッサンブラージュはまだ制御システムに苦労をしています。
自動車制御、時計制御、クレジット制御には、まだ自動車も時計も、
結局は所有感を超越した進化はしていないと指摘しておきます。
無論、オーディオでのWiFiはとてもHiFiには及んでいません。
残念ながら、
使用感だけでのファッション性はアイデンティティを欠落させ、
時代の進化技術を見失わせることになります。
それは所有物としてのスマホで確認することができます。
所有感が使用感を決定させているのは、
残念ながらすべて海外の著名ブランドに支配されていることを
打ち消すデザインが絶対に必要だと確信しています。



* 「スタートレックという未来考古学のメディア」
* 『ファッションも完全完璧な信用・信頼・安全・安心だ』
* 「C.I.デザインの源流としての思想」
* 『改めて自宅玄関のデジタルアッサンブラージュ』
* 『電子ペンはすっかり日本開発が海外に負けている』


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『超軽量で収納コンパクトな電動車椅子をめざして』


   


     11月 3rd, 2016  Posted 12:00 AM



「車イス」で不可能なことはいっぱいあります。
中でも、階段を上ることは不可能ですが、
ほとんどプロとも思えるバスケットの選手が、
リハビリ訓練で階段上下動見たことがありますが絶対に不可能です。
エスカレーターでは登り専用では介護を伴って試したことがあります。
これは地震の際は、エレベーターは全く使えません。
今では階段を上下可能の車イスは
車輪そのものが無くてキャタビラ車輪はありますが、
自分が試したことが無いので使用感はわかりません。
さらに、浮力性があって潜水可能な車イスは見たことがあります。
現在自分が使用している車イスを越えているのは2台程度、
その中でも電動車イスは相当に出てきましたが、
自分が採用し使用しているのは、折りたためることと軽量でも20Kg。
車載、さらに海外への飛行機では、何度もトラブルを経験しましたが、
ADA法(USAでの身障者保護法律)通過していることを理由に、
あとは、リチウムバッテリーゆえに機長判断になります。
これまでは一人称デザインでの車イスゆえに、自分専用でした。
そして街では見かけられないことから、調査までされましたが、
美術館やハウジングメーカーさらにはオーダーメードに徹してきました。
哀しみのためのデザインをCARNA=スニーカーのような車イスから、
新たな素材や車輪で超軽量で収納性での
コンパクトな電動車椅子がようやく見えてきました。


* 『レコード盤に五塵ありなのだろうか、ならばその塵を取る』
* 「現在使用のバッテリーパック・・・携帯電力を再考」
* 『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』
* 『盟友のエッセイから思い出した=スタイライゼーション』
* 「デザインは皆無だ!・・・誤りのデザイン」


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『100円ショップの明晰さと確実に連鎖する美知らず』


   


     10月 5th, 2016  Posted 12:00 AM



100円ショップで買ったいわゆる「孫の手」。
「孫の手」というこの商品は庶民の産み出したある意味では優れたモノです。
果たしてこの商品では工芸品とでも謳われれば10万・5万のモノもあります。
しかし100円ショップでも充分に使い勝手が行き届いています。
孫の手がデザイン対象にはおそらく決してならないでしょう。
問題解決の商品としては、背中を搔くことの応答商品であり、
ゴルフボール風の肩たたき機構さえそろっていて、
なおかつ100円ショップ商品ですから、きわめて日常品だと断定できます。
大手のそれも巨大な家具商品ストアに行けば、デザイナーなら驚くばかりの、
盗作だらけ、いやこういうのをジェネリックプロダクトと言うのでしょう。
自分のデザイナー倫理観、デザイナー正当職能観では、
決して許容できるモノ・デザインではありません。
けれども日常生活では自分自身もこの手の商品は自宅にあります。
何が応答商品か?ということで、考えれば、
いわゆる「使用感」だけがまかなえれば、100円ショップ商品で充分。
車や時計、あるいは万年筆などでは「所有感と使用感」において
確実に納得するモノであることが必要充分条件です。
それこそ、プロのデザイナーとしては決してジェネリックプロダクトも、
ましてや盗作などは非難どころか告発とさえ自分は職能倫理を守ります。
今年度のすでに制度となっている国家的なGマーク商品の選定では、
元審査委員長としてはなぜ?、コト重視?、仕組み重視?、美は?
審査委員資格としての問題解決での応答・回答・解答、
そして性能・効能・機能、価値性、未来創成と継続性の日本らしさは?
100円ショップ的な応答商品のそれこそ見事な羅列に、
わが国経済が存分な低迷を反映し、そしてその哀れさに心痛です。
明言します。
審査委員失格者は相当存分に「美知らず」が存在していることです。


* 『大物主神から事代主神、このコンテクストの卓球台』
* 『アンチテンションはコピーされている福井産の革新技術』
* 『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
* 『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
* 『モノ真似防止、他のデザイナー作品は暗記すべきだ』


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『ファッション誌で知ってさらに自分ファッション』


   


     9月 24th, 2015  Posted 12:00 AM



高校時代は丸坊主が校則でした。
ようやく丸坊主から解放されたときにファッションが気になり、
最初の男性ファッション誌は「メンズクラブ」でした。
美大入学時には母が指輪とブレスレットを男なのに買ってくれました。
以来、私は指輪もブレスレットも母からの命令だと思って収集し、
身に着けていますから、デザイナーで良かったとさえ思っています。
車いすになってふるさと福井で仕事をしているときには、
白いワイシャツ、髪も短く、必ず、イタリア製ダブルスーツでした。
東芝時代は、東芝マンでしたがアロハシャツで出勤する態度でした。
ダブルスーツに拘ったのは、今もそれほど変わりませんが、
車いす姿、若いことで明らかに差別感を受けてしまっていたからです。
福井でも毎日デザイン賞を受賞してからは、
ワイシャツもカラーにし長髪にしたようなものです。
もっとも最近では明らかに差別感を感じたら周りにスタッフがいても、
必ず暴力沙汰寸前になるようにまで、
それこそヤクザさんにも絡みます。
というわけで、逆差別のやり方さえ覚えてしまいました。
ごめんなさい。
今、ファッション誌はワイフの女性モノが面白いですが、
60になってまた「メンクラ」を読むこともあり、
今回なんぞは40になったらなんて記事に、
そうか、自分の40代はこの程度をファッションなんて呼ばない、
ファッションは、浪費と勇気の見栄=見栄えだと思っています。
見栄というのは,浪費できることやその程度でも揺るがない自己表現です。
一所懸命と一生賢明がファッションの哲学であり、
それこそ浪費する自分が一所懸命と一生賢明であることの見栄です。
ちょうど私の世代は、アイビースタイルに憧れ、
それこそ大学時代にネクタイをするフォーマル性を磨きました。
カジュアル性の根本としてのジーンズも、徹底したモノの価値観があり、
昨今では、高級ブランドからファストファッションまで、
それぞれの価値観への浪費性に使用感と所有感があると考えています。
幸いにして、メガネは自分ブランドがありますが、
自分が最も興味を抱いている分野で自分デザインができる幸運さ、
これこそ自分のファッション価値観だと思っています。


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『アンチテンションはコピーされている福井産の革新技術』


   


     7月 31st, 2015  Posted 12:00 AM



眼鏡技術が中国にあっさりと盗用されてしまいました。
それは私が福井にいるころ中国から産業養成の留学生として産地が、
彼らを引き入れたことに端を発します。
当時、私はこれは大問題になると、警告を地元で発していましたが、
あまりに人の良い田舎=鄙は性善説での国際親善と国際交流で、
彼らを引き入れて眼鏡フレーム技術を開示してしまいました。
と同時に、中国進出を図った眼鏡枠企業までが中国に工場を建設。
ものの見事に、眼鏡枠産業そのものを中国政府は奪い取りました。
結果、それは3プライス廉価版眼鏡ビジネスを日本国内でも
あたかもベンチャー風ビジネスモデルを支えました。
私は福井市で増永五左ヱ門が開始した増永眼鏡(創業110年)にて、
KazuoKawasakiブランドをやらせていただいています。
眼鏡産業は鯖江市の地場産業を引き起こしましたが開発技術は福井です。
私は増永公認で一度、この3プライスビジネス企業で、
スポーツグラスを最初にやりましたが、すぐにスポーツグラスはコピー。
これは今なお、商品展開していますが、
廉価版とは安物ビジネス?を実感してしまいました。
ところが、中国産の安物に日本市場が呆れ始めると、
こうした産業は、「サバエづくり」を広告展開しています。
しかし、本当の眼鏡枠技術は福井産なのです。
もう、私は30年も自分のブランド展開をして、
特に「アンチテンション」=テンプルを広げようがレンズは固定。
MP690シリーズはフレームデザインを革新したと自負します。
これは2000年に「シルモグランプリ」を日本で最初に受賞しました。
今では、アンチテンションとは言えない構造コピーが氾濫しています。
また、グーグルグラスも製造物責任を無視して世界広告しましたが、
結局、あの実装性の無謀さを知り、商品化はグーグルが中止しました。
私は30周年記念モデルとしてサングラスデザインをMP690展開で
コンフィギュレーションデザインをしたものです。
これまでのサングラス形態実装を根本で変革しているはずです。
私のコピーや今はやりのジェネリックフレームも出始めているようです。
でも、このモデルは、使用した時に、中国製では不可能な構造が
仕組まれていますから、使用感・使い勝手は革新的なはずです。
サバエ産眼鏡フレームの技術は廉価版で使用勝手が異なりますが、
福井産眼鏡フレームには、海外ではたった一ブランドだけが、
競合相手でしかないことを発表しておきます。
鯖江産眼鏡フレームは、3プライス廉価ビジネスや、
安易な手術用具づくりでは、地場産業が朽ちていくでしょう。


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『技術進化以前に、ニーズの分別力があるかどうか』


   


     10月 24th, 2014  Posted 12:00 AM



安閑としていて構わない、時代が見えない、価値を見失っている、
私はデザイナー40余年の経験で、こんな企業の商品を見てきました。
確実にこのような企業は、突然でもなく、必ず朽ちていきます。
現、日本全体がこの感染病に冒されていると思います。
価値というのは、好ましいことと望ましいこと、この二つです。
私はこの写真ビデオ機器を見たとき、とても驚愕しました。
この機器には撮影するユーザーの心を掴んでしまっていることです。
先進的な技術、最高美学的なデザインのモノではありません。
だから、私は、使用感には満足してますが、所有感には不満足です。
そこで私はこの商品アソート、アクセサリー群をすべて見ました。
潜水用筐体、位置固定ネジなどで、自分好みに仕立て直して、
自分の好ましさと望ましさという、自分ニーズ=一人称の所有欲、
その対象物にしてしまいました。
この商品が、これまで放送業界での安閑さを否定してしまいました。
よってこの企業が瀕死の状態になっていることはお分かりでしょう。
この企業の迷走ぶりを以前から直ぐ側で直視していました。
商品をプレゼントされたとき私は「要りません」とまで言いました。
一流企業の奢り切った社会への態度、技術とデザイン重視への過ちに
私は真の価値、所有と使用の喜びを忘れ果てた経営陣を見ました。
それはこの企業に限らず今この日本の企業すべてが感染しています。
何も、先進的な技術力が必要だとは言い切れません。
デザイナーの私でさえ、好ましいだけのデザインでも、
仕立て直しができるほどの、企業家自身が必要=ニーズすべてを
アソート、アクセサリー化してしまうことにこそ現代性があります。
先般、CEATEC JAPAN2014で、私が大落胆したのは、
このGoPro商品性が、歴然と消滅している現代日本の企業群でした。
安閑としていてはいけないのです。
時代性と共時することを忘れてはいけないのです。
価値=好ましさ・望ましさをユーザー側として、喜べることです。
今、私は、自分好みを徹底させてみて、
改めて、自分=一人称ニーズに共感してもらる、あなた=二人称、
それが無くて、三人称とは知らない人たちです。
知らない人たちのニーズなんてわかるはずがありません。


「造形の言語道断」
「製品コンセプト・一人称では三つが基本」
「コスメティックデザインという付加価値」
『現代妄想には闘い続けなければ大間違いの世情になる』


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「デザインツールの新規性化と習慣化を同時に」


   


     8月 22nd, 2013  Posted 12:01 AM



おそらく、私はMachintosh128K以来、世界でも初期に
パソコン・デジタルツールをデザイン作業道具にしてきました。
New Yorkでも、Macを使ったプレゼンを最初に行いました。
米国製をなぜ自分が日本からみんなに見せる訳?
ということでとてもみんなに受けたことがあります。
展示会で白黒Directorでの動画プレゼンを、
市内大学の関係者に見せてきたと思います。
理由は、新しいモノ好きだったことや、いつでもデザイン道具を
常に新鮮化すること、そして同時に、
使いこなしてきた道具を大事にする習慣は身についたと思います。
スケッチブックは、モレスキンにこのところ拘っていますが、
紙質が中国製になってからは、特にボールペンと色鉛筆は、
それの組み合わせは決してよくありません。
また、海外の有名ブランドのパッドなども、
日本への輸出品は最悪ゆえ日本の代理店に私は超クレーマーです。
紙質は日本製が抜群にいいのですが、
使用感よりも所有感の価値性が不十分だと言わざるをえません。
今夜は出張に来ていて、鞄に詰め込んできたツールは、
デジタル系であり、EvernoteやMacに連動してしまうモノです。
先般は、Superpenを紹介しましたが、
描画タッチについては、この日本製は日本人ゆえ出来る、
モノづくりへの些細な使い勝手があって手放すことができません。
デザインツールは、私がこの職能に最初に憧れたのが、
色鉛筆のカラフルさに取り囲まれての仕事だったことです。
医学部志望の私に、母が言ってくれた、
「赤い血を見るより、赤い絵の具を見て暮らしたら」、この一言。
結局、学位が医学ゆえに、今は血の色も絵の具も赤を見ています。
ともかく、自分にとって、手や指とツールの感覚は、
紙質や、今ではデジタルパッドとの一体感が最も日常感覚です。
そう言えば、今回いつも持ち歩く色鉛筆を忘れました。
取りあえず、今夜はiPhoneで撮りました。
私が持ち歩く出張用のほとんどがアイディアスケッチ用、
デジタルツールの文具類です。


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「算盤=知的道具に木の文化が息づいている」


   


     3月 20th, 2012  Posted 12:00 AM


私は幼稚園は二つ通いました。
最初は基督系でしたが、悪戯が過ぎたのでしょうか、
断られて仏教系になりました。
塾といえば、
算盤塾にみんなが行くので私も行かしてもらいましたが、
「もう来て欲しくない」と塾から三日目に断られ、
通っているふりをしましたが、母にすぐにバレました。
そんなこともあって自分流なので算盤は得意ではありません。
今回思いがけずプレゼントされた作品、
それはデザイナー・蛯名紀之氏の算盤に触って見て、
算盤ブームもう一度というより、
これは絶対に復活させるべき道具!と断定しました。
電卓も競技会がありますが、算盤には段位があります。
以前、「盤・盆・膳」という日本の伝統文化史を自分で構築したとき、
見えていなかったことをこの算盤で思い知らされました。
算盤という基本形態の完成度の高さです。
算盤玉と呼ばれる形態は玉ではないあの形に意味があること。
そして最大に重要なことは素材が「木」であるということです。
プラスチックのソロバンは、
やはり操作感、使用感が身体化されないのです。
これは盤(PAD or Plate or Board)の上にある
象徴化されている数字概念の表徴形態、
それは「木」と指との関係が無ければ成立しないということです。
伝統的な「盤」には将棋盤や双六盤、
今では制御盤や分電盤までありますが、
算盤というのは、計算する道具として、
最も簡潔な形態要素とその配置で計算性能があります。
この計算性能は、指先でトレーニングすればするほど、
暗算というイメージ計算を身体化させてしまう機能性を持ちます。
60の手習いということで、
昨年62の手習いでフランス語会話を大学以来にやり始めましたが、
算盤に向かってみるのも面白そうだという気分になっています。
電卓とはまったく異なるこの算盤は日本の伝統文化であり、
宝だと確信しています。
「算盤」教育は復活させてもいいかもしれない。
私はもう一度算盤を練習してみようと思っています。


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