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Posts Tagged ‘先祖’


『金剛界曼荼羅というあの世の世界・仏壇デザイン』


   


     8月 17th, 2017  Posted 12:00 AM



かつて無着成恭という教育者のラジオ番組を私は明確に覚えています。
確か、子どもの質問に答えるという番組でした。
その中で、「なるほど」と感心した質疑応答で、
「仏様と神様はどうちがうんですか?」という質問に対して、
「ほら、死んだ人のことを仏様ってよぶでしょう。
死んだ人も仏様になり、その世界を見守る人達も仏様。
しかし、この世を創った人のことを神様って呼ぶんだよ」。
このやりとりにとても感動しましたから今でも覚えています。
宗教となると、仏教から神道、さらには原始キリスト教から旧約と新約、
プロテスタント、これは海外で仕事をする教養としてまで、
そのような本は相当随分と読み漁りました。
特に仏教では金剛界曼荼羅の3×3の世界に心惹かれて、
仏壇をデザインしたことがあります。
故・榮久庵憲司先生と二人っきりで仏教とデザインを語ったこともあり、
これは背後に松岡正剛氏のディレクションだったと思い出します。
金剛界曼荼羅で9体の仏像を作りました。
しかし、まだ40代だったはずですが、仏像が出来上がってみると、
当時はなんだか全てがお地蔵さんになってしまい、
自分の功徳はここまでなんだと思ったことがありました。
このデザインは亡母を偲んでだったと記憶しています。
仏壇はガラス一枚が台座であり、ガラスの両端面は赤と緑でした。
ちょうどお盆という時期にあって、もう一度、
今なら仏像デザインが出来るかもしれないと、
過去の作品写真を眺めた次第です。
この世とあの世があることや、ひょっとすると私は幽体離脱だったかも、
そんな経験もしましたが、
もう亡くなって仏様になった先祖に逢ってみたいとひたすら思うのです。
おそらく、この世よりも、もし存在するならあの世では逢えるのかもしれません。
そして私は歩いたり走ったりができるのでしょうか?
仏様の世界があの世なのでしょうか?。


* 『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』
* 『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』
* 『健常者を差別することで社会暗部を照射する』
* 「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」
* 「松岡正剛という『ち』の出発同位点は隠坊ゆえ」


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『「寸は尺よりも長し」をデザイン表現したハンガー』


   


     7月 29th, 2017  Posted 12:25 AM



「デザインは機能である。」という、
この断言がズーッとデザインを縛り付けてきました。
未だにこれは念仏にしか私には思えません。
デザインは、性能・効能・機能と価値であり、
「問題解決の美的な応答・回答・解答」だともう40数年も主張しています。
そして、「神は細部に宿る」というのを、
私は先祖(宮大工家系)からの巻物には、
「寸は尺よりも長し」を自分に言い聞かせてきました。
先日、間も無く商品化の製品をこのブログで発表しました。
それはこのメーカーがそれもDESIGN TOKYO展で、出展したからです。
これはイタリアのある有名ブランドの生地・繊維見本帳を見て、ここまで?
絶対に乗り越えるという動機で、
このサンプルデザインの部位をハンガーにしたのです。
それこそ自分なりには徹底した細部設計と仕上げでの精度に拘りました。
日用品のハンガーはもう廉価も廉価。
しかし、2本1組みでの商品の高級化を目指しています。
ハンガーへの人類の歴史、ハンガーの進化、その一つを追いかけた、
私デザインの「モノの存在性」という
美的な価値表現です。
だから性能・効能・機能の日本ならではの高価値表現のデザインです。


* 『藤原行成の書体との出会いは先生からの指示だった』
* 『パノラマ的な拡大は詳細を見詰めることだ』
* 『最近見なくなった竹藪、その思い出』
* 『享保の手帖から私が学び直したこと』
* 「黄金コンパス・黄金比と白銀比を身体化するには」


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『パノラマ的な拡大は詳細を見詰めることだ』


   


     4月 13th, 2016  Posted 12:00 AM



視覚として四方八方に視点を動かすことを
目配りが優れていると言います。
特に少林寺拳法では「八方目」といい相手やその周囲に目配りの技法です。
この目配り技法によって相手の攻撃を防止するとともに、
相手からの防衛法を先んじることが出来ます。
四方八方という視界を拡大する手法は18世紀末に回転画、
パノラマ=panoramaと呼ばれ、
一つの思考空間とすることが可能です。
これはより大きなパノラマ空間に
アスペクト比:画面に比率を与えることです。
目配りする空間の比率には、集中画面への焦点化が必要になります。
それは大画面に集中点=焦点を設置すれば、
全体把握とともに詳細部位把握が必要になります。
パノラマ的な思考とは、
「神は細部に宿る」
あるいは、「尺は寸よりも短し」=僕の先祖宮大工の言い伝えです。
つまり、パノラマな空間はその比率毎それぞれの画面に、
細部や詳細性への目配りになるわけです。
これは単純な焦点というよりは、concentrationという
集結性や収束力をもたらす結論=思考結果になると考えます。
本来、回転画という画面設定であったことから、
四方八方への目配りとは、
まさしく、人間が周囲=環境への「知」とその経験を
より拡大出来るかが問われています。
というよりは、四方八方への大胆な目配りが、
実はもっと詳細に隅の隅まで熟慮と吟味を重ねるということを
意図しています。
この意図ある思考方法を「パノラマ的な手法」と
呼ぶことが出来るということです。


*『絵画に惚れることの重大さ』
*『専守防衛が鉄則ゆえに護身効果大の手法あり』
*『最も、障がい者の存在を描いた画家』
*『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


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「黄金コンパス・黄金比と白銀比を身体化するには」


   


     4月 25th, 2012  Posted 12:00 AM


NHK番組で「頭がしびれるTV」の企画がきました。
「黄金比」をテーマにとのことで、
メールで質問を受け、
担当ディレクターが来学してインタビューを受けました。
結局、収録して私も出演することになりました。
「黄金比」は古今東西、
歴史の中で一つの美学的基準としてはゆるがないものです。
美大時代からまず学んできたように思います。
なぜなら、黄金比を意識してデザインするということではなくて、
デザインし図面化したときに、寸法チェックしてみる私なりの手法です。
特に気がかりなのは、私の先祖が宮大工として、
徹底的な「割図」をして宮大工をしていたことは明らかです。
300年前の図面を伯父から譲り受けて現物図面で確認していますし、
時々取り出してこの「割図」を凝視することがあります。
宮大工道具としては曲尺で十分にこの割り出しが可能です。
そして、
私は万年筆マニアでもあるので、VISCONTIにこのセットがあります。
限定生産品ですから、もう手に入らないかもしれません。
またVISCONTIの万年筆は、万年筆でも別格です。
あるホテルのバトラーの方がサインを入れるときに、
VISCONTIを差し出されたとき、
やはりそのホテルは別格だと感じました。
そのことを告げると、
「もう見分けていただけるゲストは年々減少しています」
と告げられました。
私は、この黄金比よりも白銀比に興味があります。
黄金比はフィボナッチ数との連関は見事です。
しかし、私はむしろ葛飾北斎の『冨獄三十六景』の「神奈川沖浪裏」や
竜安寺石庭は、
黄金分割の論理を熟知していて仕上げられたものとは思えません。
だから、私もデザイン設計の始めから意識して
黄金比や白銀比を使おうとは思っていません。
けれども教育として、
歴史的な美術作品・建築、自然界の様々は知識獲得のためには不可欠です。
だから、iPhoneアプリでこの計算機を研究室で作成し販売しています。
収益はPKD活動(Peace-Keeping Design)のデザイン実現に向けています。
おそらく、デザイナーを天職としているので、
きっと生涯、
黄金比・白銀比の世界をいっぱい見ておくことと
デザイン設計結果が適合することを常にめざすでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・2」


   


     5月 4th, 2010  Posted 12:01 AM

形容
「容」。
かたち、としたのは立原正秋でした。
彼の文体は、まさに形体でした。
形体とは、立方体や四角錐といった規定ある形態です。
したがって、文体は、作者の規定という思念定義があるのです。
立原作品には、女性・庭・能・作庭・樹木・陶磁器・刀剣などへの造詣、
彼のの著作深度は、学者以上であったと思っています。
私が、樹木や作庭については、幼心に祖父の一言一言があり、
陶磁器・刀剣は、父に連れられていった道具商の市でした。
しかし、当時私はそうしたモノは傍観していただけです。
「きれいだな」と思う程度でした。
それから、美大を出てようやく気づきました。
伝統工芸の産地と先祖の書き残してあった図面で、
私は、これらのモノと日本人について考えることになったのです。
それは年齢とともに、蓄積されてきた知識や感受性に深みが
やっと出てくれたのだと思いたいわけです。

綺麗
そして、ひとまず、日本的そうしたモノが「きれいだ」と思うこと。
この「きれい」という言葉と「美しい」との距離感に私が放置されたのです。
それは絶対に一直線上にあるものではないということです。
なぜならば、
● きれい・・・形容動詞
● 美しい・・・・形容詞
すでに、言葉の領域、その次元がいわば異次元だということです。
しかし、たとえば女性たちが望む「きれいになりたい」欲望は、
「きれい」になることから「うつくしい」、
あるいは「かわいい」次元に
ワープ=超光速航法を切望するということです。
はかない夢想だと、私は思います。無論大切なことですが。

トランスレート
むしろ、「綺麗」から「美」へトランスレートすることが論理性があります。
なぜなら、綺麗という形容動詞はネットワーク層があるのです。
ところが、その層からトランスレートすれば、
「綺麗になる・綺麗にする」動作の蓄積が
「美」という層へ運びこんでくれるでしょう。
「形容動詞が形容詞になる=綺麗が美になる」述語解です。
私のこのまなざしでは、決して、日本の伝統ですら、
「綺麗」なモノやコトで終わっているのは、
「美しい」とは言い切れません。
Media Integrationへは、形容動詞から形容詞として、
「形容」の世界観を、私はめざしたいと考えています。


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3月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 20th, 2010  Posted 9:00 AM

3月20日 赤口(己巳)


私の先祖が描いた図面を見て、
三つ気付いたことがある。


一つは、自分の発想が
製図する紙の大きさを超えてしまった時には
紙を継ぎ足して、
自分の理想の意図の詳細を
描ききっていることである。



『プラトンのオルゴール』
デザイン「製図」はビットの時代へ


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