kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘共時性’


6月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 27th, 2019  Posted 12:00 AM

6月27日 大安(乙未)

デザインは時代的な、特に経済的な潮流と常に
共時性を持っているが、
デザイナー個人のなかでは、
まさしくデザイン史は
デザイナーの遺伝子のごとく、
それぞれのデザイナーの造形に大きく影響を
及ぼしているものだ。



倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』7モンドリアンへのオマージュ


目次を見る

『表裏一体の共時性は呪われているのか!』


   


     3月 1st, 2015  Posted 12:00 AM


いつの時代も、その時代を牽引しているかのような、
それは、宗教と経済論にあたかも大勢の知性と野性を狂わします。
すでに世界は130余年前に、いや最古の闘争十字軍の時代に、
その時代からも共時しなければ生きられなかった世界に放置されます。
十字軍を今更持ち出しても、イスラミック・ステイトの凶暴凶悪性は
知性社会すべてが許すわけがありません。
あたかも現代文明を根底から破滅している十字軍と対照的な、
表裏を成して、資本論をも超えるとかの論理にすら疑念があります。
私は、この時代との共時感覚は呪われているとしか言えません。
未だに、資本にこだわり、その裏側には石油文明を剥奪する
その裏付けとなる宗教への狂気しか私には見えません。
資本と納税、人口の流動性での統計で果たして現代文明の背景は、
語り切ることができるのだろうか?とこの論理を疑います。
私は、資本の塊の停止が現代を経済=税務と一神教の差異性対立を
一方はテロと呼び、一方は新たな文明の分断からの構築と呼びます。
が、この二つは常に表裏を繰り返しているだけの呪いにすぎません。
共時と共有性は、まさに情報時代に両方が寄りかかっているのです。
そして私はこの時代の呪われた非人間性=性悪説にまみれた
全ての事象、事件の象徴だとさえ思わざるをえません。
おそらくデザインとの反事象は犯事件そのものがこの表裏一体です。
決して、人類の偏向を呪縛してきた資本論の方が単純でした。
歴史をいつまでも連結してきた十字軍の方が狂気を排除していました。
私はこの二つの情報は、呪われた事件の表裏回転体だと思います。
したがって、
この表裏性を断絶するには、この回転動態の遮断的な事象を
衝突させることしかありえない気がしてなりません。
この衝突を起因させる思考を余儀なくされている悲しみこそ、
現代の呪いに他ならないと思っています。


目次を見る

「この日からの再出発、再認識」


   


     1月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM



年末年始、多分、大学人としては最終の論文作成をしています。
国外向けは、いつもながら英文の文字数調整に苦しみました。
国内向けは、なんとしてもこの正月休みに書き上げたいと念じるほどです。
国外向けも、アブスト査読は昨年夏に合格しましたが、
やはり、3.11が及ぼしていることについての論説が求められました。
今世紀に入って、
経済的には多大なグローバルな変動に人類すべてが翻弄されていますが、
とりわけ、私たち日本人にとっては、多くの同胞を失いました。
そして、政権交代によっての政治的な指導力の欠如は甚だしいものでした。
私自身、被災地や内閣、
大企業の復興姿勢には怒りと落胆と情けなさを存分に味わいました。
よって、今度の自民党政権には大きな期待を持っています。
公共投資の方向性など決して間違わないでほしい限りです。
大企業の被災地支援も間近で体験しましたが、
企業トップの指導力や理念など大疑問ばかりでした。
たかが、デザイナーに何が出来るのか、という声が明確に聞こえています。
しかし、私は、来春阪大を退官と同時に、
自分のミッションは決定しています。
私は、2011年1月から5月までの、この映像を見る度に、
日本列島のコンニャクのような脆弱さを再認識させられます。
したがって、今年の4月からの活動こそ、
わが人生、その最期の「行学の実践」にしたいと意気込んでいます。
3.11直後に、大きな活動をしながらも、
ほとんど匿名的な活動も紹介していくつもりです。
それは、昨年8月に創設した「危機管理デザイン賞」の対象にしています。
私たち日本人は、すぐに醒めきってしまう民族性が残っていますが、
もし、自分たちが、この時代との共時性を共有するには、
どこまで、復興と再興に、
自分のプロフェッションを差し出せるかということでしょう。
そんな気持ちに、
この画像は決定的なプライミング・エフェクトを与えてくれています。


目次を見る

「君の居場所・coppers早川(篤史)作品「KAIJIN 75」」


   


     9月 10th, 2012  Posted 12:27 AM



届いていました。
先般、松屋銀座での個展ギャラリーに2日通いました。
本当に久しぶりにアート作品を求めました。
早川親子の鍛金彫刻作品です。
アッと思うほど、惹き付けられました。
その夜に、あの作品群の中のアレを、
わが家のやっぱりスピーカーシステムJBL4343の上に置こう。
そう決心すると、ともかく会議前に求めておこうと決めました。
正直、仕事中も、
すでに自宅に作品が来ているイメージが常に浮かび上がっては消える、
そんな繰り返しが起こっているのは、
仕事への情熱を演技している連中への怒りを抑えられました。
「大企業病」というのは、
大企業にぶら下がっているサラリーマンの罹病だと定義できました。
それに引き替え、早川親子(父と息子)の作品は、
父がまずは師匠でありながらも、息子さんは二代目でも無く
この親子の強烈なライバル関係が清々しいのです。
この作品は息子さんの作品です。
生きている実感と社会での役割を凜と果たしているのです。
それが見事に作品に表れています。
彼らは、三重県で制作活動をされています。
いわゆる芸術関連の学歴などは無いそうですが、
そんなことはどうでもいいことです。
ところが、芸術系の学歴の無いことから作品への上から目線の人や、
この作品をロボットにして動かしたらとか、
LEDで光らせるべきと忠告されるそうです。
私はアート作品へのそのような期待は、
まあまあ一般的興味が膨らんだだけに過ぎないことだと思いますが、
つまらない鑑賞の仕方だと言っておきます。
もちろん、銅と真鍮という素材加工の技術性やその染色方法は、
高度でオリジナリティが存分であることが基本です。
しかし、もっと重大なことは、
「作品を私物化」したときに、その物欲と美学的な満足度を
どれほど真剣に「日常化」していく決心と作品への憧憬です。
私にとって、買い求めてまで側に置いて毎日眺めるのは、
常に、眼を透明にできる作品と出会うことです。
この作品は、これから私と一緒に、
私のオーディオ=耳と眼が共時性を持って、
生きている確認ができることです。
これから、この作品と対話したことも書き残したいと思っています。


目次を見る

「『SILK』Projectが示唆している重大さ」


   


     3月 1st, 2012  Posted 12:00 AM


金沢21世紀美術館での現代アートはいつも共時性があります。
それこそ美術館の社会的存在性=効能性にいつも驚愕させられるのです。
私は米国在住の日本人アーティスト・角永和夫氏の作品「SILK」は、
その制作から廃棄までというドキュメンタリーで
ジャーナリスティックな芸術表現の恣意性に呪縛されました。
9m*15mの漁網上に2万頭の蚕が
室温27度の中で三日三晩かけて平面繭を吐き続ける「家畜行為」を利用、
自然界を人間が制御することの
根源的な意味性を私たちに投げかけているのです。
私は、「自然との調和などありえない」、と主張してきました。
蚕・養蚕産業・家畜・人工的な改変・産業廃棄物
すべてを芸術表現とすることで、
人間、人工的行為と自然との対決観を見せつけられました。
この芸術表現の恣意性が
全く共時性があるということを熟考してみてください。


目次を見る

「ウェリントンタイプ眼鏡など忘却すべし」


   


     2月 5th, 2012  Posted 12:00 AM


眼鏡には定番のスタイルがあります。
そして、流行的なファッションとして繰り返しています。
その代表が「ロイド眼鏡」=正円レンズと、
「ウェリントンタイプ」=上辺長・下短辺の台形レンズです。
おそらく最も安心できる定番スタイルです。
これを不易流行のモノと私は思っていません。
メガネフレームは時代との共時性があり、
こうした定番は、顔表示を古くさくする野暮さが、
時代的な流行時と共時しない限り、
そのまま自分のセンス放棄を顕示します。
だから不易流行のモノにはなりきっていないのです。
ウェリントンは日本人に似合っているというのは、全くの大間違いです。
顔幅の細さと鼻の高さが無ければ決して似合いません。
しかもそのリーダー的な映画スターたちに
現代性は無いとすら私は思います。
そして最もメガネフレームの
性能・効能・機能は「かけごこち」に終局します。
「ロイド」も「ウェリントン」も結局は、
フレーム自重を軽減不可能の構造であって進化することも不可能です。
我田引水ながら、
私の発明した「アンチテンション」は、すでに定番になってきました。
テンプルを広げても、レンズに応力はかかりません。
だから、瞳孔距離を変えませんので、乱視になることを防止できます。
このタイプ構造は真似られていますけれど基本的なかけごこちを失えば、
意味ありません。そのようなモノも氾濫しています。
2000年にシルモ・グランプリを受賞したモノとしては、
その軽量さ、体感重量、かけごこち、
そしてファッションの不易流行性は確約できます。
「アンチグラビティ」、『アンチテンション」、エアストリーム性など
表面的、装飾的な類似品を多く出ることで、本物が浸透するでしょう。
新たな素材開発と新たなフレーム構造構成を
さらに発明的な革新を狙い続けていくつもりです。


目次を見る

「問題解決なのに「応答」商品の氾濫」


   


     12月 8th, 2011  Posted 12:00 AM


今、日本のデザインは方向を間違っています。
誰かが指摘しておかなければならないでしょう。
私は、「応答商品」が氾濫し過ぎていると思います。
デザインは問題解決の手法です。
そして、問題には三つの種類があります。
話題・課題・問題です。
だからそれぞれに「答」がありますが、
これも三種類の答があることを認識すべきです。
話題に対しては「応答」
課題に対しては「回答」があります。
もちろん、話題に対する答としてのデザインは、
造形として、かわいいデザインであったり、
その商品存在が話題になるべき流行やファッション性、
これは不可欠のことです。
社会的な課題になっていることの「回答」商品も必要です。
そして、元来、根本、極めつけは、
何が問題であるかを見つけ出し、その解決「解答商品」が最も重要です。
どこか日本のモノづくりが歪み出しているのは、
「解答商品」を新商品で見かけることが少なくなってきました。
まだ、課題に対して「回答商品」ならば、
国際的な競争力があります。
しかし、ともかく社会的な「話題」だけを追い求め、
あたかも共時性があると錯覚している商品は、
「応答商品」にすぎません。
そのような商品づくり・モノづくりは、
頭脳集約産業の「答」商品ではないことを確認しておくべきです。
どの分野のどの領域かは明言できますが、
まずは、「応答商品」を話題にしている産業は、
確実に国際的競争力を喪失するのです。
私は自分が「買う」と判断するときには、
必ず「問題解決」を果たしているモノを選びます。
日本の再生として、ともかく「問題解決」がデザインであり、
その答としての「解答商品」づくりに
集中させなければならないと考えます。


目次を見る

「映画のApple製品がMedia Integrationだ」


   


     10月 28th, 2011  Posted 12:00 AM


私の大好きな映画の一つ。
007シリーズがあります。
第14作目「美しき獲物たち」(A View to Kill)。
これは1985年の作品、主題歌はデュラン・デュランです。
1984年、Macintosh128kの登場との共時性が明白です。
この時から、マイクロプロセッサー、
このハード要素をあくまでも基本に、
ジョブズ氏の発想と決定という仕掛けが
私たちに「意識革命」を日常化させてくれました。
「意識革命」とは本来は、
ドイツ発脱工業化社会のマニフェストでした。
1970年代末に「情報化社会」を示唆していたということです。
情報化=意識化、あるいは意識化=情報化は、
脱工業化社会、その具体的製品こそ、
パソコンでありトリガーでした。
そのトリガーシンボルはAppleIICだった、
私はそう評価しています。
さてこの007映画にもAppleIICが使われていました。
映画ストーリーも、シリコン採掘カルテル支配による
マイクロプロセッサーの独占と、
シリコンバレーの破壊活動を007が阻止する話でした。
AppleIICは「ウォールストリート」でも小道具でした。
このAppleIICには液晶パネルを見かけ、
私はこの液晶パネルユニット探しに渡米したものです。
たまらなく魅力的でした。
「ウォールストリート」は時代背景を
現代に連続させて最近リメイクというより連続物語になりました。
いづれにも、コンピュータが小道具になっていますが、
小道具としてよりも、特にApple製品の登場は、
いつも、最先端時代感覚の共時性から将来性を語り、
ファッション的な存在感が強烈です。
映画だけでなく、TVドラマでも必ず、
ストーリーのプロットに対するApple製品やMacには、
監督の演出センスを感じ取ることができます。
映画やTVドラマでMac以外が小道具になれば、
決してファッション性はまったく感じられません。
結局、小道具以上の演出意味性は、
Apple製品やMacintoshそのものにメディア性があるのです。
私は、こうした製品存在性こそ、
「Media Integration=メディアインテグレーション」であり、
「コンテンツ産業」である映画の実質的な価値観です。
すなわち、デザインが対象とするのは、
この「価値創出性」であり、これは商業主義を逸脱させる方法です。
ジョブズ氏は、こうした「意識革命家」だったと思います。
「映画」というメディアあるいはコンテンツに、
インテグレーションされる製品発明こそ、
デザイン職能の目標だと私は定義しておきます。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「情報・デザイン、その組み合わせが共時的な意味を深長」


   


     10月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

形容詞的な不定法
「情報デザイン」はコンピューター登場初期の言葉、
だからあくまでもそれほど意味の深長さよりも、
形容詞的な不定法でのに決定語だったと思います。
私は「工業デザイン専攻」を卒業しています。
したがって、「工業デザイン」と同様なデザインへの形容詞的な用法用語と考えていいわけです。
ところが、同時期には、「環境デザイン」もデザインを詳細化する上で登場していました。
「映像デザイン」や「メディアデザイン」などもデザイン実務において、
さらに専門化を推し進める領域とされたのです。
環境・映像・メディアなどなどは、明確にに名詞と名詞によって新たな概念を派生させることで、
その専門的な内容の強化をめざしたものだったと評価していいでしょう。
ところが、デザイン環境・デザイン映像・デザインメディアという領域設定語は、
かりそめにも教育機関での分野表現語にはなっていません。
ここがひとつの見極めになるものと考えています。
そして、特に「環境デザイン」は、環境の定義性をデザインから追い求めると、
従来の建築領域に行き着き、さらにその拡大や焦点化には行き着いていません。
曖昧な「建築領域の拡大」にしかなっていないことは残念なことです。
「環境デザイン」ほどデザイン界でもまだその専門性は曖昧なままと断言しておきます。
情報(名詞)+デザイン(名詞・動詞)
情報(名詞)+デザイン(名詞・動詞)が、
デザイン(動詞)+情報(名詞)=デザイン情報としていく意味は、
情報をターゲットに、
デザイン営為・職能・実務の対象化とした意義に注目しなければならないと考えます。
あえて言うなら、なぜ「デザイン環境学科」なりが生まれていないのでしょうか。
これは「情報デザイン」と「デザイン情報」があるように、
情報の時代的な意味・意義の文脈変容と共時性と共有性がデザイン、
特に実務性との関係が、二つの呼称には有効性があるからでしょう。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「情報化の逃走訓練には資格条件あり」


   


     8月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

情報による資本主義の変貌
生産・消費での資本主義は、大きく変貌しています。
変貌の具体的内容は、変質・変容・変態です。
大きな一つは、資本を「能力・才能」としたときには、
能力や才能が「情報」と対峙できるかどうかです。
それは能力ある人なら、
情報リテラシーの管理と統合が無論可能であることは当然です。
しかし、私は能力の情報化と才能の情報化には差異性があるものと判断します。
それは特に学生たちを相手にしていると、
能力があるにもかかわらず、
自分探しに翻弄されていることを観察してしまうのです。
また、能力が評価できないのに、本人は自尊心こそ能力だと錯覚しています。
そのうえで、才能ということになれば、
私は、才能というのは自分では決して認識できるものではない、
という経験値があります。
才能は「周囲が認めてくれて」こそ、自分にはあるかも知れない、
という自己期待感の中で自信を勇気づけるものだと考えます。
私はここで、能力・才能のさらに情報力の能力・才能に焦点化してみたいと思います。
新たなこれからの「資本としての能力・才能の情報力強化」という訓練こそ、
資本主義から逃走する体力的な知力だと考えるからです。
したがって、「逃走訓練する条件」の一つに、
「情報」に関わるさらなる能力と才能のトレーニングということを提示したいからです。
条件をあげてみます。
● 共時性の保持力
情報と自分を対峙させるハード・ソフト・ネットワーク、
その驚異的な進化速度に自己を適合、
ある意味では流行性とも共時できること。
● 進化性の予測力
ハード進化・ソフト変化・ネットワーク変容、
これらに対して想像力が常に拡大や拡張し、
自己予測力を常に働かせることができること。
● 経済性の持続力
新商品化されるハードやソフトを購入し,
基本的なネットワークを個人的に整備できる
可処分所得内での購入費用は常に確保ができること。

そして、いつでも情報環境の時代変化に興味を持ち続け、
流行現象に押し流されることはあってはならないと思います。
好き嫌いの価値感には囚われず、
「自分流」なりの自己リテラシーを構築する精進を
地道に積み上げることだと考えています。


目次を見る

1 2