kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘内容’


『二つのビンテージカー番組に生きる文化論』


   


     5月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

テレビ大好き人間だからTV音響も絶対に最高にと信じています。
そして見過ごせない番組は撮り溜めし過ぎているかもしれません。
最近はCS放送の方が面白くて、
地上波TVは段々とつまらない、最低になりつつあります。
デザイナーであるからどうしても車関係は何度も観ます。
でもそれほどマニアックではありませんが、ビンテージカーについては
「カーSOS」と「世田谷ベース」は大好物番組です。
自分自身も相当に車は乗り継いできました。
この番組は一方が英国であり、所ジョージ氏の番組は優れています。
「カーSOS」は最後に感涙してしまうほどの内容であり、
ビンテージカーのもはや使われていない技術の凄さにため息が出ます。
「世田谷ベース」での彼の車からの文化の話はあまりに長いらしく
早送りされているほどですが、わが国の手遅れ制度批判は大納得です。
ビンテージカーが好みではありませんし、
もはや人生最期の車はAMで最高です。
でも、デザイナーとしてもっともっと進化させたいことは山ほどあります。
その基本的な素材や実装のデザインは未だに現役デザイナーとして、
大学人としても最先端をねらっています。
もはや人生最期の終活デザインを開始しています。
明日もし、あの世に行っても、
やり残したことはできる限りスケッチと文章で残しておきたいと思います。
ビンテージカーのこの二つの番組を
地上波番組は決して追い抜けないでしょう。
これらの番組には確実な「コンシリエンス」が残っています。

*『閏年の2.26=67歳なり』
*『女衒同族と羽織ゴロたる民法TVも国会も同罪である』
*『コントローラーのデザインはまったく進化していない』
*『10年使用すると、そうだったのかということ』
*『対決が明白なTVドラマの効能性の評価』


目次を見る

『silienceからパラ理論とメタ理論への展開が可能になる』


   


     4月 25th, 2016  Posted 12:00 AM

コンシリエンスデザインの論理的な研究をし、
その講座を「KK塾」として一年開設してきました。
そして、silienceという古語に辿り着いたときに、
レジリエンスデザインを明確に定義することが叶いました。
このレジリエンスデザインを具体的に研究していたのが、
九州大学でしたが、それが科学研究テーマになった途端に
熊本で大震災が連続しています。
すぐに「レジリエンスデザインチーム」をつくり、
大阪大学がこの活動のコアとして情報整理にかかりました。
自分は「KK塾」でも、
レジリエンスデザインに取り組んでいない、
特にデザイン系大学があることを指摘し訴求を始めていたのです。
たとえば、あるデザイン系大学では「防災がデザイン対象?」という
無知識な、そのような教育機関は、
教員がなんといってもsilienceそのものさえも全く知らずして、
大学教育で次世代デザイナー育成は不可能です。
さらに、silienceはパラ理論:Parasilienceと
メタ理論:Metasilienceにて、部分と全体、事前と事後、
さらに理論前提と理論中枢へと、
このデザイン手法とデザイン論理を
深めていくことが可能になってきていると考えています。
これはプライミング効果によって、
機能をさらに性能と効能にデザイン言語で
造形言語=designing languageと
形態言語=designed languageとして、デザインの
意図と内容で、デザインすることとデザインされたことを明快にします。

●レジリエンスデザインチーム
*『レジリエンスデザインチームで少しでも支援を』
*『レジリエンスの学習はデザインにつながる』
*『デザインは記号論的な「造形言語と形態言語」での論理化』
*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『まず、ニュートン的力学の隠喩としてのデザイン』


目次を見る

『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』


   


     4月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインは表現営為です。
したがってデザインされた表現の形態は言語だと言えます。
そこで、デザイン形態=「デザイン言語」と呼びます。
そのデザイン言語は、意味する意図(intention)を
造形言語=designing language、
意味されている内容(contents)を
形態言語=designed languageと、その二つで成立しています。
そして最近、この言語の背景にある知識や知恵という根幹こそsilience、
いわゆる日常ではほとんど無意識である「知性の核心」だと理解しました。
この無意識である知性こそデザイナーの知的背景だと決定できます。
コンシリエンスデザインこそ、知性の統合されたデザイナー能力であり、
言語表現に込められた意図と内容は、
すでに目論まれていたプライミング効果、
すなわちデザインの効用と効果を成し遂げるものになると断言します。
自分としては、コンシリエンスデザインという位置づけは、
明確にデザイン手法、その論理を言語化して、
その意味論は記号論へと向かわせることが出来たと自負しています。
これまでのデザインはすぐに機能で語られ、
装飾ある形態論に終始していましたが、
ここから明らかに小論的な論理を持って、
記号学に向かってきていると明言します。
さらに、デザイン知性は必ずスケッチでその言語展開が必要です。
それは「手」で描かれた発想表現が
プライミング効果になるということです。

*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『記号論は脱構築に向かっていった「かたち論」』
*『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』
*『Padスケッチにすっかり馴れ親しんだ!』


目次を見る

4月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

4月23日 先勝(乙亥)

発想には、
そのアイディアを一言にする
「タイトル」がまず必要。
そのタイトルを解説・説明する
インプット=調査精査ができれば
内容=コンテンツが出来上がる。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

4月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

4月6日 赤口(戊午)

発想には必ず、
「確約」が必要である。
確実に約束出来る内容と効果。
つまり、
約束を果たせる人格性が
不可欠ということだ。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『ロラン・バルトの言説の断片は章立て連続の時代だ』


   


     9月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

fragment=フラグメントというのは、
ラテン語の語源的には「割れたもの」であり、
英仏両語では、断片、さらには断章とも邦訳されます。
私は記号論やあるいは編集というのはことばの世界観で語られます。
だから、ロラン・バルトの「モードの体系」は、
デザイン・建築によっては必読の教科書といって紹介してきました。
そこから「零度のエクルチュール」にでも至ろうものなら、
ことばの日常、書くことと書かれることは、意図と内容やさらには、
言語と会話であり、ラング=辞書的言葉とパロール=会話的言葉に
きっちりと辿り着く思想になると考えてきました。
だから、ロラン・バルトは私が影響を受けた人物にすべきかどうか、
迷いに迷った人物でした。
それはミッシェル・フーコー、ガストン・バシュラールとほぼ同列でした。
学生に教えなかったのは、
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」でした。
実際、恋愛は狂気だと語られてきましたが、
バルトの言説でしかも断片的な殴り書きとしては、明確に語られました。
「恋愛は狂気である。
しかし、狂気だと言い切れる私は狂ってはいない・・・・」
彼のこの断章の書籍を、文章を塊として、全ページをそのままに、
グラフィックパターン化したスカーフの存在を知りました。
この作者がなぜ、バルトを選びバルト著作書籍パターンを選んだのか。
それこそ、バルト自身は「作者とは何か」ということから
「何が作者になるのだろうか」を文章で問いただしていました。
昨夜私は、「現在の特に雑誌はつまらない」と批判しましたが、
そんなことはなくて、これでいいという多分若者もいました。
だとするなら、私はこの批判をもっと強めなければなりません。
それこそ、先般もTVドラマが映画化された作品を観ましたが、
それにも、「観るべき映画は選ぶべき」と言われました。
最も賛同できますが、
私の興味は映画作品の俳優たちだけではありません。
それは作家である原作者から監督、キャスト全般以上に、
今ではCG・SFXから音響システムなどの
膨大なモノづくり支援者や企業存在までです。
ようやく、映画館が7.1ch化してきました。
そんなことも含めると、このスカーフデザインでは、
作家の展覧会をしなければならないほどに、
ロラン・バルトが語り直されて来た現実です。
つまり現代の見事な
デザイン=設計学と編集学の再考が必要だということです。


目次を見る

『失われてしまっているジャーナリズムは雑誌に歴然』


   


     9月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

30~40代の頃、私は国内外の雑誌を30~40冊は読んでいました。
最近は、時折、本屋さんの店頭で立ち読みする程度で、
あとは電子ブックの雑誌やワイフの読む女性ファッション誌などです。
学生時代や社会人デザイナー成り立て当時は、オーディオや音楽雑誌で、
若いときにはデザイナーなら少なくとも購買も15冊と言っていたものです。
ところが、最近の雑誌よりも企業広報誌やカード会社の広報誌の方が
雑誌内容にはまとまりがあるようです。
いわゆるファッション系は年齢もあってか,興味があまりありません。
そして商業誌丸出しというか、時計などは流行づくりが丸見えです。
私がプロとしての眼鏡などは
知識不足どころか誤記の多さには呆れています。
オーディオ・ビジュアル、さらにPC関連雑誌などは
まったく時代遅れであり、
オーディオなどは連載をしてみてすぐにその雑誌が
商業誌ゆえの哀れさで自分から連載を辞めました。
車などは、もうほとんど興味がわきません。
今、興味は専門誌である万年筆や鉄道関連程度です。
もっとも専門であるデザイン関係誌は、
国内外が時代遅れ甚だしくて、全く読みません。
結局は、インターネットでのサイトの情報が時間対応しています。
新聞?はもう定期購読しなくなって10年にはなるでしょう。
ファッション系などでは、
やはり定番的なブランド系雑誌はグラフィックス的には優れています。
雑誌情報では何が欠落してきたかということになります。
多分、三つあるのだろうと思っています。
一つは編集人としての職人魂でこれを伝えようという程の専門性が大欠落、
一つは雑誌ジャーナリズム思想などもう喪失しています。
逆に私が凄いと思っている万年筆などはまだまだ学べる時代性があります。
一方、眼鏡など専門性の大欠落には、腹立ちを覚えます。
これはオーディオビジュアルや車などは、
ジャーナリストや評論家が居ないのでしょう。
先般、教え子で大新聞の記者に、
「ジャーナリズムって、一言で私に伝えなさい」と聞き返したところ、
半分だけ応えました。
私は、ジャーナリズムはどんなジャンルであれ、
情報の市井的な日常で、権力それは商業的な圧力を、それこそ、
「ペンは剣より強し」による情報編集力での教示性だと答ました。
すでに私はもう老年ですが、とりわけファッション性は、
「モードの体系」を超えるほどのジャーナリズムを求めています。
そして
私自身の日常の編集力を生み出すジャーナリズムは失いたくありません。


目次を見る

『英文の日本文化百科辞典も見つかった、その思い出』


   


     9月 9th, 2015  Posted 12:00 AM

書庫からはなんとしても見つけたかった
英文での日本のいわば百科事典も見つかりました。
これをなんとしても手に入れようと思っていたのは、
米国でApple社での仕事、
そのプレゼのために必要だと思っていたからでした。
ところが、どうしても2巻が見つからずに
探しまわりました。
それは一番なんとしても調べあげて、
徹底的に知りたかった項目がその2巻にありました。
すっかり忘れていた項目には、
ポストイットが色褪せて張り付いていました。
それは明確に、仏教、道元、曼荼羅には、
確かにその当時には「Mind Top」というネーミングであり、
3×3で9つの金剛界曼荼羅がデザイン表現意図でした。
まだ、Appleがノートタイプの開発に入ったという
そんな噂しか知りませんでした。
私の提案の骨子は曼荼羅であり、その曼荼羅の仏教と、
さらには自分のふるさと永平寺と道元を
デザインの背景だと絶対にCEOであったジョン・スカーリー氏に
話さなければと思い込んでいました。
スカーリー氏は実際にはCEOではなくて、Chief Listenerであり、
この理由を知っていた私は
Dream Designerという名刺を作成までしていました。
そして、英文での曼荼羅の大きな図鑑も持参しお土産にしました。
なんとか下手くそな英語で曼荼羅を伝えて、その図鑑を差し出したら、
彼の社長室の本棚でも際だったところに同じ曼荼羅図鑑がありました。
ノートブックPCは、デスクトップ、ラップトップ、ハンドトップから、
最終的にはマインドトップが私の狙いで、その裏側の仏教、
特に道元そして曼荼羅を懸命に話した思い出が
すぐにこの百科事典で浮かびました。
そうしたらなんのことも無くスカーリー氏は、仏教、そして曼荼羅、
いずれにも詳しかったことを後に知りました。
そして、プレゼが終わると時間が延長になり、
スカーリーが呼び出してくれた人物はアラン・ケイでした。
私が夢かと思う出会いで、
同じ内容、仏教、道元、曼荼羅の話でプレゼしました。
丁度Apple社はコードネーム「ASAHI」開発の現物を見せてもらって、
「なぜ君はキーボードが奥にあって
手前がスクロールボールになるのですか」と聞かれました。
この英文の日本文化の百科事典も、やっと書庫で10年ぶりに出会い、
そして自宅に持ち込んでいます。
これで、英語での日本文化紹介には最適な百科事典です。


目次を見る

8月8日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

8月8日 大安(丙辰)

情報社会化の中でのモノの体系は、
メディアで価値操作される形式と内容の形態化がデザインである、
という現代的定義が可能である。


目次を見る

『愛着と愛用がデザインの全体価値である』


   


     7月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

私は心臓を痛めて以来、薬を手放せません。
あるとき、出張中に薬を持参していないことがありました。
そのとき、たまたま教え子が自宅から、薬を届けてくれました。
その教え子が就職した年に、
彼は選び抜いてくれたB&Oの薬入れ(今は無い?)をくれました。
この心遣いにびっくりし、彼のデザインセンスは確かだと
思ったものです。
以後、いくつかを買いそろえて、絶対に持ち歩くことにしています。
除細動器も2度手術をしてから、薬の量は本当に減りましたが、
このケースには、アレルギー対症薬やどうしようも無い痛み止めを持参。
自分が、モノのデザインに最も関わっていて、
そのデザイン効果は、モノの形態言語=designed languageである、
モノのデザイン表現の用途内容が最も大事だと思っています。
それはモノの用途への使い勝手と使い心地です。
使い勝手と使い心地が日常的なモノは、「愛用」と「愛着」に、
確実に結びついているかどうかです。
私が工藝品というのは、愛用と愛着するモノのことだと考えています。
それこそ、文豪が使っていたインク壺とか、万年筆、
時には頭髪ブラシなどがあります。
だから、デザイン審査での最終決断は、愛着心が湧くモノだろうか、
必ず愛用されるだけの、望ましさ+好ましさ=価値があるだろうかです。
そういう意味では、たとえば文房具品には、
愛着心や愛用出来るだけのデザイン効果が全体価値かどうかです。
決して、デザインは付加価値ではないということです。
付加価値でしかないモノには、愛着性も愛用性も生まれません。


目次を見る