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Posts Tagged ‘出版’


『10年ぶりに書庫奥で見つけ出した日本語辞典』


   


     9月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

自宅の地下に倉庫=書庫と駐車場があります。
正直、大阪に来てこの10年、書庫に赤坂・福井・名古屋と、
ずーっと持っていた辞典シリーズがありました。
しかし、どれだけ探しても見つからず、
この「ことば」の意味を徹底的に調べたいという時は、
この辞書には解説が必ずあるはずと思ってきました。
先日、ワイフとスタッフが書庫の最奥部に行き、
このシリーズ全巻がそろってあるのを見つけました。
本当は、自宅には書籍を最初は一冊も置かないことに決めていました。
そして、もう購買することも辞めようとぐらい思い、
相当に名古屋時代に処分してきましたが、
書籍は毎月増え続けています。
なんとか電子書籍にすべくと思っていますが、なんとも書籍のページ感覚は
私には捨てがたくて、PAD内よりも本そのものに戻ってしまいます。
そこで、おそらく日本語辞典となれば、広辞苑・大辞林・
そして明解国語辞典ですが、
これらはすでに電子書籍で十分、けれどもこのシリーズは、
日常の傍らに置いておきたくて、
地下から持ち上げて自宅に配置することにしました。
自宅には書籍があっても読み終われば地下書庫行きルールを辞めました。
当然にワイフの反対がありましたが、
スタッフを巻き込んでこれは自宅にあるべきを主張しました。
私がこれまでも「ことば」に拘ってきたのは、
デザインは「かたち」を追求しますが、
建築界ほど「ことば」はありませんでした。
そのことが若いときから、
「ことばとかたちの相対論」が生涯のテーマでした。
それから数冊の本を書き出版もしました。連載記事が本になりました。
私は日本語のことばひとつひとつの原意が気になって仕方ありません。
漢字はなんと言っても同郷の白川静氏、
そして相反していた藤堂明保氏を確かめます。
さらに奥深い意味性ではこの辞典シリーズに向かわなければなりません。
この10年、どれほど書庫を探したかわかりませんが、
書庫の最も奥にこれが収納されていたのです。
今、影干しをして自宅のシェルフを決めてこれを置いておくつもりです。
一冊毎に開けてみれば、なんとも辞書の香りがしてきます。
この匂い好きです。


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『ようやく出版されたDEO=デザイナーのあるべき職能観』


   


     1月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

私のデザイナー職能観はデザインの真意を主張してきました。
それは、CEO=Chief Executive Officerではなくて、
DEO=Design Executive Officerが書籍化されました。
これは企業経営に関して、デザインの職能領域、効果と効用が
私にすればやっと出版されたと思っています。
デザインは装飾や意匠だけでないことが経営視点で明確化されました。
私は47歳から大学人になってようやく20年目になりますが、
講義や講演の前には常に、デザインの誤解を枕詞として、
デザイナーはデコレーターではなくて、問題解決者であることを
語り続けてきて、いつの日か、私自身が書籍化をと考えてきました。
このブログの根底にも、私の作品から商品、
さらにはデザインでの形態設計から制度設計も問題解決論であり、
それはさらに難問の美学的な解決論での策略設計論でした。
したがって、最初にRise of the DEOが出版された時に、
ようやくか、それなら内容はと思っていましたが、
原書に競べて、翻訳本のグラフィックはやや残念だと思っています。
正直内容とグラフィックの関係を取り違えているのかもしれません。
さらに、原書でも、制度設計論の記述には不満が残っています。
これまでデザインがモノのデザインからコトのデザインと言われ、
コトからモノのデザイン、付加価値論を離れて全体価値になりましたが、
イノベーションや感性基本のデザイン論だけでは駄目だと思います。
デザイナーの職能団体は未だに私は相当に遅れていること甚だしくて、
即納団体そのものが、時代遅れを起こしていると断定しています。
デザイナーには確かにデザイン技能が必然ですが、
もっと学際化されるべきであり、学際化対象の学域には、
その技能、スケッチからレンダリング技能は当然であり
最近では3Dプリンターが必須を、付加するべきだと思いますが、
私は直感として20年前に光造形を大学人として積み上げてきました。
この経験値にはまだ光造形での発展形には至っていません。
こうしたデザイン思考・デザイン技術の総和体・統合体が
「コンシリエンスデザイン」になっているとようやく断言できます。
この書籍はその一つにはなると思っています。


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『出版を「モノのデザイン」にしていくために』


   


     5月 25th, 2014  Posted 12:00 AM

モノが出来る=商品化されると嬉しくてたまりません。
だからやはり書き残しておきます。
製品開発としての出版をじっくりと自分領域で考えてきました。
今では、中国でとても安易な出版が氾濫してきています。
いわゆる作家として、美術家・建築家・デザイナーなどの、
作品集、その装丁を見ると、作品と同等な仕上がりは必然です。
しかし、作品が出版されるなら、出版製品としては、
日本の出版市場のこともあってか、もの凄く貧相になっています。
このような製本でよく満足できるものだと私は信じられません。
私はなんとしてもそれだけはプロとしてデザイナーとして、
絶対に新たな手法やそのための新治具、新器具までが必要でした。
発泡インキ印刷は、その膨らみの経年性はまだまだです。
乾燥をさせて多重のインク重ねでの輝きが必要です。
書籍函はその組み立てからも正確な仕上がりが失われています。
書籍専門家ならスピンといわれる栞ひもも二本必要でした。
さらに、3D写真は最近はとても進化してきましたが、
その3D写真についても、幾たびもテストをしました。
ところがこれを表紙それも布貼りに落とし込み圧着が問題でした。
表紙裏に大きな影響が出てしまうこと、
写真圧着の温度と接着剤に経年変化が起こらないこと、
書籍函との密接性も最近はいい加減ですが、私には無理でした。
しかも、書籍のカラー印刷インキと紙質指定も、
すべてが生産原価にひっかかりました。
私のモノづくりは、当然、儲けていただきたいのですが、
モノの本当の良さを表現するにはコストはかかりますし、
かかり過ぎてしまうことは否めません。
どうしても手造りでの精度を求めてしまって、
配本が遅れていることをお詫びします。
でも、書籍づくりの「手本」を目指したことは自負しています。

『やっと4冊目の作品集が出来上がった!』


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『「舞の霊性」出版とともに思い知る』


   


     1月 20th, 2014  Posted 12:00 AM

日本舞踊家・西川千麗女史のご逝去記念誌は、
彼女の舞のごとく、とても美しい装丁で届きました。
私も彼女への一文を記述しました。
私と彼女は「十牛図」で充分に論議し、二人で講演までしました。
彼女は癌と自然対峙のままに生涯を閉じられました。
「舞の霊性」は千麗會のみなさんによってまとめられました。
このいわば記念誌は「十牛図」をひとしお再考したものでした。
ところが、今年早々にロボット学創設者である森政弘先生から
重大な講義を拝聴しました。
そして私がこれから「華厳経」を学び直そうとしていることで、
先生自らのメールでご指導を受けました。
重要経典は全255巻を教えていただきました。その起点、
1歓喜地・悟の喜びにあふれている境地
2離垢地(りくじ)・道徳的に洗練された境地
3発光地・智慧の光が現れる
4焔慧地(えんえじ)・その智慧がさらに増大する
5難勝地・他のいかなるものにも支配されない
6現前地・一切は虚妄でそれは心のハタラキに他ならぬと知る
7遠行地(おんぎょうじ)・涅槃にも生死にも自由に出入する
8不動地・目的にとらわれず、心のハタラキが自然に湧き出す
9善慧地・仏の秘密の法蔵に入り不思議な大力を得る
10法雲地・無数の仏が大法の雨を降らしても受け止めることが可能
そして、十地全体を通して、菩薩は、自己の悟と同時に、
他を悟に向かわせるという利他行を修すべき。
以上を教えていただきました。
そして、この10項目は、まさに「十牛図」と所記能記しています。
私はあらためて仏教の奥義の繋がりを知らされました。


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「3D-PRINTING阪大イベントで間に合わせてもらいました」


   


     7月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

阪大でのMAKERS SUMMITで「3D-PRINTING」をいただきました。
「3D-PRINTING」の現在は、このイベントのセッションにおいて、
国内では要の人たちが参加していただきました。
光造形がわが国に入ってくる前から、
最近の過ちを是正する肝心要の人たちが集まりました。
彼らが阪大・吹田キャンパスに集まってもらえたことは、
これで欧米に正しい方向を日本が先導可能だと私は決心しました。
この日に間に合うように、私はiPhoneケースでをいただきました。
しかもケータイには、「印鑑と呼び笛」を危機対策には不可欠と、
言い続けてきたこともあり、背面が鎖状で、
側面にも工夫され名前入りのケースです。
このケースはTOKYO MAKERSの人によって、
それも、この「技術」が無ければ造れないケースです。
同時に、登壇者の石黒教授も、ブレスレットをもらって、
日本ならではの「3D-PRINTING」方法を知ってもらいました。
石黒教授は、「アンドロイドロボット」では、
私と同じようにNewsweek誌が選ぶ「尊敬される日本人」の一人です。
また、昨年は二人で忘年会をし、新年会もしました。
私はラピッドプロトタイピング初期からこの実務を見てきました。
それだけに、米国ブームでの出版された元の書籍から、
大きな間違いを発見しています。
その僅かをこのイベントでは紹介しましたが、
すでに、いくつかのプロジェクトを開始しています。
もちろん、このイベントではその他のキーマンとも話ができました。
私が気づいていることは、確実に欧米は知りません。
「3D-PRINTING」以前に私はトポロジー思考を「空間論」として、
その実例を追いかけてきましたからこそ考えついています。
それは、素材と機器そのものをデザイン設計するつもりです。
たかだか、ブレスレットとケースかも知れませんが、
米国流とは全く異なる手法を日本が、阪大が提示じていきます。
各セッションでは会場からも質問をいただきました。
ある質問に対して、石黒教授の応答は見事でした。
「哲学です。」という答でした。
私自身、プラトンが迷いに迷って正解を決定するのは、
「どう考えてみても、この答が美しい」と言い残したことです。
私はデザイナーという職能の根本は「美しい」ということ。
これだけを確信して生きてきました。


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「同胞を救出せよ=わが国の最大的政治問題である」


   


     11月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

この本の出版を知った時、
私はとても困惑し、この哀しみと向き合えるだろうかと思いました。
そして、最初の書き出しから涙になりました。
10年という月日が過ぎたからということを
蓮池さんは淡々と記述していますが、
これは日本人全国民が読むべき必読本だと断言します。
ノンフィクションにあらず
レポートにあらず
ドキュメントにあらず
手記などという軽さなどありえず
私たちが、どう嘆き、どう同情し、どう憤慨しようが、
あまりにもアポリア過ぎる問題です。
このような生涯を強いられた人たちが現実に存在し、
そして、私たちが何もできないことをまず知ることが重大です。
日本は、自然災害問題・領土問題・沖縄問題から、
敗戦処理問題の全てを、拉致被害者に覆い被せているのです。
日米安全保障条約はあってしかるべきものかもしれませんが、
この問題解決には何も効力がありません。
だとするなら、政治判断・政治決着を超越してやるべきことは、
北朝鮮との対話や支援などしても、あの国は狂っています。
となれば、もはや政治決断が必要でしょう。
そういう意味では、
10年前、小泉首相はともかく蓮池さんやご家族を取り戻しました。
そのことこそ、国のリーダーの義務だったと思います。
私たちには「何もできません」。
それだけに、まず、蓮池さんのこの本を克明に読了することが必要です。
私は、「本」というメディアの力をあらためて再確認しました。
そして、これほど胸が締め付けられて泣きました。
私も交通被災で車椅子になるという人生を余儀なくされましたが、
それに比べたら、
拉致された方々、そのご家族の想いは想像を絶しています。
未だに、特例法案が決まらず、大学には交付金は来ていません。
地方交付金も届かない現政権を、
「政権交代」と歓喜したポピュリズムに二度と巻き込まれてはなりません。
現在、最大の政治課題は「拉致問題」の解決であり、
この解決が成されなければ、
私たちは同胞を見殺しているということを再認識すべきです。
この本は失礼な言い方になるかもしれませんが、
宗教書であり哲学書であり、
そして、何よりも政治学の教科書であり、
私の感情は押しつぶされています。
蓮池さんがここまで書いていただいたことに深く敬意と感謝をし、
そして、「祈る」ことしかできないことを謝ります。


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「『松丸本舗主義』・松岡正剛へのアフェクション」


   


     10月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

「松丸本舗」といういわば実験書店が閉店になりました。
その仕掛け人というか引受人だった松岡正剛氏は、
その開店から閉店の経過と
「書籍文化」・「書店の時代的な存在性」を「主義」として、
その報告を出版しました。
「主義」とすることが彼ならではのオリジナリティだと思います。
すでに読者諸兄も実感と感慨があるはずと推察しますが、
すでに「活字・書籍・本」は、
特にその流通形式性を時代から剥奪されています。
そんな中で、「松丸本舗」という新たな書店形式は、
3年間、日本での存在性を訴求してきましたが、
商業主義の本領からは外れる結果になりました。
彼から「松丸本舗主義」を出版するから一文寄稿の依頼がありました。
その時の感慨を、私は書籍化されてさらにその深みに身を沈めています。
正直、書籍流通の大革新性は、「活字を抹殺」していますから、
この書店形式で支えられるとは私は思っていませんでした。
それはすでに私が「本」と対峙し対話し対決し融合化するにあたって、
現代的な流通系から書籍をひろいあげることは
皆無になってきたからでした。
むしろ、私は松岡正剛と書籍の体系に、
わが身を委ねることへのアフェクションを人生体験、
そのものにしてきたからです。
もし、この「松丸本舗」が書籍流通を変革ならしめたとするなら、
その事態こそアトピーだということです。
しかし、膨大な書籍知ある天分的な松岡正剛には、
この時代認識の後片付け的に「実験店舗」は、
時代の中での書籍意識の再確認を日本人に教示してくれたのです。
私はこれを「エピスメーテー」と表現しました。
ここまで、見せつけないと知的であるはずの我々も、
自覚性を喪失していたと言っても過言ではないでしょう。
私たちは気づいていることさえ忘却させられるほど、
「書籍=活字」に対しては痒み無きアトピーになっています。
「松丸本舗主義」は、その重大な警告だと受け止めるべきでしょう。
それは、「活字=書籍」に限定されているわけではなく、
「活きる術としての必需品全て」が、
世界観の中に浮遊しているのが現実だと私たちは常時、
アトピーになっている自画像に見入るべきだと考えます。
幸いにして、私は「歩くことができません」、
だから「走ることなど不可能」です。
このことを私は常に突きつけられているだけに、
「自覚すべきこと」を忘れないでいられるのでしょう。
もし、「松丸本舗」という書店形式の提示を失敗と言い切るなら、
それは、自分自身を喪失している、
まさにアトピーにも気づかない活きている死者だということです。
私は、その主義という言葉に集約している松岡正剛には、
アフェクションを再度捧げた次第です。


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「竹刀か、木刀か、喧嘩の手段にも剛柔あり」


   


     8月 26th, 2012  Posted 12:00 AM

一人っ子の少年は、
兄弟のいる少年たちにしばしば「虐め」られていました。
大抵は、兄たちがその少年を虐めて苛めるのです。
少年は、とても力で対抗はできませんし、
泣くわけにもいかず、仕返しを考え抜き決意をしました。
(そうだ、よし夕食時に殴りこもう)と考え、
自宅にあった父の剣道用の木刀を夕方時に持ちだそうとしました。
母が必ず、木刀を持ってどこにいくのと聞いてくれるだろう。
そうしたら、理由を言えば、母は止めてくれるし、
いじめられていることも告白できる、と。
木刀を持ち出そうとすると、
その母は、言いました。
「木刀だと、本当に怪我をし破壊をするから竹刀にしなさい。」
そう言って、木刀を取り上げられて、竹刀を渡しました。
少年は行かなければならなくなりやむなく兄弟の家に行きました。
そして夕食時にテーブル上のお皿というお皿を割りまくりました。
大変な騒ぎになりました。
以後、その少年は、
「何を仕返しするかわからない男だ」という噂になりました。
完全な自己防衛ができる身分になってしまいました。
帰宅すると、母が言いました。
「やるだけのことはできたの、気がすんだの」
少年は「・・・・・ん」とだけ答えましたが震えていました。
当然、その家族は血相を変えて怒鳴り込んできました。
母は、
「弁償をさせていただきますが、
兄弟そろって息子をいじめるのは辞めていただきたい。」
少年は震えが止まりませんでした。
母は父にその出来事、事件を告げました。
父は、
「やっつけるにも手加減がいる。
竹刀で物だけ壊したから許してやる。人には竹刀を向けるな」と。
その少年は喧嘩のやり方の手段ということを考えるようになりました。
竹刀は柔らかい、木刀は剛過ぎる、
だから喧嘩の手段は論理的にも柔が剛を制するということでした。
やがて、その少年は「喧嘩師デザイナー」と呼ばれるので、
「デザイナーは喧嘩師であれ」までを出版しました。


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