kazuo kawasaki's official blog

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「生涯最も使うアルファベット『K』」


   


     6月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

日本人は漢字とひらがな・カタカナを使います。
さらにアルファベットも漢字同様、アルファベットを使用。
その中で最も使うのは名字でしょう。
私はふるさと福井の「F」とデザイン「D」も、
本当によく使ってきました。
最近あらためてアルファベット「K」を見つめ直しています。
これまでもアルファベットも、企業ロゴタイプや商品名でも、
様々に使ってきましたが、アルファベット「K」について、
まとめておこうと考えます。
アルファベットは、常識として、発音記号的であり、
表音文字という理解がしみ通っていますが、
本来は、ヒエログラフやシナイ文字。
さらにはヘブライ語、ギリシア文字の原意から、
その「かたち」は由来していますから、表意文字どころか、
象形文字が源流と言っていいでしょう。
アルファベット「K」は、11番目の文字であり、
発音記号的には8番目の子音文字であることは確かです。
発音としては無声軟口蓋破裂音として存在しています。
しかし、象形文字として、
このKという形態には、手の平=掌(kaph)から、
「杯」・「溜め池」という具合に手の平を意味しています。
だから手術=chirurgieや手相占い=chiromancieなど、
ギリシア文字「手」=chiroの系譜がありますが、
もっと遡及すれば、Kはシュメール語「山」=Kur から、
仏語(角・堅さのイメージ)・ラテン語(革)まで拡大。
しかし、ヒエログラフ的には、砂丘や籠を象形し、
結果、「大地・力・強さ」という意味にまで集約されています。
漢字も、象形文字からはまさしく表意文字が生まれていますし、
表意文字に意味の転化や拡大はいっぱいあります。
しかし、アルファベット「K」は、
意味の拡張よりむしろ集約されているように私は感じます。
「手」ゆえの強さや力が、
それは大地まで意味が拡大したのでしょう。
具体的に例示するなら「rock」に統合されているのが、
アルファベット「K」だと思っています。
私が正式なアルファベット書体として、
それは、「キャスロン体」と「フーツラ体」を
美大のレタリング実習として相当に学びました。
Kazuo Kawasakiという私の名前、
その先頭アルファベット「K」を生涯使っていくのでしょう。
だから、美しい形態を求めています。


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「防潮堤工事は土木工学ではありえず」


   


     12月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

大津波は海から襲いかかってきました。
その高さは想像を絶していました。
それよりも注目すべきは、押し寄せて来た時よりも、
「引き浪の力」がどれほど強かったかは
以前も書きました。
あらためて陸と海岸線での痕跡を見ると、
防潮堤の高さも当然ながら必要ですが、
バリア形態設計が誤りだったことを確認できます。
海からの大津波を受け止める力より、
引き浪でコンクリートは海側に歪んでいます。
この防潮堤に叩き付けられていた遺体が多かったと聞きます。
陸上では、道路路側帯のポールが地面に叩き付けられています。
それほど巨大で暴力的な力だと考えるべきです。
今回、土木工事の杜撰さも明らかになりました。
まさに土建事業と行政既得権の横暴さは罰せられるべきものです。
それは東京浦安地域の埋め立て地でも明らかでした。
液状化も手抜き工事そのものであり、
徹底した地盤工事の東京ディズニーランドはOK。
むしろ江戸時代の埋め立て地は大丈夫でした。
港湾工事が土木工学に頼ってきた制度設計そのものを再検証すべきです。
むしろ、港湾工事が土木工学よりも
海事工学・船舶工学が担うべきなのです。
港湾工学は海事システム工学をわが国は制度として受け入れていません。
仙台メディアテークという建築があります。
エレベーター・階段は、船舶工学の溶接技術で建造されています。
あの発想が一つのヒントになると考えます。
行方不明者は海に連れ去られたのです。
大津波で山に追いやられ犠牲となった方は、
高い樹木に留まって亡くなられました。
多くの行方不明者の真実、
生き延びた方々の証言からも海への引き浪の力でした。
したがって、
コンクリートの防潮堤設計は根本で見直すべきと私は考えます。
引き浪力への流体設計は海事工学であり土木工学ではありえないのです。
防潮堤は、大津波を受け止める形態と引き波力をも拡散させるべきです。
そこには新たな防潮堤と引き潮拡散の造形デザイン、
それが波動とのインターラクションデザインになります。
ともかく土木工学よりも、
海事港湾工学が制度設計の中心だと私は思っています。
これは、私自身が関西海洋教育アライアンスで
海洋デザイン戦略論」を担当してきた知識です。

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「若手デザイナーの観察眼・被災地へのまなざし」


   


     12月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

これは東芝デザインセンターから借りました。
東芝デザインセンターの社会システムデザインチームは、
いち早く、被災地調査に入りました。
若手デザイナーのまなざしがどこに向けられていたのかを知りました。
これはマスコミや写真ジャーナリズムとは全く異なる視線です。
どこからどこを見つめてきたかということが明白でした。
この写真はその一部ですが、
大津波は二度襲いかかっていたのです。
まず、海から襲いかかってきましたが、その力よりも、
引き潮となって海に津波がもどっていくときの力の大きさです。
バス停や案内板の脚棒が海に向かってグンニャリと曲がっています。
海から襲いかかったときよりも引き潮で海に津波が戻る力の巨大さです。
こうしたことを発見するまなざし力がデザイナーにはありました。
東芝は原発の復旧と同時に「復興計画」を同時進行させています。
したがって現地調査で「何を災害力」として発見してきたかが問題です。
私は、この調査チームがどこを見てきたかを知って、
デザイナーの視線の強さを知りました。
そして、この調査から「減災」というコンセプトが加えられました。
日本列島は自然災害にはとても脆弱過ぎます。
大地震大津波や山崩れ、大洪水、火山爆発などがいつ起きるか不明です。
したがって、こうした自然災害に向かっていかなければなりません。
そこで、すでに被災した結果の十二分な調査から何を学び取るかです。
デザイナーの調査チームが災害時に何が起こっていたのか、
その災害結果へのまなざしは大変に重要です。
私も東芝デザインセンターにOBとして加わり、
「復興計画」に参画していますが、
こうした若いデザイナー達が何を発見してきたかを知りました。
大津波の引き潮についても対策を考えなければなりません。
私は、調査チームのまなざしから多くの減災対策をつかんでいます。
3.11以後、日本のデザインに課せられたテーマ、
その大きさをあらためて噛みしめています。

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5月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 30th, 2011  Posted 7:58 PM

5月30日 先勝(乙酉)

制御するというのは、
力を小出しにしながら、
最終的には全力を果たせば、
最大の、あるいは最良の効果を
上げることになるのだ。

『デザインという先手』十分なる「先手」


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5月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 29th, 2011  Posted 10:00 AM

5月29日 赤口(甲申)

将棋やチェスでも、
次々と対戦相手の手を先読みし、
自分の力を分割しながら、
「勝てる」ように
戦略を行動に移していく。

これが、
「充分ではなく充分に」
ということだ。

『デザインという先手』十分なる「先手」


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4月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 26th, 2010  Posted 10:56 PM

4月26日 先負(丙午)

これ(力量)は、
自分に対する孤独さを真正面から
見つめる力だと思う。

『デザインは言語道断』力量


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4月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 11th, 2010  Posted 9:30 AM

4月11日 赤口(丙戌)

力を出すとは、
方向と
大きさを決定して、
作用点に位置する
自分という
存在を
確認することにほかならない。

『デザインは言語道断』姿勢


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『資本主義からの逃走』
「資本アイテムの再整理は、新たなイノベーションを誘発・4」


   


     4月 3rd, 2010  Posted 3:07 AM

Energy
仕事量とか、力の総称という意味は、
紀元1世紀頃だったという記録があります。
エネルギーの概念がまとまったのは、19世紀でした。
20世紀の極限的な破壊装置を稼働し、
戦争回避の抑止力を、エネルギーの極点としました。
それこそ人類がたどり着いたエネルギーの象徴でした。
現代では物質や物質系の能力の総称ではありません。
情報の力やその影響力までをレトリックとする言葉です。
このレトリックに政治バランスを思想化しつつ、
その賛否論に情報操作させるエネルギー論があります。
マスコミはこの問題に無関心という関心さで情報操作を支援しています。
それは駆動や発動や電動までの源泉=原動力まで意味しています。
したがって、その原動力の総称から、
発電体系によっての原動力という意味に収束させることが出来ました。
私が、「物質」・「情報」・「エネルギー」という三つを
資本アイテムとすれば、
エネルギーは、発電・電送・蓄電の総仕事量の原動力です。
資本としての原子力
そうなれば、
資本として、今世紀、エネルギーは「原子力」に焦点化できます。
この資本は、国際関係論の具現的な「武力バランス」という、
エネルギー独占やエネルギー制御と分配から、エネルギー開発技術力です。
その行使能力への制度設計=デザインが不可欠です。
「原子力という資本」、「資本としての原子力」を論ずることになるでしょう。
非難と全否定
ところがひとたび「原子力」となると、
議論以前に非難と全否定論が集中します。
「原子力」は「原爆」というとてつもない人類破壊装置なのです。
まして、日本はその「被爆国家」として、
ヒロシマ・ナガサキの体験から逃れることは不可能です。
私は、「原爆」技術と「原子力」技術は、一卵性双生児であって、
むしろ「平和利用としての原子力」という言い方には、
ある種のアリバイ的逃避と回避を嗅ぎ取ってしまいます。
さらに卑劣なのは、「原子力」には一切触れない、
これこそ、原爆幻想・原爆真実、両方へのトラウマ、
それを言い訳とした、「生」義務放棄だと裁決すべきでしょう。
このトラウマも幻想とは認めない、いわゆる非難反対派には、
厳然とした「知見知識力と公明な判断力」の欠如、
無知蒙昧さを指摘しなければならないでしょう。
私は、たとえば、風力発電、太陽光発電を
一つの良識としては、完全に認めます。
が、これらは単純な良識であって、良識以上ではありません。
APORIA
「原子力エネルギー」という資本への問題解決は、
現在の「生ある人類の責務」認識と考えてきました。
だから、この大問題解決は、
アポリア」から解放させるエネルギーが必要です。
これこそ、レトリカルなメタファーという知恵だと考えます。
原子力問題をアポリアとすることこそ、人類の原罪かもしれません。
確かな頭脳集積での問題解決は緊急的な必然です。
その必然性を直視して、
国際的な制度設計のコンセンサスとコンプライアンス策定も
緊急的な問題解決が希求されていると考えるべきです。
この緊急的な希求性を「知的判断」するためには、
物質的な「原子力要素」と、情報的な「原子力要因」という、
科学と技術の両知識の習得が必要です。
エネルギー開発とその存続への「原子力」非難者と全否定論者には、
やがて、習得放棄での空無性こそ、
自己の「生」放棄であることが自明となるでしょう。
上記の論述への非難は、
私否定という「原爆」でもあるのです。


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2月25日Staff Blog


   


     2月 25th, 2010  Posted 11:29 PM

2月25日Staff Blog

2/26 「デザインで世界を変える」
チャリティー講演会@国際文化会館
のための制作追込み中の
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)

デザイナーという職能家として
何ができるのか、すべきなのか。
Dream Desinerと称し、Design a Dream!、
夢を具現化する、
かたちにするのはデザインであると
提唱するBOSSです。

モノで語り、ことばで、理論構築、
語り尽くすスタイル。
デザインの力をお楽しみください。
迫力あるプレゼも?


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『資本主義からの逃走』
 「相観論的な政策デザインをめざす」


   


     2月 13th, 2010  Posted 10:00 AM

from
Association
to Formation
DynamicsとFormationを先行させてしまいました。
日本は群集・アソシエーション社会から
脱出する政策が不可欠です。
群系・フォーメーションへと転換するべきです。
日本人は群集的な平準化が平等観になっています。
群系というのは格差性を肯定することかもしれません。
でも、この格差というのは、可処分所得差ではなく、
能力貢献度の差異性を認め合う社会化です。
現在は、小学校でも「主人公が数人」という学芸会。
マスコミ、特に新聞も、スッパぬかれることを、
お互いに制御して、平準化です。
これは、国としての「活性化」を阻止しています。
能力差はイコール、学歴でもなければ、
偏差値でもありません。
ともかく、群系という機能分担力の力量を、
相互的・相補的に認め合う新たな「競合性」を
育んでいく社会構造です。
だから、私は、地方分権は反対です。
なぜなら、地方の「やる気無し」公務員で、
地方の活性化など、できるわけがありません。
もし、地方分権にするなら、
「科挙」必要!
公務員選抜は「科挙」のごとく、
きわめて難しい選抜試験で、公務員所得を倍増します。
そして、常に、任期制での評価をしていく
新たな主義、これは民主主義ではなくなるでしょう。
わがふるさとを思うとき、
市職員・県職員の能力から首長能力は、
優れてほしいのです。
大阪に住んでいて、知事の構想は、議員や公務員に
阻まれている気がしてなりません。
「それはファシズムだ!」って言う公務員は削除です。
群系・フォーメーションには、
相当な、能力主義・意識改革・創造力が必至です。
それを政策デザインと呼びたいと思っています。
今、日本は、根本的な「変革時」にあることは、
間違いありません。


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