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Posts Tagged ‘医療’


「博士号学位取得論文が一段落」


   


     9月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

昨日、いつものICD(除細動器)の定期検診を受けました。
エピソードと言われている心臓への機器異常は皆無でした。
良かった、というよりも、
今年度から博士論文指導では、
特に、Skypeで二人の学生はもとより、
研究室の学生までを罵詈雑言の限りでした。
「バカモン、何をやってる!」何度、怒鳴っていたでしょうか。
しかし、何も心臓異常は起こっていませんでした。
「パワーハラスメントでもなんでも構わん、
ヤレと言ったらやり通せ、その資料も読んでないのか」、
これをどれほど言うかというより叫んできたかわかりません。
『造形言語と形態言語によるデザイン造形の数理的解釈論の考察』。
『糖尿病を対象とした医工連携の問題解決による先端的デザインの研究』。
この二つが二人の学生それぞれのテーマでした。
デザインと言語的な解析を記号論と数理科学的な分析を試み、
もう一方では、
480万人の糖尿病患者はやがて2000万人と言われる健康問題へ、
医工連携への現実的な解決から未来的な解決のデザイン提案研究でした。
ようやく、私の研究室テーマである、
先端的かつ学際的なデザイン手法と医療系との融合を
二人の学生が専門家として、博士号学位論文にまとめました。
まだ、これからは博士前期課程の学生、その修士論文指導が始まります。
夜中であろうが、常に、
Skypeは繋ぎぱなしで私の怒号を彼らに与えてきました。
少なからず、私のデザイン活動はそろそろ幕を下ろす季節になりました。
私の社会的・教育的役割は、
これまでの知識と経験をできる限り語り尽くすことになっています。
これからこの準備原稿は
3名の副査教授のこれまた厳しい検閲が始まります。
それは主査である私自身が詰問されることです。


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「USBからワイヤレス化と電磁波空間」


   


     9月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

明確に記憶していますが、
レガシーインターフェイスからバスインターフェイスが汎用化される。
こんな情報を1993~4年頃に、
当時、EIZOモニターをデザインしていましたから、
私はとても興味と期待を持って待っていました。
USB=Universal Serial Busになって、
本当にPCはじめデジタル機器のコードコネクションは便利になりました。
最近は、miniUSBやmicroUSBでコード・マネージメント、
これはEIZOブランド商品で私が提示しましたが、
おおよそ、この写真にあるようにほぼ5種程度でいいようです。
無論、
私にとってはオーディオ用のUSBコードの進化に最も注目しています。
USB性能の進化は、転送速度と機器間の相性問題があります。
だから、安易なコードがUSB3.0といえども、私自身は信用していません。
オーディオ用のUSBケーブルが、miniやmicroになり、
しかもノイズ対策が完備してほしいと思っています。
機器設計デザインの立場だと、
microUSBが基盤実装上でも効率的なレイアウトが可能です。
つまり、データー転送の信号ケーブルと電源コード、
ローパワーデバイスとハイパワーデバイスだけでなく、
さらに、
各種機器間のコネクションケーブルになってほしいと思っています。
しかし、将来は、USBコネクションもワイヤレス化が望まれますが、
これも空間の電磁波問題は、まったく見通しもついていません。
私としては、このUSB進化の系譜が
そのまま「医療機器」のコードコネクションをまず完成させ、
そのワイヤレス化、当然電力デバイスへの進歩であり、
この時の電磁空間が与えるであろう人体への影響です。
私には、ICDが身体に埋め込まれていますから、
電磁波空間は生死に関わっています。
明言すれば、
電磁波空間も放射能空間も同次元・同位相なのかもしれません。
考え過ぎかもしれませんが、
それでもUSBは大きな進化だったことは間違いありません。


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「自然との喧嘩・調和などありえない」


   


     8月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

私はずーっと「自然との調和」などありえないと考えてきました。
3.11は1000年に一度、
現代を共時共有している私たちにとめどないショックを与えました。
今でも、あの大津波の映像を見ると胸がつまります。
昨日、中川防災大臣が「南海トラフ大震災」の予測を発表しました。
私は「までい-Project」を3.11直後からデザイン計画を書き上げ、
石巻市にプレゼンもしました。副市長は派遣された若手官僚でした。
この計画は相当に壮大ですが、やり抜かなければなりません。
石巻プレゼン後、中川防災大臣にプレゼンしたとき、
すでに、中川防災大臣直轄での
「南海トラフ予測会議」は20回目に及んでいました。
「南海トラフ大震災」は予知ではなくて、
すでに予測値が最大死亡者32万3000人までがシミュレートされています。
私自身も大阪市民の一人ですから、大阪市は7700人の死亡者予測です。
私の自宅マンションも8Fまで津波水害があると言われています。
結局、大震災が南海トラフという地震断層に、
東海・東南海・南海と三連続・同時ということです。
日本列島はコンニャクのような地盤です。
この地盤の上の自然と私たちは共生していく運命にあります。
「自然との調和」などはありえないのです。
ということは、自然との喧嘩が待っているのだ、とすら私は思っています。
自然相手に喧嘩なんて不可能かもしれません。
だから、私は、減災・防災・救災というレベル設定をしています。
私が考えている「までい-Project」では、
「人工地盤デザイン計画」と
「制度設計としての医療環境デザイン」を進めています。
「危機管理デザイン賞」の創設もその一貫でした。
自然相手の喧嘩は、喧嘩への志と態度です。
この志と態度に「知恵としてのデザイン」で
立ち向かいたいと考えている次第です。


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「『危機管理デザイン賞』は ‘ヘルメスの杖 ‘をシンボルに」


   


     8月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

以前、ここで「アスクレピオスの杖」を取り上げました。
危機管理の象徴をどうすべきかを悶々としてきました。
案の上、「ヘルメスの杖」についての記述にも、
感想としての異議をいただきました。
これは、米国陸軍・医療部のマーク(X)について、
喧々諤々の世界的な論争があった当時と同等だと思いました。
あくまでも「アスクレピオスの杖」は、
医学のシンボル(A)ですから、
ルーベンスの絵画としても残っています。(B)
したがって、WHO=世界保健機構はこのシンボルです。(C)
救急車のシンボルはほぼこのマークが普遍化しています。(D)
日本では、赤十字社の救急車のみ赤十字です。
医学や医療は「アスクレピオスの杖」で
杖に蛇が一匹という象徴は歴史的コンテクストです。
ところが、杖・蛇が二匹、そして鳩の羽によって、
「ヘルメス」の活動はスパイ的な泥棒行為まであり、
医療行為や、通信、取引など統合性が「ヘルメスの杖」となります。
私はもう一度、ギリシア神話を基準に、
ヘルメス学と呼ばれる知性確認の体系に没頭しました。
「危機」はギリシア語ηκριδιδ=Krisisが原意語です。
この意味は、「決断」です。
ラテン語になっていくとderisisです。
これは「決定する・選別する」というのが「危機」となり
Crisisに連続します。
Riskに至るまでの、「危機」・「危険」は、
言葉のコンテクストの根底には、生命を護り合うということが、
おのずとと思想観には
「平和」の概念が入ってくることになります。
切手やメダルなどの応用事例も集めて検証しました。
そこでの発見は、軍事的危機というのは、
紛争の解決=平和への希求がありますから、
日本の防衛医大(Y)も「ヘルメスの杖」を採用しています。
私はヘルメス学体系全体には
錬金術師が水銀を医療行為にという伝説も認めて、
「危機管理」は統合的な営為とみなすことで、
「危機管理デザイン賞」シンボルに引用したわけです。
さらに、「ヘルメスの杖」は拡大して、
ビジュアル表現要素にしていくつもりです。


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「どちらの『杖』を選ぶべきか、医学のシンボル」


   


     7月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

先般、「ヘルメスの杖」を紹介しました。
そうしたところ、FBのFriendsのお一人から、
ヘルメスのシンボル性について、ご指摘を受けました。
私も選択には大変に迷った経緯があります。
ギリシア神話に戻れば、
二人の人物が登場します。
ヘルメスであるべきか、アスクレピオスであるべきか、
ということに行き着きます。
アスクレピオスはまさしく医学のシンボルということになります。
それは、ルーベンスが描いた絵には、
アスクレピオスが一匹の蛇を携えています。
したがって、医学を専門的な医療行為ととらえると、
必ず、一本の杖には一匹の蛇が描かれます。
ギリシア神話にさかのぼれば、
「アスクレピオスの杖」が
医学をシンボルにしているということになります。
ところが、アメリカ陸軍が医学を医療として、
その目指すところをさらに拡大したときには、
「一本の杖には、二匹の蛇と羽です」。
これは鳩の羽で医療はたとえ軍事であっても、
究極は平和を表すということで、「ヘルメスの杖」になります。
そうした指摘があったときから、
ギリシア神話での二人の役割を再確認しています。
この二本の杖=シンボルについては、
やはり相当な議論がありました。
たとえば、ヘルメスには商売や泥棒という話もあります。
しかし、ヘルメスは錬金術師ゆえ水銀を医療にも使用したとか、
交通通信まで彼の役割まで広範囲ということのシンボルになっています。
しかし本来、医学はアスクレピオスに限定されるということになります。
その代表が、国連マークと救急救命士マークには、
「アスクレピオスの杖」になっています。
私は、通信から医療や安全性までを考慮し、
「ヘルメスの杖」を選びました。
ちなみに、日本の防衛医大のシンボルは「ヘルメスの杖」です。
私は、あらためてギリシア神話などからのシンボルの引用や借用には、
本当に慎重でありたいと思っています。


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「書くための万年筆の真の意味」


   


     4月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

「衣・食・住」は日常生活の基本です。
私はこれに、「医・職・趣」を付加します。
衣食住は文明です。
着て食べて住まうことで人はまず生きることができます。
そして医療・職業・趣味は、まず健康でありたい、
職業を持って社会での役割を自己確認します。
その上で、自分なりの楽しみとしての趣味を持つことで、
生活は文化性を帯びるというのが簡単な私なりの解説です。
私はすでに40年デザイナーという職業を持ってきました。
しかし、医療に関しては車椅子であり心臓障害を持っているために、
いつも不安感を持っています。
私の文化観は常に揺らいでいるのでしょう。
それだけに「趣味」の世界に没頭しているのかもしれません。
とりわけ、文房具、それも「万年筆」には中学時代から憧れがありました。
小説家になりたいと思い出したのが中学時代、
それも万年筆と原稿用紙への単純な憧れがあったからです。
最も、万年筆を収集し出したのは、40代に入ってからでした。
おそらく万年筆のコレクションは相当になりました。
だから、もうこの程度で辞めておこうと思いつつも、
最近、アウロラの新製品(写真)をやっぱり手に入れました。
だからその類いの雑誌も精読するほどです。
ただ最近は、万年筆=「書く」ということには二つの意味を求めています。
一つは、「書く」ことと「描く」こと、
結局スケッチを描くのに最適な万年筆を求めています。
そしてもう一つは「書く」というのは「欠く」ということが原意ですから、
何がまだまだ自分に「欠けているのか」、
それは
「欠落していること」に十分に気づいておきたいと真剣に考えています。
だから、新しい万年筆を手に入れると、ともかく「文字を書いてみます」。
おそらく、「文字を書く」という行為が、
自分の中にある「ことば」を紡ぎ出すことで、自分には無い「ことば」、
欠落していることを見つけ出そうとしている、
本能なのかもしれないと思うのです。
そして、スケッチを描く=スケッチを書くと言うこと自体が、
できる限りの発想を吐き出そうという行為、
すなわち、欠落=「欠いているアイディア」をともかく紡ぎ出す行為だと
自己解釈しています。
そういう意味こそ、「趣味」の核心だと思っています。
「欠落している自分」を探し出す行為なのでしょう。
それが不安な健康・医の世界への
大きな抵抗力にもなっていると判断しています。


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「サービスの原義に立ち戻るために」


   


     12月 16th, 2011  Posted 12:00 AM

「糖尿病」の増加が著しいらしいと聞きました。
血糖値計が必要な検査器具であり、
一説には、1兆円市場規模があると言われています。
果たして、それほどの市場規模がある商品ともなれば、
企業経営においては当然のこと、商品開発は急務です。
しかし、私は「立ち止まってしまいます」。
なぜならば、検査器具の開発よりもこの病の根絶が命題だと考えます。
医療は現代経済社会の中ではサービス産業エリアです。
というよりも医療行為が「サービスであり産業」という原意が不明です。
不明という断定が正しいのかどうかすら確認しなければなりません。
緊急にはTPP交渉が国家課題になっている現在、
あらためて、医療サービス:医療制度、この境界線が問題です。
病院が出来た地域には必ず疾病患者が増加すると言われてきました。
まして高齢社会にあっての医療サービスは、
社会福祉制度の根幹にありながらも、その経済効果よりも課税負担となり、
他の制度をも破壊しかねません。
よって、市場規模の大きさでの商品提供とその収益構造ある産業存在、
この関係、構造、境界にデザインが不可欠になってくるものと考えます。
古代統治制度としての
「オイコノミア」に「サービス」の原意を見つけたい。
それが今、私の大きな関心になっています。
おそらくsmart city構想での医療はサービス産業なのか、
あるいは医療福祉制度なのかという問題に突き当たることは明白です。

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「見本市と貿易と、国際関係の国家戦略」


   


     11月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

東京にいるということで、
「Silmo事務局」から、この会合でコメントが欲しい。
そんなことで、
『ファッションとインテリアにおけるクリエーション
そのトレンドをめぐる日仏の邂逅』に行きました。

ところが「Silmo事務局」側はフランスから来られず、
私が「Silmo展」=眼鏡界で世界最大の見本市を紹介し、
もう10年前にグランプリを受賞しているので、
その影響など私が紹介までしなければなりませんでした。
英語・仏語、かなり迷いつつ結局日本語で話をしました。
最後はフランス語表現を引用しました。
「Silmo展」はだいたい2年おきには挑戦しています。
しかし、最終選考に残っても以後受賞することができません。
競争相手はいつも決まっています。
国際的な風評の中で多くのファッションやインテリア関係者から
フランス商務省はまさしく「売り込み」でした。
しかし、この秋のフランスでのDesign Weekでは、
日本人デザイナー・吉岡徳仁氏が最高賞を受賞との
アナウンスもあり、彼も壇上でコメントをしました。
彼のヨーロッパでの活躍は素晴らしい作品が連続しています。
流石と言っていいでしょう。
今、日本のデザイン界は「国際的成果見事」なデザイナーは
居ないと言っても過言ではありません。
彼やデザイン界の大先輩にも久々にお目にかかれました。
今や、国際関係での見本市と貿易による文化交流は、
「日仏の邂逅」と言うもののやはり、商慣習として、
見本市ホスト国になることがとても重要です。
そういうことでは現在の日本がホスト国になる領域が、
年毎に激減してきました。
有明の東京ビックサイトや幕張メッセなどでどの商品アイテムが、
見本市「ホスト国日本」になれるかは大きなテーマです。
そして今やTPPに対して、日本は二分されています。
私は「答」の出し方が混乱しているのだと分析しています。
政治家たちにとっては、TPP課題への「応答」だけ。
経済界はTPP問題設定でのQ&Aづくりに入り込みたい、
だから最初から加わるべきとの回答判断だけです。
問題は農業や医療などは、問題解決としての「解答」が、
まったく不明ということでしょう。
歴史的観点では、まさに「安政時代」と同じ事が、
天災での国内混乱に国際関係が性急な日本の「解答」を
脅迫されていることにあまりにも酷似しています。
無関税であったが故に以後日本がどれだけ苦しんだでしょう。
このことを想記すべきでしょう。
貿易立国日本は、まず、見本市ホスト国家が第一です。
私は、TPPでの政治家応答・経財界回答の前に、
農業や医療などの、根本的な問題解決の制度設計での
「解答」に国家戦略を向かわせるべきと考えています。


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8月23日Staff Blog


   


     8月 23rd, 2010  Posted 11:55 AM

8月23日
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)が
気になって選んだ国際信号旗のピンバッチ。
「イエス」
「ノー」

「あなたは危険に向かっている」
「私は援助がほしい」
「私は医療の援助がほしい」


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『資本主義からの逃走』
「日本語が曖昧になって現代認識の観念化を誤るかもしれない」


   


     5月 31st, 2010  Posted 7:17 PM

曖昧さ検証へ
私は次の言葉も、「情報」のように曖昧にしていると考えてきました。
福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学
しかもこうした言葉は、「現代」・「現代の問題」を抱え込んでいますから、
大学や行政でも、とても重要視される言葉です。
にもかかわらず、私は、こうした言葉が曖昧になってきたのは、
おそらく三つの理由があったのではないだろうかと推測しています。

■ まず、国際的に「英語」表記が拡大し、
 グローバル用語と日本語との対照訳語、その意味性に距離観がある。
 しかし、その検証を放任している。

■ すでに日本語として確立している言葉だけに、
 現代的意味性がどれほど付加しようと、
 こうした現代性を引き出してまで検証はしない。

■ 既知の意味性、その認識がすでに常識であるために、
 最も通用する、という大錯覚があるにもかかわらず、
 ラングでありパロールとして社会的、絶対的な信用語としている。

私は、すでに日本語として既知認識となっているこうした「言葉」こそ、
その意味性には慎重でなければならないと考えてきました。
特に、現代問題の核心となっている「言葉」は、まず概念よりも観念に直結しています。
したがって、デザインワークの前提には、
「コンセプトワーク」・「コンセプトメーキング」という段階があります。
あくまでも「コンセプト」ですが、
これは必ずしも「概念」で捉えるだけでは不十分です。
私は、「コンセプト」は日本語になっていると思います。
Conceptとコンセプトには距離観があります。だから「概念」より「観念」です。
コンセプトには「概念+観念+問題意識」が不可欠だと考えます。

「環境」という言葉を事例に
たとえば、『環境』という現代、最重要な言葉においても、
「環境=Envilonment」というわけにはいきません。
それは「環境」という言葉には、
日本語になるまで中国からの連綿とした歴史があります。
なぜなら、東洋では「元史・余闕伝」から周囲論という意味、この言葉から始まります。
そして西洋ではヒポクラテスの時代に、
「空気・水・土地」から生態論へ移行して意味の集約に入ります。
この二つの文脈から、「環境=Envilonment」この等式には無理があるようです。

曖昧さの利点と欠点
結局、現代問題の核心となる「日本語」、
そして国際的な英語の訳語としての隔たりと
漢字での表記意味の正確さを対照化するべきと考えます。
そこで、私はこれを「近さの概念」=トポロジー的概念として捉え直す、
その数学的手法も熟考方法になると確信してきました。
その具現化の応用も適用し、評価を受けてきました。
あらためて、日本語の曖昧さの利点と欠点に、
実は「観念」から「概念」
そしてコンセプト・Conceptの文脈があると結論化しています。


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