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Posts Tagged ‘原子力’


「『危機管理デザイン賞』特別賞の二つ」


   


     3月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

「第一回危機管理デザイン賞」は審査委員会が、
応募を離れて「知られていない団体」をあえて選びました。
危機管理学や危機管理工学はまだまだ学際化されるべき学域です。
すでに大学にも、この関連講座はありますが、
ほとんどが「制度設計や行政論」に偏っています。
しかし、審査委員会は今回は3.11で見逃された活動に注目しました。
一つは、救急医療で人知られずに活躍したNPOがありました。
AMDA=Association of Medical Doctors of Asiaが
いち早く救護に入って、
どれだけの人命や救護活動をしていたことでしょうか。
この団体は、今回の3.11に関する情報も大変に精通していました。
もう一つは、この団体こそ、
北海道から自衛隊を被災地に隊員輸送を行いました。
3.12には15000人を送り込んだと言われています。
その成果は、本来なら35000人の同胞を失うかも知れなかったことが、
結局は15000人も救助していたことはほとんど報道もされず、
彼らも喧伝しませんでした。
無論、
3.11を裏から目立たず支えたグループや団体や個人も数多かったはずです。
そこで、
この二つのグループに会長賞=Excellent awardとして表彰しました。
昨日はグランプリに「検体DNA採集セット」を選びましたが、
危機=「最悪の事態」にデザイン=問題解決実務が、
制度設計だけではなくて、形態設計や実務設計で、
こうした危機=「最悪の事態」から、
人命が開放されることを意図しています。
制度設計としての危機管理学、形態設計としての危機管理工学、
さらにこの二つをさらに学際化=デザインすることで、
私は、この専門職種が必然だと考えています。
この二つの会長賞からも、
危機管理の専門職は新しいテクノロジストの養成でもあると考えています。
大阪大学大学院・工学研究科では、
「危機解決の産業を日本から起業し、
その主導をデザインが牽引する」こと、
これを目指して、
私はこれまでの医療・原子力・ロボット・警備などを
デザインでまとめ直すこと。
私の最期の仕事だと考えています。
インターン学生を求めています。
かなうなら、
専門のテクノロジスト・ドクターを養成したいと考えています。


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「わが研究室は今年から重要拠点にしていく覚悟あり」


   


     1月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

昨年7月には、防災大臣と大企業の姿勢に大落胆。
私の復興デザインと南海トラフ対策デザインは停止しました。
けれども諦めずに、
8月に「危機管理デザイン賞」を創設しました。
それは、
わが研究室のこれからのミッションを
意識したプライミング体制づくりでした。
わが国は、天災大国です。
そして広島・長崎、そして福島と原子力の大被害国家になりました。
脱原発・卒原発では済ませられない現実と、
我々は対峙していかなければならない国家です。
ならば「公共政策としての危機管理産業の創成」を
国際的に求められています。
私は、脱原発でも卒原発よりは
「範原発」を目指すべきという見識と良識を蓄積してきました。
プルトニウムは、人類が扱える元素ではありません。
U239、U240は自然界には存在していないのに、
今回の福島では確認されてしまいました。
それなら、
原子工学の対象元素をさらに明確にするべきだというのが、
私が提示する「範原発」です。
正月早々、おそらく大きな反感を買うと思っていますが、
それを乗り越えるべき、
新たな「危機管理工学へのデザイン主導」
そして「公共政策グランドデザイン」が必至です。
原子力工学の対象は、原発だけではありません。
放射能への新たな科学的見識や公共政策での
政治的、産業的、経済的、さらに文化的胆識が必要です。
あの「はやぶさ」は放射能の宇宙界で電子機器は確実でした。
JAXAの安全工学的な経験が必要になってきたということです。
3年3ヶ月の政治的悪夢を終焉させるには、
同胞を失ったこの経験を必ず、
日本の復興や危機管理体制づくりを世界に提示していくことが大事です。
活断層の報道だけでは済まされないことは多大にあるはずです。
もう一度、
プライミング・エフェクトを思考見識に取り入れるべきでしょう。
もう家電も、情報も、車輌交通も、
すべからくエネルギーへの依存から解放されないならば、
日本の産業構造を大きく変革すべきでしょう。
私は4月には、デザイナーに立ち戻って、
わが国には
「危機管理産業の創成」を大きなテーマに掲げていくつもりです。
この開設準備室で、春を迎えたいと考えています。


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「Nomenclator・ロボット、GUIからAUIへの提示」


   


     12月 10th, 2012  Posted 1:18 AM

「ロボットデザイン基礎学」という提案をしてきました。
そこには、二つの系譜があります。
阪大に特任教授としてフロンティア研究機構では、
ロボット・原子力・人工臓器をテーマにさせてもらいました。
その頃、FOMAの企画に参画もしていましたから、
GUI(Graphic User Interface)から
AUI(Agent User Interface)を持ち込んでいました。
したがって、ロボットについては、
ヒューマノイド系とメカノイド系が共存していたので、
なんとか、この融合体、
あるいは何か別個の形態とその名辞が必要だと考えていました。
したがって、名市大と阪大で、
ともかくまずはCGでのロボットデザインを設計しました。
その時には、マービン・ミンスキー「心の社会」が一つのテキストでした。
心の中にいくつかのエージェント=自分の代理人が、
それぞれの役割を「心」という機能分担しているという話に惹かれました。
そこで、Iso-nome Pro-nome Para-nomeを
ロボットの機能・性能アイテムにできないかと想像したのです。
そして、出逢った言葉に「Nomenclator」がありました。
ヨーロッパ中世の頃に、領主の召使いを表す言葉でした。
ノーメンクレーターは、領主が散歩をしていて小作人に出逢うと、
その小作人の名前や家族構成を伝える役割をする召使いでした。
私は、まさにロボットというのは、
人間にとってこの召使いになるべきではと直感したのです。
日本的には、事代の命的な情報分担役目だと納得しました。
このところ、
ロボット学者の石黒教授のアンドロイドは
私に大きな啓示を与えてくれました。
「ロボットの創造が人間とは何かを知る」という発想には、
これからのデザイナーの役割が見えてきた気がするのです。
GUIでの単なるアイコン表現やグラフィカルな表現での手続き、
そのデザインではありえなくなってきたのです。
IntelのTV-CFを観ていても、
ウルトラブック(Ultrabook)はパソコンにもなるというのは思考不足です。
人間とロボットとの関係、
それは人間が、それを心ある存在だとするなら、
自分の代理人になる資質とか気質あるいは能力を再熟考してみるには、
まさに石黒教授が自分自身そっくりなロボットを設計実現している
あのヒューマノイドの意味と意義がはっきりと見えてきている気がします。
この二日間、石黒教授と同じ壇上でそれぞれの講演をして、
新たなステージに、
ロボットデザイン基礎学の改編が出来る気分になっています。


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「『危機管理デザイン賞』を創設しました」


   


     8月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

2023.8.1・昨日、日本は世界に向けて本賞を設けました。
わが国は、伝統的、四季的、自然環境と日常生活を
堅固に結びつけてきた美しい花綵の国ですが、
一方では、自然災害、台風、地震、雷に晒されてもきました。
ところが、最近では地球温暖化などで、
気候状況は、竜巻、大豪雨、落雷など
とんでもない危機状況に入っています。
3.11は当然ながら、今後の南海トラフや火山爆発も予知されています。
まず、自然環境での危機回避があり、
人災は、学校のいじめ問題から原子力発電、放射能はもちろんのこと、
テロから企業へのスパム攻撃まで複雑化と多様化と回避困難が拡大です。
よって、本賞を設けることで、危機管理産業から危機管理制度設計まで、
モノのデザインとコトのデザインを顕彰してその活性化を目指します。
本賞のシンボルマークには、「ヘルメスの杖」を引用しました。
アスクレピオスの杖やヒギエイアの杯も検討しました。
つまり、この賞には、
人類が歴史的な命の守護をどういうシンボルに象徴してきたか
ということに焦点を絞りました。
「生きる」こと、「生き延びること」、
危うい事や「まさか」、「いざ」という危険性=命の防御、
その象徴を求めました。
したがって、このブログでも、
ヘルメスやアスクレピオスなどについてメモ記述をしてきました。
それは、私の思考メモでした。
「ヘルメスの杖」への異論が存在していることも十二分承知し、
しかも、「ヘルメス学」という知的歴史性をテキストにした結果の、
マークとロゴタイプの統合シンボルです。
この賞シンボルは、本賞創設とともに、
危機管理産業・モノデザインと危機管理制度設計・コトデザイン、
その展開・アプリケーションを完備させました。
ここで紹介していくつもりです。
無論、本賞受賞によって、あらゆる「想定外」=「まさか」を回避し、
「いのち」を本賞選定基準からもう一度、
見つめ直すモデルケースを普遍化していきます。


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「ロケットとミサイルはグッドデザインの問題」


   


     4月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

ロケットもミサイルも形態はほとんど同じです。
どう見ても「カッコいい」存在です。
しかし、北朝鮮の「ミサイル」は見事に失敗してくれました。
大迷惑な国家が存在しています。
なんとしても同胞の拉致問題が先送りされ続けています。
これも現代日本が抱えている最大問題です。
さて、ミサイルとロケットの違いは、
一言で言えば、推進力ある存在がロケット(エンジン)であり、
衛星や爆弾を飛翔誘導させる存在がミサイルです。
だから、ミサイルがロケットを積んでいることもあれば、
単に誘導させるだけならロケットではないということでしょうか。
1970年代に、ミサイルはその「かたち」からして、
美しくて機能性があるから「グッドデザイン」という概念を満たしている。
となれば、武器であるモノはすべからくグッドデザインであり、
デザインの本質との照合性が武器には最適合することになります。
グッドデザインは兵器デザインに適合してしまうという議論です。
当時から、この議論は棚上げされてきた大問題だったと思っています。
私が一応デザイン学者という立場を
最重要視すればこの問題に対峙しますが、
学者と言うより実務家デザイナーなので、
この問題は放り出してあることを正直に告白しておきます。
ロケットは、
自身の質量を失いながら推進力というエネルギーを使う存在ですが、
ミサイルは、誘導するモノがデザイン対象に照らし合えば、
もし爆弾という武器、衛星という兵器ならば、
決してグッドデザインではありません。
しかし、もし、誘導飛翔させるモノが文化性あれば、
その搭載しているミサイルは
グッドデザインとして評価できるということになります。
この関係は、原子力と放射能の関係に重畳しています。
原子力が原爆になること=兵器・武器であり、
放射能、つまり放射線が
人体の健康保健になっていれば善としての存在です。
民衆を飢えさせる独裁国家のミサイルは、
たとえ掲載されているモノ=誘導飛翔させられる
文化的衛星であっても、
それはグッドデザインであるはずがありません。
それにもまして、
誘導飛翔する機能性が不完全な設計であったわけですから、
元来、グッドデザインになる要因=factorは無かったということです。
ミサイルも原子力も、「矛盾」という大問題を人類に投げかけています。
私たちは、ミサイルや原子力を創り出してしまった以上、
この最適解をグッドデザイン評価に求めることも
一つの解決方法だと私は思っています。

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「蚕は自然・遺伝子操作の繭は『反自然』か」


   


     3月 4th, 2012  Posted 12:12 AM

アーティスト・角永和夫氏の作品「SILK」は、
自然と反自然を提示しています。
ここから私たちが学び取ることは、自然と人工の問題です。
文明=飢えと寒さへの人間営為は、
自然への人工的な制御技術の獲得でした。
人間が自然、その総体である地球環境で
生き延びるためには「自然」から科学を
そしてその具現化としての技術を進化させてきました。
結果、この作品が見事に提示してみせた人工とは「反自然」であり、
蚕が遺伝子操作によって平面繭を「美しく」吐き出して死を迎えます。
しかし、その労働を終えた蚕は産業廃棄物になり、
地球環境には戻せないという現実問題と直面したのです。
「反自然」=人工とするなら、
人工の成果は廃棄物になっていくことが決定しています。
それは地球に在ってはならない存在を生み出してしまうことでした。
自然と人工に循環という理想型を人間は未だに準備できていません。
これが現代の文明を呪縛し包含し解決不可能=アポリアとして
人間界を閉じ込めています。
この作品は、蚕と繭です。
この作品が自然保護団体から「反自然」と誹謗されている構造は、
「反原発」に重なります。
「反」を唱えることはアポリアを全面肯定している正義性に見えます。
が、人間が生きることを全面肯定するには、
「反」を掲げた問題設定では解決はありえないと私は考えます。
人類にとって、原子力・放射能に対しては、
「反原発・脱原発」・対・「原発推進」の構造ほど
アポリア全てを、実は、同一次元で全肯定しているのです。
原子力・放射能への「反原発」だけでは、
自然との調和などは智恵不足に他なりません。
自然との調和などありえないからこそ、
もう祈りにも通じる智恵が絶対に必要不可欠です。
人間は、生から死までを真剣に受け入れて
「生きがい」をもって自然なる死に至らねばなりません。
「反原発」というシュプレヒコールでは問題解決不可能なのです。
私は原発推進派と誹謗されていますが、
そんな立ち位置にいるわけではありません。
人工物・自動車による交通被災で歩けなくなり、
人工物・ICD=除細動器で心臓を護り抜いています。
私は、「反原発」ではなくて「範原発」です。
この根本は、「範自然」観を
デザインで創出することだと考えているからです。

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「世界・世界観変革が始まる」


   


     1月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

3.11は世界転換の序章にすぎなかったと思います。
本年は、世界主要国家のリーダーが変わります。
それはリーダーたる資質如何によっては、
私たちの日常をも変えてしまうことになるでしょう。
もっとも私たち日本人は、自然の暴力性で、
これほど多くの同胞をいっぺんに失いました。
私は自然との調和とか共存は本来ありえないと考えています。
調和と共存というのは幻想にすぎません。
むしろ、自然と人工の対決の中で自然を取り込むこと、
自然とはある部分では断絶することも考えるべきです。
共存というのが思い上がりだとかんがえるわけです。
人間は自然の中では生き延びられないことを思い出すべきです。
その最大の理由は原子力も本来は自然環境の中の放射能を特化。
技術の最も高密度で集約されていたはずの原子力は自然からの恩恵でした。
それを人間の思い上がった制御・役務怠慢に他なりません。
その怠慢は資本主義への信頼というより運用のいい加減さでした。
その「資本主義的運用」がどれほど薄汚れていたかを思い知らされました。
これにはもう一つの大きな背景「民主主義」があります。
私は、資本主義と民主主義で包み込まれていたことには、
ここ数年大きな疑念がありましたし、その管理、
すなわち「政治的支配」への不信感は最大値になっています。
「たかがデザイナー」にすぎませんが、
「されどデザイン」の大きな力を知っています。
よって、この職能たるデザイナーとして、
歴史的・思想的な背景を再度「王座」=リーダー、
そのあるべき姿を歴史的な思想に回帰して求め直し、
その結果を自分のデザインに込めてみたいと考えます。
古代原始キリスト教では、王座の「権威と権力」は、
賞賛と喝采を受けるべきと記載されています。
そして、民主主義での賞賛と喝采は
単純に「選挙」という代替行為にすぎず、
その簡便性にひょっとすれば世界・世界観は埋没、
いや押し流されたのかもしれないとさえ考えています。
今年はそれを明確にデザインで表現するつもりです。
「王座」は、本来は「神の座」でした。
とりわけ、日本の「神の座」にすわるべきリーダーは、
その役務=サービスを十二分に果たさなければなりません。
その構造は「オイコノミア」に2世紀から記載されてきましたが、
中断された期間に、近代思想や近代科学が割り込んでいたことは事実です。
(画像は、コンスタンティノポリスの「王座の準備」・ルーヴル美術館蔵 10世紀末から11世紀初)

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「幸不幸の連鎖の中で」


   


     10月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

日常性が忘却させてくれること、
それは、生きていることが死にむかっていること。
そして自分には起こらないであろう不幸さと歴史観です。
3.11は私たち日本人に、3万人の同胞の死と、
被災した人たちそれぞれの多様なる不幸な事件性でした。
ひょっとすると、いや実は、
人類は不幸さを引き込み始めているのかもしれません。
2012年には、世界的に「政治的な指導者」が不明です。
もっともわが国には政治的指導者を失ったままですが。
昨年9月に私は東芝の原子力研究所を見学しました。
「貿易立国日本は、20年は安泰」という確信しました。
つまり、私の生涯は安泰な日本国民という認識でした。
しかし3.11はこの思いを粉々にしてくれました。
幸運であることと幸福であることは、
中国の古典どおりに「幸不幸」の狭間にあることを、
あらためて再確認させられたのです。
28歳で車椅子生活になった私が、
東京を離れる決心をしたのはジョンレノン暗殺でした。
「青春が終わった」という自覚を自分決着させたからです。
3.11以後、東芝にて「復興計画デザイン」に参画しています。
1000年に一度など自分の生涯に重ねたくもありませんでした。
この哀しみの想いにずーっと引きずられてきました。
「復興計画・25のプロジェクト」を書き上げました。
声高な脱原発論でこうしたプランが進行するわけがありません。
東京中心主義を離脱した「日本再生プラン」こそ、
「復興計画から未来デザイン計画」であるべきと考えています。
「幸」とは元来、両手を縛られた不自由さを意味しています。
しかも、私は「電池切れ」、「節電」どころではなく、
ようやくあと5年の「生」が最低保障されたところです。
1000年に一度の「幸不幸」の狭間をしっかりと体験すること。
これこそ「幸運」なことと考えるようになりました。
父母・恩師の死から、ジョンレノン、そしてジョブズの死、
私の生涯での「幸不幸」を、
大津波の廃墟写真を見つめながら勇気を抱いて、
慎重大胆に自分の生涯に引き込んでやろうと考えています。

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「火と刃物が抗自然することの行く末」


   


     5月 31st, 2011  Posted 12:00 AM

火は自然を燃え尽くします。
刃物は動植物を切り尽くします。
人類が、火と刃物を使いこなすこと、
それはまさに制御です。
「制御」とは、使いこなす対象が人類にとって、
価値=望ましいことと好ましいことになることです。
そして人類にとって、制御対象は二つしかありません。
人類にとって、「人間自体」と「自然全般」です。
人間自体の制御が、社会システム=政治であり、
自然全般は、自然の変動が予測不可能であればあるほど、
その制御は困難であり、不可能になっていきます。
その手段である利器として、
「火」と「刃物」を使いこなす技こそ人類の進化でしょう。
しかし、人類の進化は「戦争」が歴史を率いてきました。
「火」も「刃物」も戦争の武器であり、
その進化は武器としての「火」は爆弾となり、
「刃物」は武器機能は代替されていきます。
さて、おそらく読者諸兄にとっては、
この記述の方向が「原子力」に向けられている
私の導入であることに想像がついているでしょう。
まさしく、「火」と「刃物」に対する人類の進化が、
「原子力」に向かっていきました。
それは「武器」という範疇でした。
しかも、「火」も「刃物」も、制御ということでは、
それが「光」=電磁波にまで到達することが
文明の進化だったと前述しておきます。
私は「文明」の基本に立ち戻って、
「原子力」に向かわなければ、
これまでの「推進派」は「批判派」になり、
「反原発」が正論となって「脱原発」になります。
しかし、世界全体が原発停止に向かったとしても、
私は、原発ではなくて「原子力」と「自然」とを、
明快に制御対象化していくことが重要だと考えています。
私は推進派でも批判派でもなく、
「脱原発」にこそ、
「原子力へのまなざし転向」が重要だと思っています。

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『資本主義からの逃走』
   「欺瞞的エネルギーこそ、共同幻想である」


   


     6月 15th, 2010  Posted 12:20 AM

エネルギーへの論議
「物質・情報・エネルギー」が現代世界構造の三大要素です。
物質と情報については、これまで考察メモをここに記してきました。
さて、「エネルギー」を大きな課題として取り上げていくことになります。
正直、書けないこともあると告白しておきます。
しかし、後世、私のアイディアや思考が間違いであるということがあったとしても、
提言を書き連ねておく所存です。
ある直感があります。
欺瞞的エネルギーは風景であり光景にはなりえぬ
それは「太陽エネルギー」・「ソーラーパネル」についてです。
私は、これが地球にとって最善のエネルギー源になるとは思えませんし、
考えれば考えるほど、「欺瞞的エネルギー源」にすぎないということです。
ソーラーパネルが輝き、風力発電のプロペラが回っている、
これは「風景」にはなるでしょうが、
「光景」にはならないと考えます。
なぜなら、ソーラーパネルを生産するために、
どれほどの電力を消費しなければならないかということです。
風力発電も決して主力電源・エネルギー源にはならないことは明らかです。
私は、おそらくここでは「原子力」について言説化を考えています。
まず、「エネルギーは原子力」である、と明言しておきます。
そしてこの論議は、「タブー」化されてきましたが、
真にエネルギーを考察し洞察するには、この論議こそ大名目だと考えます。


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