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Posts Tagged ‘名古屋市立大学芸術工学部’


「シリコングラフィックスを使っていた頃」


   


     9月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

「コンピューターの時代が来る」、
この予測は東京から福井にもどった1980年だったと思います。
Apple IIj・Apple IIcから1984年Macintosh 128kと同時に、
UNIXに出会います。UNIXも二つのバージョン共存時代です。
ちょうど、福井銀行がNew York支店を開設するので、
そのインテリアデザインと海外C.I.に関わりました。
「川崎さん、お金は使っても大丈夫ですから」。この一言で、
私はIRIS3030をニュージャージーのSGIブランチで発注しました。
当時で7000万円でした。日本では1億4000万円だと知っていました。
その頃は、Apple製品でも米国のコンピューターは2倍していました。
銀行はとても驚いたようでしたが頭取決裁で、
私はなんと2台を7000万円で手に入れたのです。
「日本からは商社マンしか来ないが、
クリエーターが買ってくれるなら宣伝で2台持って帰っていい」と
副社長が決断してくれました。
福井と東京にIRIS3030を置きました。
そして福井 – 東京に特別回線まで引いたのです。
当時のこの詳細をもっと記録しておくべきでした。
日本政府は「シグマ・プロジェクト」をスタートさせていました。
私は成功するはずがないと思っていました。案の上失敗しました。
EWSが必要だったのは、 
3D-CADと光造形システムを自分でやってみたかったからでした。
運良く1996年に、
名古屋市立大学芸術工学部が新設され私は大学人になりました。
コンピューター環境の購入やネットワーク構築の担当になりました。
そこで、シリコングラフィックス社のindigo・Indigo2・Onyx・Octaneと
新製品発売毎に新規にしていくことができました。
芸術工学部の1, 2, 3期生は、これだけの環境が整っていましたが、
気づいていた学生は僅かだったはずです。
トヨタ自動車が初めてEWSの使えるデザイナー募集を一回だけ行いました。
その時の機種はOctaneでした。
このOctaneではUnigraphicsが走りました。
I-deas・ CATIA ・Pro/ENGINEERでは
「メビウスの輪」の作成が困難でした。
しかし、Unigraphicsは当時はほぼ万能と思える3D-CADでした。


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「カラーの決定のために・HSB色空間」


   


     5月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

美大時代の色彩実習はとてもハードな作業でした。
指定されたケント用紙をチップ=正方形や長方形、
時には、2mm幅10cmなどにカットして、
外国製、かなり高価なポスターカラーを手塗り。
それをB3サイズのパネルに貼り込んで提出でした。
1年間に30数枚程度がポートフォリオになりました。
まず、手でポスターカラーも混色しました。
したがって、
「色彩学」というより「色彩論」を学びました。
この作業はいわゆる「減色混合」でした。
ところが、コンピューターの出現によって、
RGBで「加色混合」を体験することになりました。
大学人になってから、私は「色彩論」を教える立場になりました。
そこで、徹底的に議論をして「色彩実習はパソコン上」で、
基礎課題=グレースケールや色環、
応用課題としてカラーコーディネーションや配色デザインを
学生に、これもすべてパソコン上で制作させるようにしました。
名古屋市立大学芸術工学部での私の「色彩論」は、
とても厳しかったということになっています。
少なからず、入学すると1年次から必須でしたから、
芸術工学は「色彩論」から始めていました。
多分、建築志望でも色彩には馴染むことを強いました。
私自身が、コンピューターによって「色彩論」が大きく転向しました。
まだCGが開始された頃、トロントでEWS-UNIX上で、
減算混合から加算混合へと自分を転向させた体験が源でした。
もうすっかりソフトウエアでは、HLSやHSBとRGBを切り替えて、
自分なりの使い方が可能になりました。
しかし、光での色空間と色料(顔料や染料、インク)空間を
明確に区分して認識しながら使いこなしているとは思えない事が、
そのまま、印刷・映像・室内配色・ファッションなどの
カラーコーディネーションを数多く見かけます。
まずは、HSBとRGBについては、
Apple Store 銀座で、実演しながら簡単な講義もするつもりです。
ともかく、色彩は「育った環境」に影響されていると思います。
私は北陸育ちゆえに、彩度と明度は必ず度数を上げています。
「見かけの色空間」というのは、
とてもデザイン上では大きな課題だと考えています。


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「プラズマTV商品問題に例示される未然技術」


   


     1月 5th, 2012  Posted 12:00 AM

1996年、アトランタオリンピックがありました。
その年に私は名古屋市立大学芸術工学部が新設されて、
大学人としての道を選びました。
オリンピック開催と同時に最初に富士通が米国特許の獲得はじめ、
米国で最初に発表したのが、「プラズマ方式のTV」でした。
そのデザインは、私のスタイリングスケッチで富士通デザイン部門から、
富士通ゼネラルが実装設計を仕上げて
オリンピック開催地アトランタで発表しました。
そして、以後の開発と商品化をストップしました。
根本的で最大の問題は、
「プラズマ密封」での技術には要素技術が貧弱でした。
これが後々プラズマデバイスの最大欠点になっていきます。
そこで私は確信犯的にプラズマ批判をしました。
これは一部では大問題になり、
あるメーカーは私を訴訟すると聞こえてきました。
しかし、私には確証がありました。
それを裁判に持ち込めば「プラズマTV」は
徹底的な検証で市場価値を失うと思いました。
その後、トリノオリンピック時に、
ECは「プラズマTV」輸入を認めました。
ただし条件づけがありました。
万一、視覚的や性能的な影響があった場合には
「全面的保障」が条件でした。
したがって国内の「プラズマTVメーカー」は輸出を見送りました。
その後プラズマTVメーカーでの爆発事故(小さく報道)もあり、
国内メーカーは撤退。
ほとんどのメーカーはプラズマTV商品化は見送っていました。
当初私の発言は徹底的な批判批難を受けましたが、
製造現場でのあまりにも「商品生産問題」を、
私は見ていただけに「プラズマTV」商品性無しは確信していました。
最も、プラズマTVもプラズマモニターも
当初から私は存分に使っていました。
しかし、プラズマデバイスの製品化は可能でも、
商品化問題の余りにも問題点が多いことを時系列で追いかけていました。
私は、「技術特化」とか「技術進化」には
限りない魅力をいち早く認めますが、
「立ち止まって、佇んで」こそ、
詳細に製品性能が本当に商品化にふさわしいかは
製造生産技術を観察熟考が必要です。
「想定外」は技術には決して許されないことです。
私はかつて、「プラズマTV」での体験を思い起こします。
このアトランタ記念でのTVは
米国3大ネットワークとNHKにすべてが売れました。
私も自分のデザイン資料に一台持っています。

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