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Posts Tagged ‘否定’


『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


   


     5月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

政治思想はすぐに国際関係論という
結局は得体の知れない論理で国際間には軋轢、
そしてそれは戦争に至り、限りない悲しみは歴史汚点になります。
しかし、強靱なまさにレジリエンスな美学的な文化論は
この国際関係論以上の力を有しているのです。
かつて、朝鮮が日本に与えた多くの民衆文化は、
「民藝論」として、その言葉に強力なモノの美学性を与えていました。
柳宗悦によって唱えられた「民藝」という美学論理の核心であり革新は、
有事状況である戦時中に、この美学論理は、
朝鮮文化の象徴である「光化門」の破壊を主目的としている軍部にむけて、
それこそ「ペンは剣よりも強し」を貫いていました。
あらためて「光化門破壊を食い止めた民藝美学論」、
その中心人物であった柳宗悦の「民藝」、
その基盤を再興すべきと考えます。
それは、京都破壊を食い止めた米軍の本土攻撃否定論理と同等です。
つまり、「民藝」として、それこそ「井戸茶碗」を持ち出してきた
陶磁器の歴史は、元来は朝鮮の美学文化を剥奪した野蛮さに対して
日本は「民藝」という名辞とその論説によって御礼を返したということを
もう一度、再認識をしておくべきだと記述します。
青磁があり白磁があり、高台があり、日本の陶磁器は
「民藝」抜きで語られるべきではないということです。
それこそ、ある伝統工芸産地が400周年記念を語り宣伝する前に
「民藝」が護り抜いた「光化門」を語るべきでしょう。
その見識も知識もなく日本の伝統工芸は語られてはならないのです。
柳宗悦の「軍部への絶対抵抗」は、
妻である声楽家柳兼子女史は決して軍歌を歌わない、
という美学が、さらに後押ししていました。
柳宗悦は、恩師・柳宗理の父であり、
柳宗理は「デザインと民藝」への距離感を
確かに教え子の私たちには独学を強いていたと思い出します。
しかし、アノニマスとゲマインシャフトという連鎖を
民藝からデザインへのコンシリエンスを支えている主張は
常にデザイナーの「耳鳴り」になっています。

*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』
*『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
*『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』
*『いつも見かける私の作品はすでにアノニマス』


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『葉巻を語り直すことで「グローバル化」の神髄に近接』


   


     5月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

日本が「グローバル化」を国家戦略にして久しいと思います。
正直、自分には「グローバル化」と「ローカル化」は
同値の国家戦略だと考えてきましたが、
大きな違和感があったことは確かです。
なぜグローバル化ということの本質的で実務成果が見えないのか、
この理由を探していました。
そして気づいたのは、若い頃、海外での仕事では食事の時の話では
よく、オペラや現代美術での評判を話合う場面に自分がいるのです。
こんな場面で、こうした会話に望んでいる自分のことを思いました。
そんな思い出とともに、たまたま喫煙文化におけるタバコの歴史は、
癌の元凶ということから、総否定が蔓延しています。
「葉巻」だ、「パイプ」だなんてことはほとんど否定されています。
かつて喫煙については自分自身も禁煙をしていましたが、
改めて「葉巻」に取り憑かれた私が、大きく気づいたのは、
日本が「グローバル化」を語るのはすべて産業経済でのことであり、
「葉巻」・「乗馬」・「ライフル撃」・「鉄道模型」などの「文化」は、
日本でも余り表立ってこず、欠落していたということです。
そこで、「葉巻文化」をクラブづくりとともに、
日本の「キセル」での喫煙文化も加味することで、
確かに喫煙が病因的な元凶であったとしても、
国際的に文化を語り直すことで、政治や経済を離れた文化を共有する
「グローバル化」の語り直しを行う重要性を見直したいと思いました。
葉巻クラブの結成を言い出したら、とんでもなく様々な人からの
参加申し込みがありました。
そこでこのクラブのマークやすでに商品化しているデザイナー仲間と
クラブ結成とその理事長までを決定して国際的な存在をめざします。

*『葉巻文化、その道具こそプロのデザイナーの仕事だ』
*『葉巻文化と筆記具文化の統合性は凄いのだ!』
*『知ったとしても、ダンディズムがあると思う!』
*『酒とタバコと、そして・・・』
*『風土とゲマインシャフトがグローバルへ』


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4月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

4月27日 大安(己卯)

絶対に否定されない発想は
「思いやり」のある
発想である。

無論、「思いやり」とは
とても難しい。

川崎和男の発想表現手法


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4月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

4月26日 仏滅(戊寅)

発想の評価は
決して「否定」されてはならない。
万一、否定される発想に欠落しているのは、
思いついただけ、
思い込んでいる、
そんな発想は否定されても仕方ない。

川崎和男の発想表現手法


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『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』


   


     4月 20th, 2016  Posted 12:00 AM

おそらく、「コンシリエンス」という新造語を作成した
ウイリアム・ヒューエルは「silience」という言葉を原型に、
con+silience=consilienceとしたのではと辿りつきました。
「silience」というすでに英語でも死語化している意味を探りました。
しかし、これは単なるデザイナーの戯言的な解釈と考えてください。
「silience」には、日常何も考えない、つまり無意識ながら、
あるとき、ハッとするほど重大な、
それこそ隠れていた宝石のようなキー単語に辿り着くことがあるという、
そんな発想の言葉が「silience」だということです。
たとえば、自分の進路がゴミだらけだとしても、
そのゴミの中に、突然キラリと光るダイヤモンドがある、かもしれない
そんな柔軟性をゴミだらけの道筋でも発見できる能力=言葉です。
だから私はデザイナーとして、
18世紀のウイリアム・ヒューエルからエドワード・オズボーンによって、
「知の統合」=コンシリエンスに至ったのなら、
paraとmetaを加えることで、さらにコンシリエンスとレジリエンスを
思考拡大していきたいと考えています。
これはかつて、アルキメデスが「メタ理論」をまとめたことを応用可能?
と考えているからです。
少なからず、レジリエンス=re+silienceとは、
redesignのごとく、silienceの否定ですが、
それこそ、積極的な否定という意味での、ストレスやプレッシャーを
「無意識の知性」で克己するという重大な意味になるからです。
パラシリエンスは、知的前提でのプライミング性があり、
メタシリエンスは、知的拡大を図ってエフェクト性があるということです。

*『芸術で学術は語り切ることができる』
*『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『コンシリエンスデザインの基盤は危機解決学である』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


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1月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

1月18日 友引(己亥)

発想は必ず実現されなければいけない、
いや、
発想は発想であり、
その実現は、「場合」による。
時代があり、
経済効果があり、
文化程度もある。

問題は
SNSなどでの批判や時には非難が
その発想を否定する不気味さである。

川崎和男の発想表現手法


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『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』


   


     1月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」=Design Thinkingというビジネス論が流行しています。
まず、僕はこの流行批評を云々する前に、
「思考」という「思う」+「考える」という言葉の周辺を
金剛界曼荼羅:3×3:に基づいて、「思」と「考」についての
論理を整理します。
「思考」とはあくまでも日本語であり、これがいきなりThinkingとの邦訳は
決して僕は成り立たないと考えます。
その最大の理由は、デザイン+思考であり、
デザインの思考、デザインという思考、デザインのための思考などを
デザイン=問題解決・価値創出・未来創成を
明確にすべきだと考えるからです。
まず、「思考」と「考思」があることと、
そのための論理構造を曼荼羅分析で整理する必要があるのです。
僕にとってこの金剛界曼荼羅に配置されたイメージシンボルは
きわめて重要だと考えるからです。
決して、この配置を思っているのではありません。
「考える」ことと「思う」こと、の配置から、
それぞれのことばの意味と意義を
僕は思考の論理背景に置くべきだと考えます。
この配置からは簡潔にThinkingで邦訳が正確なのだろうかと、
まずは疑ってみるべきだと僕は考えます。
「思う」ことは
感じること、意識すること、考えること、熟考し認識するまで
この二つの曼荼羅は明確に僕たちの再考を促してくれると
僕は認知し、認識することがやっと完結すると思うのです。
この「思い」は感じて知ってまさに思識や思念、考査や考定に至ります。
日本語の概念考察は観念の熟知と認識を位置づけてくれます。
僕は40余年もプロのデザイナーとして、
デザイナーの思考方法がビジネス世界でも有効であると思ってきました。
だからたとえブームである「デザイン思考」を否定はしませんが、
さらに「デザイン思考」を止揚させる必要があると考えるのです。
その止揚に至ったのは、この曼荼羅的な概念あるいは観念の配置です。
「思考」あるいは「考思」を成立させている認知と認識の思量や考慮は
確実に再度、この曼荼羅配置で再考することから
僕は開始すべきだと考え思うのです。
つまりそれだけ人間には「思い」・「考える」という認識、
そこには知識・知恵の世界があるということです。


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『正しいデザイン手法としてのオマージュを熟知せよ』


   


     8月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

デザイナーの倫理観が社会的批判、非難を受けています。
デザイナーとしてデザイン学者として至極無念でなりません。
2009年、私は知財権における著作権・商標権・工業意匠権について、
これは国家施策として、早稲田大学と北海道大学そして特許庁に、
特に「アプロプリエーション」がデザイン界では無知なことを示し、
実は、リスペクト・インスパイアー・オマージュなど、
これは盗作問題にならないように警告を与えてきました。*
ところが、ある私立大学の教員教授達(彼らは学者教授ではない)は、
そこまでの勉強も不足し、
見事に平気な盗作を、ジェネリックプロダクトなるいい加減さを
学生まで巻き込んで、その蔓延さをとうとう露呈しています。
これは現在問題のエンブレムデザインだけではありません。
私自身、1994年、ギャラリー・間で「プラトンのオルゴール」展にて、
モンドリアン、パウル・クレー、キェルケゴールへはオマージュとして
デザイン造形をしてきました。
それはデザイン手法でのオマージュ(リスペクトからのプロセス)であり、
今や、レベル無きデザイナー達が簡単にインスパイアーと言うなかれ、
リスペクトと言うなかれ、という安易なデザイン手法を否定します。
全く手法論としては無知蒙昧な方法が現代はまかり通るばかりか、
逝去したデザイナーのオリジナルを自分デザインとは許せません。
これは明らかに盗作であり、それにも関わらず、
彼らで成り立つ私立大学での教員教授たちの存在を見過ごすことこそ
犯罪行為、詐欺行為だとさえ考えてしまいます。
改めて記します。著作権は無方式登録で160カ国が加盟しています。
デザインレベルが「応答作品」という低レベルであっても、
商標権は登録審査されますから、商業主義的な登録成立も
私はデザインの神聖さ、これはパウル・クレーの置き土産ですが、
私はデザイナーとしてこの倫理性を護り抜く覚悟です。
この私立デザイン系大学は、社会的存在性はありません。

I.P.Annual Report知財年報〈2010〉


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『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』


   


     8月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

レタリングにはセリフ体とサンセリフ体があります。
これはレタリングの基本的な知識です。セリフは形素に過ぎません。
だからセリフを主体的にするのは疑問ですが前衛と理解します。
セリフ体というのは日本語では明朝体、サンセリフはゴシック体です。
これはデザイナーになるための基本的な書体描画トレーニングであり、
バウハウス時代(ドイツで創設さえれたデザイナー学校)時代には
ハーバート・バイヤーによってセリフ体は徹底した基本が整理され、
おそらくこのトレーニング教育がアルファベット作成の根本です。
今、私の母校ではこの訓練があるのかどうか知りませんが、
私の世代ではこの根本を泣きたくなるほど訓練されています。
私はCaslonでセリフを、Futuraでサンセリフをデザインストローク、
つまり定規無しフリーハンドで、身体が暗記するほど訓練をしました。
したがって、バイヤーの創作したサンセリフ体は、
現代世界共通で公的な利用が当然であるHelveticaでは遵守されてます。
このレタリング基本が無いアルファベットは「アルファベット風」の
単なる色彩構成に過ぎず真のデザインとは言えないでしょう。
しかしデザイン系大学でこのトレーニング訓練が無くなっている様で、
そのようなロゴタイプづくりやレタリングが氾濫しているようです。
これでは欧州では本来徹底して否定されても仕方ありません。
今話題の、ベルギーの劇場マークも東京オリンピックエンブレムも、
両方とも言うなればこの基本訓練が全くありません。
セルフ体でもサンセリフ体であっても円と直線の関係は、
「ヘアーライン補正」欠落のデザインはアマチュア作品です。
このことを度外視したデザイン風の色彩構成をデザインとは
絶対に呼ばないでいただきたい。プロフェッショナルデザインが
これでは専門職的な社会的な責務が果たされていないからです。
ベルギーも日本も、デザイナー訓練が全く果たされていないことを
私はプロのデザイナーとして、デザイン学者として書き残します。
エンブレムデザインでの商標権を著作権で訴訟とかいうベルギーも
デザイン職能倫理を両方が無くて何が訴訟争いだというのでしょうか。
デザインを台無しにしていることを私は指摘しておきたいと考えます。
こうしたデザイン基本訓練無しの教育を受けてきたデザイナー達が
哀れな闘争をしはじめていることを私は非難しなければなりません。
両方のデザイナーの能力がバイヤーの論理知識無しに呆れます。
私の疑いは日々深まり、これが社会批判の根元かと想う次第です。
デザイン系大学のレタリング教育を見直すべきです。
プロフェッショナルデザインとして社会批判は当然だと想います。


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8月7日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

8月7日 仏滅(乙卯)

「殴る」という行為には
私は
二つの原理があると想っている。
・暴力として
・喧嘩道に行為として

しかし、
もはや喧嘩道の行為である
「殴る」ことは否定されている。

川崎和男「喧嘩道」


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