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Posts Tagged ‘哲学’


『軍備産業の機能・性能・効能を廃止する哲学が要る』


   


     5月 26th, 2017  Posted 12:00 AM



戦争映画や銃撃戦の映画、そのほとんどが米国製です。
これが日本人を「平和呆け」させた一つの方策でもあったのです。
私はこうした映画に登場する拳銃などの武器は覚えるマニアです。
特に第二次世界大戦の狙撃銃は各国のモノを見比べることができます。
ともかくわが国は「銃社会」ではないだけに、
米国の銃撃戦を観て、あの銃では不可能と呆れることがあり過ぎます。
それはもっと明確に言えば、銃の技術・意義進化は全くありません。
だから米国の軍備が最高というのも眉唾と考えるべき。
だからこそ、安保や米国傘下もいい加減です。
それこそ、「硫黄島での戦闘」は、
日本人は22000人戦死し、米国人は7000人でした。
日本軍がなぜあれほど、長期間に米軍より強かったのかは、
日米の狙撃銃の差異ですぐにわかります。
日本の九十九式小銃の射程距離は約3700mであり、
米国のM1カービン銃は300mですから戦闘では使用問題多々です。
カービン銃は機能進化しか求めず射程距離50mもあったぐらいです。
どれほど日本唯一の狙撃銃の性能と効能が優れていたかです。
米国兵が硫黄島を占拠出来ない理由は、彼らのカービン銃には、
機能性=軽量・銃弾詰め容易ではあっても性能・効能が劣っていたのです。
が、米国と日本の硫黄島での大戦は、歴史の愚かさを寛容し合っています。
ともかく、軍備や銃で平和など絶対に創れないのです。
米国映画を観て彼らの軍備が勝っているということへの疑問は持つべきです。
こうした軍備が国家の産業経済である限り平和など絶対に不可能なのです。
それこそ、18世紀からの銃や爆薬にこそ、使用停止させる根本哲学を
デザイン自体も備えるべきでしょう。
私は拳銃の新製品を見れば誰のデザインかも予測可能です。
殺人を絶対にし合わない「武器」デザインの時代です。
日本刀は抜いただけで罰せられた日本には武器哲学があったのです。


* 『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』
* 『欧米が未来のモノづくりとした大間違い』
* 「軍需こそデザインによる革新の真の目的」
* 「素材革新での造形言語が与えた影響は形態言語すら変更」
* 「 大失敗の量産拳銃・FP45-LIBERATORから学ぶこと」


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『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』


   


     8月 17th, 2016  Posted 12:00 AM



哲学というと「機械について記せ」ということが浮かびます。
それは美大時代に哲学という一般教養の試験問題だったからです。
その正解が何であったかということよりも、
次に思い浮かぶのは「独身者たちの機械」とか、
それを題材にした大ガラス作品を芸術の一ジャンルというより、
芸術とは何か?を聞くよりも「何が芸術か」という接し方を教えられた作品。
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という理解困難さです。
大ガラスは二分され、上部は花嫁であり下部は独身者たちの機械という対比。
これはコラージュより明らかにアッサンブラージュという形式でした。
少なからず花嫁と独身者は女と男であり、社会構造での人間の欲望装置。
花嫁と独身者たちの機械を結びつけているのはチョコレートです。
あたかも、女性が男性への恋の手続きとしてチョコレートは
独身者である男達のチョコレート粉砕の機械になっていることです。
自分は「デジタルアッサンブラージュ」を提案しています。
その根幹には、
これまでの芸術が幾たびも才能あるアーティストによって、
芸術作品は社会構造への訴訟を繰り返す表現で裏切りを重ねたことでした。
そして最も重要なことは、これまでのアーティストは、
まったく「デジタル」、まさにデジタル文明を知らなかったことです。
しかし数学者たちが気づく以前に点は限りなく正方形に近づいているとか、
色の多様性はアナログ的な理解よりもデジタル的な解釈が先行していたこと。
おそらく、デザインとアートの差異性から、
デジタル的な大ガラスの実体は自分にとっては、液晶画面に映し出されて
しかも動いているというデジタル性を語り切る必要性があるのです。
その表現性には主観性を残すことはあり得ないのでしょう。
デジタル機械としてマルセルデュシャンが、レディメイドを残し、
アッサンブラージュを残したこの大ヒントを引き継ぐことで、
「デザインとは何か」が終焉し、
「何がデザインとなるか」というデザイン解答を用意したということです。



* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


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『最高級品=最高価格であるべき万年筆の登場の意義』


   


     8月 7th, 2016  Posted 12:00 AM



「弘法筆を選ばず」という有名な言葉が残っています。
素直には、弘法という達筆者は筆という道具などはどれでも構わない、
という、拘りなどには屈していないという意味です。
「拘る」ということなどは、両刃の剣だという解釈が成立しています。
しかし、自分は「拘る」ということではなくて、「こだわる」ことには、
大きな意義を見いだしています。
その最大のことは人か物か自然かということへの哲学性かも知れません。
とりわけデザイナー、デザインというモノと対峙して生きる人間にとっては、
「こだわり」=「木垂れ」からの原意ある伝統的なモノづくり観は不変です。
自分自身も筆記具その集大成である万年筆はコレクションの対象。
国内の万年筆メーカーのモノは世界的にも素晴らしいのですが、
どうしても海外の万年筆ブランドに「価格で負けています。」
文具大賞の審査委員長もさせられていますから、ことさらに日本の文具は、
世界で最高のモノにしてがほしいという日本人としての拘りがあります。
そう思っていたら、日本で最高、それは最高価格であるということ、
この単純ないわば公式ですが、見事な提案がありました。
自分にとってはようやく日本の万年筆の存在をアピールしてきた勇気でした。
如何せん、こうした万年筆にとっても、高額製品としてはどうしても
日本の伝統、蒔絵あるいは真珠という加飾性が必要です。
確かに海外の有名ブランドも漆芸や蒔絵、螺鈿、真珠などは見事で、
商品価値を向上させる装飾性に優れています。
しかし、とりあえず万年筆で、誰しもが「エッ!」っと驚く、
それほどの万年筆が日本にあるということです。
かつて、洞爺湖サミットでは伝統工芸を使った万年筆が採用されましたが、
万年筆コレクターから見ればその伝統工芸そのものが駄目なのに、
「なぜ?」と、モノそのものが最悪だと言うことになります。
今回のこの商品化は、しかもわがふるさとの文具屋さんの提案でした。

@ Kadobun

* 『ずばり、自分ぴったしのモノ世界のモノマガだ』
* 『勘違いディフォルメ写生は伝統では無い』
* 「パーカー『5th』という筆記具の進化」
* 『「機能」と「デザイン」=日本文具大賞の審査基準』
* 『クリスマスプレゼントは万年筆を語れる少女から』


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『伝統工芸産地を補助金漬けから開放し法律の改正が必要』


   


     6月 20th, 2016  Posted 12:00 AM



30代になって自分はふるさと福井に戻り、福井県下の伝統工芸に、
インダストリアルデザインの導入、
打刃物・和紙・漆にブランドを創成し、その活動に必死でした。
タケフナイフビレッジ・オータキペーパーランド・エチゼンキジファーム
このメンバーを一同に集めて、
東京・New Yorkで「越前物語」展までをやりました。
結局、タケフナイフビレッジでは褒章叙勲者を2名出しました。
しかし、創立メンバーで力量あった職人さんは逝ってしまいました。
昨日、二人目の瑞宝単光章叙勲を祝ってきました。
かつてのメンバーがみんな揃ってくれました。
現在、ふるさとでは新しい伝統工芸へのデザイン導入が行われていますが、
その実情を聞かされてとても危惧する事態になっていることを知りました。
結局は、「補助金目当てのデザイン導入」と
「本来はそうしたアイテムは伝統工芸にはなりえないモノ」と
デザイナーやプロデューサーと称する者達の知識不足、能力不足をすでに、
しっかりとふるさとで見抜いている人たちから聞かされました。
最もキッチンナイフにしても、
自分が30数年前にデザインしたモノは今も売れていますし、
その時に発明した形態の模倣はどんどんと国内外に増えています。
これは福井県の伝統工芸とデザインの関係だけではありません。
それこそ、私自身がふるさとで
「伝統工芸奨励法」を徹底批判していました。
が、この法律は何も変更されること無く
どれほど日本が「クールジャパン」を絶叫したところで、
確実な「伝統工芸ブランド」にはなりえません。
元来、「伝統工芸」が注目されたのも沖縄返還時に沖縄の工芸を産業化する、
この法律制定を国内本土の伝統工芸に向けただけのものにすぎません。
この改正も行われること無く、「伝統工芸産地」は補助金漬けなのです。
補助金で伝統工芸が復活することは絶対にありえません。
重大なことは、デザイナーと産地の職人さんたちとの哲学です。
明確に自分流には「ライン発想」が必須だと確認しています。

*『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』
*『750年をタケフナイフビレッジで革新して30年』
*『ひとりの親方が逝った・・・』
*『30年前のデザインを伝統工芸産地で商品化して今なお・・・』
*『安政の決定事項にデザイン導入してから・・・』


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『コンセプトから逃走してほしい・・・』


   


     6月 17th, 2016  Posted 1:00 AM



おそらく20世紀後半に、人間の思考は、
「コンセプト」に呪縛されてきたとようやく指摘できます。
この言葉は側に「概念」という訳語を
日本語解釈には持っています。
しかし、概念とコンセプト、あるいはconceptについて、
自分はデザイナーとして確かに寄りかかっていたことは
自白しておかなければなりません。
そして、デザインを教育する立場では、
まず、「概念」と「観念」についても、無論、哲学用語からも、
さらには「概念」と「観念」の間にconcept=コンセプトを置いた講義、
それだけでは自分自身が「コンセプト」のまともなあるいは正当な
その定義を確実に伝えたという経験はありません。
もっとも「コンセプト」を多用しているそれこそ、企業の開発、
あるいは大学での研究などにおいても、
「コンセプト学」などは皆無と断言していいでしょう。
したがって、自分が「コンセプト」とは何か?という説明では、
「端的に一言で言い切ってしまえる印象」ということが
的を得ていると一応思ってきました。
でも、これすら自分のデザイン活動の中で大きな疑念がありました。
特に大学人になってから、それこそ一流の学者たちが、
日常的に多用している「コンセプト」ということになると、
この疑念は明白に、思考的、哲学的、科学的な
「大間違い」であると言い切れるようになりました。
例えば、
黒というコンセプトと白というコンセプトと言い切った場合、
「コンセプト」で語られた白であれ、黒であれ、
印象の曖昧さしか残っていないということです。
断言すれば、黒は全てを飲み込み、いや包含していて、
白は反射して、概念でも観念でもありえない事実でしかありません。
かねてより、「観自在」に委ねられた人間の発想・着想、そして思考には
もっと連綿とした対立や対比が「ライン」で連続しているのです。
「コンセプト」を早く捨てることを推奨します。

*『空間へのdolly的な隠喩性という手法』
*『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』
*『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
*『照明の文化論としての陰翳礼讃』
*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


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『鉱物学と自然科学が選んできたコンシリエンス』


   


     6月 15th, 2016  Posted 12:00 AM



「Scientist」という呼称を造ったWilliam Whewellについて知りたい、
このことを追いかけてきました。
ウィリアム・ヒューエルの専門はMineralogy=鉱物学でした。
当時の鉱物学は現代の鉱山学とは違っていました。
鉱物学は、現代では地球物理学に等しく、数学・物理学はもちろん、
哲学にまで及ぶ科学全般までの学問・学域だったようです。
したがって、Physician もCatastrophism、そしてConsilienceの造語にまで
見事に科学全般の統合性を訴求していたことは当然でした。
そして、本来は分科学であったことから、
科学は、その分化とともに専門性に深度を持つようになってしまいました。
彼の造語が今あらためて脚光をあびるようになったのは、
分科学ではなくて科学性の統合こそ、実は科学の本質であるとした
エドワード・オズボーンによるものでした。
彼の専門は自然学であり、
彼は社会自然学にコンシリエンスを採用しました。
社会自然学の統合性は保健学=Health Scienceで再度取り上げられ、
自分がデザインを加味したのも、デザイン科学としたときには、
科学の文科系と理科系、さらに学術性と芸術性の統合が必要ということを
デザインとして、その進化には最もふさわしいという発想からでした。
コンシリエンスデザインという統合性には、
 ● 規模的統合
 ● 機能的統合
 ● ネットワーク的統合
 ● 文化的統合
この四つの統合性からは、
いわゆる「コンセプト発想」は消滅していきます。
コンシリエンスデザインは確実にコンセプト発想では、
大きな間違いが含まれることを
これからは証左していくことになるでしょう。

*『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』
*『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』
*『これからのデザインを語るために=・・・signare・・・』
*『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』
*『『学際化』によって危機管理デザイン工学をめざす』


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『もう絶対に逢えない、今日は母の命日』


   


     6月 5th, 2016  Posted 12:00 AM



この日早朝、母は逝きました。
47年間のうち、21年間は私だけのための生涯だったと思います。
命日を迎える度に、自分が生きてきた目標をかみしめなおします。
しかし、3度は重篤状態になってきた経験からは、
いわゆるあの世で出逢うことは絶対に無いというのが最近の結論です。
どうして、自分があの母の下で育てられてきたのだろうかということは
哲学のまず基本的な命題だと思ってきました。
一浪をして、正直に医学部進学よりも美大に行きたいと言ったとき、
母は「医者になることは全く似合わないから辞めなさい」と言いました。
美大進学が決まれば当時流行になったVANのスーツを買ってくれましたが、
同時に、ブレスレットと指輪も母は私に買い与えてくれました。
厳格な父には絶対に叱られると思って拒否しましたが、
「美大に行くなら、これくらいは当然。そしてもっと男らしく」
ということでした。
「赤い血を見るより赤い絵の具の方が楽しいから」でした。
しかし、ちょうど父は警察の刑事部門の幹部となり、
毎朝、黒塗りの車で敬礼されて出勤をする立場になり、
母は癌を宣告されました。
ところが当時は、本人には言わずに父と懸命に癌治療を考えました。
父からも「和男、大学を辞められるか?」と聞かれました。
「全ての財産を使ってでも直したい」と父は言いました。
私は即座にOKをしました。
母の死後、遺言が出てきました。死の10日前に私宛のものでした。
「あなたは、もう福井に帰ってくることはないから、
世界で活躍できるデザイナーになりなさい」という遺言でした。
大学を出たら地元の短大で美術を教えると言ってきただけに
大きなショックを受け、やれるまでやろうと考えたのです。
美大を道楽学校としか私に言わなかった父に、
大学人になって、医学博士号を受けた報告をしました。
「貴方への借りはこれで返した」と。
父の葬式の夜に、
「結局、父はデザイナーになった私を許してくれなかった」と言いました。
父の友人は言いました。
「何を言っているんだ、酒を飲むと君の自慢しか言わなかった」。
それを聞いて、やっと父との別れに私は号泣しました。

*『母と死別して45年も過ぎてしまいました』
*『指編みを思い出しながら』
*『63歳まで生きました・母より年上です。』
*『大好きな色鉛筆・最近のお気に入り』
*『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


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『武士道・騎士道の中心象徴の「刀剣」の美学性』


   


     5月 17th, 2016  Posted 12:00 AM



この小説を読んでから随分と経ちますが改めて読み直し、
その冒頭の書き出しに注目しています。
理由は明快です。
なぜなら、米国のハンティングナイフや各国軍隊のナイフは
講義可能になりましたが、「日本刀」についてはまだまだです。
ともかく、「玉鋼」・「火打ち荒削り」・「研磨仕上げ」まででも
そこからの仕上げにはとても到達できません。
思い起こすと、「チェーザレ・ボルージア」に戻れば、
彼が有していた「剣」こそ最高と言われていますから、
このいわゆる「西洋の剣」その造りに戻れる気がします。
世界中の刀剣研究家たちの評価は、「日本刀」が最高とのことです。
これには二つの見解があります。
科学的な検証での素材がなぜ最終的には冶金技術や仕上げられた金属、
その内容が不明だというほどの金属性能をもっているという事実です。
もう一つは、日本刀の「象徴性」です。
自分なりの「象徴性」の背景には
「葉隠」という武士道の哲学があったからです。
同様に、武士道と騎士道には近似性が見事にありますが、
「チェーザレ・ボルージア」という人物には
決して騎士道はありえずですが、
それでもなぜ象徴としての「剣」が存在しているという刀剣の
その魅力・魔力・妖刀性をデザイナーとして見直しが必要です。
「刀剣」は現代、偽物が平気で氾濫しています。
何と言っても、「包丁」でこの現実がそれこそ低能なデザイナーが荷担し
日本刀の正当者からその偽物包丁に文句が出始めていることです。

*『刃物の地肌、その偽物氾濫が流行している』
*『喧嘩とは、自分に売ることが基本だ』
*『日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・』
*『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』
*『直線を徹底するために「曲線」を身体化してきた』


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『パトローネが文化を再考察させるデザイン戦略』


   


     4月 29th, 2016  Posted 12:00 AM



焼酎ブームになって久しいと言って良いでしょう。
なぜ、焼酎が飲酒としてこれほどまでに成長してきたのでしょうか?
自分なりに聞き及んでいることは、二つあります。
まず、阪大が醸造における糀菌を醸造科を廃止し東大に渡し、
東大醸造科の技術進化があったからということ。
と同時に「iichiko」のK名誉教授のデザイン戦略があったということです。
このデザイン戦略は、K氏のグラフィックデザイン展開だけではなくて、
すでに130号発刊された季刊小誌があります。
130号目を見ればデザイナーにこれを読みこなす能力が問われるでしょう。
「日本語言語論の革新へ」という特集記事を見て、
ことさらにこれはデザイナーが立ち向かえるものでしょうかと思います。
しかし、自分が強調したいのは明らかに言語論と対峙できる能力が
デザイン界、デザイナー能力には不可欠だということです。
日本語の文法、述語の世界、一人称の問題としての人物人格は、
すべからく詩的言語性や言文一致性とその時間表現性と関わっています。
結局デザイナーのそのデザインを根底で支える表現への理論・哲学性です。
洋酒であれ、日本酒であれ、とうとうそれが焼酎であれ、
飲酒という文化は現代文明の奈辺で理論・哲学のパトローネが必要です。
このパトローネに方針を与えることこそすでにデザイン戦略なのです。
したがってこのデザインスタジオに、
この小誌の編集室があることはもっともっと知られるべきことです。
デザイナー能力がこうした小誌の読者であることの
重大さを書きとどめます。

*『東京老化と地方消滅にデザイン戦略を』
*『アナログの極致=レコード再生のカートリッジ』
*『C.I.デザインの源流としての思想』
*『ファッション誌で知ってさらに自分ファッション』
*『前頭葉で「ち」と「は」=形と言語が制御されている』


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『人工知能には「ち」の思潮が欠落している』


   


     4月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM



「人工知能」が間近に来ていると言われています。
最も「人工知能」というのを、どこまでの範囲、領域、
あるいは性能・効能・機能で語るのかによって限界があるでしょう。
しかし、僕は、人工知能は不可能だと言ってきています。
それは「知能」という日本語がすでに間違っているからです。
「知」を明確化するために
「ち」の日本的な哲学・思想が欠落していること。
つまり、「ち」は日本の伝統的な思潮であり、
それは血から値・地・治・智・致など、知の思想までが
人工=コンピュータで創り出せるだろうかにあります。
かつて僕はコンピュータにはSyntax Errorがあると言ってきました。
そこで、Configuration Error を徹底して排除したのが
ゲームであり、囲碁、将棋。そしてチェスに対して
人間とコンピュータの勝敗はコンピュータが勝ったという論理です。
これで、人工知能はもはや完成の射程距離が明確になってきたという風潮。
すべからく、僕は大嘘だと断定しておきます。
人工知能という性能と機能はPlay Backシステム、
すなわち決定的な「繰り返し作業」は可能になりますが、
これを「人工知能」というのは憚られます。
したがって、Play Backシステムが効能化されれば、
人間の労働環境に異変が起こることから、
必要とされない職業が出てくることは間違いありません。
僕はこれを「人工知能」と言ってはならないと考えています。
知能が完成されるのは、創成・創発・創出という考え出す発明力です。
これを成し遂げる「ち」の思潮がコンピュータに、アルゴリズムに
確実に蓄積される必要があります。
そうした意味でも、あえて「人工知能」は不可能説を
僕は言っておきたいと考えます。
それこそ、ロボットが30年経ってようやく「医用ロボット」になったこと、
この事態と極めて似通っていると思うからです。
産業用ロボットはすべてPlay Backシステムでしかなかったことと同値で
おそらくArtificial Intelligencesでは無理があり、
Consciousness / Information / Knowledge にはすべて
「ち」の思想から理念があるということです。


*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『リトルコンピュータピープルの顔色は人工知能要素かも』
*『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』
*『KK塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』
*『資本主義からの逃走』「各産業の0.5次化という高度化は情報化を加算」


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