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Posts Tagged ‘土産物’


『和紙と和風紙は絶対に分けて考えるべきだ』


   


     10月 30th, 2018  Posted 12:00 AM



和紙は伝統工芸のそれも1500年の歴史があり、文化です。
しかし、もはや土産物の一部を構成しているようです。
土産物であっても、私は批評しようということではありません。
和紙であるが故に、絶対に和風紙と言っては駄目です。
私は和紙が世界遺産になったときも、やっと和紙がと安堵しました。
ところが、その時選ばれた和紙はたったの3つの産地だけでした。
1300年の歴史があり、伝統を受け継ぐ仕組みや組織が確立された産地です。
あの日も、キャリアを呼び出した議員とともにその議論に加わりました。
選定されなかった産地に欠けていたことは、産地としての永続性でした。
そして、キャリア達も和紙と和風紙の違いは十分に知っていました。
それほど熟知していても「なぜ?」、和紙+和風紙が全く変わりません。
私にとっては、このブログでも和紙と和風紙はいつも言ってきました。
和風紙は越前の産地では必ず「半草」と呼ばれています。
それは「半草」には紙パルプが混ざっています。
和紙への印刷はとても難しくて、和風紙なら大丈夫なのです。
明確に表示し分けて扱うことで、
それぞれの特性と取り扱いを知ることができるでしょう。
実際、私は表示がなくとも見た目はもちろん、舐めて見極めることができます。
「紙、舐めていい?」とは店頭では言えませんが、最初はよく言っていました。
もう亡くなってしまったグラフィックデザイナーが、
和風紙を使っていることが残念で、本物の雁皮紙を送ったことがあります。
その当時にそれを明示できるのはたった2名だったと思います。
「半草」である和風紙を知っていただきたいと私は思っています。


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『端午の節句だが、かつての日本の田舎が豊かだった。』


   


     5月 6th, 2016  Posted 12:00 AM



北陸・福井生まれの自分にとって、端午の節句には
幼い頃の強烈な思い出が残っています。
端午の節句飾り・チマキ・菖蒲の湯の香りです。
チマキもすでに京都の日本風スゥーツ?になっていますが
全くのインチキだと思います。
というより、田舎の方が豊かだったと思います。
幼少の頃は祖母が大釜でチマキを大量に茹で上げていました。
もう一度食べたいと思い出します。
その大量のチマキは宮大工大棟梁一族全てに配るためであり、
台所が大騒動であったことや、きな粉の香りが今も残って居るほどです。
そして菖蒲の湯のために職人さんが菖蒲の俵巻きを
荒縄でいくつもつくっていました。
高校生になっても、それは家に届いていました。
そして、何と言っても、端午の節句のお飾りは、
最初の外孫であったために、ミニチュアの弓矢や刀がありました。
残念ながら飾りの弓矢などは水害で無くしましたが、
刀といっても小刀は残っていて、
しかもそれは本物でありそれほどの切れ味ではありませんが、
小学生の頃は、山で遊ぶときには有効な刀になっていました。
端午の節句、その直前には、父の日本刀の手入れを離れて観ていました。
その時に日本刀の手入れや、
菖蒲の俵巻きの方法などは習っておくべきでした。
すでに端午の節句での鯉のぼりや5月飾りなどを見ると、
あたかも日本の伝統は、お土産物や観光の小道具になっています。
それは伝統文化を商業的に利用しているだけの、
きわめて「貧しい継承」だと思ってしまいます。
日本の伝統継承が貧しくて、
余程、昔の田舎の方が豊かだったと思います。

写真は私の自宅:マンション(集合アパートの玄関飾り)

*『最近見なくなった竹藪、その思い出』
*『享保の手帖から私が学び直したこと』
*『* 夢の大きさは、祖父への約束 *』
*『大風呂敷という喧嘩手法、その肝心要』
*『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』


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『落下傘としても羽二重は最高品質だった』


   


     10月 19th, 2015  Posted 12:00 AM



2012年からふるさと福井の繊維産業の一新化に関わっています。
ともかく、歴史から福井の繊維を語り直そうと考えています。
それは「羽二重」が絹織物の名品となって
日本からの貿易輸出品だったこと。
ゆえに羽二重から人絹取引所まで生まれ、
今はポリエステル繊維が中心になっていますが、
羽二重が最高に優れていたのは、
これが落下傘=パラシュート素材でした。
富岡製糸場は由利公正が西洋の絹糸を学ばせた最初の工場でしたが、
生糸では欧州とは競合が出来ないことから、
縦糸2本に横糸1本で羽二重こそ、最高の絹織物でした。
そして、日本には落下傘部隊が誕生し、
それは左上がその部隊のマークだったらしいのです。
羽二重でのパラシュートは、最高のモノであったらしく、
そのパラシュート生産の産地が第二次大戦時には、
米国から大変な空襲を受けて、福井は焼け野原でした。
当時、米国兵たちもパラシュートは持ち帰って、
ウェディングドレスにしたものらしく、
羽二重織物を超えるために、ナイロンが出来たとさえ言われています。
由利公正と言えば
五箇条の御誓文・東京府知事ですが、
それは橋下左内と横井小楠の殖産興業の興し方から学んだことでした。
絹織物は羽二重が世界を制し
日本の輸出品筆頭は九谷焼磁器を凌ぐばかりか
落下傘部隊創設も、
パラシュートとしても最高であったことは知られていません。
生糸産業、羽二重産業、それは人絹織物とまでなり、
人絹取引所は、
その文化までが福井にはあったようでした。
私自身が子どもの頃は親戚の織物工場は学校より大きいものでした。
ところが、最近では羽二重は、お土産物の羽二重餅が知られていて
羽二重が最高の絹織物ゆえに落下傘までが進歩していましたが、
このようなことはすっかり忘れられています。
かつて、福井大学では繊維工学が隆盛していましたが、
繊維工学科はもはや信州大学にしかありません。
私は、生糸→羽二重→人絹→ポリエステルを
さらに進化させた高機能ポリエステルでの新たな商品アイテムづくりが
私にとって、パラシュートを陵駕する、
トランスポテーションや防災、医療、全く新たな産業を
生み出してくれるものと思って
デザイン戦略=問題解決戦略を織物産地に、
その象徴が、羽二重での落下傘=パラシュートだと
私は考えています。


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『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』


   


     6月 17th, 2015  Posted 12:00 AM



藝と醫、この二つの漢字が芸と医という略字になってから、
工藝をさらに読み解いた民藝と醫学は変質しました。
私は工芸と医学それぞれに本質を軽んじる傾向があると思ってきました。
醫には明らかに薬の瓶が含まれ、
藝には草冠と執行するという深度がありました。
したがって、私は芸と医の両方の世界にあって、
藝と醫であった本質論を必ず、
職能観と工芸と医学が喪失したことに言及することを護り抜くこと、
こうしたことには命がけの姿勢が必要だと考えてきました。
運良く、私は柳宗理から薫陶を受け、柳宗玄から西洋美術史、
特に、「美・義・善」を徹底的に叩きこまれました。
正直今頃になってあの時もっとあれを聞いておけばと思い出しています。
そして、先般私は「柳宗理生誕100年記念」の講演という大役を、
先輩と同輩から命ぜられて、
私なりに、先生との思い出は学生時代だけではなく、
東芝新人時代を語りました。
さらに車椅子になって非常勤で母校・金沢美大時代との思い出から、
もう一度、先生の作品から学んできたことを整理できました。
また、何よりも、先生のご子息氏とすっかり意気投合して、
学生運動の頃の金沢美大での先生のことから、
私が相当先生には鬱陶しい存在の学生であったかを話し合いました。
彼から、本当に懐かしき現代の「民藝」という雑誌をいただきました。
そして、私は大きな危機感を持ってしまいました。
現代、民藝を語るにあたってこのような評論や言説が行われていては、
あの「民藝論」の本質は確実に抹消されてしまいます。
それこそ、 
NHK番組で「見立て」の軽薄過ぎる低能力性と余りにも同一だと
私は指摘しておきます。
柳宗悦の「民藝論」を
確実に読み取った評論言説が無残に排除されています。
私はまず、デザイナーとして、
また柳宗理の直系の弟子として見逃すことはできません。
私は勿論、柳宗悦の「民藝」全てを理解しているわけではありませんが、
柳宗悦を父としてモダンデザインの先駆者だった柳先生が
きっと当時は押しつぶされまいとされたデザイン姿勢を思い出します。
少なからず、民藝を愛くるしいと言い切ること(その軽さ)も、
私には許しがたき言説です。軽薄であっても重力感が必要です。
まして「かわいい民藝」などは、「民藝」ではありえないのです。
世界中馬鹿騒ぎで「kawaiiが売れる」ならそうすればいいでしょう。
kawaiiという軽やかさも現代は必要かも知れません。
でも柳宗理先生はカンカンに怒っているでしょう。
しかし、その国際性には重力感は残存させるべきことです。
もっと知るべきは「かわいい」と「美しい」という形容詞には、
「きれい」という形容動詞が介在しているのです。
柳宗悦が形容詞の扱いにどれほど慎重であり、
それだけに、柳宗玄先生は「美と義と善」を語り、
柳宗理先生がどこまで徹底して、民藝とデザインを対決させ、
学生だった私には「用と美」へ、私は引き受けた5つの言葉があります。
自分のデザインを決定されていたかを私は語り次ぎます。
それは、現代の「民藝」は、「民芸」=土産物ではなくて、
日本美学の先陣で、デザインから語らなければならないからです。
5つの言葉で、デザインが用と美を民藝に差し向けた詳説を
私は講義していくつもりです。


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『祇園祭・祇園と祭りの根源はもう忘れられている・・・」


   


     7月 18th, 2014  Posted 12:00 AM



京都は、日本の伝統がそのまま温存と継承された街ですが、
その由来・因縁が忘却されているからこそ生き残っている、と、
私はそう感じています。
若い頃、京都が伝統の街をなぜ忘れているかを講演で語りました。
以後、京都からの講演依頼は無くなった経験があります。
この伝統を継承というかたちで残したのが革新都市化であり、
そして無税の人間がおそらく日本で最大に多い街だと思っています。
だから、ユネスコ遺産の保存費用にも事欠き、その補填を
「世界一の観光都市」で賄ってきているのだと思っています。
私のワイフが生粋の京都生まれ京都育ちで、実家周辺は観光地とか。
だから、観光期間中は実家周辺はあまり行きたくないとかです。
私は、日本の文化が奈良と京都というならば、
その都市を支えてきた福井県(越前)と岐阜県(美濃)が、
労働で和紙、刃物、陶器、漆器などがその根本を支えていたのです。
「祇園」という呼び名にしても、あるいは「祭り」の形式にしても、
祇園祭が総合化したことこそ、実は、輸入文明を日本文化にした
その形跡そのものが偉大な事ばかりであったことが重大です。
祇園祭の山車には、シルクロードからの最先端が毎年あったのですが
それらはすっかり忘れられた継承だけの山車は駄目でしょう。
ちょうど、この祇園祭に便乗した「チマキ」をみると、
すっかりお土産ものとしての貧弱さを私は確かめることができます。
「チマキ」は、祖母が大きな窯で茹で上げるのをみて育ちました。
それは、一族郎党から「家」を支える全ての人、その大行事ゆえ
笹餅が京では全く違うモノになっています。
ふるさと福井のそのチマキが、京都の土産物になったのは貧弱です。
少なからず、日本の伝統は、毎年、国外や国内の最先端を
京の文化に変換されるその豊かさは、政治的だけの革新性で
全く異質のモノに変えてしまったのです。
それが伝統文化だとは決していえないものに
変わり果てていることを書き残さなければなりません。
京都の真の文化は、国内外の最先端をまとめ直した偉大さでした。
少なからず、なぜ「祇園」=gionだったのかを思い出すべきです。


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『Saint-Etienneの美しいカードそのデザイン』


   


     2月 1st, 2014  Posted 6:55 PM



自宅の改装がようやく落ち着きました。
この改装時にフランスから親友のディレクターが、
私の自宅隣のホテルに宿泊してもらいました。
改装があって、一日は自宅で昼食ができましたが、
翌日はスタッフとドクターに阪大、特に病院視察をお願いし、
夕食は私たちが気に入っているレストラン。
しかし、翌日からはすれ違いにも関わらず、帰仏前に、
一枚のカードをホテルフロントに残してもらいました。
先般、キーノートスピーチしたSaint-Etienne市のカードでした。
フランスを代表するデザイン都市のカードは見事なデザインです。
都市のランドマークには、それぞれの歴史性が表現。
赤い円形の中にある三つの建築は、
都市を象徴するタワー・美術大学分校・デザインセンターであり、
フランス革命時には鉄鋼産業の街であり、中世の建物から、
現代都市のランドマークで表現されているカードでした。
このデザイン都市で、フランスの土産物そのデザイン審査があり、
デザインを基軸にした土産物選びから、
今では医療産業へデザインを差し向けているだけに、
「アルツハイマー対策のデザイン」をすでにコンペにしています。
しかも人口はたった18万人の小さな街です。
私が1997年「フランスにおける日本年」で「経済と文化」を担当、
フランス・パリからの偉いさんに喧嘩をしたことがあります。
「デザインとアートは違う、デザインを見くびっては困る、
だからフランスは遅れている」と言ったことが昨日のことです。
今の日本では、「前例が無い」と断られることしばしばです。
しかし、フランスしかり、もっと中国しかり、
「これは世界で最初ですか?、それならOK特に即実現を!」。
このカードの美しさを今の日本は生み出すことができません。


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『本物に出会う「漆器」にもささやかな未来が見えた』


   


     10月 14th, 2013  Posted 12:00 AM



岩手県に平安時代からの「御山御器」は浄法寺塗となりました。
「養生掻き」という自然保全を完成させた素晴らしい漆採取から、
明治期にやがては「越前衆」と呼ばれた漆掻き職人が加わり、
私はJAPAN=漆器の代表的な本命の一つとして注目してきました。
東京で偶然に飛び込んだ「漆器展」で、
浄法寺塗を受け継ぐ展示会を見ました。
若い女性の漆器作家の人に私の存在を知られて、
すっかりと話し込みました。
私のことを知らない漆職人作家の方とも今後のことを話しました。
展示会場で異彩を放っていた漆器作品を買い求めました。
フリーランスになってから、日本の伝統工芸である漆器は、
「越前木地師」をまとめて、この企業は、塗り物産業にしました。
伝統工芸産地の経済的効果は全国全て同じ悩みです。
私が知り得ることを相当に語りました。
すっかり、「土産物」になってしまったり、品質の劣悪さなど、
私は、手触り、香り、重量で、カシュー仕上げなど分かります。
だからデパートでも「これは偽物」と断定することしばしばです。
漆掻き技法から、漆樹木管理、木地づくり技、漆器仕上げ技法、
そして、現代ではもう取り戻せない技法の復活などを伝えました。
たとえば漆器でのコーヒーカップは、コーヒー味を活かせません。
しかし、カレーライスと漆器は素晴らしく相性がいいのです。
また、本物の漆器を日常使いにすれば、
絶対に生活習慣病の予防になることも一部では立証されています。
私は、浄法寺塗に、まだささやかかもしれませんが未来を見ました。
でなければ、私自身の生活道具には絶対にしないでしょう。
この産地に、「デザイン戦略」を伝えたいと考えています。
そして、もっともっと日本人は「漆器」を知るべきだと思います。
これから、ふるさとや北陸の産地に、
この岩手県にあの平安時代からの連綿とした漆器技法を伝えます。


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