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Posts Tagged ‘大きな物語’


『広報誌がまだジャーナリズムである』


   


     8月 10th, 2015  Posted 12:00 AM



私は福井在住の頃、福井県行政のまさに敵あつかいでした。
それは福井県行政がいまだに時代遅れ、を指摘するからでした。
県行政からは広報誌など名古屋にはまったく送付無しでした。
今は福井市と越前市から「広報誌」が届きます。
つまり、全国にこうした広報誌はどれだけ発行されているでしょうか。
私は今も越前市の広報大使をしているので毎月の日毎の企画を知ります。
決してこうした広報誌が行政の税から作成されていたとしても、
いわゆる「ジャーナリズム」の基本の基本は全うされています。
だから一般マスコミの雑誌出版は消尽すべきだと断言します。
もはや出版業界そのものが低迷どころかもう時代的な即応性を
失ってしまっていますから、ジャーナリズムそのものは、
新たなメディア、それはインターネットでのHP以上があるのに、
すべての出版業界は発明も出来ないのには私は呆れています。
呆れると言うより、ジャーナリズムの基本理念を喪失してる業界の
能力レベルが時代的に露呈してきただけの実話に過ぎません。
私にとって、デザイン系・建築系・技術系・芸術系などは
現代は全てが行政の発行する広報誌以下のレベルに成り果てています。
その理由を決定的に記しておきたいと考えます。
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
現代を記事として出版しようがHPアップしようが時代読解力無しです。
そして、得てして出版は未来を語ろうとしても、
それらはすべて取材して編集、
それも編集学に無知な記事だと勘違いしているのが出版業界であり、
マスコミもサブカルチャー雑誌も、行政の単なる「日々の記録」を
決して超えることが出来ません。
かつて私は17年もある雑誌に連載をしていましたが、
それは出版としての経済投資効果を得られずに出版が終焉しました。
私はその変わりがこのHPでの小さな物語というジャーナリズムとして
それは自分自身への編集学そのものだと考えています。


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『私の必需品呼び鈴がありますー今喧騒の大阪です』


   


     5月 20th, 2015  Posted 12:00 AM



私はベッド上で過ごす時間がとても長いと思います。
呼び鈴は二つあります。
これは私がワイフを呼ぶためのモノであり必需品だと思っています。
国民投票があり、大阪は市長が敗北しました。
ローカル政治には、どちらが正しくどちらが誤りということが、
改めて確認された大事件だったと思っています。
そして今日も、賛成派は反対派にほとんど罵られ、
反対派は賛成派に、シルバー民主主義こそ「年の功」だと喧騒です。
私たち夫婦は事の成り行きを見定めて、事前投票をすませました。
明らかに、一人のローカル政治家はトリックスターとして、
自分で自分の政治家未来を封印してしまったのです。
賛成派の純粋な二重行政反対や、反対派のトリックスター批判、
この背後には、最も隠避された仕掛けがあったことは事実です。
大阪市の都構想の是非が、投票という民主主義そのものを
私は信じきることができません。
したたかな隠避された土木事業既得権を私はいづれ明白にします。
都構想など、現代の地方行政には無理当然であることです。
賛成であれ、反対であれ、投票行為そのもののウロボロス性は、
いずれも今頃遅れて取り囲んできたポストモダンの、
大きな物語と小さな物語で喝破されていることは明白です。
あたかも民主主義こそ最高の論理で、
賛成と反対が弄ばれていただけでしかありません。
私はこの呼び鈴を鳴らすことで、
自分の立ち位置を見つめ直すだけでした。
そして、明らかに、この論理で弄ばれていた大阪人、
それは私たちも、私たちなりの投票しなければならなかった、
この現代を生きなければならない、寿命への過程でした。
それこそ、小さな物語にひとまず自己を置いてみて、
もっと賢明だからこそ、懸命に寿命ある寿ぎの時まで、
この大阪の地に生きようと思うわけでした。
呼び鈴はとても乾いた音がしています。


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『資本主義からの逃走』
 「グローバリゼーションの基礎はグローバリズムだろうか」


   


     11月 16th, 2010  Posted 1:32 AM

世界観への一元化
グローバル化はグローバリゼーションです。
近代化の下敷きは市場経済の拡大と拡張でした。
これは地域固有の価値観や制度、規範や権威に変形を与え、
実際は、欧米型の世界観への一元化だったと回帰することができます。
詳細に観察すれば、地球上の国民国家はそれぞれの国民経済力を単位として、
それぞれ国家の文化が形成されてきたわけです。
しかし、東西冷戦や南北問題を引きづりながらも、
結局は資本主義経済と地球全体が西洋化する均一性に向かってきたのでしょう。
ところが、冷戦の終結、南北問題よりも大きな宗教・民族対立・テロリズム、
そして地球環境破壊、民族間・国家間格差は、
世界秩序という虚構よりも動揺とアポリアを引き込んでしまったようです。
この地球的転換がグローバル化と断言していいかもしれません。
グローバルビレッジ
グローバル化の方向性や地球全体を、グローバルビレッジという理想実現や、
web空間でのネットワークによるコミュニケーション保全が問題解決、
そうかもしれないという期待も破壊されています。
たとえば、難民の存在、外国人労働者という低層、賃金格差は、
すでにBottom of the Pyramidという認識に直面しています。
私は、地球市民理想やグローバルビレッジ、
それこそ世界意識の強化という主義性、
グローバリズムという理念あるいは哲学を基本とした権威性に期待したいと思っているのです。
グローバリズムに連結と連鎖
要は、この理念・哲学での権威性にリーダーシップ性を任せないかぎり、
地球全体は動揺どころか紛争・テロリズム・環境破壊の進行は、
人類の存続性を剥奪することになるでしょう。
だから、翻って、地域主義、小さな国家の物語を強固にしていくことしかありません。
ローカリズムはグローバリズムと連結と連鎖していることは間違い無いというのが私の見解です。
私は、伝統工芸産地や機器の微少な部品産業などの小さな物語が、
大きな物語としての地球一体連合国家あるいは連盟国家になっていく気がしてなりません。


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『資本主義からの逃走』
    「小さな空間としてのローカル」


   


     10月 17th, 2010  Posted 12:00 AM

小さな空間
マルキストとして著名なリオタールは、
「大きな物語」と「小さな物語」を歴史論から、
ポストモダニズムの提言にしたことはもう忘却されているでしょう。
私は、この分析・解釈、そして新しい時代づくりへの思索的考察が、
耳鳴りになっているのかも知れません。
しかも、反マルキストですから、かえって彼に囚われているのでしょう。
そこで、今、瀕死的な状況にある地方都市の再活性化を、
東京=大きな空間との対比も、この耳鳴りの質が変化する気がしています。
しかも、東京が小さな空間になりつつあることも自覚しなければなりません。
なぜなら、国際的には、気づいたら東京はローカルになりつつあります。
ソウルがあり、上海があり、マレーシアがあり、シンガポールが大きな空間になってきました。
だから、私はことさらに「小さな空間」から再出発です。
その高密度性能、充実した機能、確約された効能をデザインし直すことが、
もっとも大事だと意識しています。
ローカル「越前市」を変える
私が、小学校高学年、中学時代をすごした街、
「越前市」=武生市+今立町の合併)に、デザイナーとして、ここで育った人間として、
「ローカル」の再興を伝えたいと帰省しました。
「0.5次産業化up」
一次産業はすでの1500人、二次産業は19000人、三次産業は24000人、
このデータを見ながら「小さな空間」の近未来産業をデザイナーとして提案したいと思います。
簡潔に、結論は一次、二次、三次を0.5次産業化upしていく具体デザインです。
それは街の伝統文化を「大きな物語り」にする方法を、まずは発想しようということになりました。
一つは、「情報」での価値性アップです。
それは私が取り組み始めたアンビエントアライアンス=ロボット+原子力+情報を視覚化します。
そうすることで、 I see ! とみんなが参画してくれるデザインアイディアだと考え着きました。
これから、この具現化の活動を開始するでしょう。


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『資本主義からの逃走』
  「大きな空間と小さな空間・ポストモダニズム不要」


   


     10月 16th, 2010  Posted 12:00 AM

「物語り空間」
現代、「空間」の設定は多様に可能です。
私は「物語り空間」ということを設定してみます。
これは多分「大きな物語」と「小さな物語」になぞらえた想いです。
「大きな空間」は地球という空間・グローバルな空間であり、
「小さな空間」は故郷という空間・ローカルな空間です。
幸運にも私には、故郷・北陸に福井県という生まれ故郷空間・小さな空間を持っています。
私は、「大きな空間」と「小さな空間」を対比して考えることのできる次元的な空間論者です。
万一、この対比する空間を持ち得ることができないとするなら、それは不運だと思います。
それこそ、産業経済や政治が対象としている「空間」は都市空間であり、
グローバルに国際空間での資本主義的な「富の獲得・分配・蓄積、そして再配分」に、
経済と政治は呪縛されている不運さは不幸さにまで結びついているということです。
産業・経済・政治から離脱するデザイン
このブログタイトルそのままに表現すれば、資本主義からの逃走というのは、
このグローバル性・国際空間の空間認識、その次元性です。
次元性というのは、経済単位と政治単位からの離脱を私は意図しています。
だからといって、古典的な「無政府状態の国際空間」ではありません。
私の意図の核心は、「大きな空間」・「小さな空間」=グローバル空間とローカル空間を、
産業・経済・政治から離脱するデザイン=創造です。それを求めていくには、
「小さな空間」=ローカルの伝統と文化、取り巻いている自然空間が出発点だということです。
ポストモダニズムからの離脱・やや古くさいが
今、地球環境の保全性や自然環境という自然空間、その破壊の修復がそのまま、
人類の存続に直結していることはすでに私たちは熟知しています。
しかし、ローカルの伝統と文化が蓄積されている「小さな空間」から、
「大きな空間」・グローバルを救済する方法論を見つけ出しているわけではありません。
私は、「小さな空間」が次第次第に拡張や拡大し、
あるいは無限に「大きな空間」になっていくという想像力を大切にしたいと思うのです。
多分、「大きな物語りと小さな物語り」と言えば、リオタールを思いうかべるでしょう。
しかも、彼はマルキストです。
なおさらのこと、「大きな空間」と「小さな空間」は、
ポストモダニズムからの離脱をも私は狙っています。


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