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Posts Tagged ‘大間違い’


『桜=日本という誤った大間違いのイメージ表現』


   


     1月 15th, 2014  Posted 12:00 AM

このことは指摘し書き残さなければなりません。
もし、桜が日本をイメージする表現だとしても、大間違いを、
私は指摘し、この表現に安易に乗っている馬鹿どもを許しません。
100円ショップに、阿南漆で生産されたお椀にすら、
桜がそれらしく装飾されています。
桜を表現するデコレーションのデザインです。
最も安っぽい表現が、なんと日本イメージになる低レベル。
なんでもソメイヨシノを植林すればそれでいいとする有名建築家。
その存在も私は大否定しておきましょう。
なぜなら、ソメイヨシノこそ、日本の桜を台無しにしてきた、
とんでもない存在だからです。
ソメイヨシノを植えれば、他の植物を殺す存在ゆえに、
日本の桜文化も否定してきているのです。
有名建築家なら知識として知り置くことです。
これが見事に中国製で阿南漆の100円ショップお椀になり果て、
その浅薄な知識が「日本表示」のマークにもなり果てています。
桜はまさしく日本を表現するシンボルであるだけに、
その知識の深度が必要です。
浅はかな無知識な「桜」表現を私は全否定します。
それは、日本人の知識人ゆえに、
万が一海外から、「あぁ、とうとう日本人も浅はかな!」という、
そのようなことを言われないためにです。
桜=日本、このイメージこそ、
日本のわび・さびにつながる重大な思想が必要です。
しっかりと、桜のイメージを見ているプロがいます。
そのことを忘れないでいただきたいと思っているのです。
桜=日本このイメージにはまともな思想が必要だということです。


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『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』


   


     1月 13th, 2014  Posted 12:00 AM

「技術革新=イノベーション」は大間違いだと述べてきました。
それはイノベーションを提示したシュンペンターに戻れば、
一目瞭然です。だから、わが国の解釈が歪んだのです。
たとえば、4KTVが話題になっていますが、
これは「応答商品」にすぎず、TVメーカー業界の技術進化、
そのものが誤った方向に進もうとしながらも、これを、
デザイン職能=デザイナーが是正出来ないほど企業腐敗症例です。
少なからず私の自宅のTV環境は最も先進的だと自負しますが、
これらはほとんどが東芝とSONYと海外AUDIOで構成しても、
かつて私がEIZO(液晶TV事業撤退)でのデザインには及びません。
このペーパーモデル=製品提案と商品を見比べても明らかです。
すべからくTVデザインはTV本体裏面とリモコンデザイン、
この対照化をすれば、技術革新とデザイン解決、
すなわち、応答商品=市場意識と解答商品=真の実装技術が瞭然。
私のデザインでは、放熱口などありません。
すべてアルミでの放熱効果性とコードマネージメントと、
ディスクプレーヤー造形での可搬形態づくりまで昇華しています。
無論、このリモコンを超えられるモノは未だに存在していません。
したがって、東芝最高級品の液晶TV造形・システムも、
SONYの商品を付加し、なおかつオーディオは海外高級品です。
これらをくみ上げてようやく、私なりに納得せざるをえません。
真の「技術進化」を目指すなら、まず、デザイナー造形
この造形提案を技術回答から解答を造形実現の実装技術が必要。
こうしたことの意志決定できうる経営陣の能力、
特に、「美学的解決」知識不足、いや皆無性を指摘しておきます。
多分、こうした経営者は日常的にも「見づらいTV鑑賞」でしょう。
美しい高解像度の映像と音響を知ってほしいものです。
このTVデザインを「技術進化」の踏み台にしてほしいのです。


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『現代妄想には闘い続けなければ大間違いの世情になる』


   


     1月 11th, 2014  Posted 12:00 AM

TV放映では語り継げないことが多いことは明らかです。
しかし、私の表情を読み取った人たちは多かったのです。
私の恩師はすべてを読み取って二つの感想の電話がきました。
私がプロとして相当に押さえた発言をしていたかということ。
それでもTV出演しているだけの演技もデザインには必要。
私は今この日本が、特に大企業が国家を支えられず、
しかも若い世代は大企業への信頼感すら失っています。
しかし、やはり大企業だからこその真の力、
その偉大さ、尊大さと矮小さまでを識り尽くさない限り、
ベンチャー企業の起業能力は妄想にすぎないものになります。
いくつもの企業体験をしてきました。
特に、モノづくりとコトづくりをそれぞれデザイン対価で
評価判断もしてきました。なぜなら、デザイン対価にこそ、
デザイン職能の価値が規定されているからです。
結果、海外は明快にデザイン対価を取り決めます。
わが国でのデザイン価値とは大きく異なっているのです。
つまりデザイン成果価値をProfitとBenefitで峻別できます。
わが国のデザイン成果価値をそれこそベンチャー企業ですら、
未だに理解どころか分別もできないのです。
そのような企業が30年も存在することは不可能です。
Profitとは「金銭価値」=純利益であり、
Benefitとは「印象価値」=ほぼ経常的な利益と考えられます。
まず、「デザインする」という価値を、
デザイン対価=Profit+Benefitに出来る起業家には才能が必要。
もう私にはその才能も見極めがつくようになってきたと思います。
この自負心が正直に私には表情に出てしまうようです。
恩師にはそれを見透かされていましたが、まだ闘う覚悟です。


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『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』


   


     1月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

わが国で「ベンチャー企業」が喧騒化されたのはIT企業の登場でした。
それは「デジタル社会が後押しした」イノベーションイデオロギー、
その大誤りの読み違えだったと私は思うことができるようになりました。
まず、「イノベーション=技術革新」ではないこと。
IT企業が寄りかかりすぎたインターネット社会観の悪弊。
そして、大企業経営者が失った信頼感があります。
シュンペンターに戻れば、技術革新ではなくて、組織の官僚化と企業論、
この思考を存分に高めていけば、イノベーションの本質が見えるはずです。
しかし、ほとんどの人にはその本質知らずが蔓延しています。
私はこのことこそ、日本株式会社がまさに倒産した事実だと考えます。
そして、デジタル社会の具体的な象徴はインターネットでした。
このインターネットに寄りかかりすぎたベンチャー企業は、
やがて消滅されるのに30年も要さないことでしょう。
今ではおそらくすべての大学には、
あたかも就活以上に「ベンチャー企業の起業化促進」こそ教育、
そんな風潮がまかり通っていますが、これは「大間違い」です。
これを促進させたのは、わが国大企業の経営者たちの「器の小ささ」です。
誰だって、サラリーマンという儚さは嫌なはずですが、
それをそのままにしてきたわが国の経済界の大失態があったことです。
敗戦国家であっても、ベンチャー企業として認められてきたのは、
「HONDA」と「SONY」だけでした。
それが世界経済で容認されてきた真の理由を知るべきです。
私は最近KK塾
デザインコンサルタントとしてそのことに注力しています。
つまり、「デジタル社会」は人間らしさを自然から剥奪してしまいました。
人間らしさを「ベンチャー企業起業化」には、
イノベーション・デジタル・インターネットから開放されるべきです。
明確なデーターがあります。
● ベンチャー企業が1000社生まれても2.8社しか30年後には残りません。
● しかし、300年以上の企業が3000社日本には有ります。
この二つの対照的な事実に、ベンチャー企業起業ブームを再考すべきです。
300年の歴史ある企業哲学にはすべての共通哲学があります。
昨日、ロボット学者森先生の講義で、私は改めてこのことを確信しました。

【カンブリア宮殿】
・放送予定日:2014年1月9日(木)よる10:00 – 10:54
・放送局:テレビ東京系にて放送
・詳細はこちら>>


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『欧米が未来のモノづくりとした大間違い』


   


     10月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

「MAKERS」という著作によって、わが国も大ミステイク。
この著作の基盤は3D-Printingこそ未来のモノづくりという顛末。
結果、これにこそ未来があると見誤った人たちを知りました。
そこで、大阪大学の知性でこれを正当に評価して、
国内最大のイベントをしました。
そこから、私はこのブログで特に米国を追いかけました。
元来、光造形システムからのラピッドプロトタイピングも、
米国にほとんどの特許が移行されてしまいましたが、
わが国では先進的な学者によってナノやマイクロテクノロジーに、
明確にその進化方向を見定めていました。
その後、米国はわが国への廉価なプリンター輸出を停止し、
なおかつ、国外からの閲覧禁止になったwebsiteすら出ました。
気がつけば、この写真のごとく「拳銃」を3D-Printingとした、
なんとも18世紀のモノづくりを代表にするような記事が出ました。
正直、私は呆れ変えっています。
日本が創出する武器ならば、まだ拳銃に寄りかかっているのでは、
それは時代錯誤と、甚だしいモノづくり発想の相当な遅れです。
先般、国内のインクジェットプリンターメーカーとの、
「産学」共同での新たなプリンター開発契約を済ませました。
そして、この展開にふさわしい地方産業の活性化を訴求しました。
これで「産官学」体制で3D-Printerと3D-Printingを果たすこと、
そうすれば、やはり、「モノづくり」大国である日本を、
強く、国際的な先導と主導国家にすることができます。
無論、乗り越えなければならないことはあります。
しかし、3D-Printerが各家庭に入り込むのは時間の問題です。
それでも、なんでも3Dの立体物が家庭で出来上がる以前、
この流通やクラウドによるデジタルデータ制御があります。
それは、このような「拳銃」が3Dでの象徴では決してありません。
日本ゆえできる革新的な手法に3D-PrinterとPrintingになります。


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「デザインすることの勘違いは大間違い」


   


     9月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

私も腕時計はいくつかデザインし商品化してきました。
今でも悔やまれるのは、
自宅マンションに泥棒がバールでドアを壊し、
腕時計などを盗難されたことです。
見事に、腕時計は当時大きな仕事終了が出来だして、
ようやく買い集めた数十万のブランド時計だけでした。
このショックは今も心に残っています。
そして、そのとき時計の価値は知られた時計ブランドのみでした。
スウォッチでも限定モノなどまったく泥棒価値ゼロでした。
中国製の偽ブランド、その超安物も今ではよく出来たモノになり、
あらためて偽時計から、私の偽ブランドモノを考えます。
それはメガネも同じですが、安物はやはり要を欠落しています。
最近デジタルツール、特にスマホのウォッチ化が競合現象です。
しかし、私には、これはカメラデザインが銀塩のスタイルを、
全く一新できなかったデザインの能力不足を再び見る思いです。
・・・デジタルツールで電話なら、
・・・デジタルツールで時計なら
・・・それらが、スタイルとして「腕時計なら」、
最大にぬけおちているのはブレスレット性とファッション性です。
「ブレスレット+ファッション+デジタル」なら、
その「問題解決」がいわゆるデジタルウォッチであったとしても、
根本の再検証と一新されるべき発想の未熟さのまま、
デザイナーはこのウォッチスタイルに逃げています。
そして、メーカー経営者には儲けはあっても文化啓発力は無く、
かつてのブレゲの壮大さには及びません。
すなわち、ガゼットとしてのデザインで終わるでしょう。
しかし、いわゆるデジタルツールを日常化してきた私たちの
「なくてもいい、なければ困る」時代との共時文化での
生きがいツールの「問題発見」が必要です。
ガゼットデザインは勘違いを大誤解に変貌させます。


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「『3D-Printer』・『3D-Printing』この風潮の大間違い」


   


     9月 7th, 2013  Posted 12:02 AM

Fablab・RepRap・Makersという米国の流行が、
その本質を見失ったままに、わが国では表面コピーされました。
結果、マスコミはこぞって「未来のモノづくりだ!」と騒ぎ、
廉価なプリンターが量販店でも発売されています。
わが国の代表的な大企業が、
3D-Printerで「金型も造れる」と言い出し、
低迷している国内企業の知ったかぶり代表が現場に指令です。
私は、「現在の3D-Printerで金型は全く不可能」と書きました。
企業現場の方々からお礼のメールを一杯いただきました。
あたかも自社企業の先進性を、3D-Printer導入話は全て嘘です。
まず、3D-Printerと3D-Printingの差異も明確にできていません。
そして、現在流行している米国の風潮は、
DIYに過ぎないモノづくりに終始しているに過ぎません。
この源であった、「光造形」・「Rapid Prototyping」も、
本来はわが国の発明でしたが、特許や当時には知財権など皆無。
だからこそ、何を造るからの3D-Printer自体の設計が必要です。
3D-Printingというモノづくりの新たな技術実務が問題です。
私は、日本から欧米に対して、デザイン主導の3D-Printer開発と、
3D-Printingの新技術がこのデザインに必要を訴求します。
現段階の日本の最も駄目な発想は、
3D-Printerという「パンドラの箱」という考え方です。
米国が拳銃まで造れてしまうというような発想自体が間違いです。
18世紀の武器を造る装置程度の低レベルさを疑うべきです。
日本の真のモノづくりを実現させるには、
私自身、「光造形システムと3D-CAD」で試行してきました。
結論は、この画像=トポロジーボトルを
3D-Printingで実現しましたが、これは技術だったからです。
大阪大学で3D-Printingのコンファレンスをしました。
私は、その時、登壇してもらった講演者に真偽を確認し、
それから日本のどのような産業に持ち込むかを決定企画しました。
来10月から、この3D-Printingデザイン講座を開設します。


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「たかがリモンコンではありえない」


   


     8月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

プロダクトデザインの本質を一言で断言すれば、
「使い勝手と美しい存在性」につきます。
そして、このリモコンが明示している人間と生活への提示は、
企業の社会的存在性を最大限に表示しています。
つまり、この企業が人間としての尊厳確認を自己確認しています。
これらはB&O社のリモコンです。
自宅のオーディオシステムはこのすべてで管理ができます。
すでに廃盤商品になっている20年前のモノ(右端)もまだ使えますが、
これはその当時に、
「いづれ家庭内のTVから照明から電話すべて」を
コントロール可能としていました。
しかし、時代尚早だったために
そのようなシステムまで開発は進化できませんでした。
こうしたB&O商品は、
当時から確実に未来のデザインを誘発させる美学的思想と
ライフスタイルを示唆していました。
しかし、B&Oという企業は現代に至って、
そこまでの経営手法そのものを革新的に出来ませんでした。
明らかに経営者能力が
デザイナーの夢を支えられなかった証明と言っていいでしょう。
翻って、エレクトロニクス関係、情報系、
エネルギー系などへの「デザイン提案」を、
実現するのは「企業経営者の義務」だと明言しておきます。
つまり、デザイナーの夢は「絵に描いた餅」と揶揄されます。
それも経営者という種族が
「たかがデザイン」としか思っていないのが真実です。
私はこうした経営者を喧嘩相手に40余年生き抜いてきました。
こうした経営者が社会的リーダーだというのは大間違いです。
それはほとんど無責任で真善美の人間としての生き様の基軸を、
ひとまずは「仮想の経営者にすぎないこと」にも無自覚で、
とても哀れな存在だと指摘しておきます。
まして、そんな経営者が全世界的に増殖していますから、
これは地球規模的大問題です。
デザイナーは、その専門的職能の真意忠実に、
正道をめざして自分の生涯を
そのような経営者から離脱させるべきでしょう。
「たかがリモコン」ですら、
その存在意義に、世界観のあるべき方向が見えています。
比して、現代の全てのリモコンの醜悪さが、
そのリモコンを社会化した企業、
その企業経営者の何物かの
「あってはならない罪悪性」までを象徴していると考えます。


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「現在の世論と行動は『群衆的』とは決して言えない」


   


     7月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

昨今の気候は、異常を超えています。
異常気象というのはもう半世紀も言われてきました。
しかし、大豪雨、竜巻、落雷、大猛暑、
それも連続しています。
この自然現象と平行するかのように、
反原発からオスプレイ配備反対などの「デモ」を
群衆的行動と呼ぶことは、大間違いだと言わざるをえません。
私自身は、冷徹に反原発には「範原発」という思想と行動を目指し、
オスプレイのような新たな飛行機器にはたまらない魅力があります。
けれども、オスプレイの完成度、認知されている事故頻発からは、
とても軍備機器にはなりえていないでしょう。
そして、現政権=政治は、
「民衆」・「民衆的行動=デモ」を群衆的行動と見ていますが、
それはとんでもない政治判断だと指摘しておきます。
大阪では、「大阪維新の会」の動向が、
あたかも大政翼賛会のごとく語られています。
これも歴史認識・知的史観に、あたかも大豪雨や竜巻のごとき、
現代民衆の「知的構造」に大変動が起きていることを見逃しています。
大衆・少衆・分衆は群衆になり、
それぞれの群衆的心理性はこれまで語られ「定本化」しています。
これがもう限界を超えてしまっていると判断すべきでしょう。
もはや政治形態・政治形式そのものが、
「環境」と「遺伝子」が「情報、そのネットワーク」によって、
環境構造変化と群衆の遺伝子操作が進行してしまったのです。
それはたとえ、この群集心理を利用して、
未だに左翼的イデオロギーを再興しよう、
国家転覆を意図している輩も綿密検証されて見捨てられるでしょう。
政権交代を渇望していた時あたりは、
まだ「群衆心理性」が反映していたかもしれません。
おそらく、大衆・少衆・分衆が情報ネットワークでの学習効果は、
群衆を「新公衆」へと確実に進化していると私は判断し、
私自身、「新公衆」の一人としてこの祖国を想っています。


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『資本主義からの逃走』
 「*準から外れ始めた日本のデザイン解*」


   


     3月 13th, 2010  Posted 1:20 AM

最適解
一般解と特殊解がデザイン応答・回答・解答にはあります。
デザイン解というのは、一般解であれ特殊解であれ、
「最適解」を求めなければ、それはデザイン解ではありません。
私もすでに40年もデザインと向き合ってきて、
常に、それこそ1日たりとも「デザイン」が体中にあります。
血液にデザインが入っているという感覚に襲われます。

水面に風が吹けば、波立ちます。
その波立ちが大きく揺れているのがまったく穏やかになる、
それを「準」と言うそうです。
基準・水準・標準
基準・水準・標準がその準の状態を定義しています。
そこで、私は「準解」という言葉を自作して、
「最適解」はこの「準解」、
三つのどれなのかと再考することにしています。
「最適解」は、基準解・水準界・標準解になっているだろうか、
自分に突きつけるのです。
● 基準解というのは、もうこれで基準=basisは成果だろうか。
● 水準解は、たとえ特殊解でもaverage /levelは保っているだろうか。
● 標準界は、とりわけ一般解では、これがstandardだろうか。
特殊解なら、必ず標準解として一般解へと展開してくれるだろうか。
こうしたことを考えぬいています。
ところが、最近の日本のデザインには「最適解」がありません。
デザイン解が「かわいい」とか「きれい」とかだけに、
寄りかかっていたり、単なるパロディやギャグは、
ガジェットだからそれでいい、なんていうことが目立っています。
これを「デザインの多様性」だということは大間違いです。
だから、日本のデザイン、その質が低下してきたのです。
経験を積んできたデザイナーとして、
警告をしておかなければなりません。
デザインの本質=最適解
デザインの本質=問題解決の解答=最適解は、
本当に「難問中の難問」を解いていく作業であり、手続きです。
頭脳、頭の中に汗をいっぱいかくほどの作業です。
だから、川崎和男のデザインは好きになれないとも言われます。
それは、形態の好き嫌いはあるでしょう。
好き・嫌いでの判断は第一段階であり、
自分の価値観に、最適解を判断力を欠如している疾病があるのです。
多分、数理的判断が大欠落していると最近は診断しています。
最適解には、「清潔」・「簡素」・「簡潔」・「明快」・「快適」が
ふさわしいと思っています。
かわいくても不潔であり、
きれいでも不明感があり、
かっこよくても、「不快感」があるデザインが増えています。 


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