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Posts Tagged ‘学生時代’


『長期使用と所有を見越していたワゴンの存在』


   


     6月 17th, 2017  Posted 12:00 AM



最近の商品、そのデザインでの造形デザインは
何かが欠落しています。
このワゴンは、もうどれほど長期にわたって商品として、
特にワゴンアイテムでは代表格になっています。
私にとってこのデザイナーは、学生時代から追いかけてきた人物です。
したがって、私世代にもイタリアでデザインを学んだ人には
彼の事務所出身者が何人かいるくらいです。
「ボビーワゴン」の愛用者は世界中に相当いるでしょう。
かつて、私もスタッフには、デザイン用具一式はこれだけとし、
Macintosh512kをスタッフ一人一台の時代もありました。
今、自宅にはこのワゴンがあります。
しかし、このデザイナーの代表作としてはこれよりも良いモノがあります。
もし、このデザイナー名を出したら、
せめて代表作を五つぐらいはあげてほしいのです。
したがって、デザイナー名をここで出すことをあえてやめておきます。
このワゴンが登場した頃には、建築界でも「カプセル化」という
造形言語が生まれた時期だと思います。
正直、もう40年近く使ってきて、
私はこの使い勝手がしっかりと分かった気がしています。
最も最近では、このワゴン、あるいはサイドテーブルとしては、
まあまあ3点程度しか無いとすら思っているのです。
大学人になって以来、私のデザインワークでのモノ、
それはまず作品はとても難しいモノが多いのですが、
デザイン作品の審査をしていて、最終的に審査委員長として、
たとえばグランプリを決定することに追い込まれると、
二つのことが見えてきます。
それは審査委員の美的見識力があったかどうか、です。
もう一つは、選別した評価知識が存分であったかどうか、なのです。
このところ、三つの審査を通して、総評、さらには受賞作評価を書いていて、
自分が使用し所有するという基本に対しては、
時代的にはもう一つあるようです。
それはモノの存在が生み出すライフシーンというコトのデザインです。
言い換えれば、情報、あるいはアプリケーションやそのアルゴリズム、
あるいはプログラム化なのです。
この審査チームだと、コレを選ぶかも知れないという期待感、
その真逆の失望感があります。
そんな時、かたわらにあるこのワゴンの中を整理しようと思うのです。


* 『イスと空間、空間の質量を自在化するデザイン』
* 「エレベーターは徹底的革新必要」
* 『「アノニマスデザイン」の代表例に選んだモノが消滅』
* 『デジタルペンは効能性の再考である』
* 『大物主神から事代主神、このコンテクストの卓球台』


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『想像力を今また熟考を毎日繰り返している』


   


     5月 18th, 2017  Posted 12:00 AM



私が大学人になると決心した時に、
その道筋をつけていただいた故M教授は、私が阪大へ移籍のとき、
「蔵書は大学人の間は持っていなさい」と指示されました。
阪大でも学生が次々と本を読んでくるので、結局本は増える一方でした。
サルトルの「存在と無」は学生時代に読みました。
理由は単純で、この美大にいたら、デザイン技能である
スケッチやモデルづくりは上手くなるだろうが、
おそらく大学生としての読書には無関心になってしまうだろう、
それはとても知識人として生きるのは危険だと思っていました。
またよく本を読んでいそうなのは、
学生運動に取り憑かれて赤ヘルでデモのために上京。
全くデザイン課題は無視していました。
そういうのは学生運動無関心の連中以下の無能力者と判定していました。
さて「存在と無」を選んだのは二つ意味があります。
それはサルトルは一応は読むべき本であり、「嘔吐」はつまらなく、
あとは実存、方法、時間、悪魔、神、思想, 恋愛などでした。が、
ともかく反「資本論」より仏教の「無=空」を深める熟読はこれだけでした。
以来、「存在と無」の新刊は次には上下巻になり今では文庫本です。
ところが、「想像力の問題」があったと知ったのは最近でした。
それには意味と意義の意識が私の興味焦点にあります。
「想像力」と「創造力」を「想育」と「創育」として、
コンシリエンスデザインで書き残そうと思ったからでした。
理由は簡単です。
ともかく想像力がほとんど無い、それもデザイン学生を一杯見てきました。
想像力が無くてデザインをする創造力には絶対に至りません。
そしてサルトル批判がこれまでデザイナーとして想像力あって
やっと創造が出来るはずです。それなのに、
デザイン教育者あるいはデザインを知ったかぶりする学者などを知り、
サルトルの基本が意識でしかなくて、
認識にすべきでは無かったのではという現在の私判断があります。
これはあくまでも私の想像力です。
そして今は、私のブログ金言に彼からの一言を書き抜きしています。


* 『25000ページを書き残した今ではアーティストの展覧会』
* 「荒唐無稽さと完全無欠さなら『ゴルゴ13』でしょう」
* 『運筆練習に最適な学習ノートの充実ぶりに感嘆』
* 『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』
* 『「創育」と「想育」の中心はやはり恐竜の存在だ』


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『HUSATとInternet of Medical Thingsのデザイン言語 』


   


     7月 5th, 2016  Posted 12:00 AM



美大時代からの盟友・光野有次氏はデザイン対象でも同志です。
彼の唱える「シーティングエンジニアリング」は、
人間工学を超えて、これこそわが国にやっと登場してきた
HUSAT= Human Sciences and Advanced Technologyの
主要なデザイン工学。
自分は車イス生活者として、
体型が変形してきたことを全て見せて、
彼からの大きな支援を受けられることはとても幸運です。
正直、学生時代から人間工学には不信感をもってきただけに、
今回は自分がモデルケースとなって、これを体系化していけるはずです。
人間工学の統計的な平均値からの設計論には大きな偏りがありました。
自分の経験では、まずヘッドホンのデザイン設計からその疑問があり、
メガネフレームのデザイン設計では
幸いにして眼球を解剖出来る立場だったため再確認出来ました。
車イス設計では自分なりのHUSATでデザインを実務実現しました。
しかも体型の変形・高齢化ですっかり自分がモデルになることが可能です。
彼自身も車イス設計から海外製販売会社の日本支店長経験もあり、
現在の特に電動タイプには大きな違和感を持っています。
ユニバーサルデザインを最初に国内に持ち込み、結局、
ユニバーサルデザインはHCD=Human Centered Designに変更しました。
これこそ、HUSAT+HCDをConsilience Designへと、
自分自身の車イスで実験して実務化できます。
まさに造形言語としての「シーティングエンジニアリング」は、
形態言語としてのHUSATされたデザイン内容と効果が生まれると考えます。
しかしながら、すでにデザイン工学としての人間工学は終焉していることを
強く訴求していかなければなりません。
IoTがInternet of Medical Things=IoMeTの骨幹に、
「シーティングエンジニアリング」が成立することは間違いないでしょう。

*『ユニバーサルデザインの原意』
*『座姿勢の複合制御性能とその機能化からのIoMeT』
*『「コンシリエンスデザイン」名詞格を接頭語にした新概念』
*『ヘッドホンにはヘッドホンアンプ必要なり』
*『ヘッドホン選別の私のポイント提案です』


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『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』


   


     1月 5th, 2016  Posted 12:00 AM



僕の自動車遍歴は運転免許証を手に入れるところから始まります。
最近はカーデザイナーを目指しながら免許証も持っていない学生には
驚くばかりですが、それ以上に、
「車が欲しい」という欲求が皆無という若者が増えてきています。
僕も大学に入ったその年の夏休みには自動車学校に行きました。
しかし、当時の学校の教官はとても品格が無く、
言葉遣いも命令調でありその指導態度は我慢出来ないほどでした。
若さの余りに私はその自動車学校で事件を起こして、
しかも父は警察官、その学校の校長は父の元上司ということで
即刻、退学させられましたから免許証はありませんでした。
ところが、交通被災直前に私は実施試験とペーパーテストで合格して
免許証を手に入れていました。
美大は、なんといっても全国からカーデザイナー希望者が集まる
それこそ当時は数少ない工業デザイン専攻でしたから、
カーデザインのレンダリングが学生時代から、みんながとても上手くて、
僕は理由を聞いて、カーデザインという言葉すら知りませんでした。
車イスになって退院と同時に車は左ハンドルであるべきと、
シボレーのモンザ・モンテカルロ・カマロと乗ってきました。
カマロもベルリネッタ8気筒で、
それこそ、福井・東京間を競ったくらいでした。
それをデザイン企業支援者たちから見かねて、
僕は運転手付きでボルボのステーションワゴンに5年間乗りました。
それでも、僕の車遍歴がとどまらずに僕仕様の車を求めました。
一時は5台もあった時代があります。
BMWもベンツの時代もありました。それも数台乗っていました。
ワゴン車でスタッフ移動に使っていた頃もありました。
キャディラックのロングリムジンは、ある経営者から突然プレゼント。
流石に、全長7mのリムジンは名古屋から大阪に来るときに辞めました。
ベンツの時代には、6万kmで乗り換えてきたぐらいです。
正直、工業デザイナーですが、それほどの興味対象ではありません。
最も、カーデザイナーをめざす学生には
徹底した教育=レンダリング訓練を厳しくしてきたと思います。
カーデザイナーや車関係は、全ての教え子を企業留学させています。
従って僕には車仕様は「障害者対応の仕様」とその「部品デザイン」、
これにはメーカー本社と日本の制度を一致させていくことが目安です。
車遍歴は常に「障害者対応」が僕には基盤になっています。


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『失われてしまっているジャーナリズムは雑誌に歴然』


   


     9月 11th, 2015  Posted 12:00 AM



30~40代の頃、私は国内外の雑誌を30~40冊は読んでいました。
最近は、時折、本屋さんの店頭で立ち読みする程度で、
あとは電子ブックの雑誌やワイフの読む女性ファッション誌などです。
学生時代や社会人デザイナー成り立て当時は、オーディオや音楽雑誌で、
若いときにはデザイナーなら少なくとも購買も15冊と言っていたものです。
ところが、最近の雑誌よりも企業広報誌やカード会社の広報誌の方が
雑誌内容にはまとまりがあるようです。
いわゆるファッション系は年齢もあってか,興味があまりありません。
そして商業誌丸出しというか、時計などは流行づくりが丸見えです。
私がプロとしての眼鏡などは
知識不足どころか誤記の多さには呆れています。
オーディオ・ビジュアル、さらにPC関連雑誌などは
まったく時代遅れであり、
オーディオなどは連載をしてみてすぐにその雑誌が
商業誌ゆえの哀れさで自分から連載を辞めました。
車などは、もうほとんど興味がわきません。
今、興味は専門誌である万年筆や鉄道関連程度です。
もっとも専門であるデザイン関係誌は、
国内外が時代遅れ甚だしくて、全く読みません。
結局は、インターネットでのサイトの情報が時間対応しています。
新聞?はもう定期購読しなくなって10年にはなるでしょう。
ファッション系などでは、
やはり定番的なブランド系雑誌はグラフィックス的には優れています。
雑誌情報では何が欠落してきたかということになります。
多分、三つあるのだろうと思っています。
一つは編集人としての職人魂でこれを伝えようという程の専門性が大欠落、
一つは雑誌ジャーナリズム思想などもう喪失しています。
逆に私が凄いと思っている万年筆などはまだまだ学べる時代性があります。
一方、眼鏡など専門性の大欠落には、腹立ちを覚えます。
これはオーディオビジュアルや車などは、
ジャーナリストや評論家が居ないのでしょう。
先般、教え子で大新聞の記者に、
「ジャーナリズムって、一言で私に伝えなさい」と聞き返したところ、
半分だけ応えました。
私は、ジャーナリズムはどんなジャンルであれ、
情報の市井的な日常で、権力それは商業的な圧力を、それこそ、
「ペンは剣より強し」による情報編集力での教示性だと答ました。
すでに私はもう老年ですが、とりわけファッション性は、
「モードの体系」を超えるほどのジャーナリズムを求めています。
そして
私自身の日常の編集力を生み出すジャーナリズムは失いたくありません。


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10月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

10月21日 乙丑(赤口)


デザイナーは明確に才能が要る。
教え子の才能は、
学生時代
就職した後
この二つの連続で判定できるようになった。

いづれの時代においても
人間としての正直さと真面目さが根幹である。
こうしたことから、
教え子の未来も見えるようになった。

こうしたことを「知る」と、
私の恩師も私をすでに判断していたと知り、
恩師をあらためて敬愛する。

たとえ、教え子であっても
デザイナー同業者として、
その行く末は見えているものだ。
恩師も私の今をすでに見通していたようだ。


「川崎和男 強い人弱い人」


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「デザイン成果としての『かたち論』は生涯論考するだろう」


   


     1月 7th, 2013  Posted 12:00 AM



私の学生時代は、「デザイン理論」の著作は数少ないものでした。
したがって、私はほとんどデザイン論理を成立させるために、
可能な限りの建築論を読みあさりました。
建築論文募集にも応募していました。
落選ばかりしていました。
そして出逢うのが、建築家・菊竹清訓の「代謝建築論」と、
「機能主義理論の系譜」は一つのバイブルでした。
特に、「代謝建築論」の「か・かた・かたち」論は、
今なおその論考を私なりに深度をもたせるべく展開を試みています。
「か・かた・たち・ち・かち・かたちは、いのち・きもち」、
さらには、「つち・とち・まち」にまで至りました。
そして、現在執筆中の「形と性能」についても、
「かたち」と「性能」を一旦分離すれば、
自ずと「か・かた・かたち」論の展開が可能です。
か=化、ち=値、かた=型、たち=質とすれば、
か+たち=化+質は、工業化によって性質を与えますから、
そのまま、化質とは工業化された性質が「性能」となります。
「性能」は使用価値性の根幹になるでしょう。
もう一方では、
かた+ち=型+値は、意匠化によって形態を与えて、
単純には嗜好的な価値観、すなわち所有価値観を訴求することができます。
私は、
「機能美」や「美しい形態は機能に従う」を率直には認めていません。
それは、自分自身のデザイン、とりわけ形態の美を目標とするとき、
必ずしも機能主義と美学性が統合されるから、
美の創出が出来るというわけでは無いという経験があるからです。
今、こうしてこのBLOGで、メモ記述しているのは、
論文作成の構成・プロットづくりを図解から求めようとしているからです。
私は、「デザインとは何か」という問いかけでは、
デザインの定義性が曖昧になって、
即、機能的デザインとか機能美にデザインが、
結合・融合・統合されることにすこぶる抵抗があります。
むしろ、まず、技術仕様による性能があり、
そのデザイン成果が社会的な存在性に効能が生まれます。
そして、性能と効能が統合されるときに
機能を宿らせることができるというのが経験値です。
「化質」こそ、性能となり、「型値」こそ、形態。
「化質」=かたち、「型値」=かたちに、
「形と性能」の構造(関係)が記号化するという思考に至っています。


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5月3日 staffblog


   


     5月 3rd, 2012  Posted 12:08 AM

5月3日

PLANE  テープディスペンサー 届きました!
桑沢での学生時代、
1年生の課題テーマが
テープディスペンサーで、
デザイナーへの出発を
決める課題であったそうです。

BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
金沢美大でのハサミの課題
思い入れをもっていました。
当時の指導教官が退官される時、
海外の美術館のコレクションになった
タケフナイフビレッジのハサミと、
課題提出したハサミを
感謝をもって見せたところ、
感涙されたとのことでした。

モノには
いろんなモノ語りがありますね…。
リールなしの
コンパクトなテープディスペンサー、
どうそチェックしてみてください。


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「来年の手帳は選びましたか?」


   


     12月 1st, 2011  Posted 12:00 AM


iPhone、iPad以前、PalmTopの時代にも、
「手帳を持ち歩く」ことは辞めようとしてきました。
しかも学生時代・就職後も毎年毎年「手帳選び」には
悩んできました。
iPadで、すっかり手帳を辞めると決意しました。
しかし、どうしても手帳はなんとしても必要と判断しました。
私のスタッフ・学生も全員、iPadを使っていますが、
昨年、私から、自分がこの人からのメモという場合には、
絶対にノート、手帳、メモ形式、筆記具も含めて選び抜くこと。
このようなルールを作りました。
それは、手書きメモの重大さと文字を美しく書くという身体化を失う。
私自身、iPadでの手書き文字に美しさが無くなると判断したからです。
最近は、スタイラスの進化ですっかり「草書体」・「楷書体」まで、
iPadでは可能になりました。
この季節=歳末年末には、書店・文具店始め、websiteでも
様々な「手帳」が膨大に店頭やお知らせが満載です。
11月に入ると、私は二つの手帳を注文しました。英国製と日本製
これまで、日記帳・手帳はどうしても迷い抜いて、
「一つ」に決められませんでした。
これは不幸です。
「手帳で望みがなんでも適う」という類いの書籍もあります。
それはその人だけの自己修練、
男ならダンディズムが決定した人の特権。
私は、ようやくそろそろ人生引退の季節になって、
二つの手帳に出会いました。
いづれ、私の使っているモノを紹介したいと思っています。
しかし、これはやっと私がたどり着いただけに、
極めてプライベート、プライバシーのことかもしれません。
なにしろ、デザイナーとしてのSketch BookやMemoなど
膨大に悩み膨大に収集までしてしまっているというわけです。
筆記具、絵の道具、書道具からデジタルペンまで、
この収集は、ワイフから「また買ったの」と言われる始末です。
万年筆・硯と筆・和紙、そしてデジタルペンも、
語り尽くせない私の世界です。
オーディオ・鉄道模型から、デジタルペン、青い小物、
だから「手帳」もほとんど世界的な歴史や伝統性を
自分自身にも照らし合わせて考え。選び、使いこなして、
いや手帳に限っては「使いこなしてきた」とは言えないのです。
しかし、ここ数年、手帳は決定したモノを使ってきました。
2011年、わが国は多くの同胞を失い、国家が破壊しました。
なんとしても、来年に向かって、
この「国難」に対する自分自身のジャーナリズムツール、
それは「手帳」でしょう。
ジャーナリズムとは「日々の記録」です。
そして、「手帳」と「手帖」は日本の記録ツール、
明確な伝統性があります。
あらためて「手帳」、
来年の「手帳」への態度を決めたいものです。


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2月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 18th, 2010  Posted 11:50 PM

2月18日 大安(己亥)


学生時代には、
花鳥風月なんて目もくれなかった。
花鳥風月を現代デザインの要素とは
考えたこともなかった。

むしろ、装飾のアイデアとしては
安易すぎると見下していた。



『プラトンのオルゴール』
花鳥風月、風のごとくデザイン


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