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Posts Tagged ‘宮大工’


『念仏さしはピタットルーラーにまで進化した』


   


     6月 22nd, 2015  Posted 12:00 AM

指矩=差し金あるいは指金には人類の度量の歴史が見事です。
度量衡にいたるまでには衡だけの歴史性が加わります。
果たして人類はなぜ、長さを測ったのでしょうか?
ここから出発しなければなりませんが、
単純には税収制度に他なりません。
そして、長さの単位は音でした。
だから笛の長さがある単位を決定していたと言われます。
今やレーザー光線で長さが決定されているから、
結局は同じ事=音波=波長、そして長さの単位がありました。
日本には、規矩術という優れた大工仕事の曲尺使い勝手がありました。
今やそのことは教えられてもいません。
私は宮大工の棟梁だった祖父に教わった経験があります。
指金というのは、
それこそ目の指金が=メガネかもという推測もあるくらいです。
「念佛さし」という物差しがありました。
京都の竹は念仏をいつも聞いて育った竹ゆえに、
その竹で作られた物差しのことです。
この言葉を探り当てたのは故・桂米朝でした。
上方落語の「天狗さし」のオチに登場する物差し屋のことです。
美大時代には、常にステンレス製のスケール尺を使っていました。
計測用だけではなくて、カッター切断のスケールとしてでした。
このスケール尺の裏には
デザイン用のマスキングテープを貼っていました。滑り止めでした。
この物差しは、透明アクリルとステンレス、
そしてエラストマーの組み合わせです。
ようやく、滑り止めを施し、線引きもカッター使いも
こうした素材の組み合わせで作られた物差しです。
「ピタットルーラー」という商品名ですが、
今年度の日本文具大賞・機能部門賞にふさわしい製品として、
ここから新たな物差しが生まれると思っています。


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『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


   


     4月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

日本の建築で最も造形力を技術と技能で最高のモノは、
わが故郷にあります。そして知られていないことこそ素晴らしい。
正直、私が故郷に帰ってから、確かに越前和紙産地に通っていた頃、
この神社が凄いとは感じていなかったことも告白しておきます。
少なからず私は美大出のデザイナーです。
さらに祖父は最後の宮大工の大棟梁でしたから、残された巻物から
多少残されていた図面を教わるべきであり、
蔵の中の物品も私は幼い頃には、
ほとんどいたずらで壊してばかりいたようです。
また、越前和紙は日本に紙技の開祖の里ですが、ユネスコ認定も
受けていないのです。文科省の役所仕事の美的歴史性をもう一度、
私は喧嘩を売っておきます。
伝統工芸の産地の残し方は根本的に間違っています。
私は自分の知識学識経験とその論理で改革を望みます。
地方の時代というなら、その地方の伝統と革新こそ、
行政が最も的確にねらうべきことであり、それは美学的胆識です。
話がはずれましたが、大瀧神社と岡太神社は日本建築ではこれ以上の
木造建築は無く、何層にも重なる屋根には苔で覆われています。
この建築は、永平寺の勅使門も手掛けた大久保勘左衛門であり、
彼のことも徹底的に私は調べ上げて、今後、福井の建築は、
絶対にこれを超えるべきだと主張もしています。
結局私はこの建築に対抗するモノは自分が建てようと考えています。
後世に「生きた証」というのは、作品です。
そうなればデザイナーとして、当然それは義務だと考えています。
この神社がある地は観光地にはなっていません。それが大切です。
私の持論は「観光産業は乞食(こつじき)産業であり、
真のサービス、つまりリゾート産業とは異なると主張しています。
なぜなら、リゾート産業とは、
「何度も通える保養地」産業でなければならないのです。
そういう意味では、紙漉きの源流のこの神社造形と自然にこそ、
リゾート性が美学的に整っています。


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『最近見なくなった竹藪、その思い出』


   


     11月 11th, 2014  Posted 12:30 AM

先日、京都のあるホテルの前庭にささやかな竹ヤブをみました。
それは竹ヤブであり、竹藪のような雰囲気だけでした。
それでも私はとても心惹かれて、思わず、撮りました。
私には自分の家=自宅を持つという感覚は全くありません。
むしろ、できるだけ高層の最上階・ペントハウスが望みです。
竹藪には私の幼児期から小学校低学年の頃までの思い出があります。
母の実家、祖父の家はその半分400坪に竹藪がありました。
だから、この竹藪は一番の遊び場であり、
その遊び場に蓄音機のSPレコード盤を持ち出してきて、平気で、
そのレコード盤を飛ばしてしかも割れ散ることを楽しんでいました。
社会人になってオーディオから始めた時には、SP盤を割ったこと、
大いに哀しんだものです。
その竹藪には、二つの小屋がありました。
一つは消し壺の焼窯と落とし紙の紙漉き小屋でした。説明必要です。
消し壺とは、火種になる炭火を入れておく、陶器の蓋付きの壺です。
落とし紙というのは、現代のトイレットペーパーです。
便所にはその灰色の落とし紙がありました。
そして、その小屋にはそれぞれ職人さんがいましたが、二人とも、
祖父の雇い人でしたが、祖父よりも年寄りであり、
幼い私にはふたりとも家来だったと思っています。
祖父は最後の宮大工でもあり、社会的な役割がどれほどかは不明です。
ただ、製材所から瓦焼から、様々な雇い人だけでは無くて、
様々な商売もしていました。
しかし、破産したことも母からは聞かされていました。
この頃は街中ではほとんど竹ヤブは装飾的に見かけても、
竹藪はほとんどみたことがありません。
竹は根が張り巡らされているので地盤は地震に強いと言われています。
その竹藪が一辺に無くなりました。
それはある日、竹に花が咲いたと言われています。
竹に花が咲くのは、竹に異変が起こり全滅する印だと言われています。
私の思い出の中の竹藪は祖父との思い出がいっぱいあります。


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『享保の手帖から私が学び直したこと』


   


     11月 3rd, 2014  Posted 12:20 AM

母方の血筋は宮大工です。祖父は最後の宮大工でした。
伯父から残っている宮大工関連の図面や代々語り継がれた家訓と
現代でのメモ、手帖を譲りもらいました。
写真の手帖は達筆とはいえない仕事関係の命令書的な記載があり、
それは享保19年ですから1734年の記述です。
図面は、発想が広がれば用紙は付け足され、正面図が描かれると、
その用紙の裏面には背面図がそのまま描かれているのです。
私は数十枚の図面を徳川美術館で修復をしてもらいましたが、
最も私が気を引かれたのが、和紙でも泥漉きの紙でした。
私が越前和紙の産地に、最初訪れたとき、いきなり言われたのは、
私がデザイナーだと言った瞬間「帰ってほしい!」と言われました。
それはどれほどデザイナーというのが産地を壊していたことです。
だから、何度か訪れて心を開いてもらった方はもう逝かれましたが、
世界各地で手漉き和紙の実演をされていたのです。
彼の跡継ぎ連中と私は「オータキペーパーランド」を創りました。
今では、その連中の子ども達はFBしてくるまでに成長しました。
彼は、「父親を人間国宝にしたい師匠」だと言ってきます。
だから、今、デザイン活動をまとめてしていませんが、
私は自分用の和紙を発注することができます。それは絶対に、
街中にある和紙の専門店=ほとんどが和風紙=半草紙です。
私は半草紙が駄目だと言っているのではありません。
なぜなら、本物の楮紙や雁皮紙などはとても高額です。
そのようなモノは絶対に今の市場では「商品価格」がつけられません。
余程、工芸紙であるという納得がいるわけです。
いかにも1300年の歴史でユネスコ認定という前に、
1500年の越前和紙産地が選外になることは三つのことを示しています。
まず、「和紙」でなぜ登録しなかったのだろうか?
全国各地の和紙産地を区別して、伝承性の保護など無意味です。
ユネスコ認定で毎年どれほど行政は支払うのでしょうか?
無償だとするなら、和紙業界に大きな差別格差をつけたことです。
なんとも納得できません。
そして、低レベルなデザイナーがハエのように出てくるでしょう。


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「松岡正剛という『ち』の出発同位点は隠坊ゆえ」


   


     5月 29th, 2012  Posted 12:18 AM

「連塾・最終回」は岩波から出版されますから、
ここで全容を書く事はできません。
しかし、松岡正剛「連塾」・私の自叙伝の冒頭で、
「隠坊」との出逢いが重要であったことを語り始めました。
それは、私も同一だったことに驚いたことも伝えてくれました。
オンボウorオンボ=「隠坊」という存在を知る観客はいたのだろうか、
私はそう思いました。
「隠坊」は、死体を火葬する斎場に住み着いている坊主です。
隠坊は差別用語になっています。
私の母方の祖父は宮大工大棟梁であり、
木こりから六呂師、瓦焼、落とし紙の紙漉きなどや、
いわゆる部落民はじめほとんど村一族を率いていましたから、
「隠坊」の面倒から斎場の管理までを引き受けていました。
まだ私が幼少の頃(幼稚園に入る以前)、
福井の京福電車に乗れば福井から松岡町に行くことを覚えました。
だから、京福線新福井駅から松岡駅に行って、
松岡の駅で、大声で泣くのです。
そうすれば、必ず、駅から祖父に連絡が入り、
祖父は大抵、「隠坊」二人を連れて迎えに来てくれます。
しかし、時には「隠坊」二人だけが迎えにくると、
「なんや、お前ら二人か」と泣き止むことにしていました。
私が高校生になるまで「隠坊」は私の世話係のような者でした。
「隠坊」はあの世の入り口にまで引率する役割を担っていました。
火葬の火の番を酒を飲みながら夜通し白骨になるまでを見護るのです。
現代、そのような存在も「隠坊」という言葉も消えています。
ある時、私が松岡正剛に、
私は幼少の頃から「隠坊」と過ごしていたことを話したら驚いて、
「隠坊論議」をしたことがありました。
福井県松岡町の斎場は、祖父の葬式をもって閉ざされ、
以後は福井市の斎場にて町民は火葬されるようになりました。
祖父は斎場の建て替えを言い出していましたが、
それを言い出すと必ず死を迎えるから祖母は猛反対をしていましたが、
祖母が先立ちました。
二人の「隠坊」もすでに亡くなりました。
二人とも傷病兵で、一人は片目が無く空洞の眼孔を持ち、
一人は松葉杖を突き、
夕食は必ず酒を玄関脇の板の間・蓆部屋で飲んでいました。
あの世への入り口の話をどれだけ聞いたか分かりませんが、
すでに私は三度もあの世への道を辿り門前から戻る経験があります。
「隠坊」の話は、語り継ぐべき日本の閉ざされた引導話全容です。
そのことを語れるのは、私と松岡正剛しか居ないでしょう。


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「黄金コンパス・黄金比と白銀比を身体化するには」


   


     4月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

NHK番組で「頭がしびれるTV」の企画がきました。
「黄金比」をテーマにとのことで、
メールで質問を受け、
担当ディレクターが来学してインタビューを受けました。
結局、収録して私も出演することになりました。
「黄金比」は古今東西、
歴史の中で一つの美学的基準としてはゆるがないものです。
美大時代からまず学んできたように思います。
なぜなら、黄金比を意識してデザインするということではなくて、
デザインし図面化したときに、寸法チェックしてみる私なりの手法です。
特に気がかりなのは、私の先祖が宮大工として、
徹底的な「割図」をして宮大工をしていたことは明らかです。
300年前の図面を伯父から譲り受けて現物図面で確認していますし、
時々取り出してこの「割図」を凝視することがあります。
宮大工道具としては曲尺で十分にこの割り出しが可能です。
そして、
私は万年筆マニアでもあるので、VISCONTIにこのセットがあります。
限定生産品ですから、もう手に入らないかもしれません。
またVISCONTIの万年筆は、万年筆でも別格です。
あるホテルのバトラーの方がサインを入れるときに、
VISCONTIを差し出されたとき、
やはりそのホテルは別格だと感じました。
そのことを告げると、
「もう見分けていただけるゲストは年々減少しています」
と告げられました。
私は、この黄金比よりも白銀比に興味があります。
黄金比はフィボナッチ数との連関は見事です。
しかし、私はむしろ葛飾北斎の『冨獄三十六景』の「神奈川沖浪裏」や
竜安寺石庭は、
黄金分割の論理を熟知していて仕上げられたものとは思えません。
だから、私もデザイン設計の始めから意識して
黄金比や白銀比を使おうとは思っていません。
けれども教育として、
歴史的な美術作品・建築、自然界の様々は知識獲得のためには不可欠です。
だから、iPhoneアプリでこの計算機を研究室で作成し販売しています。
収益はPKD活動(Peace-Keeping Design)のデザイン実現に向けています。
おそらく、デザイナーを天職としているので、
きっと生涯、
黄金比・白銀比の世界をいっぱい見ておくことと
デザイン設計結果が適合することを常にめざすでしょう。

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「資本主義からの逃走」・『謹賀新年』」               「兎と月と思い出と」
    


   


     1月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

兎猟
兎にはいくつかの思い出があります。
母方の祖父は宮大工の大棟梁でした。
そして、小さな村を持っていました。
今も、Google-Mapではその場は「商店名」になっています。
私は最初の外孫で男の子でしたから、
祖父はじめ周囲の用人の人が、兎猟での仕掛けなどを見て育ちました。
だからどのような刃物、というより鎌に近い刀での解体などの場面と味も思い出すことがあります。
福井市から最も近い1053mの浄法寺山では、春には斑模様の山兎と出会うことがあります。
その出逢いの緊張感には、兎の生と死があり、
それがそのまま月という陰暦性の生と死が私の中では結びついている気がしてなりません。
とりわけ兎の糞についても独特の消化機能が働いた結果があり、
その臭いや固さなどが記憶には明確にあります。
そして、何よりも「うさぎ」の語源説では、
「月」と「うさぎ」のつながりがサンスクリット語にもあったはずです。
ひょっとすれば、私にとって今年が最終の卯年かもしれませんが、
もう一回12年後の卯年程度は迎えたいものだと願っています。

元旦


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『資本主義からの逃走』
 「* 夢の大きさは、祖父への約束 *」


   


     4月 9th, 2010  Posted 1:58 AM

祖父
私は、一人っ子で育ったから、何でも手に入りました。
といっても、それは祖父が居たからでした。
私は、祖父は「金持ち」だとずーっと思っていました。
なんといっても白髪と高い鼻筋でロシア人だと思っていました。
祖母に尋ねたことがありました。
「おじいちゃんってロシア人みたいだね」って。
「そうだよ、4分の一はロシア人の混血だよ」と。
そのことをずーっと信用していて、
母に聞いたら大笑いして、
「おばあちゃんにだまされたね」って言われました。
と同時に、
「おじいちゃんに何でも買ってもらうのはもうやめなさい」。
「おじいちゃんは、破産しているからお金が無いのよ」と。
祖父は、頼まれればすべてを受け入れ、
印鑑は押すは、借金は引き受ける、という人でした。
宮大工の大棟梁頭だったので、
製材所から瓦焼き工場から、紙漉工場、竹材加工場、
さらには、穏坊(火葬場の坊主)まで
一族を抱えている家系のお坊ちゃん育ちでした。
三階建てで、伯父・叔父たちはベッドで育ったくらいでした。
だから、どう見ても破産しているようには見えませんでした。
祖父が絶対に喜ぶことは、本を読んでそのあらすじの話をする。
だから小学時代には日本文学全集はほとんど読んでしまいました。
読めば、おこづかいや何でも買ってもらえたからです。
そして、絵を描くのです。
それは未来の絵を描いて説明することでした。
だから、わたしは鍛えられたのだと思っています。
勉強の話などしたことがありませんでした。
勉強なんて常に一番でなければって思うようになってました。
自転車を福井県で最初に買ったことが自慢でした。
なんでも一番が大事だと言われてきました。
SPレコードプレーヤーも大きなのから小さなモノまで3台もありました。
夢は、語れば語るほど必ず手に入る、
「が」、「それでも」、「けれども」、
ということを教えられたと思います。
ただ、祖父は山々の名前をすべて教えてくれました。
そして、「ご先祖さまには申し訳なかったことをしてしまった」と。
私は、「大きくなったらその山々をぼくが必ず買い戻すから」と、
約束してしまったのです。

私はデザイナーになって、40年です。
61歳になって、まだ、この夢を追いかけています。
だから、欲しいモノは、まず自分で創る。
そうすることで、デザイン対象を拡大することができたと思ってます。
デザイナーは「夢」に向かっている職能です。
だから、「夢」を小さくすることなど絶対にできないのです。
デザイナーになっている私を知ったら祖父は喜んだでしょう。
なぜなら、「未来への夢の絵」、今でも描いているからです。


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3月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 19th, 2010  Posted 8:38 PM

3月19日 大安(戊辰)

私は自分の祖先が、江戸時代、
享保年間に描いた図面を持っている。

宮大工から私の描く図面に、
私の血の中の何かが
流れているというのは幸運なことだ。

『プラトンのオルゴール』
デザイン「製図」はビットの時代へ


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『資本主義からの逃走』
  「神の国・・・その定義・1」


   


     11月 17th, 2009  Posted 7:00 AM

戦後は、東京裁判の裁決からスタートしたと思います。
しかし、戦中、マルキスト=インテリと錯覚した若者は、
特高との壮絶な弾圧との闘争だったと知らされています。
1949年生まれには、まったくわかりませんが想像できます。

しかし、子供心にも「ニッキョウソなる教師」の戯言は、
私には滑稽きわまりなく、
「日の丸も君が代も、あれが日本を滅ぼした」、と。
そんな教師を、私はほとんど軽蔑・侮蔑していました。
だから、彼らの担当科目は常に成績はトップでなければ、
という敵対心で勉強し、その軽蔑心を押さえ込んでいました。
なぜなら、
unknown

「日の丸」は、世界でもっともシンプルで、
夕焼けの太陽のごく美しく、
「君が代」のあのメロディと詩には、
「・・・さざれ、石の苔むすまで・・・」という
直感的に、
「美」・・・当時はまだまだ不明だったのですが、
体にしみこんでくると思っていたのです。

宮大工の大棟梁だった祖父は、
「神の国の話」をいっぱいしてくれました。
倉には、輪島塗りや久谷焼きや鎧甲や大工道具があふれ、
特に、伝統的な毛針=鮎釣りの美しさに
「神の国だから存在してきた物」が
いっぱいあったのです。

「神の国」とは、「自然神の国」というのが、
私の定義です。


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