kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘寒さ’


『資本主義からの逃走』
    「曹洞宗第一道場・吉峰寺での『薪』割り」


   


     8月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

浄法寺山
福井市内から北東には加越国境と呼ばれる山並みが見えます。
加賀(石川県)と越前(福井県)を区切っています。
冠岳・浄法寺山1053m(記憶が正しければ)・鷲ケ岳がすぐに目に入ります。
その山系の奥に奥越国境があり、白山が見えるのです。
冠岳(808m)は高校時代に最初のロッククライミングを始めた岸壁が頂上付近にあります。
浄法寺山は高校時代は5月の連休でも渓谷急斜面の残雪でスキーができました。
高校時代には、とりあえず台風が来るとなると登山にあけくれ,
中間考査をいくたびか下山できないとかでサボっていました。
この加越国境の手前に九頭竜川があります。
道元は丈競山という双子の山に登りその浄法寺山にて寺院建立案を考えました。
そして、九頭竜川を挟んだ真正面のささやかな盆地、
そこに「永平寺」を建立することを決意したと言われています。
その「永平寺」建立の間に「吉峰寺・よしみねでら」地元では「きっぽうじ」を仮住まいにします。
吉峰寺
さて、私はこの「吉峰寺」には中学時代と高校時代の夏休みに、
祖父と父の命令で私は修行させられた経験があります。
多分、今も永平寺の第一道場として、曹洞宗の禅僧エリート養成所のはずです。
何故、このお寺に預けられたのかはあまり言えません。
目に余る喧嘩や悪い仲間とのつきあいを窘められての教育だったのでしょう。
朝は3時に起床し、便所掃除から顔ふき、さらには食器洗いまでもう色あせた手ぬぐい一本で、
ともかく中学時代は泣きたくなるほどの生活をさせられました。
高校時代は、サボり方も覚えたのと禅僧のエリートの人たちと仲良くできました。
おそらく、ここの住職は、永平寺の管長さんクラスの偉い人だったはずです。
いっぱい話を聞かされ、書を徹底的にやらされました。
この体験が、私は「道元」に惹き付けられている最大の動機だったのでしょう。
薪割り・作務
もっともできなくて危険だったのが「薪割り」でした。
中学時代にはまったくできずに、高校時代にはそれなりにやりきっていたと思います。
「薪」というのはもちろん燃料であり、
風呂焚きと食事、そして冬の暖房のために薪割りは大変な作業でした。
なぜ、「薪割り」なのかは、今、明確にわかります。
草冠の下に「新しさ」があるのです。
新しいというのは、まさしく斧で木を割った樹木、その切れ目を表しています。
それが草冠というのは「エネルギー」であり、
燃えるから「食べる」・「洗う」・「暖をとる」ということができる素材を表しているのです。
「薪」
私は、「薪」にこそエネルギーの根幹的意味があると思うのです。
食べて生きて清潔で飢えと寒さから、
人間は明日「新しい日」を向かえる源泉・元気さを獲得できるのです。
道元が「作務」と言い放った薪割りとは、
生きるエネルギーを得る合理性は自然の樹木から「新た」にする身体的修行であり、
その「作務」は座禅と同様な生きることの意味の思索活動だったと今は納得することができます。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「使い古された日本語から離脱しなければならない。」


   


     6月 3rd, 2010  Posted 12:01 AM

古くなったキーワードを
私が現代をとらえているキーワードのいくつかを挙げてきました。
私はその代表例に「福祉」と「機械」をあげます。
機械
今夜は「機械」です。
「機械」という言葉は日本語としては歴史的に、一度、変更しました。
最初は「器械」でした。
「器」と「械」です。
理由は単純です。
文明論から見れば、文明への動機づけは「飢えと寒さ」です。
「飢え」に対しては、「器」というモノが必要でした。
その器から機となったのは、
今度は「寒さ」から身を護る機織りでの布が必要だったということです。
「器械」が「機械」へという変更は、機械の5大要素に関わってきます。
それは「械」という言葉が介在していることです。
この言葉は「武器」を表しています。
ということは、もう「機械」ではなくて「機器」が、
言葉としても美しいと思ってきました。
私自身、「機械工学専攻」という学科に席を置いていますが、
もう「機器工学」という言葉だと思っているわけです。
実際は、「機械」というイメージと「機器」という印象は異なります。
電子機械ではなくて、電子機器です。
ところが、通信機械という言葉ではなくて、この領域は通信機器でした。
通信機器は、実際的には「武器」ではないからです。
無論、戦争にとって通信機器は武器のようなものですが、
決して機械あつかいではなくて機器扱いだったことに注目するべきだと考えます。
新たな言葉の選定
いちいち、これまでの日本語ひとつひとつを引き出して思考しているこの執念は、
やはり、「言葉」の選択が、
概念と観念から、その意味にある種の枠組みや意味の限定を行ってしまうからです。
デザインにとって、コンセプト・概念・アイディア・観念・分別・センスなどは、
この限定された意味に呪縛される可能性があるからです。
「機械工学」は「機器工学」になってこそ、
あらためて、
人間ー機械=マン・マシンシステムの時代を終えることができると考えます。
私が取り組んでいる「人工臓器デザイン」というのは、
人工臓器的機械ではありません。
人工臓器的機器なのです。
「機械」という言葉から離脱すれば、
機械としてのロボットで無くて、
機器としてのロボットが必ず見えてくる、という確信が私にはあります。


目次を見る