kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘対比’


『芸術で学術は語り切ることができる』


   


     12月 14th, 2015  Posted 12:00 AM

学術性と芸術性が分断されてきた教育について
私は長い間、大きな疑問をもってきました。
単純には、二つの現象があります。
主要五科目=国・数・理・社・英と音楽・美術・体育という
この対比に日本の教育は縛られてきています。
最も体育というのはすでに間違いであり、スポーツでしょう。
そして、主要五科目が学術性とされ、音楽や美術が芸術性です。
幸いにして、私は美術大学に進学し、就職ではオーディオを選びました。
そのおかげで、美学の世界(美術と音楽)から、
学術性を外側からみてきた気がしています。
しかも、私はすでに大学人になってあらためて学術性の世界にいますが、
正直、今頃になって、講義内容を芸術=美術や音楽、
それらの作品をヒントに語っていくことで、確実な学生たちへの
講義教育での説得性と納得性を感じています。
しかも幸いに私が大阪大学大学院の医学系研究科から与えられた
そのミッションは、「コンシリエンス」であり、
それには「レジリエンス」といういずれも18世紀からの、
学術性と芸術性の「融合・統合」化でした。
明確に見えてきているのは、
学術性を延ばせば、芸術性は確実的に落ち込みます。
同様に芸術性が伸びれば、学術性が低下することです。
そして、この元凶は明らかに主要五科目で緊縛してきた教育でした。
この図は見事に一般的な能力が教育的な緊縛に閉じ込められた、
結果でしかないと私は思っています。
おそらく、この図に人間の能力が落ち込まないことを
私は目指していきたいと考えています。
具体的には、学術性+芸術性=デザイン、
それもコンシリエンスデザインであると結論づけています。
ちなみに、私は「Concept」:概念を教えるときに、
ベラスケスの美術作品である「ラス・メニーナス:侍女たち」を教材に、
芸術から学術での概念と観念を明示することができます。
こうした自分が元来デザイナーであり、デザイン活動での
芸術+学術=デザインを
新たな統合性として「コンシリエンスデザイン」を語るには、
私は、この図のような能力の低下を防御することを
最大に考えています。
今後、私は、学術性を語るには、美術作品・音楽作品で
充分に講義することが出来ると確信を持っています。


目次を見る

『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


   


     12月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、
人間の能力を分化していると考えられています。
つまり、論理性がある人間能力と、
感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、
対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
たとえば論理性と感性とはお互いに人間の知性そのものを分断する、
このように考えられてきたときに、明快な解答を与えたのは
カントでした。
もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、
感性力の低下が起こります。
これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。
そこで、デザイン思考なる考え方があたかもこの対照性を破壊する手法、
このブームを生み出しました。
これはブームにすぎません。
だから私は、論理性のある人間も、感性のある人間も、
論理性があればあるほど、感性に近づき、
感性があればあるほど、論理性に近づくという手法が大事という、
これこそ「コンシリエンスデザイン」手法ということを
主張しています。
端的に言えば、感性と論理性の間にある完全円形は、
感性と論理性の対称性に対して、破れの現象を起こすと言ってきました。
もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる
感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、
感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、
感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。
論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。
この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、
この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事という
この教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、
すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。
だからこそ、「コンシリエンス」を確約させれば、
「レジリエンス」=ストレスや敗北感以上に、
状況には決して負けない自己認識力の拡充さを創りあげると
主張してきたのです。
これこそ、論理的な思考に対して、感性、もっと端的には
直感が重要であると看破したカントの哲学的な提唱でした。
「直感なき概念は空虚であり、概念なき直感は盲目である」。
私は、この考え方こそ、
デザイン思考ではなくて「コンシリエンスデザイン」と呼んでいるのです。


目次を見る

『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』


   


     8月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

私の企画戦略には必ず立ち戻る基本があります。
それはインド思想の木火土金水と仏教思想の風地火水空です。
この四句分別によって25 のマトリックスが生まれます。
それは25のコンセプトが生まれるということにつながります。
少なからずこれは世界観での25の問題点が整理されたコンセプトです。
しかし、これだけ全てを列挙すると、二つの疑問にぶつかります。
まず、デザインでそのようなことをやってもらいたいとは・・・
これで台無しにして仕事をどれだけ失ってきたでしょうか。
デザインでそこまで語ってほしくは無かった・・・
これで仕事をしたくない行政マン、役人(人に役立つ人)を知り、
彼らの生息生理をほとんど知ってしまいました。
このことで、若い頃はクライアントに喧嘩を売り喧嘩師になりました。
最近は利口になって、インド思想にも仏教思想にもある火と水を
主体的に語っていくことを中核にしています。
無論、両方の思想の核心にある火と水には同意性と差異性があります。
それを論理的に学び直したのはガストン・バシュラールでした。
バシュラールは、明確に水と火は対照的な著作を残しています。
そして彼の著作を度外視していたつまらない輩がいたこともあります。
私にとって、現実的には、水と火、それぞれがCGになる過程を
まさに米国で立ち会ってそのプログラミングを見ることができたこと。
これは生涯の思い出になっています。
しかも、このNatural Phenomenaというコードネームには、
明らかにバシュラールが基底で語られていたことです。
火も水も、デジタルとして燃えさかることと水滴や流れまでが、
制御と否制御が起こってしまうことでしたが、
結局、火は燃えさかっても熱くはなくて破壊することがありません。
水も自然と水滴から大洪水も決して起こらないことです。
これがデジタルの限界でありながらも、自然よりも勢いがあります。
私は、自宅にデジタルの全く無温度の火と水を配置します。
それこそ、自然と人工を対比させた日常を側に置いてみることで、
自然=アナログを絶対にデジタルで調和も制御も出来ないことを
言い聞かせる手法だと思っています。


目次を見る

「大好きな画家・これが私のまなざし」


   


     5月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

日本で美術全集を企画すると、必ずこの人から始まるらしいのです。
それはピエール=オーギュスト・ルノワールです。
日本人好みの極みでしょう。
そして、きっと、この画家を知る人はほとんどいないでしょう。
昔、親友の有名なグラフィックデザイナーから、
「お前の好きな画家は?」って尋ねられて、
彼の名前を出したら、
エーッって、凄く驚き、
「彼を知っている日本人は二人目、しかも二人ともプロだった」、
と言われたことがあります。
「彼の絵、買っておけば・・・」と言われました。
しかしとても高名過ぎて買えるようなモノではありませんでした。
私が生まれて、もうこれほど身震いをして眼差しを知った絵でした。
彼の絵画が私の身体をぶるぶる震わせるほどのモノでした。
ちょうどそのとき私は入院していて、妹が東京で学生でしたから、
彼女に彼の展覧会でのカタログを頼みました。
それ以後、フランスでは彼の作品集だけを探して、
私の大事な収集作品集になっています。
今年の3月に、5年ぶりにパリに出かけて、
また彼の作品集を買い求めました。
帰国後、これまでなかなか落ち着いて作品集を見れませんでした。
ようやく私の傍らにおいてゆっくり読み、見たいと思います。
これまで、私の「色彩論」はほとんど彼の絵画を使ってきました。
無論、私のパソコンの壁紙は彼の作品です。
ただ、私が絵画で選ぶ人は早死するか自死しています。
結局、画家という職能は、主観性で生きているだけに、
デザイナーが客観性で作品を仕上げるのとではまるで異なります。
画家であって自分の作品を追い求め過ぎると、
結局は寿命を自分で結果を出してしまうことが悲しいです。
しかし、彼の作品は、
たとえばパブロ・ピカソが現代絵画を進化させた代表だとすれば、
彼は、絵画の具象性と抽象性を見事に融合させた唯一でしょう。
彼を著名にした作品には「サッカー競技」がありますが、
その作品の色使いには、
現代のサッカーの興奮度を確実に予測していた色彩、
その対比で、競技場と観覧席を描きわけたものがあります。
この画家の名前は、
Nicolas de Staël=「ニコラ・ド・スタール」です。


目次を見る

「稲穂と麦穂、どちらを選ぶか」


   


     4月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

ふるさと福井には30歳で一度戻りました。
当時は、その自宅裏はすべてが田んぼでした。
だから、春から秋の実りまで、
稲の成長から稲穂の金色を本当に詳細に見つめました。
そのおかげで自分の
特に、「緑色」と「金色」の対比を身体で覚えました。
そして、福井郊外の麦畑で、
麦の鮮やかな緑からこの実りもしっかりと見ました。
稲穂と麦穂の対比を克明に私は覚えてしまったと思っています。
父が私に言いました。
私もデザイナーとしてほんの少しマスコミに出るようになったとき、
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」、という言葉の意味はわかるだろ、と。
でも、父と何かしら確執し闘っていた私は言い返しました。
「僕は麦だから、稲穂なんかまっぴらご免だ」、と。
つまり、稲穂は頭を垂れますが、
麦穂は、麦が成長途中に踏みつけられます。
それは霜柱にやられないように麦踏みがあるのです。
だから、私は<踏みつけられてきた>という感覚がありました。
自分は踏みつけられても、
実ったら金色に輝いて頭は天に向かうとさえ思ってました。
そのことで、相当に父と言い争った経験があります。
実際に福井で、
「あなたは彼の息子さん?、彼は優れて温和な人ですね」と、
どこでもいつでも父は誉められていた人物でした。
それに比べれば、30代の私はことごとく、すぐに喧嘩してました。
現在もあまり変わっていないと思います。
これはもうすっかり自分の理念・哲学です。
絶対に「麦穂のように生きてやろう」。
だから、踏みつけられればそのぶん頭を上げようとさえ考えています。
しかし、多分、人間は「稲穂のごとく頭を垂れる」方がいいのでしょう。
そんなことがよく分かる年代になりました。
でももう死ぬまで、「いい人」で生きぬきたいとは思いません。
嫌なヤツは嫌ですから、明確に嫌なヤツをやっつけて
私らしく生きぬきたいと考えています。
ただ、私は、
「稲穂」と「麦穂」には人間のあり方の大きなシンボル性があります。
この対比は、
見事にそれぞれの実りまでの「緑色」と「黄金色」に顕れています。
この対比色の見間違いそうな差異色にシンボル性の意味があるのでしょう。
死ぬまで、稲と麦は見続けたいと思っています。


目次を見る

「時代はグリーンだが、私の緑をしっかり確認!」


   


     4月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

色彩論は40余年前に美大で強力に仕込まれました。
しかし、本当に「色・色彩」を全身で感じられるようになったのは、
車倚子の身になり、ふるさと福井の自然・田畑・空の利休鼠色でした。
グリーンと言えば、まさに現代色であり、商売色になっていますから、
グリーンは、私にとって軽薄極まりない色彩です。
ところが、緑・碧・翠はまさに自然そのものと、
エメラルドや翡翠の冷感があります。
だから、
緑と金色の伝統的な日本の組み合わせはまったく身体化しています。
ふるさと福井でどれだけの緑で視力を鍛えたでしょう。
名古屋時代は、
自宅間近に隼人池周辺の四季の緑を眼底に焼き付けていました。
大阪では、大阪大学の吹田キャンパスは日本でも巨大であるばかりでなく、
様々な植物があり、その緑の季節変化は見逃すことができません。
この画像は阪大病院入り口の緑ですが、多様な緑があります。
この色覚えてほしい、とスタッフや学生に伝えることがあります。
私にとって、色彩は「色彩論」というデザインの基礎学問であるとともに、
私の眼前で、その色彩の詳細を常に気遣って見ている色です。
私の持ちものはブルー系ですが、
このブルーと緑は常に対比する一番の色かもしれません。
したがって、パソコンでの文章作成は、薄緑系に青色の文字です。
そういえば、パソコンメガネでブルー色反応が取りざたされ、
あたかもブルー低減レンズが最適とか言われていますが、
確かに、モニター再現色でのブルー色云々より大事なコトがあります。
それは「ドライアイ」を防止することが最も肝要だということです。
さて、私は8割はブルー系のネクタイですが、
緑系はたった1 本しかありません。
まったく私に緑系のネクタイやマフラーは似合いません。
これが60 年生きてきた緑と身体の関係かもしれません。
それだけに、あの利休鼠色は確実に「緑系」であると私は思っています。
私がワイフに最初にそろえたバックや小物は、
すべて緑からスタートさせました。
その理由?
それは私なりの目論見がありました。
女性にとってのバーキンでは緑系は本当に少ないのです。
そこに私の色の計算があるのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「Inclusive Designの近傍的定義はトポロジー解」


   


     12月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

Inclusive・Exclusiveの対比
Inclusive DesignはExclusiveと対比。
あるいは対照性や反照性で、詳細定義に近接。
私はこの近接性を「近傍性」と読み直しています。
果たして、Inclusive Designの本質と定義は、
   ● 形容するデザイン対象、
   ● デザインアイテム、
   ● デザインプロジェクトの実例を何にするかということになります。
これこそ「何がInclusive Designであるのか」、
今、その何が求められているかが問題=Problemであり、その解決=Solutionが解答になります。
そしてこの解答こそ「造形デザイン=かたち」になるわけです。
Inclusive Designの造形要素・造形要因は、
一人称=デザイナーから三人称=ユーザーに向けられます。
解決手法としてのトポロジー
そして、InclusiveとExclusiveが変位する次元と造形に、トポロジーがその解決手法である。
このことが実務デザイン手法であることに気づいてほしいというのが私の主張です。
私は、定義をとりあえず文法的なカテゴリーの「人称」にもとめました。
そして、人称を一人称・二人称、さらに三人称との関わり、
すなわち構造をどのように近接していくと定義に連続や収束をしていくのかをメモとしました。
つまり、「近づく」というのは、連続系なのか収束系なのかということです。
近接から近傍
しかも、連続や収束でもどこかで変位することがあります。
私のイメージはとりあえず、トポロジーを最も基本的に示している「メビウスリング」が、
そうした造形デザイン=かたちの印象になります。
理由は、メビウスリングは、二次元のテープが捻られて三次元リングになり、
どこからどこまでがInclusiveとExclusiveかを「かたち」で表象されているからです。
Inclusive Designとは「カタチ」表象として、
きわめてトポロジーデザインでもあると私は強調しておきます。
しかも、この「カタチ」はバーチャルであることに気づいていただきたいと思います。
メビウスリングでの実験
実験をしてこのイメージをつかんでください。
テープを一度ひねって、リングを作ります。
そしてそのテープの幅の中心線にそって切り分けると、これまた大きなメビウスリングになります。
ところが、テープを2度ひねって、メビウスリングを作り、
そのセンターラインで切り分けると、二つのリングがつながってできあがります、
まるで手品のわざですが、これは、明確に二つの概念を視覚化するでしょう。
そこでテーマにしているInclusiveとExclusiveが「かたち」造形化していくために、
一回のひねりと二回のひねりで、「近傍性」を視覚化していることになります。


目次を見る