kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘希望’


『資本主義からの逃走』
   「幻想には理想主義がかすかに動いている」


   


     6月 9th, 2010  Posted 12:34 AM

幻想
幻想の中に埋没していたいと思います。
いや、幻想の中で生きられるならとさえ願うほどです。
しかし、幻想と妄想は、まったく別次元だということは、
完全に理解しておかなければなりません。
ただ、日常会話的な場面で、
「これは妄想にすぎないけれど」と言うのは、
ほとんど冗談的な意味合いであることは断っておかなければなりません。
なぜなら、厳密に妄想というのは「病的」、いや精神病に他なりません。
幻想交響曲
「幻想交響曲」「というのがあります。
ベルリオーズの作曲であり、彼の代表作というよりも、
この曲によって、彼の存在が歴史的になったと思っています。
この交響曲の第一楽章が、「夢・希望」だったはずです。
私は、デザイン、あるいはデザイン的発想、デザイン効果は、
「夢」と「希望」をめざしていることをまったく疑うことなく、
強い確信の元に、デザイナーという職能であったことに満足しています。
妄想としての資本論
さて、幻想か妄想かの議論が「資本論」から「資本主義」に向けられてきたことは、
資本論に対する批判から肯定の間にありました。
少なからず、私には「資本論」から導出された発想にには妄想があったものと考える側の人間です。
しかし、「資本主義」の全面的賛同、疑念無き肯定は、
デザイナーという職能と経験から、
どこかで「幻想」としていたのかもしれません。
この賛同や肯定も、実は、か細くて揺れ動いたからだと、
つくづく思うようになってきました。
たとえば、「妄想」を精神病的に分類する方法で、
「幻想知覚」
「幻想着想」
「幻想気分」
知覚としての幻想・着想としての幻想・気分としての幻想と考えてみれば、
明らかに、デザインには気分性、着想性、そして知覚性があります。
しかし、この性情には決して「病的な確信」に寄りすがって、
「訂正不能」は起こらないということです。
「訂正不能」
幻想ということだから、気分も、着想も、知覚も、
常に訂正することに呪縛されてはいないということになります。
私が、デザインに幻想が不可欠というのは、
デザインは妄想に陥っては成立はしないという確信を携えてきたからです。
しかし、「資本論」が危ういのは、資本主義への否定論には、
知覚的にも、着想的にも、気分的にも、
「訂正不能性」がこれまで数多く存在していたことです。
けれども、今、私はここで、
「資本主義」への訂正を逃走という言葉にすることが可能です。


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5月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 19th, 2010  Posted 1:36 PM

5月19日 先負(己巳)

想像図を透視図で描く時、
消失点が希望であり夢でなければならない。

透視図に描かれた世界=視界は未来である。
未来の社会あるいは時間である。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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『資本主義からの逃走』
 「LISAからiPadはφ=MECCへ」


   


     2月 4th, 2010  Posted 9:37 AM

LISA to iPad

LISAというコンピューターが登場。
やがて、私の側にMacintosh 128kで、以来、
コンピューターはMac以外は認めてきませんでした。
ただ、UNIXでのEWSの世界で、
「光造形システム」=Rapid Prototypingを追いかけ、
トポロジー空間論から人工臓器デザインをしています。
Macの世界はApple社という新たな企業存在でした。
そして私も、スカリー会長時代、アラン・ケイ氏にも
自分のデザインがApple社プロジェクトになって、
様々な議論をした経験が、大きな生涯の思い出です。

Apple Consultant

Mind TopPopeyeSweatpeaJeepBrutus,etc
が当時のコードネームでした。実現はしませんでした。
が、デザインのモックアップモデルは手元にあります。
パソコンをツールとしながらも、
私には「デザイン対象」そのものです。
パソコンは、「クラウド型」となることは確実です。
「スマートフォン」と「ネットワークコンピュータ」
この形式がiPadに進化しました。
おそらく、この中のコンテンツも、想像以上に、
驚愕の進化を遂げるかもしれません。
また、iPadは、ユーザーそれぞれの使用用途での
エンハンスメントも、新しい才能によって、
拡大化と集約化し、その相互性でさらに革新が
希望になってくれれば、
現代までの様々な問題解決につながると、
私は確信しているのです。
キーワードは、
物質=Material
エネルギー=Energy
情報=Contents & Context

φ=MECC

だと宣言しておきます。


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『資本主義からの逃走』
  「生産と消費、その資本主義の構造化の破壊」


   


     12月 18th, 2009  Posted 10:00 AM

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「生産」と「消費」の世界で、
大量生産と大衆消費の構造に私は生息していました。
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私はすでに資本主義に何の疑いもためらいも無く、
大企業で社会人デザイナーとなりました。
ただ、その企業が儲けるよりも、
自分の提案デザインが、
「商品化」されることに驚喜していました。
そんな私ですら、「生産」と「消費」の構造の中で、
「デザインは付加価値」ということに対して
やり切れない憤りがありました。
もっと賢明なデザイナーとしての発言力を持ちたい、
その想いをぶつけたのが、
構造主義、記号論、マルクスの形態価値論に出会います。
ミシェル・フーコーに出会います。
ジャン・ボードリヤール
の批判に、「かたち」で、
この思想と対決したい。
ソシュールモーリス・メルロー=ポンティデリダ、のとめどなく
深い思考の森の中に入っていきました。
この森の中でも、せっせと「モノのデザイン」は、
決して、「付加価値を生み出しているのでは無い」という
直感を信じていました。
おそらく、私にその啓示がめぐってきたのは、
「言葉と物」、「物の体系」をはじめとするどこかで、
マルクス臭のある論策でした。
結果、
結論は、「デザインは付加価値では無い」ということ。
「デザインは全体価値」、
だから、
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であったデザインをどう解放し、
その証拠立てをしていくことだったと思い返しています。
point of contactという「生産」と「消費」の結合点に、
デザインを配置し直そうとしましたが、
すでに、時代は、「生産」して「消費」することが、
どれほど、今度は私たち自身の「存続」、
地球環境の破壊が私たちを取り囲んでしまったわけです。
それでも
●「欲望」あるいは「フェティシズム」は、誘惑的です。
●「希望」あるいは「ダンディズム」は、魅力的です。
そうした私が障がい者になって、思い知らされたことは、
「喜怒哀楽」でした。
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には、「医学」と「デザイン」によって、
「生」と「死」を
根底から見つめ直すことでした。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵を断ち切った、都と鄙
           けれどもNetwork社会に希望」


   


     12月 8th, 2009  Posted 10:00 AM

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米国に従属してしまった日本は分断された。
戦後生まれの私には、
米国のあらゆるモノが眩しかったのです。
大きな冷蔵庫、自家用車、電化製品、・・・
そして、「アイビースタイル」で、ファッションを、
それこそネクタイの結び方まで学びました。
正直、60年代の「安保闘争」を田舎のTVで見つめる時、
日本が壊れていく、そんな東京でのデモ行進の異様さは、
とても、悲しかったのを覚えています。
70年代には、まさに、私も大学生になっていました。
完全なる「ノンポリ」でした。
むしろ、学生運動に走る連中を殴っていました。
それよりも、音楽やデザインに、心惹かれていました。

やがて、知るのです。
三島由紀夫の切腹が訴えようとしていたことに、
私は目覚めました。「日本が壊れていく」と・・・
明らかに、東京一極集中は日本を分断していきます。

私は、北陸の地方都市から東京を「対象化」しました。
そして、「雛美人文化論」を心底にしながら、
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伝統工芸産地に、「デザインの導入」に関わります。
やがて見えてきます。
「鄙」と「都」の関係です。
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明らかに、唯一の「都」=「東京」には、
「クロノフィリア(時間偏狂者)」が集中していきます。
一方、日本全国の地方都市は「鄙」と化します。
そこでは「トポフィリア(場所偏狂者)」で、
「土地自慢」こそ「地方の活性化」だという偏狂さです。
今なおこれは歴然とした、
「資本」としての「土地」感覚そのものです。
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「都」での金融資本と、「鄙」での土地資本が意識分断、
すなわち「花綵の国」は、金融資本も土地資本も、
価値を喪失して、私たちの心まで分断しました。

ところが、
情報時代=ネットワーク社会」は、この分断を、
新たな「花綵」にしてくれるのかもしれません。
すでに、「都」も「鄙」も、
ネットワーク社会=意識社会によって、
「bit資本」が、金融・土地・資材・食糧に至るまで、
「花綵ネットワーク社会」が創出されるでしょう。
私は「逃走」します。
それでも明らかに私の「希望」は、
このネットワークが、再び「花綵の国」へと、
デザインが導いていくものと確信している次第です。


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『資本主義からの逃走』
  「神の国には、諦観からの希望がある!」


   


     11月 25th, 2009  Posted 3:00 AM

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「諦観」とは、resignだと私は経験してきました。
諦めて生きること。
これはリハビリテーションの原理だと知ったのは、
車いすを余儀なくされ、
米国のリハビリ・トレーニング原書の
最初の書き出しで知ったのです。
とても大きなショックでした。体が震えました。
怖かったです。
これからリハビリで、元のような生活になるんだ!って。
この意気込みは、一遍に消失しました。
ところが、「諦めて生きる」というのは、
もう、歩けなくなった自分ではないけれど、
歩けない代わりに、もっと歩けていた以上に自分を修練し、
残された機能を鍛錬するということがresignだと、
米国のリハビリテーションの本に書かれていたのです。

まさしく、これは日本の仏教的思想の「諦観」でした。
以来、私は常に「諦観」の思想と論理を、
自分自身に言い聞かせて、車いすで生きてきました。
「神の国」には「諦観思想」があります。
米国にも同様にあるのです。
「あきらめる」=give up と言うのと、
「諦める」=resignとの大きな差異です。
私たちは自分本位であることに、
何らかの決着=諦観が、絶対に必要なのです。
「諦観」を心底にすれば、
それこそ、「神の国」には、右翼も左翼も、部落差別も、
どんなタブーすら「諦観」で全て融解してしまいます。
そして、
「諦観」が希求しているのは、
実は「希望」です。
今日本の国「神の国」の子供たちがほとんど知っています。

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司馬遼太郎氏の上記の一節です。
21世紀を生きる子供たちに、彼の「希望」があります。
果たして、21世紀に生きる大人は、
彼と子供たちの「希望」を
次世代に準備できるのでしょうか。
改めて、「諦観」からの「希望」で、
「神の国」に生を受けて存在している「使命」を、
自分自身に問い直していく日常こそ、
「諦観」と「希望」の狭間での私たちの「義務」であり、
その「義務」を果たさずして、
勝手極まりなく「権利」を求めることは、
人格を犯罪にしていると、私は考えています。
「神の国」の住人は、「諦観」が「希望」を創出するのです。


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