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「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」


   


     9月 29th, 2013  Posted 12:00 AM



車倚子生活を余儀なくされてふるさと福井のデザイン活動は、
福井県内の伝統工芸と格闘をしてきました。
私が幸運なことは、越前打刃物の伝統に工業デザインを導入し、
工房まで建設し、今や第二世代が育ってきたことです。
一昨日には盛大なセレモニーをしました。
越前和紙、越前漆器、越前陶器までの仲間もいます。
私は、改めて第二世代に、私のデザインで新開発に入ります。
これまでも幾人かのデザイナーも取り組んでくれましたが、
感動できるモノは・・・・・です。
私は「中興の祖」を自負するだけに、
絶対に革新的な刃物を提案してみせる覚悟です。
第二世代に、第一世代にいつも語ってきた、「切る」こと、
それは漢字の世界に見事に展開されています。
もう一度みんなに、この世界観にもどって、
「世界一の産地」になってもらうつもりでいます。
昨日工房をたずねれば、やはり海外からの方々もみえていました。
第一世代は「親方衆としての刃物芸術」にまで入ってもらいます。
今、私のデザインはすでに30年のロングライフ商品のままです。
越前市長とは、彼が大卒後に松下政経塾生時代から、
現地の素材メーカー社長とも久々に私のアイディアを伝えました。
最近、日本各地の伝統工芸産地や地場産地の、
誰が考えた計画案なのかを調査するたびに、
私は呆れ怒りがわきます。
それだけに、私にはPFI=Private Finance Initiative方式を、
大学人・デザイナーとしても、この「国難」に差し出します。
第二世代には、親方衆との闘いの日々を伝えて、
もう一度、今度はいきなり海外で「見せる」のです。
日本の伝統的刃物はこうして革新することを、
「次の私たちも、美しい切れ味を鍛えていきます」と。


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「750年をタケフナイフビレッジで革新して30年」


   


     9月 28th, 2013  Posted 12:00 AM



私は車倚子生活でふるさとに戻りましたが、
私を支えてくれた越前打刃物に取り組みました。
正直、これで「喧嘩師」を国内外にやってきたのかもしれません。
本当は5年が10年で「共同工房」を、
今は亡き建築家毛綱毅曠氏(1941~2001)との格闘で建設しました。
それが第二世代に引き継がれて20年です。
結局、私のデザイン活動の中核でもあり、デザイン成功例です。
第一世代:10名は、第二世代:15名にもなりました。
世代が変わっても、基本コンセプトを変更する意味はありません。
また、私のデザインはすでに30年もナイフの基本を創ったという、
強い自負がありますが、それだけに、
第二世代からの新作依頼は、とても苦しくて悩み抜いてきましたが、
私は、「伝統」=裏切りですから切羽詰まってデザインしました。
新たな産地の新活性化は、さらに世界的な刃物産地になります。
あらたなテーマでの研究をしてもらい始めました。
新素材も検討をつけていますし、刃物だからこそを成し遂げます。
おそらく、タケフナイフビレッジを始めた頃は、
私も30代ゆえにともかくこれが出来なければ、
デザイナーという職能を諦める覚悟で取り組みました。
それを支えてくれたのが、タケフの刃物職人のみんなでした。
産地はこれまでの経済危機にはほとんど揺るぎませんでした。
刃物作家はすでに国際的なビジネスマンにもなり、
産地には高級車もあるようになりましたが、
私は、決して「先生」ではなくて、仲間です。
私が負けそうになっても、彼らの厳しいモノづくりに励まされ、
「私たちは美しい切れ味を鍛えてます」というテーマは、
「次に私たちも美しい切れ味を鍛えていきます」という、
また「生きがい」を私に与えてくれています。
次は、第三世代を集めて、もっと未来を置き土産にする覚悟です。


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「安政の決定事項にデザイン導入してから・・・」


   


     7月 30th, 2013  Posted 12:00 AM



私はふるさと福井の伝統工芸にデザインを導入してきました。
750年の越前打刃物に「タケフナイフビレッジ」を、
デザインの導入によって産地を形成しすでに30周年になります。
すでに第一世代10名と第二世代15名になりました。25名です。
その背景には、この「定書」があります。
越前打刃物に伝わるこの書に登場する浅井(あざい)家は、
そのまま第一世代がメンバーにいます。
第一世代と第二世代が阪大の私の研究室を訪問してくれました。
第二世代に私は考え抜いた「産地モノづくり戦略」を話しました。
この「定書」という制度設計を成し遂げたのは、
まだ20代の橋本左内と熊本藩から越前藩の明道館に招いた、
横井小楠だったことが史実的にも確かめられています。
彼らの当時には藩政にとっても産業のあり方を述べていました。
だから、私はいつも、このように考えるのです。
「もし彼らの才能であったなら・・・どうしていただろう」と。
日本全国には、わが国の美学的結晶の伝統工芸があります。
絶対に不可欠なことは「デザインの導入」です。
30年、流行的なヒット商品を狙ってはきませんでした。
むしろ、現代の時間との共時性と産地技術の伝統性でした。
決して大儲けの産地になったわけではありませんが、
確実な「刃物のあり方」を伝統技にデザインを参画しました。
私は「働きがいと生きがい」を
未来の刃物に発見し、着実な日常性と産地存在性でした。
私は、新たな刃物を提案したいと思っています。
第二世代には、国内外で展覧会・流通・新たな存在性の確立です。
新たなデザイナーもそろそろ見つけ出したと思っています。
なぜならば、この「定書」にある制度設計を基盤にして、
情報時代から次世代時代を創出してもらいたいのです。
「タケフナイフビレッジ」を継体天皇の青春時代を送った、
その場に建設するまで10年かかりました。
その場に第二世代が全国から集まってくれました。
次の30年を根付かせるために私の役割を発見するつもりです。


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「エレベーターは徹底的革新必要」


   


     6月 28th, 2012  Posted 12:00 AM



スカイツリーが出来上がったとか。
建設中をヘリコプターで近接して2回も見物。
やっぱり早く登って見てみたいと思っています。
東京タワーも、車椅子になった直後に登っただけですが・・・
さて、634mというのは素晴らしい技術です。
しかし、エレベーターは全くダメでしょう。
なぜなら風速30mだと危険な乗物では技術革新が必要です。
3.11によって、私は現代工業技術で再発明すべきモノは、
二つあると主張しています。
エレベーターと車です。
この二枚の写真は私のマンションエレベーターです。
大型1基と小型3基があります。
無論、地震や火災ではエレベーターは停止します。
とするなら、最上階32階自宅の私は逃げることは不可能です。
だから、火災や地震の時に、エレベーターに逃げ込めば安全、
75時間はすごせるエレベーター機器デザインが望まれます。
エレベーターがシェルターカプセルに再発明されるべきです。
ワイフには、地震や火災の時、
自分を置いて逃げればいいよ、と言ってありますが、
デザイナーとしては、
革新的なエレベーターデザインを、ともかく提案しています。
国家的なレベルで、制度設計にまで高度化させた
エレベーター開発に取り組むべきです。
そのためには、
エレベーターのカゴがワイヤーぶら下がり型から、
絶対に開放される問題解決をテーマにすべきです。
強風だと使えないエレベーターを「時代遅れ」にすべきです。
車も、津波に流されようが、竜巻が来ようが、
車内に居れば絶対に安心安全がテーマだと思っています。
デザイナーは、エレベーターと車は、
大きな問題を発見しました。
なんとしても問題解決をしたいものです。


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「生きることの模範・範疇・範囲として」


   


     3月 5th, 2012  Posted 12:00 AM


マリアン・デレオ監督「チェルノブイリ・ハート」、
これは「反原発」のドキュメンタリーです。
このドキュメンタリーは重大な原発事故後の報告映像です。
どれほど原発事故が人類史上悲惨の極点を伝えています。
そして、この映画の冒頭には
「日本人のみなさんへ」という次の詩が流されます。

「生きることについて」

生きることは笑い事ではない
あなたは大まじめに生きなくてはならない

たとえば 生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない
(中略)
そのことをいま 嘆かなくてはならない
その哀しみをいま 感じなくてはいけない
あなたが「自分は生きた」というつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはいけない

私たちが原発事故で佇むべき熟考の
動機付けになると確信します。
無論、日本は原爆被災国家であり、
さらにフクシマでは、自らの原電制度によって、
またもや「原子力発電・放射能」について、
多大な犠牲者の屍への哀しみを、まず、国家体制へ、
そして私たちの電化生活文明への猛反省を求められています。
私は「反原発・脱原発」も「原発推進」も、
結局は「放射能」へのアポリアで思考停止していると考えています。
「範原発」という目標と目的を掲げ直したいと提案します。
原子力発電所を、「建設から生産へ変更」、
「集中から分散へ、例えばタービンレスへ」、
「プルトニウムへのブレークスルーで別原子核へ」、
原子力技術の全否定=「反原発」は、
何も解決に至らないから「原子力技術自身の革新」を主張しています。
その具体例をデザイン提案していきたいと考えてきました。
私はこの原子力技術の手法の変換、革新、
その範疇・範囲・模範への智恵創出を
「範原発」と呼ぶことにしています。
チェルノブイリの立ち入り禁止地区という範囲には、
絶滅したはずの動植物のパラダイスともなり、
その範囲からの放射能汚染・ホットスポットは今なお人間の生存、
遺伝子破壊は連続しています。
放射能・放射線の諸刃の剣的な人間との関係性に「範」を与えること、
この重大さに発想を向けるべきではないでしょうか。
美しい花を愛でて日常を高度文明の中で護られ、
生き抜いた結果の死だからこそ、
美しい花に包まれた死をと私は願っています。


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「安政の三大地震・伝承されたこと」


   


     12月 27th, 2011  Posted 12:00 AM


私は日本を「神の国=花綵の国」だと信じたいのです。
わが国は政治が乱れたときに大きな天災に見舞われます。
安政年間には、安政江戸地震・東海地震・南海地震と
三大地震が起こり、それは各地でも天災被害となりました。
けれども、そうした天災を後世に伝えるべき工夫を重ねてきました。
「つたない文章ながら、後世に伝えてほしい」とされた碑文。
その碑文は墨で黒々と風化を食い止めてきました。
一時は、科学的なペイントも考慮されたらしいのですが、
毎年、その石碑を中心に慰霊して墨入れを継承してきたということです。
3.11は復旧・復興とともに後世への伝承を具体的に残すべきでしょう。
ただし、箱物での「記念センター」的な建設、
そして天下り人事ではありません。
「みちのく」との距離は、離れれば離れるほど記憶は風化します。
陸に乗り上げた船舶や、瓦礫のモニュメントなど、
痕跡記念はありますが、
被災した人たちにとっては、
「哀しみと悲しみ」を再現させるべきモノではありえません。
未だ、行方不明者を家族に抱えておられる方々への思いやりの有り様、
それはとても想像を絶します。
しかしながら、これまでも三陸海岸では、
「津波の時は山に逃げるべき」石碑がありました。
「大地震両川口津浪記」にも、「船で逃げるべからず」、
この記述が伝承されてきました。
慰霊の場、そこには
いつでも花を手向けるモニュメンタル・トポスは必要でしょう。
しかし、私たちは、大地震・大津波・原発事故は、
特に原発の後始末は数十年を越えるでしょうから、
決して忘れることはないでしょう。
が、それでも被災現地ではおおよそ35万人の被災は、
35万件の事件が在ったということです。
「東日本大震災」という名称でまとめられることではありません。
地震前に日本は、市町村合併により市町村名が変わりました。
よって、本来、伝統文化の地名を失っていたのです。
このことからも、まず「地名」を戻すこと、
私は地名という言霊を捨て去ったことに、
「みちのく花綵」を失ったとするなら、
モニュメンタル・トポスにはその地名復活も、
大きな復旧の手立てだと確信しています。
そして、この復興がどうであったかよりも、
「安政の大獄」で殺された頭脳は人災でした。
わが橋本左内も、吉田松陰も、梅田雲浜も殺されました。
1860年に咸臨丸は太平洋を渡ります。
日米修好通商条約がその後の日本を苦しめました。
まさに、TPPを抱え込んだ現代に酷似しています。
この国難のモニュメントは熟考しなければなりません。


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