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Posts Tagged ‘形態’


「3Dプリンターの誤解が未来性を語っている」


   


     5月 23rd, 2013  Posted 12:00 AM

スプーンなどの単純な形態、
実際のスプーンデザインはとてもむずかしいと思っていますが、
これが3Dプリンターで造れるということで未来の工場になる、
というのが大誤解です。
これは実際にデザイナーがモックアップモデルというより、
プラスチックであれ、金属であれ、
この装置が低価格になれば、誰もがデータで自宅でも使えます。
しかし、まだ、正確なモデルや資料などは高価です。
確かに、廉価な装置を「技」ある人物なら可能です。
私のクラインボトルは、どこまで複雑なことが可能だろうか、
こんなことを試している状態です。
ところが、最近では3Dプリンターブームです。
確かに、TV報道でも「銃器」もテーブルの上の廉価な装置で、
簡単に造れるとか言われていますが、
これにはまだまだ「技」形成していく基本を知ることが大事です。
行政や大企業研究所、大学まで、ほとんど予算消化で購入。
けれどもほとんどが「動いていません」。
私は、まだいくつかの問題があると思っています。
廉価な装置にまでなりましたが、
それには、まず「光造形」を知っておくべきだと思います。
そして素材の問題もあります。
金属などは限度と知識、そしてデータ作成と造形「技」です。
確かに、デザイン部門でこの装置をモックアップ化はできます。
上部写真はヴァーチャルにイメージ造形をそのままセット。
下部では、装置が駆動=この装置はまだ個人所有は困難ですが、
3Dプリンターでスプーンが出来ています。
でも、大きな問題はまだ、サポートからモデルを外しても、
その剥離溶剤は産業廃棄物であり、
業者に廃棄をまかせることになります。
これは大きな問題ですから、
自宅使用でもまだ社会システムにはなっていません。
私は、せめてこのサポート剥離の問題は光造形でも問題です。
光造形も3Dプリンターも、確実に、未来工場では、
最高速で、サポートの自由度があり、
結局は成型後の後処理を安全で完全にしていくことが基本です。
3Dプリンターで「何をつくるか?」というよりも、
この装置が日常的な備品になっていくための社会環境、
この改変によって「新しい革新的な未来」があるでしょう。


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「光造形と3Dプリンターでクラインボトルはなぜか?」


   


     5月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

これは厳密にはいわゆる数学でのクラインボトルではありません。
しかし、3Dの造形においては、
「造形システム」での手法や装置が極めて重要です。
たとえば、
なぜ、Desk Top Publishing=DTPが時代要請だったのだろうか?
この質問に戻らなければなりません。
DTPではPostScriptというOSが無償でユーザーに供給されました。
結果、PageMakerというレイアウトソフトは1986年に生まれ、
Illustrator88がその期待の元に出てきました。
世の中はレーザープリンターの印刷精度値を進化させるのです。
商店街から「軽印刷業」が消滅を始めました。
これは2Dの「版」離れを意図した世界観的な存在感、
少なからずパソコン自動製版と呼ばれた革新でした。
同時期に日本では光造形という実験成果で特許を求めましたが、
見送られた現実がありました。
2Dの世界観を3Dに求め始めるのは当然でした。
その一人がデザイナーの私だったのかもしれません。
明確にニュージャージーのベンチャーとプリンストン大学が、
「歯車」をすでに実現していました。
私は、この装置が欲しく、3D-CGと3D-CADを学ぶために
ベンチャーの本社(トロント)で二夏訓練を受けました。
3D-CGでは、Natural Phenomenaという
今では当たり前の、水と水飛沫や燃える火、夕焼け表現でした。
しかし、私の頭の中では、金型=「型」から解放される、
そんなモノづくりを夢見ていました。
光造形のクラインボトルは、
「何のため?」とどれだけこれまで聞かれたことでしょうか?
想像力のある人は、
金型では決して出来ない自由な表現や実務対象を見つけました。
そこで現代では拳銃やマシンガンさえ3Dプリンターでの
実現可能性が明確になり始めてしまいました。
わが国、日本の技術進化=「技」の系譜は、
はっきりと光造形の下敷きの上に、
3Dプリンターの「技」が確かめられることが分かりました。
このクラインボトルの形態を自由に変形させ、
かつ様々なイメージをそのまま造形化するのに、
廉価な3Dプリンターでもここまで出来ること、
これが重要だということです。


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「二回捻ったトーラス(ドーナツ)同様にすれば」


   


     5月 20th, 2013  Posted 12:00 AM

新聞紙をリボン形状で細巾で切って二回捻ります。
そうすれば、二回捻られたトポロジーの形状が出来ます。
これを「トーラス」と呼びますが、
このリボンを中心線で切っていくと、どのような形状でしょうか?
これが私の問いかけでした。
このトーラスを立体=3Dにした形態が「クラインボトル」です。
そこで、クラインボトルが鎖のようにつながった形態を、
光造形で造形していくことでは、大きなきっかけを知りました。
左写真の二つのクラインボトルは、
私の研究室の「おみやげ」になっています。
人気製品になっていますから、国内外で手渡してきました。
かつて、ニューヨークで講演をしたときに、
「自分を覚えておいてほしい」と言っていた人物がいました。
その彼を阪大に呼ぶことになりました。
彼は母国でスターデザイナーになり、
KAIST=韓国科学技術院=世界でトップクラスの大学院大学の教授です。
彼は留学生時代に私の渡したクラインボトルを持っていました。
だから、この二重トーラスの立体化から、
二つのクラインボトルは、私の人工心臓の手がかりの形態です。
そこで、今私がトライしているのは、
二つのクラインボトルを、3Dプリンターでは国内トップの方に、
成型実験をお願いしている最中です。
3Dプリンターの米国的なブームと一線を画して、
わが国独自の「新しい革新」としての3Dプリンターの具現成果は、
きっとこの実験で一つの実証検分が可能だと考えています。
私が、なぜ、3Dプリンターの素材に中空パイプの、
ワイヤー素材を求めているのかを想像してみて下さい。
その詳細を知るには、
絶対に、まず冒頭で描いた新聞紙でリボンをつくって、
二回捻ってみて、トーラスをつくってみて下さい。
そして、そのリボンを中心線上にそって切断すれば、
鎖になった二つのトーラスが出来上がります。
これは手品になっています。
したがって、このようなトーラスのイメージを立体化すれば、
それは鎖状の二つのクラインボトルになるのです。
光造形では、その造形方法は至極簡単になりました。
そこで、次の問題は、
二つのクラインボトルを3Dプリンターで造形できるだろうか、
ということを追いかけています。


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「位相空間で『ドッグボーン空間』という想像力」


   


     5月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

トポロジー=位相空間という訳語に違和感がありました。
米国のRH Bingは、そのトポロジー的な対象を
様々に考え出しました。
彼のビイングズ・ハウスという、
二つの部屋がある家と名付けられた空間の家があります。
これは図で見ていても、その証拠立ては難しいと感じました。
この感覚に、いわゆる漫画的には、ドッグボーンがあります。
これは空間に穴が空いていますが、その穴のある空間の内部に、
さらに、ランダムなパイプがあるわけです。
そこで、これを「光造形」出来ないだろうか、
ということを名古屋市立大学時代に、
当時のEWSで試みました。
しかし、この形態が出来たのはたった一人でした。
あくまでも、RH Bingのトポロジー思考対象でしたが、
「ドッグボーン」という印象がまったく無くて、
それなら、まさに漫画に登場する形態にしたいという想い、
その想いをかなえるには、本当に、まず空間があるべきです。
それなら、「光造形の途中で、水を入れる」という無茶です。
そして、その水の中にパイプがあるわけです。
これが出来たのもたった一人しかいませんでした。
この二人が苦労したのは、
当時すでにEWSでは、
あるソリッドな空間を支えるサポートまで出来てしまうのです。
そこで、この二つのモデルも、
中空の中のパイプはソリッドです。
正直、このパイプ内を空洞にすることは出来ていません。
しかも、位相空間の「ドッグボーン空間」ですから、
デザイン的には、空間の中にある形態・言語・空間が造形。
私のイメージは、そこから「トポロジー」的な思考を空間に、
あるいは言語にしていく装置として、
空洞に穴があっても、その空洞にまた空洞のパイプが出来れば、
そんな想いが今、3Dプリンターの素材そのものに、
新たな期待があるのです。
それが「出来れば」!・・・
コレが可能になると想像しているのです。


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「3Dプリンターの真実と真贋を見分ける!」


   


     4月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システムを知らないユーザーに警鐘を与えておきます。
安価であろうが高額な装置であろうが、
真実で真贋を見極められる「技」がなんとしても必要です。
この画像を見て、3Dプリンターの機種、
当然ながら市価が区別出来ることが真贋を決定できるでしょう。
光造形システムから3Dプリンターという系譜で、
何が可能になってきたかを知る人以外は、まさかこれが出来るとは・・・、
ということになるでしょう。
これらの現物が出来る人物は、
たった一人しか日本には居ないと思います。
最近、TVや雑誌にしても、この人物だけが真実を成し遂げています。
今日知りました。彼とは面識があったそうですが、
今は個人情報もあることから、Mさんだけが可能ですと断言します。
3Dプリンターがあの「MAKERS」という著者の指摘は当たっています。
ただし、彼の思いが本当はどこから今日にいたったかは
何人かが牽引していく必要があるでしょう。
これからの日本の産業構造を変えるには、
私はYさんとMさんがそのリーダーになると確信しています。
もちろん、私自身も1996年には、
彼らが居てくれたからデザイナーとして出来た経験があります。
一昨日私は、「クラインボトル」の形態と擬似形態、
そして空間論・言語論・形態論の可能性を提示しなければと記載しました。
昨日は、この画像の現物をじっくりと見ながら、
1980年代後半に、
私が、プリンストン大学と共同研究していた「歯車」を米国で再び見た思いです。
今や廉価であっても「技」が必要だから「革新の技術」が必要です。
なんと言っても見ていただきたいのは、
TOKYO Maker」のwebsiteです。
なぜ、3Dプリンターが自宅のキッチンに置いてあるのでしょうか?
私は、名古屋市立大学時代は、
おそらく最高の「光造形システム」がレーザー違いで二台在りました。
しかし、当時はその部屋に入ることは避けていました。
危ないと思っていたからです。
つまり、3Dプリンターが世界を革新することは確実ですが、
それを何としても成し遂げるのは
この日本からに絶対にしたいと思っています。
Mさん、Yさん、これからもよろしくお願いします。
私のノウハウはすべて提供します。


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「基本はトポロジーの形態が出来るかだった」


   


     4月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システムでこれが可能だろうか、
という私の直観は、フィラデルフィア大学の
Eminent Scholarと呼ばれていた元医学部の名誉教授たちの質問でした。
確かに、トポロジー、日本では「位相空間」という数学思考の形態でした。
私はトポロジーを位相空間と翻訳する大間違いに気づきました。
以後、私は空間は元来、形態であり言語だと考えてきました。
つまり、
  ・点には形が無い
  ・線には太さが無い
  ・面には厚さが無い
これらが数学的な想像力で、
場の近傍性=トポロジーということになりました。
ところが、
あるアーティスト(「点・線・面」の著者/カンディンスキー)が、
「点とは必ずこれは正方形になるといづれ理解される」。
この予測に心を惹かれました。
  ・点はピクセルを単位とする
  ・線はピクセル設定で太さが出来る
  ・面は、そうした線の太さで厚さが生まれる
このことを、当時のIDEAS(3D-CAD)でSLAデータにしましたが、
「クラインボトル」には厚みがあっても、サポーター設定が困難でした。
しかし、サポーター設計が光造形の決め手になることで、
確実に厚さがある「クラインボトル」=擬似形態が出来ました。
それから光造形形態を「トポロジー空間」と呼ぶことで、
3Dプリンターはサポーター無しで、
いわゆるレイヤー=面を積層することで、
言語→形態→空間設定がいわゆる編み目表現を可能にしました。
したがって、あくまでも見た印象は「クラインボトル」でも、
光造形と3Dプリンターはまったく異なります。
ただし、この編み目そのものが管=パイプになったとき、
それはトポロジーという数学的思考は、
デザイン的思考となり、素材がパイプになれば、
それこそ、トポロジー空間論は完成するでしょう。


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「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」


   


     12月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

ロボットに心を待たせることができるのだろうか。
これはロボット学の大きなテーマです。
「ロボットは心を持つことができる」と石黒教授は断言しています。
それは、J・ボードリヤールの指摘への反論がベースだと想像します。
ひとつは、
「ロボットは想像的なものの局面が、
神話として到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」ということと、
「もしもロボットが行動の柔軟さというところまでの人間の分身であれば、
それは「不安」を呼び起こすだろう。」
という私のロボットの「身体論」的な解釈を喜怒哀楽表現を、
表情表現に求めたものです。
そこで、「舞」というロボットの動作は、まさしく「舞」ゆえに、
足の裏を決して見せないという行動とともに、
哀しいときには、
一緒に泣いてくれる表情=涙(LED発光)を流す形式を造りました。
ヒューマノイドでもなく、
なんとかメカノイドからも開放された造形言語でまとめました。
そして、まさしく「泣く」のは、
ジェームス=ラング説をそのまま摘要して、
「悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しい」ということを
人工知能的な反応と表現へ技術具現化を求めています。
だから、人間が泣いていれば、
まずロボットもそれをキャッチして泣くのです。
だから、泣くから悲しいという表情が表れることは正当性を担保できます。
心理学・生理学的な「泣く」という
ひとつの心があると思わせるようなことは可能になるということです。
これは、人間もロボットも「泣いて」こそ、
「悲しみ」を共有できるということは、
決して、
ロボットの存在が「不安」を与えることを消去してくれるはずです。
やはり、ロボットには、
形態としての表情=顔的な造形言語があれば、
その表情あるロボットの形態言語は、
喜怒哀楽ができることが「意味されている」ということになるはずです。


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「BMW i8が実現し始めた新たな造形言語と形態言語」


   


     12月 2nd, 2012  Posted 12:02 AM

造形言語と形態言語は、
ソシュールの「一般言語学講義」をテキストにして、
デザインが果たす言語=形態への適応と応用を私は試みています。
そして、私自身が現在、
造形言語と形態言語を製品開発の実例から見いだそうとすると、
正直、造形言語 – 形態言語の構造を持っているモノは、
ほとんど国内メーカーには不在であることが無念でなりません。
「ミッション・インポッシブル」にBMWの車が登場します。
映画ゆえ、それはコンセプト・カーと言ってもいいほど、
まさに「カッコいい車」が登場するわけです。
ところが、この車は2014年に発売されることになってしまいました。
無論、いくつかのスペック・ダウンというか、
アドバンス的なことは実現されないかもしれません。
しかし、このプロモーション・CFを見ていると、
ここまでの車がとうとう世の中に存在する時代になってしまった。
私は感激し、感動してしまいます。
車、それは「移動の手段としてのツール・マシン」でした。
しかし、21世紀を方向付ける情報ツールであり、メディアであり、
しかもこれこそ「電気自動車!」という
言語性を持って登場してきたわけです。
私の「製品記号論」講義の事例・実例として紹介し、
まさに言語=形態を「読み取ってほしい」のです。
たとえば、プロモーションCFですら、一つのドラマであり、
ドライバーの運転、すなわち制御性能は、
「情報操作性能」とそのマン・マシン系はやはり、20世紀に終焉して。
ほら、21世紀は、メディアツールというモードは、
これだけのコードとのインタラクションなんだよ、
とBMWは発明しているのです。
「ミッション・インポッシブル」が、
ひょっとするとあの「007」を超えるストリー性と
登場するガジェットの様々さを超えたかも知れません。
そんな印象があっただけに、
BMW i8 はメディアとしての車であり、
情報処理としての運転性能の技術表現内容を
デザインは造形言語の意図性は見事です。
そして、デザインされたこと、意味されている形態言語には、
21世紀は、電気自動車ゆえ、
「移動手段=目的地に着く」という以上のことを恣意しています。
すなわち、ソシュールにもどれば、造形言語が意味することと、
形態言語が意味していることの「恣意性」を
技術進化をデザインが果たしていることは明白だということです。


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11月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 26th, 2012  Posted 8:56 PM

11月26日 辛卯(仏滅)

私が問題としたいのは、
デザイン意図と形態、
しかも事例はシステム化された
形態のデザインということの解釈である。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』14 意味論としてのデザイン


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「デザインは機能美ではありえない」


   


     11月 20th, 2012  Posted 12:30 AM

未だに、商品が語られるとき、
「デザインと機能が云々・・・」という表現が余りにも多過ぎます。
デザインには、すでに「機能」は内在しています。
したがって、この場合は、
「デコレーションと機能が・・・」に言い換えるべきです。
日本には、戦後、「デザイン」という言葉は、
洋装やファッションで用いられることが今日まで影響しています。
そして、もう一つは、
「機能的なモノは美しい」とか、
「機能美がデザインの目標」などというのも間違いです。
「この車はカッコいい」
「この車は機能美に溢れている」
「この車の性能は優れているがデザインがいまいちだ」などなど、
これはとてもヒューリスティックな会話=パロールですが、
私は、デザインには「性能・機能・効能」があると言い続けてきました。
だから
「性能が優れ、効能という社会的効用があり、使い勝手としての機能」、
これらの統合があって、
はじめて「デザインが出来ている」と考えています。
「この車は速そうな格好をしているからカッコいい」というのは、
論理性を失っています。
「速い車」、というのは、
「速度が存分に性能性があるから、目的地に速く着ける」、
この効能が社会的な効用であり、そうした速度性があっても、
運転などの制御性や安全性が機能的に完備している。
これがデザインが果たす職能効果です。
そして、速度感を表す形態・流体力学的な性能・機能が、
その車が社会に存在している効能性だということです。
さらに、そうした車を所有できる社会的な階層がイメージできるとき、
その車はすでに「商品」ではなくて「記号」になっているということです。
性能・機能・効能が形態言語=designed languageになるためには、
その「記号がすでに意味していること」を社会が認知していることです。
すでに「商品」としての車は、
「記号」として存在性があるイメージの中にあるということです。
「速く目的地につける形態」だから、
速そうという性能、
速いから制御と安全性が確保された機能、
だから、社会的な存在価値が効能になっているということになります。
「デザインとは何か」ではなく、
「性能・機能・効能が統合的な記号になっているのがデザイン」、
これが私のデザイン、その本質的な定義です。


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