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Posts Tagged ‘復興計画’


「相当困難だと思う」


   


     4月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

先般、被災地の石巻市海岸線にあった瓦礫です。
本来は大きな広告塔だった缶詰のオブジェですが、
看板としては田舎っぽい存在感があったと思います。
デザイナーの私としては美しい看板どころか認めがたいオブジェです。
しかし、
瓦礫と化したこのオブジェは今では石巻のオマージュになっています。
大津波の巨大さ、自然の猛威を表示しています。
私自身被災地に復興計画を提案後、体調を崩してしまいました。
それには現実を凝視すればするほど、
デザインでの復興デザインのあり方を再考させられるばかりです。
が、「なんとしても復興への想い」は決して諦めてはいません。
その復興にデザインは不可欠だと確信しています。
ところが、最近、被災地それぞれの人口流失から、
現政権の無策性、日本の大企業が及ぼす景気感などから判断すると、
「相当に困難」だと思います。
理由を整理してみました。
まず、「地方行政力の実行力が基本的に欠落」しています。
とりわけ人口10万人程度での行政人材に、
その計画性から実行力などを期待することはほとんど困難です。
1000年に一度などは経験値で活動できることを凌駕しています。
しかも、行政機能の範疇に、復興実現などあるべきことでもなく、
ノウハウから創っていかなければいけません。
大震災以前に、日本の各地方すべてが「シャッター街」であり、
その再活性化すらほとんど全滅状態でした。
そこに、大手広告代理店などの「再活性化プラン」や、
いい加減な企画プランナーと自称する連中のプランなども最低でした。
そうしたプランに地方行政はほとんど振り回されてきたと思います。
今回もそうした売り込みが多いようですが、
本物の計画を見極めてほしいと願っています。
私自身のデザインアイディアでも、
16mラインまでの対応デザインをしましたが、
南海トラフでの想定では、20mから36mまでの安泰ラインとなると、
そのデザイン設計でのアイディアを超えています。
今、石巻の瓦礫と化したオマージュを何度も見つめ再熟考しています。

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「瓦礫に祈りを・・・デザインによる復興計画を」


   


     3月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

コンニャクのような私たちの日本列島。
地震列島に津波、
だから「防潮堤を」という発想には俄然反対です。
私はこのきもちを抱いて10ヶ月、復興デザイン計画書を書き上げました。
ひとまず、すでに現地に復興実施をしている企業の口添えで、
まず石巻でプレゼンをしました。
とちを、つちを、だから、まちを!という発想です。
とち・つち・みち・まち、そして東北は「通り」があります。
人工地盤には、上水道・中水道・下水道。さらに電力と情報によって、
インフラの整備をすることで、
ようやく「スマートグリッド」の基盤整備が可能になります。
政府は未だに「防潮堤」の計画を進めようとしていますが、
美しい海岸線を
高さ10m以上の壁面で取り囲むというこの智恵無き発想にあきれます。
まして、この防潮堤の土木工事は
これまでの建設関連既得権益と強固に結びついています。
被災地の人たちには未だに瓦礫が山のように立ちはだかっています。
そして遠方には何事もなかったがごとくの穏やかな海が広がっています。
毎日、津波で無くなった方々への鎮魂の祈りを捧げておられるようです。
私は、減災・防災・救災、そして安泰という
海面からの地盤高を考え抜いた人工地盤計画を持ち込んでいます。
リアス式の美しい絵画から、あの巨大な津波は、
女川の集落をすべて飲み込んでしまったのです。
それでも現地の人々は、
毎日、穏やかな海、荒れ狂う海を見つめて暮らしていく、
この日常性での安全+安心=安泰の地盤計画が必然と考えています。
帰阪後、風邪気味なので眠りに眠りました。
あらためて、津波でおそいかかった海に、
今、生きる人間の最大の智恵で、
「生活のつち・とち・とおり・まち」を創生させたいと考えています。

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「組紐に出逢い、やはり『絆』があった」


   


     3月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

有田への出張は佐賀県嬉野市から始まり、
嬉野温泉に泊まりました。
そこで「組紐」に出逢ってしまったのです。
ここにも「組紐」があったんだと「嬉しく」なり、
しかもその売り場には「絆」を表す組紐とカードがありました。
3.11以後のわが国は、現政権への不信感や、
反原発・脱原発で国の世論は分断されています。
だからこそ国難の最中になっています。
私は「範原発」という新たなカテゴライズをまとめています。
組紐は、
母の帯留めや祖母が日本刺繍を教えていたこともあり大好きな物です。
しかもこの組紐はまさにトポロジーの一例になるモノでもあります。
どうやってこの結び方があるのでしょうか、
「結い」という日本の伝統的作法を表現した伝統工芸であり、
なおかつ江戸時代に完成された「美しい日本の表現物」と思っています。
私はカメラのストラップにするために
帯留めの組紐を材料にしてストラップを自作することがあります。
今回、有田焼に関わって、有田が1640年代頃には一つの革新がありました。
一次焼成後に青色・コバルトブルー、酸化第二鉄が酸化第一鉄に変化し、
独特の青色を生み出して、
この地方の鍋島焼は献上品としての名作が今も残っています。
従って、ある意味では無鉛の釉薬をなぜか強制させれる現代、
このコバルト・ブルー(有鉛)は失われました。
私はそれが問題だと思っています。
有鉛であっても、
釉薬処理での産地の伝統技には害毒などありえないのです。
焼成後のブルーは結晶構造が唇に優しいモノに変化しているのです。
1640年代といえば、三代将軍「家光とお江与の方」の時代でした。
組紐は刀剣から着物にいたる
「美しいモノ」が完成され始めた頃のことです。
カードには現代では「トポロジーのかたち」、
そう呼ぶことが可能の一つがあしらわれて
「絆」の確認を訴求していました。
この「結い」はまさにトポロジー配置空間だと言っていいでしょう。
私の有田での講演会と発表会は、
今、わが国にとって最大に重要な「絆」から始まりました。
翌日は、佐賀県知事・古川康氏と初対面で夕食をしながら、
「有田」産地のことから復興計画=被災地空間環境までの「絆」を
4時間話合うことができました。

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「『3.11』復興デザイン計画をこれから開始する」


   


     3月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

私の生涯において、交通被災で車椅子生活はまさに想定外でした。
しかし、東日本大震災と福島原発事故は今なお私を打ちのめしています。
10ヶ月間、私はひたすら「復興計画デザイン案」を書いてきました。
そして、自分が障害者になった以上に
これほどの「哀しみと悲しみ」に対峙したことはありませんでした。
とてつもないほどの記録を読みました。
とてもデザインという職能では、
この復興に立ち向かえないと何度も思い知らされてきました。
1000年に一度というなら、
その事を体験せざるをえなかった自分の生涯に位置づけること、
それが「行学」としての
デザイナーの生き様だと自分に言い聞かせてきました。
当初から、私は「真手」=までいという東北地方の言葉を
タイトルにしようと思いました。
ふるさとでデザイン実務をした者ゆえの発想だったと思います。
政府を信じない、大企業を信じない、
学者を信じない、東京流発想を信じない、
これは現代地方の奈辺意識だと確信しています。
地方でデザイン活動をしてきたからこそ、
東京からの発想を持ち込んだところで、
特に、被災地の信頼は受けられるはずがないと思っています。
そしてここに掲げたデザイン計画は
「壮大」でなければならないと考えてきました。
これが資金的にも技術的にも可能ならしめる組織・企業はどこかと考え、
自分なりの選択で持ち込んでプレゼンテーションをしてきました。
このブログタイトル「までい」とは、
真摯に、地道に、真剣に、誠実に、という東北の言葉です。
私自身、残された時間、体力はすでに視界に入ってきました。
技術的可能性を持って、いよいよ現地に入って、
「制度設計案」のプレゼンテーションをする段階になりました。
私自身の「真手」さで、このプロジェクトの実現に、
一人のデザイナーとして向かう決心と覚悟です。
これから、この計画の実現への
困難さや可能になったことをここで記録していきます。

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「減災・防災・救災のために」


   


     2月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

日本が地震大国ゆえにその予知報道に翻弄されます。
そして3.11は私たちの価値観を変えてしまいました。
私は10ヶ月かけて「復興計画」企画書を書き上げました。
これからその計画書では企画・戦略だったので、
本格的な計画の推進をめざしたいと考えています。
大震災直後に、情報の集約化をめざして、
このwebsite内に放射能のことなど情報を集め発信してきました。
そして、減災・防災・救災というレベル設定をして、
もし、天災に見舞われたらどうするべきか、
「ふだん」と「まさか」に峻別した情報集積をしています。
そのwebsiteのトップ画面です。
3.11で学んだことを集積し集約して、
まず「自分の命を守る」こと。
そのためには避難するにも「手ぶらで逃げる」こと
これが基本だということです。
防災グッズは様々なモノが市販されていますが、
それよりも、「手ぶらで逃げて命を守れば」、
減災と防災が適います。
そうすることで、救災ということばで、
「助け合う」ことの主役になるということが大事という考え方です。
「手ぶら」といっても、
最低限はいつも身につけておくことが肝心です。
それは、「財布・ケータイ・ハンコ」ということです。
財布とケータイにハンコを加えたのは、
3.11で「避難所生活」で必需品だったことです。
「ふだん」と「まさか」に、
日頃から準備していくモノややっておくべきコトを、
このsiteに集めたいと思っています。
衣・食・住に対して、私は医・職・趣を付け加えています。
医は救急医療、
職は職能の保持、
趣はたとえ天災に遭っても、
自分やみんなが励まし合うエンターテイメントです。
そして、水・食料・電力というエネルギーを
どうしていくべきかは、日本の宿命的課題です。
私は、ともかくなんらかのエネルギー確保を、
さらに改良し、進化させるデザインが必要だと考え、
そのデザインと開発のフィーザビリティに取り組んでいます。

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「想像力と直感あれど『東京ラリア』具現化出来ず」


   


     1月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

1994年にギャラリー・間で個展をすることができました。
「プラトンのオルゴール」という個展をしました。
その個展の作品・インスタレーションは、
2006年に金沢21世紀美術館に永久収蔵されました。
その個展で一つの作品を提示展示しました。
「東京ラリア」という名のラジオです。
これは災害用を意図して、電源無し・振って発電し、
NHKだけが聞こえるラジオ=受信機能と
発信には笛をつけました。
その笛の吹き方は、表面に触覚マークがついています。
「・・・ーーー・・・」というだけのものですが、
これはモールス信号のS・O・Sを表しています。
フッ・フッ・フッ・フー・フー・フー・フッ・フッ・フッで
SOSになります。
これを個展と同時に草月会館での講演でも見せました。
そうしたところ、東京消防庁と東京都から具体化の話になりました。
しかし、様々な経緯で可能にはなりませんでした。
そして翌年1995年に阪神・淡路大震災が起こりました。
(来るべきことが起こった!)
私の想像力と直感が当たった気がしましたが、
咄嗟にこの「東京ラリア」が出来なかったことを悔やみました。
こうした体験を何度してきたでしょう。
新潟県中越地震前に「佳設住宅プロジェクト」を
ある住宅メーカーと進めていましたがトップが倒れてストップ。
この「夢」も本当に間に合いませんでした。
中越地震直前にあった出来事も書き残したいと思っています。
この時は、日本の原子力技術学会・大学人と大喧嘩しました。
これは、本当に今回の原発事故での原子力専門学者、
特に御用学者の態度をすでに私は体験していました。
いづれも、デザイナーという職能の悲しさです。
デザイナーはデザイナーでしかなく、
具現化する投資やその具体化推進の経営者がいないのです。
だから、私自身の経済的な投資力を持たなければなりません。
製品開発のアイディアは「夢」となる想像力と直感ですが、
これは「夢」というより必然的などうしても実現を急務とする義務です。
残念ながらその力量が私に無いことが悔しくてたまりません。
先般、Facebookでこのラジオのブログを紹介したら、
覚えておられた方、やがて私の連載の編集者さんが
詳細に説明を投稿していただきました。
そこであらためて、ブログアップしておくことにしました。
まもなく、私は昨年の3.11から取り組んできた「夢」というより、
デザイナーの義務としての「復興計画」の企画提案をします。
万一、これが受け入れられなければ、
それは私に「説得力」というデザイナーとしての基本能力不足だと判定し、
残された時間の使い方を再熟考し直す覚悟でいます。
たとえ、想像力と直感でデザイン対象を見いだしたなら、
それはそれなりに「社会化」することが、
デザイン職能の義務だと考えます。
これは私自身の存在証明ですから、それが無くなったなら、
私の存在価値は自分で決定する必要があるでしょう。
「東京ラリア」の基本的な動機とその考え方は、
iPhoneアプリ「HELP CALL」に連続させていることを追記しておきます。

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「これからの命五年は保障された年でした。」


   


     12月 31st, 2011  Posted 12:00 AM

2010年9月末に私は東芝の原子力研究所を訪ねました。
「あと20年、貿易立国・日本は大丈夫」、
原子力技術の進展ぶりに驚愕しました。
「はやぶさ」と「南極観測船・しらせ」に、
わが国の高密度技術あってこそ、
私なりのデザインは寄り添えられるという確信でした。
3.11 PM2:46 M9.0 東日本大震災
大地震・大津波・フクシマ原電事故は、
わが国を「ゼロ」にしてしまいました。
3月からほぼ半年は、瓦礫と破壊された東北景観に涙しました。
そして、1000年に一度を、すでに残されたわが生涯に、
真正面から「祈望と企望」にして対象化しました。
ところが体内のICDが電池切れ、またもや入院手術。
けれども、中国と韓国では、
「国際貢献のデザイン」を講演するチャンスをいただきました。
キーボード・スポーツ眼鏡フレーム・血圧計を世に出しました。
講演も「3.11以後のデザイン」を次世代に語りました。
東芝にもどって、
「復興計画●●●PROJECT」に取り組んだ年となりました。
来年、この提案が受け入れられるかどうかです。
提案はたとえ東芝で出来なくとも後世に残す覚悟でいます。
それは、自分へのある種の決着です。
デザイナーとしての生涯の証です。
身体は、新たなICDでまた五年の心臓制御は保障されました。
日本のデザイン界は低迷しデザイン行政は為体です。
それは日本の政権交代の大失敗と連関しています。
正直、心なき中傷も受けますがそんなものは、
命がけを体験してきた私に届くわけがありません。
私は、地道に懸命さで、
そして最も過激で敵をつくろうが生命の限りを使い果たす覚悟です。
祖父や父の世代がやっと敗戦からつくり直した日本を、
もう一度、私はデザイナーとして大学人として、
私の微力を捧げます。

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「東日本大震災のNHKジャーナリスト講演から」


   


     12月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

震災直後のNHK取材は3D撮影であり、
監督されたNHKメディアテクノロジーの智片通博氏に
阪大で特別講演をしてもらいました。
依頼後時間が経ちましたが、
かえって「風化しそうな」記憶を再確認できました。
私自身は震災直後から東芝で
「復興計画デザイン」に関与してきました。
ほぼ10ヶ月かけて「全計画」を書き上げ、
来年早々、東芝トッププレゼンします。
デザイナーとして40年の実務経験からの発想です。
講演では、取材編集はあの日の参議院予算委員会から始まります。
時間経過にそったNHKの天災時対応の詳細や、
そうした放送台本が放送直前の修正まで見ることができました。
私はメモを相当に取りました。
講演を見聞し、幾つか私の心に残り書きとどめたことです。
●震災の歴史的記念は
これは残すべきかは被災された方の気持ちが大事で記念館など不要。
●市町村合併によって町名に何ら東北地方性が失われていた。
●1000年に一度の天災でこそ
「役立たない技術」などはまったく人類に不要。
●NHKは日本人全員の生命と財産を守るマスコミとして
相当の日常的準備訓練があったこと。
●「みちのく」を復旧し復興することが政治で可能だろうか。
●マスコミとしてのNHKに対して、
ミニコミの必要性がもとめられますが、そのあり方。
●箱根を境界として、
日本が二分されてしまった現状から国力再建の可能性。
私は、あらためて国難の中にたたずんでしまっている
自分を客観視しました。
講義後、講座担当教授としてこのような話でまとめました。
1860年、日米修好通商条約提携に向け、
勝海舟・福沢諭吉が乗った咸臨丸が出航。
1854年から1859年は「安政時代」、社会不安に天災続き、
特に大阪も安政南海地震で大津波、
結果、難波(津波災害から)、梅田(埋め田)という地名が生まれるほど。
NHKでも若い取材者は、精神的ショックが相当だと聞きました。
現実、大学生にもボランティアに行きつつも、
そのやりきれなさで自殺者が出ています。
私たち日本人にとって、この震災・津波・原電事故は、
日本を「壊滅」させました。
それ以上にタイでの洪水は、産業的海外基盤を失っている状況です。
祖父や父世代が、日本を敗戦ながらも「楽園国家」にしてくれました。
その楽園環境に麻痺していたのかもしれませんが、
現実、まだまだ復旧さえ進まないわが国は
本当に「絆」をもって再興すべきだと再決意しました。

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「仮設という無能な制度設計の住宅」


   


     11月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

大震災に被災した人にとっては一大事なことです。
それを一刀両断的に「無能なる住宅」と断言します。
この表現は被災者の方々には失礼極まりないことですが、
やはりこの被災地の対応制度政策を評価するには、
こう言わざるをえません。
「仮設住宅」の制度は、全く知られていませんが、
これほど工業住宅が進歩した中で、呆れることが多すぎます。
この制度の入り込んでいる住宅対価詳細から、
この住宅建設の仕組みをもっとマスコミは報道すべきです。
パネル工法とガルバリウム鋼板の屋根材は低安価ながら、
きわめて一見合理的な印象がありますが、行程は省略工事です。
すなわち、防音材・断熱材・基礎工事の行程が省略されています。
明言します。手抜き工事ゆえに、
夏は相当に暑く、雨音はうるさく、この冬の寒さは当然です。
なぜ、私はこのことをほぼ告白として書くかと言えば、
中越地震の前にある住宅メーカーと、
「災害用住宅のデザイン」計画を進めていました。
ところが、そのメーカートップが病気で倒れてしまい、
この計画推進のリーダーを失いました。
結果、実に残念なことながらプロジェクト中断でした。
私は現在、復興計画では、建築や都市計画ではなくて、
「インダストリアルデザイン手法」の導入による、
特に「インクルーシブデザイン」としての計画を進めています。
いづれその詳細は、もし実現しなくとも「発表」する決意です。
基本は「仮設」ではありません。「佳設住宅」ですが、
「住宅」という概念も変更するつもりです。
「佳設」とは「美しい設備」が万端であり、
復旧でもなく、復興でもなく、
未来住居としての「佳設」が、「まち・みち・きち」、
すなわち、私のデザイン定石「いのち・きもち・かたち」が基盤です。
私は、現状の「仮設住宅」という制度、市町村と県の関わり方、
さらには、「仮設住宅」が工業生産される既得権、
これが建設族議員との関係を明らかにすべきと言っておきます。
やはり、日本のシステムがどれほど壊れているのかは、
「仮設住宅制度」が象徴しています。

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「幸不幸の連鎖の中で」


   


     10月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

日常性が忘却させてくれること、
それは、生きていることが死にむかっていること。
そして自分には起こらないであろう不幸さと歴史観です。
3.11は私たち日本人に、3万人の同胞の死と、
被災した人たちそれぞれの多様なる不幸な事件性でした。
ひょっとすると、いや実は、
人類は不幸さを引き込み始めているのかもしれません。
2012年には、世界的に「政治的な指導者」が不明です。
もっともわが国には政治的指導者を失ったままですが。
昨年9月に私は東芝の原子力研究所を見学しました。
「貿易立国日本は、20年は安泰」という確信しました。
つまり、私の生涯は安泰な日本国民という認識でした。
しかし3.11はこの思いを粉々にしてくれました。
幸運であることと幸福であることは、
中国の古典どおりに「幸不幸」の狭間にあることを、
あらためて再確認させられたのです。
28歳で車椅子生活になった私が、
東京を離れる決心をしたのはジョンレノン暗殺でした。
「青春が終わった」という自覚を自分決着させたからです。
3.11以後、東芝にて「復興計画デザイン」に参画しています。
1000年に一度など自分の生涯に重ねたくもありませんでした。
この哀しみの想いにずーっと引きずられてきました。
「復興計画・25のプロジェクト」を書き上げました。
声高な脱原発論でこうしたプランが進行するわけがありません。
東京中心主義を離脱した「日本再生プラン」こそ、
「復興計画から未来デザイン計画」であるべきと考えています。
「幸」とは元来、両手を縛られた不自由さを意味しています。
しかも、私は「電池切れ」、「節電」どころではなく、
ようやくあと5年の「生」が最低保障されたところです。
1000年に一度の「幸不幸」の狭間をしっかりと体験すること。
これこそ「幸運」なことと考えるようになりました。
父母・恩師の死から、ジョンレノン、そしてジョブズの死、
私の生涯での「幸不幸」を、
大津波の廃墟写真を見つめながら勇気を抱いて、
慎重大胆に自分の生涯に引き込んでやろうと考えています。

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