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Posts Tagged ‘応用美術’


6月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 26th, 2019  Posted 12:00 AM

6月26日 仏滅(甲午)

デザインが応用美術や建築から
どのように自己進化してきたかは
興味の尽きない
デザインの自己確認・アイデンティティの
追求につながっている。



倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』7モンドリアンへのオマージュ


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『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』


   


     8月 1st, 2015  Posted 12:00 AM



元来、デザインは応用美術とか図案や装飾美術からという源流があり、
意匠になり、設計になり、そして策略や資源と時代変遷してきました。
しかし、私は美大時代、工業デザイン専攻では、
すでに、発明の設計実務学、問題解決学として
学習と訓練を受けてきました。
美大卒業し、家電入社したときには意匠部でした。
したがって、デザインの真意論・本質論・技術論・文化論では、
ようやく、産業から健康、文化として
文理融合と学術芸術の統合として、
「コンシリエンスデザイン」にたどり着きました。
ところが、楽しみにしていた東京オリンピックでは、
建築とグラフィックに、統合的なディレクター不在と経済効果での
アスリート興業商業主義の悪用としか思えないデザインの大勘違いが
横行し始めています。
建築コンペも狂い、エンブレム選別も知識不足の商業デザイナーでは
コピーだ、ジェネリックだ、せめてアプロプリエーションぐらいの
ハイレベルにも到達せずに、
情報社会で低レベルマスコミに混乱させられています。
そこで、かって35年前に私が伝統工芸産地で包丁、
キッチンナイフの「一体化」と新素材開発、刃先アール寸法など、
問題解決の解答デザインをしました。
ところが、たとえば、ほとんど最初に素材でダマスカス鋼風が、
あたかも刃物という恥ずかしいほどの
能なし刃物産業が世界的に流行しています。
オリジナルデザイナーの没後に、
デザイナー名を騙って自分デザインとは、
ジェネリック家具で氾濫を始めています。
そこに、TPPでの著作権問題を米国主導にするとは、
多くの官僚と議員たちの権力志向の能無しレベルを加速しています。
やがて、私、没後には
私のオリジナル=問題解決=デザインは消滅するのでしょう。
せめても生きているときには、恩師の作品やオリジナル性には
脳外喧嘩師でありたいと決心しています。
ともかく、官僚と議員からデザインの離脱を宣言しておきます。
つまり、オリンピック・パラリンピックを支えるべきデザインが
根本で間違ったがゆえに、夢は消えたのです。


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「デザインはその発祥から政治的な政策思想だった」


   


     8月 1st, 2013  Posted 12:00 AM



デザインの歴史を語るときには二つの説があります。
人間・ホモサピエンスは、
モノづくりにデザインを考え実行が設計だったという説。
もう一つは、ロシア・アヴァンギャルド時代に、
革命という政治活動を支援する芸術手法がデザインという説です。
私は、デザイン史には、必ず後者を選びます。
デザインという職能は、当初から革命という政治手続きを支援、
まさに、国を変革する策略であったということです。
だから元来は、革命的な政治思想を具体化する手法だと考えます。
ロシア・アヴァンギャルドは、結局、ソ連が崩壊したように、
革命を政治的に成功するともに、いわゆるデザイナーたちは、
虐殺もしくは自死したとして抹消されていったのです。
その代表人物に、私は、V.マヤコフスキーをあげます。
彼の思想が見事に政治思想に転化されてしまった系譜を再考。
彼は、自死とも拷問死ともいわれ不明ですが、
「われわれに新しい形態を!・・・号泣が聞こえてくる」、
このことばを常にいだいて世の中、企業、政治を見てきました。
したがって、ロシア・アヴァンギャルドでは、
建築・舞台芸術・日常用品・ファッションはすでに完成でした。
この成功されていた手法が応用美術からバウハウスなどに
面々と連鎖していきました。
よって、この連綿たる美的な思想から逸脱している模倣や、
すでに存在していたモノのモノマネには常に非難・批判しました。
結果、私自身のデザインは、彼らの理想主義=問題解決、
そして、理想を呼び込む未来志向こそ「デザインの本質」が結論。
ソ連の崩壊は、見事に彼らの思惑通りで有り、共産主義の全否定。
私は、たとえば「グランドデザイン」や、
さらに、理想体制趣旨を「マニフェスト」はデザイン用語です。
現在、わが国は、あるいはわが国だからこそ、
この「国難」には二つの人類の理想テーマが問題です。
地球環境=自然と人類は決して調和などできないから・・・
原発事故=人類が存続する水・食糧・電力はどうあるべきか・・・
だからこそ、「デザイン」をようやく国策の実務にするべきです。
私の最期のデザイン活動には、国策への「デザイン導入」、
これが私の「行学」としての役割だと考えています。


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4月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 24th, 2012  Posted 9:00 AM

4月24日乙卯(赤口)


デザインが応用美術や建築から
どのように自己進化してきたかは
興味の尽きない
デザインの自己確認・アイデンティティの
追求につながっている。



倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』7モンドリアンへのオマージュ


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「資本主義からの逃走」
     「意識革新は『応用』への拡大化かも」


   


     1月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

応用・対応性と用途性
デザインが「応用美術」。
それなら「応用科学」が技術。
単純にこの断言から意識と意思の吟味をします。
ともに「応用」という対応性と用途性に注視することです。
「応用」とは、適応されたデザインなり工学の「多様性」を目論んだ、
ある種の社会的な制度化につながっていることは明白です。
特に、20世紀には、デザインも技術も産業・経済への大きな見返りが期待され、
なおかつこの応用は資本主義を最も支援したのかもしれません。
しかし、「応用」が社会的な善であったことは、
もっとも科学と技術への批判は原爆に象徴された懸念、
つまり、2度にわたる世界大戦と人類存続への問題意識になり始めました。
これは今なお最大の難問です。ついには1970年頃からその反作用としての公害や、
地球資源のあり方が科学と技術への問題意識として国際的にも共有されはじめました。
それでも、たとえば石油や化学的な応用から原子力などに対しては、
自由主義経済機構は、科学と技術の応用、その有効性や社会制度上では、
どのような非難や反撃も抑制してきたことは事実です。
応用ゆえ多様性にならず
デザインに至っても、まさに「応用芸術」でしたし、
産業デザインが大量生産と大量消費を完全に裏付けていたことも事実です。
私はひとまず、Art・Science・Technology・Engineering、
この四つの領域をインクルーシブすることで、
「応用」の革新が出来ないだろうかをテーマにしてきました。
私がデザイナーであるがゆえに、
「応用」の中心をデザインにし、なおかつ、「応用の拡大」をめざしています。
ただし、「応用の拡大」が「多様性」に連鎖しているとは思っていないことも付け加えておきます。


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『資本主義からの逃走』
   「学と論をデザインがつなぐ」


   


     10月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

幾何に向かうデザイン
問題解決を私は「幾何」という言葉を使います。
これは幾何学そのものとは距離感をおいての言葉です。
幾何学という数学論理に閉ざされつつ、
さらに数学論理から解放されることをめざす言葉運用です。
それは幾何学の原意である「幾何=いかばくの、どのような」という意味をを抽出し、
その言葉での学理としてのかたち=容を求めたいからです。
もう一度、プラトンに戻れば「神は幾何学を業となし給う」というテーゼに回帰するのです。
正直、プラトンが本当にこのテーゼを言ったのかどうかはわかりませんが、
学を教わらず学ばずにして論の中には入るべからず、ということは充分に理解できます。
デザイン学
さて、私はデザインは問題解決の一つの手法だと明言しています。
問題解決の手法=実務学です。
「学」となれは、それは「教わることで学ぶ」という相互性があります。
つまり、教わる「学」となっている、学ぶべき「論」がある学理だということです。
少なからず「デザイン学」は、他の様々な学理の歴史時間はもっていませんが、
短絡的に言えば、バウハウスをシンボルとした学校という場に、
学理がそのまま教科書としても存在していました。
ところが、デザインが応用美術であり、産業支援の実務技法という一般知によって、
「デザイン学」が学術論理であるという公認は、
はなはだ希薄な印象に放置されているということも認めざるをえません。
よって、デザインを言葉の道筋として語られることが手法論理=実務学であるがゆえに、
手法技法や技能としての学理という理解を拒否する、さらに私は批判的に言うならば、
古典的な「時代遅れな学術論者たち」からは多大な誤解とその誇張的な喧伝が残存しています。
こうしたことに荷担している論者たちこそ、実は、「学問」と「論理」、
少なからず「学」と「論」のあらたな統合性や誘導性という学理の学際性を破壊している、
そうしたセンス無き談合集団者であることを露呈しているのです。
デザイン論
明らかに「デザイン論」の論議が、デザイン技法を拡張しさらに、
「問題が何か」という、学理=幾何によって、
さらなる「デザイン学」の進歩による拡充が不可欠になってきていることを
あらためて強調しておきたいと考えます。「デザイン理論」にむかわなければなりません。
デザインを「学而時習之」(論語)とデザインを「論篤是与」(論語)によって、
「論道経邦」(書経)が、
現代、デザインが学と論をつないでいることを明快に評していることを提言しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1」


   


     4月 11th, 2010  Posted 12:01 AM

応用美術
DesignがArtの応用にすぎない、という見解があります。
あるいは応用美術という歴史上でデザインが存在してきた、
この解説も、ほとんどのデザイナーは熟知しています。
私自身も、美大の産業美術学科という領域で、学びました。
したがって、特に、現代美術の様々な展開や、
歴史的な事件は、デザイナーの基礎知識として重要です。
この現代美術、現代アートとデザインとの境界には、
大きな戸惑いや、アートとデザインの融合性を確認する、
そんな事態は常に発生していることは認めています。
しかし、問題は、
Designが職能として、「かたち=外観づくり」だけ、
そんな印象が今なお強烈に有る、いや残っているのです。
私も、デザインは「かたち」に終結するが、
「かたち」と言っても、「形式」や「制度」、「システム」、
しかも「インタンジブル」な設計や戦略や策略と連呼してきました。
「欲望の刺激装置」
歴史的に見れば、
確実に「欲望を刺激する外観創成」だったことは否めません。
ところが、
さらに、いわゆる商品形態の区別化を
「商品の差別化という付加価値論」に呪縛されてきました。
そこで、「盗用」です。
「盗用」という言葉は、反倫理性がありますが、
この反倫理性を滑稽さやパロディで回避し、
判断停止を意図した芸術が登場しました。1919年代です。
無論、それ以前も、「表現の多様性」として、
生まれたきたのが、マルセル・デュシャンアンディ・ウォーホルによる、
強力な引用性のさらに複製化ということでの著作権への抵抗です。
L.H.O.O.Q.

デュシャンのL.H.O.O.Q.という作品がもっともその事例でした。
確実な著作権という制度に対する表現性の確立でした。
「モナリザ」は万人が知っている絵画、アイコンです。
このモナリザに髭を書き込みました。当然、複製のはがきに書き込んだのです。
それが話題になると、今度は「髭の無いモナリザ」です。
初めからモナリザには髭がなかったのですから、
創作性を引用=(盗用)パロディ化し、また元に戻すことで、
その創作性への思考停止、制度混乱を意図しました。
伝統的となってしまったアイコンの複製での意識操作や
作品への新たな鑑賞方法を破壊して、これが革新的アートだと主張しました。

さて、私は、応用美術であるデザインが唯一、
「かたち創出職能」=「購買刺激装置という付加価値」へ閉じ込めたことは、
デザインにとってその本質性を失わせたことだったと判断しています。
そして最近は、実質のモノのかたち=アイコン性だけを引用、
というより盗用しているにも関わらずデザインの自由性の謳歌、
この流行、氾濫、さらには正当なデザインという主張を見ます。
盗用は破壊を作動する
それがデザインの多様性であり、それはデザインの否定によるデザイン、
すなわち「面白い発想」という評価にデザインが対象化されることは、
デザインの本質性を破棄し、破壊したものと考えます。
しかし、この判断には私自身も、「盗用か引用か」、
という曖昧性の判断停止が起こっていることは認めなければなりません。
もっとも端的には、ロボットなどのヒューマノイド系、
それはSFでも登場する人間クローンがロボットというのは、
借用・引用・盗用なのかという問題解決は、
緊急な解答が必要となっていることです。
しかも、もっと大きくて深刻な問題は、
デザイナーに「Appropriation」という芸術史での事件を読み込むことなく、
「差別化のために創造表現という勘違い盗用」をしていることが問題です。


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