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Posts Tagged ‘悲しみ’


5月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 17th, 2011  Posted 10:00 AM

5月17日 赤口(壬申)

哀しみを対象にしているだけでは
デザインの本質にまで
降りていくことはできないのではないかと、
最近つくづく感じている。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 16th, 2011  Posted 4:11 PM

5月16日 大安(辛未)

デザインはこの悲しみと
対峙していくことができるのだろうか。

これまで、
車椅子になって以来の私は、
「哀しみにデザイン」ということをも
テーマにしてきた。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 15th, 2011  Posted 10:00 AM

5月15日 仏滅(庚午)

悲しみは、
人間の歴史が最も解決できないままに
抱き続けてきた奈辺の感情、
野生ともいえる心中の痛みなのだろう。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 14th, 2011  Posted 10:00 AM

5月14日 先負(己巳)

もし、
鬱積した悲しみが
やがてその痛みから解放されるとするなら、

それは、
どこかで解放される思い出として
哀惜となってくれるまでの
時間だけが必要なのかもしれない。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 13th, 2011  Posted 7:38 PM

5月13日 友引(戊辰)

哀しみは、
痛みよりは、哀惜といういとしさが宿っている。

だから、
痛みでいっぱいになっている悲しみとは
まったく異なっている。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 4th, 2011  Posted 10:00 AM

5月4日 大安(己未)

悲しみ、その心の上の非とは、
それぞれが分かれて
相反している形象であるという。

それゆえに、
悲と憤は同意の表意文字に
なっているともいわれている。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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5月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 3rd, 2011  Posted 11:48 PM

5月3日 仏滅(戊午)

悲しみとは、
解放されることのない痛みである。
心中にたまりきった思いが
出口を求めて押し出ようとしている。
それが涙になる。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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2月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 21st, 2011  Posted 6:33 PM

2月21日 先勝(丁未)

私たちは悲しすぎないか。

「悲しみ」と「哀しみ」には差異がある。

『デザイナーは喧嘩師であれ』四区分別


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2月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 20th, 2011  Posted 10:00 AM

2月20日 赤口(丙午)

悲しみと哀しみを分別することはできる。

涙を流すその意味を感情の浄化と理解して、
自分を見つめ直すことができる。

でなければ、
「美しいモノ」をデザインする基本を
放棄したことになってしまうではないか。

『デザイナーは喧嘩師であれ』四区分別


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『資本主義からの逃走』
  「哀しみと悲しみを峻別する慈悲にデザインあり」


   


     6月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

二つのかなしみ
私は、心、感情が「かなしむ」様を二つ持っていると納得をしてきました。
それは、私が五体満足に生まれながら、「歩けなくなった体」になってしまったので、
「かなしい」ことを徹底して考え抜いてきたからです。
そして、30年前に「哀しみにデザイン・車椅子の開発」という
自分向けの「車椅子開発企画書」にまとめたことがあります。
これまで、私は「哀しみ」について、哀しみと「美」について記してきました。
「哀しみ」と「悲しみ」
したがって、「哀しみ」と「悲しみ」について、私の私見を述べたいと思います。
私はいつも漢字の表意性と表音性・原意に拘ります。
「哀」は、
心の中がいっぱいになるかなしみを口から出ないように
衣をかけてでも押さえようとする形象を持っています。
「悲」は、
鳥の羽が羽ばたきいっぱい左右に割れるような心持ちの形象です。
私は、「哀」は、自分の感情を閉鎖するように、
他に対しても自己の感情を飲み込んでいる様を表していると思います。
しかし、「悲」は、自分の感情を解放するために、
泣き叫び他にもそのかなしみを届けようとします。
それは勢いをもって、ややもすればその悲しみを暴力化することにつながります。
これが「妬み」や「僻み」や「嫉妬」になる感情です。
日本語が素晴らしいのは、
こうした人間の感情を二つとも統合化する表現を持っていることです。
悲哀と憂鬱
「悲哀」という言葉です。
「悲哀」は「憂鬱」と同義であり、
melancholyという、古代からの精神病的な心理的な解釈が哲学・医学・心理学として、
世界の古典書には「定本」が相当数も存在していることです。
悲哀=憂鬱=メランコリーとして、こうした「定本」を紹介したいと考えています。
日本語は「悲哀」という言葉とともに、もうひとつ大きな言葉を持っています。
「慈悲」
「慈悲」です。
これは仏教用語ですが、
観音菩薩に象徴され見守られている人間感情を表しています。
四無量心」と言われている「慈・悲・喜・捨」の最高位の感情を表しています。
「慈悲」はサンスクリット語では、
慈=マイトリー=maitr、悲=カルナー=karuと表します。
「慈」は「人々に楽を与える」ことであり、
「悲」は「人々の苦を取り除く」こと、と言われています。
結局は、人々への愛・哀であり、これを自己犠牲をいとわない利他行にほかなりません。
私は、愛よりも慈愛の大きさは、自己無我であり自他不二の精神力だと確信しています。
したがって、デザインは「慈愛」の表現としての「美」,
「美」を象徴化していく営為=行学だと自分に言い聞かせているのです。


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