kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘情景’


「太陽・二つのアナロジー物語・その2」


   


     5月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
わが国日本、最初の神話神です。
最近はほとんど忘却していますが、
日本人は「お天道様」、
この日常的守護神に信仰がありました。
太陽がやはり中心です。
その太陽から天地への光と影、光景とは乾坤=天地・陰翳を意味、
この伝承が日食・月食・彗星・雷鳴風雨を風景としました。
この光景と風景に、人と人の関係が情景という景観です。
この景観あってこそ、景気が世情を繁栄させてきたのです。
すべからく太陽を中心としてきた日本の伝統的な伝承神話物語、
それらは、太陽中心主義から生まれてきた日本の経世済民です。
そして先進的宇宙説は科学的な太陽解釈にまで至りました。
太陽表面は核融合と核爆発により、放射能を地球にまで放射。
それこそ太陽の恵みの全体像、
たとえば光合成が地球の生命を育んでいました。
私たちにDNAをも制御してきたのです。
こうした科学が、技術に統合されたとき、
それは歴史の現実、武器としての原爆の発明につながります。
その世界で唯一の原爆被災は日本です。
よって、Atoms for Peace思想は技術立国の大きな期待となり、
米国の支配関係の中での国家目標となりました。
そして今や「原発の安全神話」は崩壊しました。
地震大国、プルサーマル計画、核廃棄物、原爆トラウマ、
そして今回のフクシマ原発事故は決定的に信頼感を失いました。
まさに、太陽表皮の科学的解釈をそのまま具現化し、
太陽への信仰心をそのまま「安全な」という形容動詞で包み込み
「安全神話」としてきた大失策になりました。
光輝く日本列島から53基原子力の光が消えようとしています。
しかし、私は科学と技術の間の神話性、
そのアナロジーはソーラーパネルの寓話性と同一だと見ています。
パッシブソーラーとアクティブアトミックは、
もう一度、科学的立脚点を同次元で見直し、
安全・安心・信頼・効率・そして「人間制御」の新たな手法を
根本からやり直す必要こそ日本のテーマになったとさえ思います。
人類と自然との新たな文明パラダイムを新規化することです。
人類が生き延びていくエネルギーの確保は、
科学技術構造にもう一度、命がけで取り組むべきことであり、
私は、「反原発」・「脱原発」での再生エネルギー観を懸念します。
なぜなら、やはり超然たる自然の制御こそ、
さらに慎重真摯さが人類の義務だと考えるからです。
「脱原発」という幻想物語の氾濫=パニックと観察しています。
私は「脱却解解放パニック」として、
原子力をもう一度新生させる義務を感じるのです。
すでにこれから数万年もの責任放棄こそ原罪だと思うのです。
原子力技術のさらなる進化には、
あらたなコンセプト発想でのデザイン設計が不可欠。
この確信は、太陽に寓話性・神話性からこそ抜け出して、
「新生物語」の核心に原子力を再配置することこそ、
自然エネルギー観への対称性になるものと確信するのです。
太陽へのこれまでのアナロジーを具現化することこそ、
新生エネルギー開発の健全な科学技術構造だと思っています。

目次を見る

12月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 12th, 2010  Posted 10:00 AM

12月12日 大安(丙申)

情景はいつも哀惜の温度を持っている。

人間関係の間にモノを配置すれば、
少なくとも、
その温度差を変えることができると
デザイナーは考える。

『デザイナーは喧嘩師であれ』会者定離


目次を見る

12月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 1st, 2010  Posted 10:00 AM

12月1日 大安(乙酉)

文学とは、
恋愛の情景を学び取るために
ことばでその知恵を磨く
術なのかもしれない。

そしてこの知恵は
ほとんど体系づけることが
できないものなのだ。

これこそバーチャルな人間景観なのだ。
このバーチャル性を超えるゲームは
創造できないだろう。

『デザイナーは喧嘩師であれ』会者定離


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「つつましさによるインクルーシブデザインへ」


   


     7月 6th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト否定論
おそらく、「デザイン教育」の基本には、
発想=コンセプトの立案とそのスケッチ技術習得
表現=レンダリングはじめモデリングなど
伝達=プレゼンテーションによるデザイン具現化訴求
に集約できるでしょう。
以上のことが、「デザイナー育成教科書的」だとすれば、
「コンセプト発想の否定」は、
これまでのデザイナー教育を破壊していることになるでしょう。
しかし、本来は、「コンセプト立案ができる能力の否定」と受け取ってください。
なぜなら、デザインとコンセプトの関係もわからずに、「その否定は不可能」です。
よく、「企画職につきたい」という学生がいますが、
「企画」は「計画」が出来ない限り絶対に不可能なわけです。
いづれこの話に入るでしょう。
ともかく「コンセプト否定」をする、その直観デザインはどうすることなのだろうか?
インクルーシブ・デザイン
私の応答を記します。回答でも解答、まして正解ではありません。
私はこの考え方をそのまま、「研究室名」にしています。
「インクルーシブ・デザイン」であることです。
つまり、「直観」と「直感」が連動し合うのは、「会話」です。
「私」と「あなた」という「情景」です。
この会話においては、お互いが「私」と「あなた」が交換されて会話が成立しています。
「私=xは、あなた=yがAであってほしい」。
「いや、私=yは、あなた=xがBであってほしい」。
さて、この場面です。
この場面でのAとBが何かは不明ですが、
xさんとyさんが会話の話題がA・B になっています。
この情景では「一人称」と「二人称」、「私」と「あなた」の関係が成立しています。
この会話関係に、「三人称」(彼・彼女・彼ら・彼女ら)が入ってきます。
この会話関係の「内部会話」をinclussiveと呼びます。
Inclusive Design
つまり、『Inclusive Design』とは、この情景内の対象すべてをデザインすることです。
「インクルーシブ・デザイン」を包含されたとか、
包括的という抽象的な定義は、何も定義していません。
『Inclusive Design』は、まず「一人称」=私が対象とするデザインを、
「二人称」あなたのためにを基本にしてこそ、
「三人称」までをも対象にできるデザインと考えるべきです。
したがって、まず、自分が望んでいるデザインは、
あなたから、彼らまでの「望んでいるモノ・コト」であり、
そこに、デザイン対象へのコンセプトは不要です。
「自分が欲しい」・「きっとあなたも望んでいる」・「彼らの夢」
というインクルーシブ=内情を最も意識することです。
だからこそ、このインクルーシブの関係では「つつましさ」が無い限り、
基本の「会話」は成立しません。
ただし、「つつましい」とは、精神性の表現ですが、
この精神性は、基本的能力であり、
能力から姿勢・態度にまで自己修練は限定されたデザイナーになるでしょう。
その理由を語る必要はないでしょう。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「十牛図確認・モノはヒトとコトをつなぐ構造化助詞」


   


     6月 20th, 2010  Posted 2:00 AM

モノ=モ・ノ
モノいう表現は、私流には「人工物」をという意図です。
今日ある大学デザイン系の報告書を読みました。
大学の後輩が教授職にあります。
デザイン系学生への教育方針を模索している相当の内容でした。
確かに、先般、ある「デザイン系大学の作品展」でも、
この大学、学生の作品はとても優れた成果でした。
学生の作品は、教える側の反映であることは間違いありません。
この報告書では、「デザイン」を「モノ」と「コト」の関係性を
重点的に教育方針で論議の経過や結論にまとめていました。
大学の意欲を強く感じた次第です。

「デザイン」がようやく、
「外観づくり」とか、「応用芸術」ということからは解放されつつあります。
明らかに、デザインは、「コトのデザイン」だということは明白になりました。
単純な図式は、
「ヒト」と「コト」を「も・の」でつないでみれば、ほとんど論理性などもなく、
図式ができるということです。
●「ひと」モ「こと」=「情景」=人間と情報の関係
●「ひと」ノ「こと」=「情報」=人間と人間の関係
これは、「モノ」が介在して、人間と情報・情景を構造化していることを可視化しています。
再度、{人間と情景・人間と情報}・{人間も情景・人間も情報}
この関係式になるということでは、
「モノ」=モ・ノという助詞の機能=助詞がコンテクストの要になっているということです。
私は、あらためてこの関係性=構造性に、「人工物」の役割を配置する必要性を感じます。
助詞
「助詞」である、「モ」と「ノ」が、
日本語のコンテクストの構成要素であることに注視します。
私は、常に「日本語」と向き合っています。
それは日本人として生まれ、「いのち」をつないでいるのが「日本語」だからです。
私はデザイナーという職能で「モノ」の「かたち」を対象化してきました。
その対象である「モノ」・「モノづくり」=「かたち・づくり」に関わっていますが、
その基盤であり背景には「コト」があります。
そして、その「コト」と人間の関係は、
「ことば」だというすべてが、実は「十牛図」のごとく、
連環していると考えることができます。
今日も、「十牛図」のイメージは、私に「ひと」・「モノ」・「こと」に覆い被さっています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「景観にあるエネルギー、その根源に原子力」


   


     6月 18th, 2010  Posted 12:00 AM

景観
景観は三つあります。
「光景」・「風景」・「情景」です。
「光景」は、乾坤に光ある世界は「生と死」があるのみです。
この世界は創造神によって創られたという伝承が歴史の始まりとなっています。
「風景」は、
日食・月食・彗星・雷鳴風雨という自然と人間の世界にほかなりませんから、
風景観に、自然神への畏敬が生まれたと考えるべきなのでしょう。
そして、「情景」です。
「情景」は人間と人間とが織りなす関係性の場面です。
この世界に神は存在していません。
「情景」には、性悪と性善が交錯し、
人間関係の景観にほかなりません。
性善だろうが性悪であろうが、エネルギーの対決が景観となって「情景」です。
このやりとりを「情報」だと言ってもいいでしょう。
「情景」でのエネルギーは、隠喩としての人間の活力であり、
直喩としての人間関係力になるものと判断します。
そこで、「風景」のエネルギーは、
すべて「自然力」、それも恐怖ゆえに畏敬するべき力に他なりません。
さて、それならばあらためて「光景」の力のエネルギーは、
すでに枯渇寸前の化石燃料でもなく、
これまでの水力発電、火力発電ではないことになってきました。

光景に向かわせる原子力

乾坤世界へ、神をも怖れぬ科学がたどり着いた「原子力」は、
「光景」に向かっている人類の知識の総結集です。
果たして、人類は、「風景」に抱いていた畏敬をも忘れ、
「光景」に、原子力というエネルギーの利用へと進み出しています。
私は、「景観」から得られるエネルギーと「景観」に反抗するがごときエネルギーを
バランス感覚で見詰め直さなければならないと考えます。
「原子力エネルギー」は、
本来、創造主によって生み出された「光景」に差し出す「祈り」と「願い」、
その知恵で有るべきでしょう。
震えるほど怖い「原子力エネルギー」に、
もはや、人類は「救い」を求めなければならなくなってきたことは確かです。

デザインという知恵の対象

私は、景観=光景・風景・情景に原子力エネルギーを、
推進派でもなければ、反対派でもない立場から、
デザインという知恵が
「祈り」、「願い」、それは「救い」を求めることになるのだろうかと熟考じてきました。
結論は、「デザイン」から「原子力エネルギー」に取り組んでみようと考えます。
「デザインが原子力エネルギーと、どう対応していくか」を
まっすぐ差し出してみます。
それは、「光景」に「祈り」・「願い」・「救い」の作法を
デザインで組み立てるべきであることを問いかけてみるつもりなのです。


目次を見る