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Posts Tagged ‘想像力’


3月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 5th, 2011  Posted 10:00 AM

3月5日 友引(戊午)

欲望に縛り付けられたまま、
その道程を歩んでいかなければならない。

その道程でちょっと自由になれるのは
想像力に美が舞い込んできた時、
その瞬間だけである。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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『資本主義からの逃走』
  「虚構の記述は小説だが、歴史的事実は死である」


   


     11月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

1800年代に遡及
私は、現代にモノをデザインしています。
現代という現実までの過程を知る大事さを直視します。
特に、私は日本の近代化、その原点はどこなのか、
最も注視してきたことです。
1800年代に遡及します。
そうして、その年毎の史実の事実と真実を見極めることにしてきました。
おそらく、なぜ、デザイナーがそんなことを、と思われるでしょう。
しかし、歴史の虚構は小説に氾濫し、歴史上の人物は、ヒーローとなり、
その歴史性を彩るこれも歴史上の人物はトリックスター化されているものです。
大河ドラマを事例にしました。
おそらく、大河ドラマの見せ場は、坂本龍馬の暗殺シーンでしょう。
しかし、この場面の虚構性があればあるほど、
人間は「虚構の中にえも知れぬ娯楽性」を受け入れるでしょう。
私はこの事実を否定するわけではありません。
小説・ドラマという虚構に、人が娯楽性を希求することは、
デザインによってデザインされたモノが与える感覚と似通っています。
私は、虚構の想像力をあらためて見詰め直したいと考えます。
虚構は理想・幻想・妄想をも娯楽性に変換することができます。
安政の大獄
そしてもし、歴史的事実の事例として、
「安政の大獄」時代に二人の人物を取り上げたとき、
歴史には、「もしも・・・・だったら・・」という仮説は成立しません。
吉田松陰と橋本左内は、同じ牢獄につながれ、罪人として、決して出逢うことはありませんでした。
お互いのやりとりの史実があるだけです。
虚構を断ち切る歴史的事実、
それは26歳にて橋本左内は斬首され、
20日後、30歳にて処刑された吉田松陰への「想像力」です。
史実の現実に、もしも・・・はありえず
「もしも、二人が出逢っていたなら・・・」、
この虚構はありえません。理想も幻想も妄想も消去する「死」だけが歴然としているのです。
虚構の歴史、歴史の虚構よりも、
私は、歴史的史実である、二人の人物の「死」という現実から、
さらに自分が何を見いだしていくべきかを考える次第です。


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10月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 4th, 2010  Posted 12:17 PM

10月4日 仏滅(丁亥)

私は、漢字の由来が大好きである。
特に、象形文字は、
シンボル化された形象に原意があり、
そこからあらたな解釈や意味の文脈が
広がってくる。

その想像力の整合性が美しいとすら思う。

『デザインは言語道断』学際


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9月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 18th, 2010  Posted 10:00 AM

9月18日 赤口(辛未)

知識に接近していくためには、
想像力をより大きくして
自分を見つめ直さなければならない。

人間は途方もなく主観的であればあるほど、
それは妄想となり、
一方、客観的になればなるほど、
その想像力の量感、大きさというものまでが
見えてくるものだ。

『デザインは言語道断』知行


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『資本主義からの逃走』
   「スケッチは能力訓練に過ぎず、逃走訓練として」


   


     7月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

能力訓練
デザイナーはスケッチが不可欠と言うと、
自分は子供の頃から「絵が下手だった」という声をよく聞きます。
私は、小学から絵は得意でしたが、高校時代は教科書だけの音楽を選択しました。
そして美大入試の実技で「水彩画」と「鉛筆デッサン」を入試で初めて描いたのです。
入試実技などまったく未知の世界でした。
当時「アトリエ」という雑誌で、鉛筆デッサンを拡大鏡で鉛筆ラインを真似た程度でした。
だから、美大時代は、デッサン、それから工業デザインでのトレーニングは必死でした。
さらに東芝で本格的なレンダリングをたたき込まれました。

結論は、デザインスケッチは、能力開発=訓練で必ずうまくなると確信しています。
デッサンも、訓練です。
無論、画家になる「絵画」の芸術的価値は、才能によるものでしょう。
が、いわゆるスケッチは、ある法則や現物描写のこれもある法則を知って、
あとはスポーツのようにトレーニングすればいいだけです。
そしてアスリートが、オリンピック選手になったり、
世界記録保持者は、トレーニングと才能が必要でしょう。
だから、プロとしてのデザインスケッチはそこまでのことは必要でしょうが、
子供時代に絵が下手だったから、すでに絵やスケッチが苦手意識は無用だと私は考えています。
むしろ、美大入学のための入試デッサン夢中というのは、
美大進学希望者をせばめている悪弊だとさえ思っています。
これからのデザインは、そのような入試デッサンで選別される学生より、
もっと「想像力と創造力」のある子が必要だと断言します。

逃走訓練
今、自分が取り組んでいる様々なデザイン領域では、
学識・美意識・見識・胆識が必要だと思います。倫理観と礼節は常識です。
特に大学教育では、
私が高校生のときから大学批判とともに語られてきた「入試改善」は、
まったく日本では停止したままなんの解決もはかられていません。
つまり、「資本となる能力」が、ますます求められるとするなら、
「資本主義から逃走」する体力としての「知力」+「個性」=才能が必要です。
それは「逃走するための訓練」が重大だということになります。
そして、その訓練のコーチこそ、
「逃走する方法」を熟知していなければならないということです。


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7月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 10th, 2010  Posted 8:50 PM

7月10日 先負(辛酉)

単にモノをデザインするだけでは、
デザイナーの想像力は
時代に全く適応しないのだ。

コンピューターを「機器」として、
「物品」として、あるいは
「品物」として見てみる時期に来ている。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
  「哀しみの『美』が感覚を豊かにしていると想う」


   


     6月 27th, 2010  Posted 12:00 AM

人間の生涯、「喜怒哀楽」が折り重なって日常を包んでくれています。
私は、多分、人生は「喜び」・「怒り」・「哀しみ」・「楽しみ」が
四分の一づつ携えているのかも知れないと思っています。
本来なら、「喜び」と「楽しみ」だけだったなら・・・とは、
誰もが願うことでしょう。
そして、この「喜怒哀楽」を受け止めて、
喜びをそのまま表す人もいれば、
怒りがあっても、飲み込んでしまう人、それぞれです。
私は、素直に喜び、楽しみ、
率直に、怒り、また哀しみをそのまま表せる性格です。
むしろ、「喜怒哀楽」に粘着しているかのような、
「妬み」・「嫉み」・「憎しみ」などは、決して自分に付着させることは罪悪だと考えます。
そして、そのような粘着性の性格などは、医学的にある種の「妄想的疾病」であることから、
「喜怒哀楽」がその人に与えられることは無いのだろうと想像します。
「哀」に「美」
さて、私は「哀しみ」に「美」があると考えてきました。
つまり、生きていくことが死んでいくことと同値ライン上にあります。
だから、「哀しみ」と「悲しみ」とは大きな違いもあるのでしょう。
私は、人間の生死が「哀しみ」にあるからこそ、
「喜び」と「楽しみ」で彩られる生活があると信じています。
舞・歌
その根拠の例示として、「舞」と「歌」を挙げることができます。
「舞」とは、祈り、願い、であり、
これはもう人力が及ばないからこそ「神」に肉体で表現をする行為です。
「歌」は、体を屈折させて、体内から絞り出すように声を出す行為です。
いづれも、根底には「哀しみ」があります。
感謝の踊と歌
そして、その願いが叶えば、人はまた「踊り」、「歌う」のです。
その「踊り」や「歌う」ことには喜びと楽しみが反射します。
またその喜びと楽しみは、反復されて記憶から幾たびも取り出すことができます。
この反射や反復が、
祈りと願いが届いたからこそ「感謝」ができるという構図になっているのでしょう。
私は、この構図の生地に「哀しみ」が塗り込められていると想像します。
この想像力こそ、
「美」を嗅ぎ取り、さらには「美」を創り出す意欲にもなるのだろうと考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「感激と感動の私の基本は哀しみの『美』です」


   


     6月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽
私は、感激・感動は、感覚的な認識であると考えてきました。
そして、具体的には、スポーツが刺激要素となって、受け止める感激。
音楽が刺激要因となって、蓄積されてくる感動をあげました。
さらに、そうした感激が「反射的」であり、感動が「反復的」、
そして、その反射性も反復性も相互性や,があるのではという見解を示しました。
そして、反射的であれ反復的であれ、感激し感動すること、感動し感激すること、
この感覚が「想像力」を育成してくれること、
「生きがい」というのは感激と感動無しにはあり得ないと確信しています。
人間は、生きることが死んでいく道程であることを熟知しています。
人間の生涯には、「生老病死」と「喜怒哀楽」が重層しているのです。
「喜怒哀楽」に感激と感動が介在しているわけです。
では、その「喜怒哀楽」を最も根本で支えていることは、
何なんだろうと考える、あるいは思うと、
私は「美」を感覚的に受容できることがとても大事で大切なことだと信じています。
母との別れ
私にとって、もっとも哀しかったことは、
「母との死別」でした。
40年前のことです。
母の瞳が、とても透明になって、一筋の涙が流れました。
私は母と添い寝しながら、小さな声で、呼びかけていました。
父や親戚が隣の部屋にいましたが、一人で見送りたかったので、
こみ上げる息もつまりそうな声で呼びかけ続けていましたが、母は逝きました。
47歳でした。21年間の母の生涯は私が独占していたと思います。
まさに、母のあれほど透明な瞳より美しいものには出会ったことがありません。
ちょうど明け方でした。近所のお寺の鐘の音が聞こえていました。
「死別」は感激であり感動だったのだと思います。
「美しい瞳」と「鐘の音」は、私にいつでも「反復的」に思い起こすことが出来ます。
そして、母の瞳の透明さに、私の「美」の基準があるのです。
デザインは「美」を追いかけています。
私は、「哀しみ」の感激と感動の中に「美」を身体化したのだと思ってきました。
母が与えてくれた哀しみの感激と感動は、
当然、母へのとめどない「感謝」になっています。
だから、私は自分の「生きがい」に、
母のあの瞳のごとくの「美」を、デザイン表現で追い求めてきたことです。


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『資本主義からの逃走』
   「反射と反復、この相互性と補完性が感覚を磨く」


   


     6月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

反射・反復
私は、「感激」は、「反射的な認識」とし、
「感動」は、「反復的な認識」と位置づけました。
その具体例としては、スポーツが感激を刺激要素の一つ。
音楽は感動の刺激要因の一つだという、私なりの経験から私見を記しました。
そして、もっと実際的な「感覚」としての「感激」と「感動」には、
感動であっても瞬間的であり「反射性」もあります。
同様に、感激であっても永続的で「反復性」が必ずあるものです。
入れ子構造
つまり、私は、「感激」して「感動」するという事象と、
「感動」して「感激」する事実は、相互性だけではなくて、
補完的に感覚内ではまるで「入れ子構造」のようになっているものと判断しています。
それは、私たちが「感覚」から「認識」でのプロセスでは、
まず、どんな「刺激」も「適当刺激」として
「入れ子構造」で受け止めるという曖昧性があるからです。
決して、刺激に対して感覚器=目・耳・鼻など五感器や、第六感という予想や予測や、
野性的な予知能力が、正確無比なる感覚では無いということだと思うからです。
ギリシア哲学・エンペド・クレスの時代に、
「直感」や「感覚」が、思考として理性的な判断から遠ざけられていたのは、
この曖昧性だったと推測します。
さらに、デカルトに至っては、
感覚に由来する知識に対しては大懐疑的だったことも明らかです。
ようやく、ロックが、
感覚器官が可感的な事物の認識が心の中の「真っ白な紙」=tabula rasa
書き込まれるのでは、という思索から、
カントによって、
感性的な直感と概念的な思考の双方向性があることを教えてくれたのではないかと思います。
「直感の無い概念は空虚であり、概念の無い直感は盲目である」
という言葉に、私は感激と感動を持っています。
だからこそ、私は、「感激」も「感動」も無い人間には、
「想像力」が欠落しているとさえ思うのです。
私は、本当に、反射的な、反復的な、感激と感動を日常的に感じていたいと願っています。
おそらく、「生きがい」というのは、
感激と感動によって、反射的、反復的な認識ができる自分だという自己確認が不可欠でしょう。


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5月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 29th, 2010  Posted 10:26 AM

5月29日 先勝(己卯)

本当の生涯はいつから始まるのだろうか。

まず、想像力を意識し始めたときから。
そして、大きな転機になるような
出来事が起こった時だ。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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