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Posts Tagged ‘想像力’


5月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 27th, 2010  Posted 10:36 AM

5月27日 大安(丁丑)

想像力を拡大するには、
常識の中では限界がある。

常識をくつがえすような
イマジネーションが必要なのだ

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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『資本主義からの逃走』
「『観』を『感』としている現代性をみつめる」


   


     5月 12th, 2010  Posted 2:31 AM

観自在
「観自在」は、般若心経の書き出し、冒頭文です。
般若心経は、かつては暗記させられた思い出があります。
もっとも、私は幼稚園も転園しています。
最初はキリスト教系の幼稚園でしたが、
「もう来ないでほしい」と母は言われたらしくて、
仏教系の幼稚園に「入れられました」。
とっても厳しい園長さんは尼さんだったのです。
尼僧さんでしたから、
いつも尼僧黒衣姿でいつも叱られていた記憶があります。
その園長さんに対して、私の反抗は、
ほとんど「泣き叫んでもわがままは通らなかった」のです。
「観自在」は、その頃、体の中に入ってきた気がしています。

自在性
観という言葉には、端的に「心で見る」という意味を重ねると、
私なりには、想像力の自在性にほかなりません。
しかし、私の幼児記憶には「自在性」などわかるはずはなく、
デザイナーというプロになって、あらためて、
「観自在」という言葉と対峙しなければならなくなったと思うのです。
そして、結論は、
「観」には、洞察的な深度=哲学的ということが含まれている気がします。
ところが、なんでも「感性」だとか「感覚」ということへの価値感が言われ、
まさしく、デザインは「感性」の極致などとまで言われます。
私はデザインと感性とには相当の距離観があります。距離感ではありません。

感と観
そうなると、「感・観・?・・・なに、それ?」と、
私は思ってしまいます。
 直感なのか、直観なのか、
 野生なのか、野性なのか、
「感自在」もあり・・・?とか、想像してしまいます。
私は、「流行感覚」の大事さや大切さも理解できます。
しかし、観音はあっても、感音はありえないのです。
となれば、
あらためて「観」と「感」をデザインの論理に照合させる必要性を「感」じています。
その感覚は、私の「観想」だと考えます。
現代、「感覚」だと感じることを、
佇んでこそ、「観自在」を見直す必要を観るのです。
そこから、現代性、現代感覚、時代性、時代感覚を再考するべきと思っています。


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4月5日Staff Blog


   


     4月 5th, 2010  Posted 6:03 PM

4月5日

今月4月27日、
公益社団法人吹田青年会議所主催による
「知ろうよ!吹田」において
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)の
基調講演・パネルディスカッション開催が
決定いたしました!!

「創造力・想像力のあるこどもを育てる」
と題しまして、基調講演を行います。

お近くの方は、是非起こしください。
お申し込みはこちらまで→お申し込みリンク


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『資本主義からの逃走』
「製品要素としての新素材開発で性能性を高度化する」


   


     3月 1st, 2010  Posted 10:00 AM

新素材開発
「新素材開発」、これはデザイナーにとって、
いや、私にとっては最も興奮するテーマです。
ところが、デザイナーが「素材開発」に参画するため、
素材への科学的、特に化学的な知識へ近づくことは、
ほとんど不可能だと言ってもいいでしょう。
したがって、それこそ無知識なままに、
頼るのは、こんな素材だったら、こんな形態や、性能で、
どれほどのことが可能になるかを感覚、野生、野性という
ほとんど直感を働かせるだけです。
原始的には、軽い・薄い・頑丈とかから始めます。
やがてどの程度という度・量・衡の世界観を提示します。
そして、それを実現してくれるエンジニアに出会うと、
もうそれは神様です。
神様が与えてくれた贈り物です。
M
MaterialはMotherやMedicineやMusicなどと
共通の「M」という文字を持っています。
母や海=生むや振動を表すヒエログラフ=象形文字です。
だから素材=Materialからのデザイン発想は重要です。
素材は製品要素として「性能性」そのものの母体です。
私のデザイン手続きには、常に、第一段階が素材開発、
無理なら、素材選択と素材選別が最重要課題です。
ところが、これまでのようには新素材、
とりわけ、化学的な合成で産まれた素材は、
「常に懸念はないか?」という問題意識が不可欠です。
環境ホルモンの問題、
エコロジーの問題、
リサイクル性の有無や
廃棄後の安全性と安心性をどこまでも想像力で、
「おもいやる」必要性があります。
佇んで考え込みながらも、やはり、新素材の開発は、
デザイナーにとって、わくわくするテーマです。
2000層のフィルムで、現状素材の様々なテクスチャを再現、
しかも、静電タッチから荷重センサー、圧電素子、
さらに、化学的にはまだまだ困難なボロンまでが、
今、私の野生を突き動かしています。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考は本来、数理的思考です」*


   


     1月 16th, 2010  Posted 9:00 AM

美しい

私は「生まれ変わってもデザイナーになりたい」です。
なぜなら、
まず、自分の中に「美しい」と自身で確認できる、
そんなモノやコトがひそんでいるのかを知りたいから。
そして、「美しい」というのは何なんだろうと
いつも問いかけていたいからです。
しかもどん欲に、「これって美しい」でしょ!
見せびらかしたいのです。
デザインは結局「造形」に集約させることができます。
そのための思考・思って、考える、ということは、
「数理的だ」と想ってきました。
「数学的」っていうのは受験の思い出が重なって、
「間違ってはいけない」というストレスがトラウマ。

数理

しかし、「数理」というのは、
たとえば、「リンゴ1個」と「鉛筆1本」を
総和して想う=思い考えるとすると、
●「思って」、たとえば二つとも「赤い」とか、
●「考えて」、「丸い」と「細い」ということです。
だから、数学・算数だと1+1=2となって
総和で「2」だけしか残りませんから、
何の感動もありません。
だから、
●「リンゴの赤さ」と「細い棒の中に黒い芯」を
たとえば、
●「リンゴに突き刺してもそれで絵が描ける」となると、
「どういうこと?」
「なぜ?」
「それがどうしたの?」っていう疑問が沸いてきて、
これはまぎれもなく「リンゴ鉛筆」の「造形」です。

想・思・考=形

「数理的」というのは、実はこうした想像力で、
●とんでもなく、「食べられる鉛筆」になったり、
●「鉛筆でリンゴにいっぱい穴を開けるモノ」
にもなってしまうのです。

私が「デザイン数理学」ってむずかしく言っている、
● e・i・πなんて「記号」の組み合わせは、
e=鉛筆・i=芯・π=リンゴがマイナス1って何?
これらを組み合わせることを想像力=virtualで、
「想う」=「思う」と「考える」ことをすると
「形」が出来ている、という「造形」です。
めいっぱい「オイラーの想像力」を追いかけて、
「見えてくるコト、ひょっとするとつかめるモノ」が
「美しさ」になっているのかも・・・ということです。

数学的美しさ・数理的美しさ

だから、「数学的美しさ」と「数理的美しさ」が、
同一なのか、全く異なっているのかは、私はもちろん、
人類はまだ分かっていないということにもなります。


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『資本主義からの逃走』
  「i-Bitのeとiとπの意味を求めて・6」


   


     1月 13th, 2010  Posted 1:00 AM

e・i・π

e・i・π、この三つに、デジタル社会があります。
あるのではないだろうか、というのが私の推論です。
「e-冠詞」と「i-冠詞」に私は何かを見ています。
exponent・Napier’s-e・internetにπです。
この一つ一つは、直喩性から隠喩性で、
現代の「情報時代・情報社会」の意味論へと、
その思索と思考を深めていくことができるでしょう。
たとえば、πは、円球だとするなら、
それはまさにwebsiteです。
πに対して、人類が追い求めてきた歴史は、
もうビックリするばかりです。
e-management5果たして、
デザイン、デザイナーの「感性」・「感覚」が、
見えているデジタルには、明らかにAtom資本は、
包み込まれています。
さて問題は、
iという虚数はバーチャルへの想像力が創造しました。
リアルとバーチャルも、
すでに、すっかりと、
これらのe・i・πにシンボル化されています。
だから、これらの意味論は記号論・構造論となって、
実は「造形」に結びついている、
というのが私が追い求め始めている「造形基礎論」、
すなわち「デザイン数理学」なのです。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義、逃走した後の文明と文化の対象」


   


     12月 2nd, 2009  Posted 9:00 AM

「資本論」にもどれば、それは文明論にすぎません。
やはりその著作当時の想像力の限界を知ってしまいます。
残念ですが、「文化論」としては、読めません。
まず文明は、「飢えと寒さ」への産業の進化だと思います。
「飢え」は、食べることが叶わない人間の欲求です。
「寒さ」は、体が冷えるから寒いことには耐えきれません。
だから、
食べるための「器」が必要になります。
寒さをしのぐために「機」織りで衣服が必要になります。
「機」と「器」なのです。

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まさに現代の「機器」を生産していく産業ということです。
「資本論」では、衣服に関するたとえ話があります。
無論、人間にとっての「衣・食・住」は、
文明の基本でした。

091202ishokushu

私は、文明からさらに資本主義が成し遂げたことは、
文化」だったと思います。
それこそ、
衣はファッションとなり、
食がグルメとなり、
住はヴィラとなるほどの
豊かさを資本主義下の一部は掌中にしました。

私は、
「衣・食・住」に対して、「医・職・趣」が、
さらに、文明と文化によって、
これからの人間社会、人生、生きがい、働きがいに
不可欠だと言い続けてきました。
最近、「衣・食・住」に対して、「医・職・趣」を

091202ishokushu_b

自分が、あたかもオリジナルということを
論文にまでしている人を散見します。
しかし、そうした人には「医・職・趣」の解釈がまるで
間違っているのです。
その最大の理由は、
「医・職・趣」の

  ●「医」は、健康だけではありません。
  ●「職」は、職能だけではありません。
  ●「趣」は、趣味だけではありません。
 
実は、「資本主義から逃走した後の文明と文化」論は、
生産」や「産業」では語り切れないのです。
明確に、「モノづくり」での文明文化論が必要なのです。
つまり、「資本主義から逃走」という問題解決に、
デザイン=Solutionの対象に、
「衣・食・住」と「医・職・趣」のマトリックス化を
策略化=designする能力が必要なのです。


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『資本主義からの逃走』
「資本主義という宗教・宗教としての資本主義・1」


   


     11月 14th, 2009  Posted 9:31 AM

宗教というものは、本当にやっかいなものです。
宗教に対して、客観性を冷徹に見抜く能力こそ、
「インテリジェンス」・「知性と感性」の力だと、
私は思っています。

「資本論」が宗教になって、
資本主義社会を封じ込めた時代が終わっているのです。
しかし、まだまだ、そのことに気づいていない人は、
資本主義がすでに宗教になっているのかもしれません。
たとえば、資本主義を正当化するには、
M.ウェーバーの倫理は宗教論と読むことも可能です。
industrialとは「勤勉と工業」の二重性の意味があります。
私はindustrial designerです。勤勉デザイナーです。
すべからく
日本の工業デザイナーは勤勉デザイナーでしょう。

さて、日本にはこの宗教改革が必要になってきました。
幸いにして、
日本には「宗教的」を改革してきた知恵があります。
まず、6世紀には物信仰から仏教による意識改革を
政=まつりごとにて、社会改革がなされました。
1549年にF.ザビエルがやってきます。
キリスト教がわが国に上陸しました。
この正当性は、
ハビアンが1605年(慶長10年)に
「妙貞問答」で、どれほど、
キリスト教が仏教と儒教より勝っているか、
ということが記し残されています。

私が、もし、資本主義という宗教から解放されるには、
この「妙貞問答」での理論闘争を再度試みる、
というのが、一つの方法だと考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「分断された日本、幾何的空間の中で確認」


   


     11月 12th, 2009  Posted 9:00 AM

幾何学というのは、場所性への思索だと思います。
本来の測地・測量学から場所性検討の経緯があります。
場所性には、三つの定点観測の思考方法でした。

● まず、
その空間がどんな「かたち」なのかということです。
● 次に
その空間でどこに「位置」しているのかです。
● 最後に、
配置という機能を空間に仕組めるかということです。

私は「資本主義をかたち」でとらようとしてきました。
ところが、幾何学でも、近代になって位相幾何学では、
空間性だけではなくて、
時間性での検討に気づきました。
つまり、
時間軸も仕組めるということになっているのです。
したがって、
資本主義を時間軸=歴史で、
配置し直してみることを試みてきました。
この歴史ということも最初に条件を整理してきました。

この整理も、私自身が、幾何学・位相幾何学
最も現代的かつ私の興味の中心には、
「近さ」ということのトポロジーの中に、
私自身を配置するやり方を、
ある意味では横暴に、訴求することで、
資本主義に埋没しかかっている私を見つめ直しました。
すなわち、
日本という空間での私の位置の確認を実例にしました。

私は、今は、特に被害者的に日本を見つめ直すことが、
とても重要だと思っているからです。
それは、戦後、資本主義空間に閉じ込められている私、
結局私たち、日本人が
この空間から逃走しなければ生き延びられないのです。

ともかく、私の位置であり、
日本人の位置を日本の幾何性で確認しているからです。
より具体的には、
もうすでに、私たち日本人は、世界観という空間
世界観という幾何空間での位置、
「生き場所」の認識を
分断した民族にさせられていることに
目覚めなければならないとさえ思っているからです。


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『資本主義からの逃走』
  「 トポロジーという想像力との連結」


   


     11月 11th, 2009  Posted 9:00 AM

「民主主義とトポロジーの構造」を、
連結させた私の指摘は、きわめて勝手な論理です。
明確に私はそのことを自覚し、言いがかりをつけて、
注視を目論見だ意図だと、自白しておきます。
つまり、荒唐無稽で読者への恫喝でもあります。
そのことに気づかれていて、
とても不快である方々を
増やしていると想像しています。

しかし、そこまでの洞察を投げかけたいのです。
そこでまず、トポロジー=位相空間論を、
簡潔に説明をしておきます。
位相空間論は幾何的な数学的な論理でしたが、
数学的な想像力は、論理思考を拡大してくれるものです。
だから、トポロジーは、物理的なメタファーから、
記号的なアナロジー、さらには、アポリアを要求します。
すなわち、
実に想像力の拡大を動機づけてきた
現代の思索手法です。

私は、
デザイナーとして、形態発想と形態表現に、
トポロジーの数学性と幾何学性にとりつかれています。
それは、よく例示される、
「コーヒーカップとドーナツ」ではありません。
クラインボトルからダンスハット形態は、
「全置換型人工心臓」にまで及んでいます。

091111tah31

さらに、カタストロフィー論での、
「トポロジー否定」を
突き返す、心臓の鼓動の微分方程式からの立体造形に
入り込んでいますから、アポリアは乗り越えています。
むしろ、メタファーとして、アナロジーとして、
「近さ」の問題、あるいは、前回のメビウス形態に、
「矛盾」を視覚としてとらえれば、
そこに、「民主主義」の正当性と疑問性のねじれの構造が、
明快に「見える」から分かる。
「I see」だというところにまで、「近づきたい」のです。


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