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Posts Tagged ‘感動’


5月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 1st, 2011  Posted 10:00 AM

5月1日 先勝(丙辰)

感性と感情で、
感動と感激したことへは、
感謝が必然でなければならない。

『デザインという先手』はじめに


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4月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 29th, 2011  Posted 11:50 PM

4月29日 大安(甲寅)

デザインというのは、
先手であるとともに、
デザインをしていくためには、
感激があり、感動が日常的な人間でなければ、
絶対につとまらないと私は確信している。

『デザインという先手』はじめに


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3月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 3rd, 2011  Posted 10:00 AM

3月3日 大安(丁巳)

「何」が感動できるものかを
熟考する時代に
私たちは生きている。

『デザイナーは喧嘩師であれ』四区分別


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10月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 31st, 2010  Posted 10:00 AM

10月31日 友引(甲寅)

自分の創り出した美しさに
感動している自己愛・フェティシズム、
これは、やっぱり倒錯である。

私は明らかに、リビドーの中に
埋没することなく倒錯であり、
モノフォリアという
精神的倒錯者であることは疑いようもない。

しかし、それを人生の価値感に選んだ。

『デザインは言語道断』倒錯


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『資本主義からの逃走』
    「美しい『花』と『花』の美しさ問題の構造から」


   


     7月 14th, 2010  Posted 12:00 AM

美しい花・花の美しさ
文芸評論家だった小林秀雄の著作は、
私の世代にとって大学入学試験問題に多用されました。
そのためにいくつかの著作を読んだことがありますが、
私は、彼の視座に、当時は同意できなかったと思っています。
特に、「身震いするほどの感動」とかという文章では、
彼のような想いがするのだろうかといつも感じていたように思います。
したがって、彼の有名な一節に、
『美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。』というのがあります。
これは、ロダンの言葉、自然を花とした引用であり、
プラトン的思考や観念的美学の否定など、様々な解釈があります。
この一節への解釈論はいくつか自分の感覚で読んできた経験があります。
そして、私自身が、この一節とは多分生涯対峙していくことになるとさえも思っています。
言い換えると、
『美しい「デザイン」がある。「デザイン」の美しさというものはない。』
もう一つ、言い換えると、
美しい「資本」がある。「資本」の美しさというものはない。
しかし、この言い換えが、
直喩性どころか隠喩性も成立しないことは、
一点において明確です。
それは、「花」は自然物であり、
「デザイン」も「資本」も人工物ということです。
つまり、美しいデザインをする、というデザイン営為は、
「デザイン」の美しさというものを目指すからです。
そして、もっと明確になるのは、
「美しい『デザイン』がある」、ことと、
「『デザイン』の美しさ」、ということを、
デザインは目指すことができるということです。
この論点こそ、
実は、デザインの目標・目的であり、
なおかつ、デザインが付加価値と言われ続けてきたことへの大誤謬、
そのことを解決する「デザイン美」のあり方を考察することができます。
決して、デザインは、デザインの本質である美が「付加」された価値ではない、
ということを導き出してくれると、私は確信しています。


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『資本主義からの逃走』
   「感激と感動の私の基本は哀しみの『美』です」


   


     6月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽
私は、感激・感動は、感覚的な認識であると考えてきました。
そして、具体的には、スポーツが刺激要素となって、受け止める感激。
音楽が刺激要因となって、蓄積されてくる感動をあげました。
さらに、そうした感激が「反射的」であり、感動が「反復的」、
そして、その反射性も反復性も相互性や,があるのではという見解を示しました。
そして、反射的であれ反復的であれ、感激し感動すること、感動し感激すること、
この感覚が「想像力」を育成してくれること、
「生きがい」というのは感激と感動無しにはあり得ないと確信しています。
人間は、生きることが死んでいく道程であることを熟知しています。
人間の生涯には、「生老病死」と「喜怒哀楽」が重層しているのです。
「喜怒哀楽」に感激と感動が介在しているわけです。
では、その「喜怒哀楽」を最も根本で支えていることは、
何なんだろうと考える、あるいは思うと、
私は「美」を感覚的に受容できることがとても大事で大切なことだと信じています。
母との別れ
私にとって、もっとも哀しかったことは、
「母との死別」でした。
40年前のことです。
母の瞳が、とても透明になって、一筋の涙が流れました。
私は母と添い寝しながら、小さな声で、呼びかけていました。
父や親戚が隣の部屋にいましたが、一人で見送りたかったので、
こみ上げる息もつまりそうな声で呼びかけ続けていましたが、母は逝きました。
47歳でした。21年間の母の生涯は私が独占していたと思います。
まさに、母のあれほど透明な瞳より美しいものには出会ったことがありません。
ちょうど明け方でした。近所のお寺の鐘の音が聞こえていました。
「死別」は感激であり感動だったのだと思います。
「美しい瞳」と「鐘の音」は、私にいつでも「反復的」に思い起こすことが出来ます。
そして、母の瞳の透明さに、私の「美」の基準があるのです。
デザインは「美」を追いかけています。
私は、「哀しみ」の感激と感動の中に「美」を身体化したのだと思ってきました。
母が与えてくれた哀しみの感激と感動は、
当然、母へのとめどない「感謝」になっています。
だから、私は自分の「生きがい」に、
母のあの瞳のごとくの「美」を、デザイン表現で追い求めてきたことです。


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『資本主義からの逃走』
   「反射と反復、この相互性と補完性が感覚を磨く」


   


     6月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

反射・反復
私は、「感激」は、「反射的な認識」とし、
「感動」は、「反復的な認識」と位置づけました。
その具体例としては、スポーツが感激を刺激要素の一つ。
音楽は感動の刺激要因の一つだという、私なりの経験から私見を記しました。
そして、もっと実際的な「感覚」としての「感激」と「感動」には、
感動であっても瞬間的であり「反射性」もあります。
同様に、感激であっても永続的で「反復性」が必ずあるものです。
入れ子構造
つまり、私は、「感激」して「感動」するという事象と、
「感動」して「感激」する事実は、相互性だけではなくて、
補完的に感覚内ではまるで「入れ子構造」のようになっているものと判断しています。
それは、私たちが「感覚」から「認識」でのプロセスでは、
まず、どんな「刺激」も「適当刺激」として
「入れ子構造」で受け止めるという曖昧性があるからです。
決して、刺激に対して感覚器=目・耳・鼻など五感器や、第六感という予想や予測や、
野性的な予知能力が、正確無比なる感覚では無いということだと思うからです。
ギリシア哲学・エンペド・クレスの時代に、
「直感」や「感覚」が、思考として理性的な判断から遠ざけられていたのは、
この曖昧性だったと推測します。
さらに、デカルトに至っては、
感覚に由来する知識に対しては大懐疑的だったことも明らかです。
ようやく、ロックが、
感覚器官が可感的な事物の認識が心の中の「真っ白な紙」=tabula rasa
書き込まれるのでは、という思索から、
カントによって、
感性的な直感と概念的な思考の双方向性があることを教えてくれたのではないかと思います。
「直感の無い概念は空虚であり、概念の無い直感は盲目である」
という言葉に、私は感激と感動を持っています。
だからこそ、私は、「感激」も「感動」も無い人間には、
「想像力」が欠落しているとさえ思うのです。
私は、本当に、反射的な、反復的な、感激と感動を日常的に感じていたいと願っています。
おそらく、「生きがい」というのは、
感激と感動によって、反射的、反復的な認識ができる自分だという自己確認が不可欠でしょう。


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『資本主義からの逃走』
    「刺激要素は感激を与え、刺激要因は感動を与える」


   


     6月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

感激・感動の配置

かつて、「
感性」というのは「感情」と同一視されていた時代、
歴史が相当に長かったようです。
私は、「感性」を心の中に何かが一杯になってくることから捉え直すと、
「感性」も、「感情」もその差異性が見えてくると確信して、
あくまでも私見ですが伝えたいと思っています。
そこで、感性と感情の間に、「感激」と「感動」を配置します。
そうすると、明らかに、心が激してくること・心が動いていることには,
明白な距離観があると思っています。
それは、何かに刺激されて私たちは生理的な認識に至ると言われています。
感激要素
具体的に刺激する物事を挙げてみましょう。
私は、スポーツは、「感激」を与える要素が大きいと思うのです。スポーツで、
勝敗の決着がついた時、「勝った!」なんていう「瞬間」に感激します。
私は、これを「反射的な認識」だと言いました。
だから、「感激」が瞬間的な要素、それが刺激因であることは間違いないでしょう。
感動要因
こうした瞬間に比べれば、
音楽は、時間軸がありますから、刺激因は、明らかに要因です。
音楽によっての「感性」あるいは「感情」の動きは「感動」になると思います。
私にとって、
音楽によって今もその「感動」を必ず携えることができる音楽は、たくさんありますが、
一つは、高校時代の音楽鑑賞で、「中央アジアの草原にて」・ボロディンでした。
本当は、音楽鑑賞なんて眠っていようと思ったのですが、
この曲を聴いた時に、体の中に、なんだか広大な広がりを感じたのです。
なんだ、この心の中に果てしないイメージの拡大が起こっているのは?、と思ったのです。
そして、眠気どころか、この広がりは絶対に覚えておこうと思ったのです。
そして、教師から題名「中央アジアの草原にて」を聞いて、
本当にすごいなー、交響詩とは言うけれど、
目の前には無辺なる景観を見ました。
音・旋律で表現する音楽の力を感じました。
もし、ピアノが弾けたなら音楽系大学を選んでいたかもしれません。
反復的な認識
音楽は、時間軸があります。
この軸があるから「音」は「要因」となって、
心の中に「感動」を運んでくれ、しかも、それは心のどこかに蓄積されています。
そして、再び、この音や旋律は、反復してくるのです。
「感激」が「反射的な認識」だとするなら、
「感動」は、「反復的な認識」になるものだと考えます。
言い換えると、スポーツは刺激要素として「感激」を与え、
音楽は、刺激要因として「感動」を与えるものだと思っています。


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『資本主義からの逃走』
   「祭に感じる感性への道程」


   


     6月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

この文字は、「肉を手で持ち上げて、神に捧げている」とのことです。
肉を神様に、ということになれば、
清水をかけ、塩をかけ、お酒をかけて、丁寧に清めます。

そして、この文字は宀=うかんむりがありますから、
屋内に清められた肉が神様に捧げられていることになります。
意味の拡大が起こります。
屋内の隅々まで清めるがごとくに、検分し検証し、
清められているかどうかを綿密に確認することになります。
洞察・考察・観察、そして警察や検察にまで至っています。
「察する」というのは、
客観的であると同時に、清められているかという感性的な認識だと考えます。
そして、「気持ちを察する」というのは「思いやり」にまでつながっています。
さて、もう一度、「祭」にもどれば、
祭は、「感檄」し、
「感動」させることに満ちあふれていなければならないということにもなります。
私は、祭には、
祈りや願いが叶えられたことへの「感謝」を示す儀式=イベント性があります。
神への「察し」=思いやり=感謝のサイクルがここにも明確に表れています。

そうなると、私たちは常識的に、
「祭り」=「政(まつりごと)」だということは熟知しています。
果たして、
「政」が、「政治」は、社会の隅々まで「察して」くれているのだろうか、ということです。
私は、デザインという営為は、ユーザーの使い勝手を「察する」ことが基本です。
私が、政治が忘却していることがデザインにある、
と指摘を繰り返すのは「感性」={感檄・感動・感謝}が備わっているからです。


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『資本主義からの逃走』
    「『感』という要素から資本要素への検証を試行」


   


     6月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

「感」は咸=みなへんと心から成り立っています。
咸は、口と戌(ほこ)です。
これは刃物で口を封じ込める意味を持ち、
口の中が閉じられながらも何かでいっぱいになっている、と言われてきました。
周易では「沢山咸」として六十四卦の一つとして、
「自分も相手も真心を持てば、それを互いに感じあうさま」
を表しているという解釈もあります。

私は、おそらく、「口の中が一杯になっている」という咸に、
心がついているというのは、
心の中も一杯一杯になってくること、
心に何かが封じ込められているほどいっぱいのことだろうと解釈しています。
最も、「心」というのは、心臓を表していますが、
感じるということは、認識、それも私は「反射的な認識」だと考えてきました。

だから、「驚く」ということから、「察する」ということにも繋がりがあります。
洞察、考察、観察などを構成しています。
多分私たちが、「認識」するというのは、
脳内反応だけでは言い切れないことがそれこそ一杯あるのでしょう。

まず、私たちは「感激」できる自分なのか?ということを自問しておく必要があるでしょう。
そして、「何に」感激するのだろうか、
「どうして」感激するのだろうか、
最近の自分は「感激」をしているのだろうか、
こうしたことを「察する」必要があるでしょう。
私は、「感激」は一瞬、あるいは瞬間的に心の中が何かで満たされるのです。
それから、「感動」というゆるやかな心の運動が持続してくるように感じます。
だから、「感激」し、「感動」する自分に出逢う必要があるのです。
私が、初めてモンドリアンの原画をニューヨーク近代美術館MoMAで出会ったとき、
それは「感激」がゆっくり心の中に広がってくる経験をしました。
まず、本物が見られた!、という感動は、
私は絵画によって心の中にしみじみと流れ込んでくる実感がありました。
翌日は、MoMAのその部屋にひたすら2時間居ても、
その感動は心の中を一杯にしてくれました。
以来、「感」とは心の中が、瞬間的に一杯になるのが「感激」であり、
それがじっくりと一杯になっていくように感じることが「感動」だと思うようになりました。
だから、心が空白、あるいは空虚になることには、
やはり耐えきれないことも事実です。


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