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Posts Tagged ‘感激’


『資本主義からの逃走』
    「刺激要素は感激を与え、刺激要因は感動を与える」


   


     6月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

感激・感動の配置

かつて、「
感性」というのは「感情」と同一視されていた時代、
歴史が相当に長かったようです。
私は、「感性」を心の中に何かが一杯になってくることから捉え直すと、
「感性」も、「感情」もその差異性が見えてくると確信して、
あくまでも私見ですが伝えたいと思っています。
そこで、感性と感情の間に、「感激」と「感動」を配置します。
そうすると、明らかに、心が激してくること・心が動いていることには,
明白な距離観があると思っています。
それは、何かに刺激されて私たちは生理的な認識に至ると言われています。
感激要素
具体的に刺激する物事を挙げてみましょう。
私は、スポーツは、「感激」を与える要素が大きいと思うのです。スポーツで、
勝敗の決着がついた時、「勝った!」なんていう「瞬間」に感激します。
私は、これを「反射的な認識」だと言いました。
だから、「感激」が瞬間的な要素、それが刺激因であることは間違いないでしょう。
感動要因
こうした瞬間に比べれば、
音楽は、時間軸がありますから、刺激因は、明らかに要因です。
音楽によっての「感性」あるいは「感情」の動きは「感動」になると思います。
私にとって、
音楽によって今もその「感動」を必ず携えることができる音楽は、たくさんありますが、
一つは、高校時代の音楽鑑賞で、「中央アジアの草原にて」・ボロディンでした。
本当は、音楽鑑賞なんて眠っていようと思ったのですが、
この曲を聴いた時に、体の中に、なんだか広大な広がりを感じたのです。
なんだ、この心の中に果てしないイメージの拡大が起こっているのは?、と思ったのです。
そして、眠気どころか、この広がりは絶対に覚えておこうと思ったのです。
そして、教師から題名「中央アジアの草原にて」を聞いて、
本当にすごいなー、交響詩とは言うけれど、
目の前には無辺なる景観を見ました。
音・旋律で表現する音楽の力を感じました。
もし、ピアノが弾けたなら音楽系大学を選んでいたかもしれません。
反復的な認識
音楽は、時間軸があります。
この軸があるから「音」は「要因」となって、
心の中に「感動」を運んでくれ、しかも、それは心のどこかに蓄積されています。
そして、再び、この音や旋律は、反復してくるのです。
「感激」が「反射的な認識」だとするなら、
「感動」は、「反復的な認識」になるものだと考えます。
言い換えると、スポーツは刺激要素として「感激」を与え、
音楽は、刺激要因として「感動」を与えるものだと思っています。


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『資本主義からの逃走』
    「『感』という要素から資本要素への検証を試行」


   


     6月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

「感」は咸=みなへんと心から成り立っています。
咸は、口と戌(ほこ)です。
これは刃物で口を封じ込める意味を持ち、
口の中が閉じられながらも何かでいっぱいになっている、と言われてきました。
周易では「沢山咸」として六十四卦の一つとして、
「自分も相手も真心を持てば、それを互いに感じあうさま」
を表しているという解釈もあります。

私は、おそらく、「口の中が一杯になっている」という咸に、
心がついているというのは、
心の中も一杯一杯になってくること、
心に何かが封じ込められているほどいっぱいのことだろうと解釈しています。
最も、「心」というのは、心臓を表していますが、
感じるということは、認識、それも私は「反射的な認識」だと考えてきました。

だから、「驚く」ということから、「察する」ということにも繋がりがあります。
洞察、考察、観察などを構成しています。
多分私たちが、「認識」するというのは、
脳内反応だけでは言い切れないことがそれこそ一杯あるのでしょう。

まず、私たちは「感激」できる自分なのか?ということを自問しておく必要があるでしょう。
そして、「何に」感激するのだろうか、
「どうして」感激するのだろうか、
最近の自分は「感激」をしているのだろうか、
こうしたことを「察する」必要があるでしょう。
私は、「感激」は一瞬、あるいは瞬間的に心の中が何かで満たされるのです。
それから、「感動」というゆるやかな心の運動が持続してくるように感じます。
だから、「感激」し、「感動」する自分に出逢う必要があるのです。
私が、初めてモンドリアンの原画をニューヨーク近代美術館MoMAで出会ったとき、
それは「感激」がゆっくり心の中に広がってくる経験をしました。
まず、本物が見られた!、という感動は、
私は絵画によって心の中にしみじみと流れ込んでくる実感がありました。
翌日は、MoMAのその部屋にひたすら2時間居ても、
その感動は心の中を一杯にしてくれました。
以来、「感」とは心の中が、瞬間的に一杯になるのが「感激」であり、
それがじっくりと一杯になっていくように感じることが「感動」だと思うようになりました。
だから、心が空白、あるいは空虚になることには、
やはり耐えきれないことも事実です。


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6月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 21st, 2010  Posted 9:18 PM

6月21日 先負(丁酉)

感激する自分、
感動する自分、
そんな自分に出会うには、

「感謝」できる自分であるかどうか、
それが試されている。
私はそう思っている。


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『資本主義からの逃走』
    「感動という資本こそ、情報化の核心になっている」


   


     6月 21st, 2010  Posted 12:00 AM


私は、ともかく「驚く」ということがとても大事だと思ってきました。
「驚く」というのは、身が引き締まるのです。
まさしく、馬が、身が引き締まる緊張度が漢字になっています。
おそらく「感激」したり「感動」するのは、驚くことから始まる気がします。
そして、残念ながら、現代は「驚く」ことはある面では、
悪弊に対して「驚いてしまう」ことになっています。
「あんなこと、考えられなくてとても驚いた」となるわけです。
感激
大学人になって、若者が「感激」していることに偏りがあると観察してきました。
「どきどきしているか?」とか、
「どきどきすることやってるか?」とかを本当に毎日尋ねている気がします。
私は、「興味」あることをいっぱい持っていることが、
特に、デザインや創造的な仕事をする人間には必要不可欠だと確信しています。
現代、「感激」や「感動」を刺激しているのは、
スポーツや音楽に限定されているように思います。
ちょうど、ワールドカップでのサッカーの勝敗に、
日本全国民が一喜一憂という「感激」の場面を観ます。
私自身も、本来それほどサッカーを選んで観ることなどないのですが、
「気がかり」でなりません。
反射的認識
私は「感激」というのは、「反射的な認識」だと思います。
私は28歳、交通被災で車椅子生活になりました。
脊髄損傷をリハビリテーション訓練、ベッド生活から、
本来は1ヶ月かかるベッドでの起床を半月訓練という米国流を選び、
たった2週間後、初めて自力で起き上がりました。
それこそ、看護師さんから周囲の人が励ましてくれました。
内心は怖くて怖くてたまらなかったのですが、
強がりの私は平然を装いつつ、勇気いっぱいに起き上がって驚かせました。
みんなが拍手してくれたり、看護師さんやトレーナーの人達が泣いてくれました。
これは生涯忘れないでしょう。ともかく、とても苦しいリハビリでしたから。
私は、彼らが泣いてくれたのを見て、
私に「感激」が明確に反射してきたことを思い出します。
それ以来、「感激」というのは、心理的反射だと考えるようになりました。
おそらく、スポーツにおいても、
スタジアムでプレーしていて勝負が決定した瞬間、
それまで練習に練習をしてきた選手たちの大きな喜びを
「反射」して受け止めるのでしょう。
選手たちの喜びの「感激」が反射して共有できるのです。
そして、スタジアムにいるサポーターも、
TVを見ている私たちも「反射的な感激」で共有します。
選手たちは、必ず、こう言います。
「応援をしていただいたから、勝てた!、感謝します」と。
見事に、私たちも「感激」し、「感動」できた「感謝」を選手たちに返すのです。
私は、「感激」・「感動」・「感謝」のサイクルを見いだすことができます。


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『資本主義からの逃走』  
*「かたち=デザイン、
   このことばでつないでいます」*


   


     12月 24th, 2009  Posted 10:00 AM

デザイナーになって以来、
かたち」こそ、私には「デザイン」です。
●「いのち」に「きもち」を、
●「きもち」を「いのち」に、



だから
かたち「に」きもちを
かたち「を」きもちに、



あるいは
かたちにいのち「を」
かたちをいのち「に」ということを、
まるでこの闇の中でつないでいる時もあります。
光の中でつないでいる時もあります。
しかし、私にはこの時々に、
生体的な病で押さえこまれる「しばらく」があります。
「しばらく」は、光と闇の時空間です。
やむなく、
私は時空間で「たたづんでいる」と判断します。

「化」という言葉があります。
「花」という言葉を支えています。



人と刃物=鳶口との関係です。
そしてもう一つは、「祈る」という「化」です。
かたち」が「花」のごとくというのが、
私の祈りと言うのは、ややはばかりますが、
やはり、
私は、「かたち」=デザインに生体で祈り続けて、
時々、「たたづむ」ことを余儀なくされるようです。
私は、先般、このことを強く認識できました。
そういう才能と実践に出逢うと、
まさに、「鏡」に自分が映るように自覚させられます。
これが、感動であり、感激です。
そうした才能と実践に感謝するばかりです。
「きもち」が確実に「かたち」、
その世界を浮かばせてくれるのです。


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11月9日Staff Blog 1/2


   


     11月 9th, 2009  Posted 11:19 AM

11月9日

出張の癒しは、
高知の岡豊高校での講演で、
生徒代表の生徒会長からいただいた花束!

そして、BOSS(川崎和男)の
水へのこだわりをご存知だった先生が、
地元の海洋深層水
ウトコ ビューティ&ヘルシーウォーターを
ご用意してくださいました!硬度300!
健康と美をサポートしていただきました。

感動!感激!感謝!!
BOSSが大切にしていることばです。

091109flowerutoco


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10月29日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     10月 29th, 2009  Posted 5:01 PM

10月29日 友引(丁未)

好きだ、となれば、まず感激が体を走る。
そして、好きだと言う感激の持続が
感動に至る。それは深い感動となって、
やがてその感激や感動を
与えてくれたことへの感謝の念すら
わき上がるのではないだろうか。

『デジタルなパサージュ』もの、ものすごい、ものものしい


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