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Posts Tagged ‘感謝’


9月19日Staff Blog


   


     9月 19th, 2011  Posted 8:40 AM

9月19日

大阪中之島で絶賛開催中、
ダイハツ クーザに
ご招待を受けて参加してきた
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

最初から
観客も舞台と一体となる演出に
引きこまれました。
目のあたりにしながらも
夢か現実かわからなくなるくらい
幻想的なシーン、超人的な技が
次々と展開されました。
感動に感謝です。


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5月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 1st, 2011  Posted 10:00 AM

5月1日 先勝(丙辰)

感性と感情で、
感動と感激したことへは、
感謝が必然でなければならない。

『デザインという先手』はじめに


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7月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 3rd, 2010  Posted 4:26 PM

7月3日 友引(戊申)

「与えられた機会に感謝する」、
そのことに対してさらに
考えられることがある。

それは、やってきた「機会」に対して、
より詳細に感謝することで、
今後の自分への行動のけじめが
明確になるという点である。

『プレゼンテーションの極意』与えられた機会への感謝を忘れてはいけない


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7月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 3rd, 2010  Posted 12:47 AM

7月2日 友引(戊申)

自分がそこで話すチャンスを得られた。
そのことに
感謝できるかどうかということが重要だ。

『プレゼンテーションの極意』与えられた機会への感謝を忘れてはいけない


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『資本主義からの逃走』
  「哀しみの『美』が感覚を豊かにしていると想う」


   


     6月 27th, 2010  Posted 12:00 AM

人間の生涯、「喜怒哀楽」が折り重なって日常を包んでくれています。
私は、多分、人生は「喜び」・「怒り」・「哀しみ」・「楽しみ」が
四分の一づつ携えているのかも知れないと思っています。
本来なら、「喜び」と「楽しみ」だけだったなら・・・とは、
誰もが願うことでしょう。
そして、この「喜怒哀楽」を受け止めて、
喜びをそのまま表す人もいれば、
怒りがあっても、飲み込んでしまう人、それぞれです。
私は、素直に喜び、楽しみ、
率直に、怒り、また哀しみをそのまま表せる性格です。
むしろ、「喜怒哀楽」に粘着しているかのような、
「妬み」・「嫉み」・「憎しみ」などは、決して自分に付着させることは罪悪だと考えます。
そして、そのような粘着性の性格などは、医学的にある種の「妄想的疾病」であることから、
「喜怒哀楽」がその人に与えられることは無いのだろうと想像します。
「哀」に「美」
さて、私は「哀しみ」に「美」があると考えてきました。
つまり、生きていくことが死んでいくことと同値ライン上にあります。
だから、「哀しみ」と「悲しみ」とは大きな違いもあるのでしょう。
私は、人間の生死が「哀しみ」にあるからこそ、
「喜び」と「楽しみ」で彩られる生活があると信じています。
舞・歌
その根拠の例示として、「舞」と「歌」を挙げることができます。
「舞」とは、祈り、願い、であり、
これはもう人力が及ばないからこそ「神」に肉体で表現をする行為です。
「歌」は、体を屈折させて、体内から絞り出すように声を出す行為です。
いづれも、根底には「哀しみ」があります。
感謝の踊と歌
そして、その願いが叶えば、人はまた「踊り」、「歌う」のです。
その「踊り」や「歌う」ことには喜びと楽しみが反射します。
またその喜びと楽しみは、反復されて記憶から幾たびも取り出すことができます。
この反射や反復が、
祈りと願いが届いたからこそ「感謝」ができるという構図になっているのでしょう。
私は、この構図の生地に「哀しみ」が塗り込められていると想像します。
この想像力こそ、
「美」を嗅ぎ取り、さらには「美」を創り出す意欲にもなるのだろうと考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「感激と感動の私の基本は哀しみの『美』です」


   


     6月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽
私は、感激・感動は、感覚的な認識であると考えてきました。
そして、具体的には、スポーツが刺激要素となって、受け止める感激。
音楽が刺激要因となって、蓄積されてくる感動をあげました。
さらに、そうした感激が「反射的」であり、感動が「反復的」、
そして、その反射性も反復性も相互性や,があるのではという見解を示しました。
そして、反射的であれ反復的であれ、感激し感動すること、感動し感激すること、
この感覚が「想像力」を育成してくれること、
「生きがい」というのは感激と感動無しにはあり得ないと確信しています。
人間は、生きることが死んでいく道程であることを熟知しています。
人間の生涯には、「生老病死」と「喜怒哀楽」が重層しているのです。
「喜怒哀楽」に感激と感動が介在しているわけです。
では、その「喜怒哀楽」を最も根本で支えていることは、
何なんだろうと考える、あるいは思うと、
私は「美」を感覚的に受容できることがとても大事で大切なことだと信じています。
母との別れ
私にとって、もっとも哀しかったことは、
「母との死別」でした。
40年前のことです。
母の瞳が、とても透明になって、一筋の涙が流れました。
私は母と添い寝しながら、小さな声で、呼びかけていました。
父や親戚が隣の部屋にいましたが、一人で見送りたかったので、
こみ上げる息もつまりそうな声で呼びかけ続けていましたが、母は逝きました。
47歳でした。21年間の母の生涯は私が独占していたと思います。
まさに、母のあれほど透明な瞳より美しいものには出会ったことがありません。
ちょうど明け方でした。近所のお寺の鐘の音が聞こえていました。
「死別」は感激であり感動だったのだと思います。
「美しい瞳」と「鐘の音」は、私にいつでも「反復的」に思い起こすことが出来ます。
そして、母の瞳の透明さに、私の「美」の基準があるのです。
デザインは「美」を追いかけています。
私は、「哀しみ」の感激と感動の中に「美」を身体化したのだと思ってきました。
母が与えてくれた哀しみの感激と感動は、
当然、母へのとめどない「感謝」になっています。
だから、私は自分の「生きがい」に、
母のあの瞳のごとくの「美」を、デザイン表現で追い求めてきたことです。


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『資本主義からの逃走』
   「祭に感じる感性への道程」


   


     6月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

この文字は、「肉を手で持ち上げて、神に捧げている」とのことです。
肉を神様に、ということになれば、
清水をかけ、塩をかけ、お酒をかけて、丁寧に清めます。

そして、この文字は宀=うかんむりがありますから、
屋内に清められた肉が神様に捧げられていることになります。
意味の拡大が起こります。
屋内の隅々まで清めるがごとくに、検分し検証し、
清められているかどうかを綿密に確認することになります。
洞察・考察・観察、そして警察や検察にまで至っています。
「察する」というのは、
客観的であると同時に、清められているかという感性的な認識だと考えます。
そして、「気持ちを察する」というのは「思いやり」にまでつながっています。
さて、もう一度、「祭」にもどれば、
祭は、「感檄」し、
「感動」させることに満ちあふれていなければならないということにもなります。
私は、祭には、
祈りや願いが叶えられたことへの「感謝」を示す儀式=イベント性があります。
神への「察し」=思いやり=感謝のサイクルがここにも明確に表れています。

そうなると、私たちは常識的に、
「祭り」=「政(まつりごと)」だということは熟知しています。
果たして、
「政」が、「政治」は、社会の隅々まで「察して」くれているのだろうか、ということです。
私は、デザインという営為は、ユーザーの使い勝手を「察する」ことが基本です。
私が、政治が忘却していることがデザインにある、
と指摘を繰り返すのは「感性」={感檄・感動・感謝}が備わっているからです。


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6月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 21st, 2010  Posted 9:18 PM

6月21日 先負(丁酉)

感激する自分、
感動する自分、
そんな自分に出会うには、

「感謝」できる自分であるかどうか、
それが試されている。
私はそう思っている。


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『資本主義からの逃走』
    「感動という資本こそ、情報化の核心になっている」


   


     6月 21st, 2010  Posted 12:00 AM


私は、ともかく「驚く」ということがとても大事だと思ってきました。
「驚く」というのは、身が引き締まるのです。
まさしく、馬が、身が引き締まる緊張度が漢字になっています。
おそらく「感激」したり「感動」するのは、驚くことから始まる気がします。
そして、残念ながら、現代は「驚く」ことはある面では、
悪弊に対して「驚いてしまう」ことになっています。
「あんなこと、考えられなくてとても驚いた」となるわけです。
感激
大学人になって、若者が「感激」していることに偏りがあると観察してきました。
「どきどきしているか?」とか、
「どきどきすることやってるか?」とかを本当に毎日尋ねている気がします。
私は、「興味」あることをいっぱい持っていることが、
特に、デザインや創造的な仕事をする人間には必要不可欠だと確信しています。
現代、「感激」や「感動」を刺激しているのは、
スポーツや音楽に限定されているように思います。
ちょうど、ワールドカップでのサッカーの勝敗に、
日本全国民が一喜一憂という「感激」の場面を観ます。
私自身も、本来それほどサッカーを選んで観ることなどないのですが、
「気がかり」でなりません。
反射的認識
私は「感激」というのは、「反射的な認識」だと思います。
私は28歳、交通被災で車椅子生活になりました。
脊髄損傷をリハビリテーション訓練、ベッド生活から、
本来は1ヶ月かかるベッドでの起床を半月訓練という米国流を選び、
たった2週間後、初めて自力で起き上がりました。
それこそ、看護師さんから周囲の人が励ましてくれました。
内心は怖くて怖くてたまらなかったのですが、
強がりの私は平然を装いつつ、勇気いっぱいに起き上がって驚かせました。
みんなが拍手してくれたり、看護師さんやトレーナーの人達が泣いてくれました。
これは生涯忘れないでしょう。ともかく、とても苦しいリハビリでしたから。
私は、彼らが泣いてくれたのを見て、
私に「感激」が明確に反射してきたことを思い出します。
それ以来、「感激」というのは、心理的反射だと考えるようになりました。
おそらく、スポーツにおいても、
スタジアムでプレーしていて勝負が決定した瞬間、
それまで練習に練習をしてきた選手たちの大きな喜びを
「反射」して受け止めるのでしょう。
選手たちの喜びの「感激」が反射して共有できるのです。
そして、スタジアムにいるサポーターも、
TVを見ている私たちも「反射的な感激」で共有します。
選手たちは、必ず、こう言います。
「応援をしていただいたから、勝てた!、感謝します」と。
見事に、私たちも「感激」し、「感動」できた「感謝」を選手たちに返すのです。
私は、「感激」・「感動」・「感謝」のサイクルを見いだすことができます。


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『資本主義からの逃走』
「通貨制度の革新による『衡』平和信用度をめざす」


   


     5月 13th, 2010  Posted 12:01 AM


私たちは円という貨幣単位で生きています。
円で生かされていると言ってもいいでしょう。
「円」=Yen (wen)です。
『¥』という記号に生活が在ると考えることができます。
中国は「元」です。
そしてこれも発音ではYuanですから似ています。
この円と元の貨幣呼びには歴史があります。
今、私たちの¥は、国際的な通貨制度の中では、
大きな信用力があります。
『¥』をここまでの信用力としてきた戦後、
いや明治維新以後の先達に感謝をしなければならないでしょう。
そういう意味では、
現状、わが国の産業経済力が脆弱になってきたことに対して、
日本国民は、大きな不安感の中にいます。
それを「不景気」と言って悲しいかな、かまいませんが。
¥の原点は、日清戦争後でした。
それは、日本の通貨制度を改めて見つめ直さなければならない歴史です。
私自身はデザイン界に身を置いています。
デザイナーとして、教育者として、そして日本人として、
『¥』の脆弱化を最も危惧しているのです。
とりあえず、大きなその危惧理由を二つだけ記しておきます。
言い尽くせない不安感は、まだ胸の内に留めておきます。
予知不安
● 中国の通貨制度は、
いきなり国際性での信用を無視するのではないだろうか、と予想するのです。
その背景には、彼らの「市場経済主義」という、かなり不明な背景基盤があるからです。
つまり、大戦後の国際的通貨制度は資本主義経済によって、
現代性の国家間信用に繋がっています。
明らかに、これは「通貨制度」での経済競合でした。
もっと言い換えれば、通貨制度を介在した経済戦争だったのです。
そして自国の信用は、その国の政治家に任せてきました。
この破綻が、欧州の法治国家では起こってしまっています。
中国は人治政治によって、この破綻はありえなくする力があるでしょう。
● それは明らかに通貨制度を超越した彼らが主導したい
世界支配の経済構造が動き始めているということが二つ目の予知です。
この背景基盤は、情報世界での「情報制御」と「情報操作」、
それは、「情報の無料化=Free」というビジネスモデルが
次々と登場してきたことです。
この世界構造に通貨制度を制御する「国際関係的な政治力」が
無効化し始めているという観想です。
私は、円と元とがやがて対立し、外圧で円の破綻があるかもしれません。
あるいは、現在の政治家の法治政治への不信を動機とした、
元による通貨制度で外圧度に、
日中の「衡」状況はありえるのだろうか、と考えています。
円と元はYenです。
許されるならば、全アジア統合的な、
新たな情報化された通貨制度策のデザインが必要だと考えます。
¥+?+$=?
それは欧州・?と米国・$をも統合するための、
新たな「国際的な平和信用度」を構築する「衡・世界観」です。


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