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Posts Tagged ‘戦争’


『エアーバック不始末事故:予想されるチャイルドシート設計』


   


     10月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

エアーバックが硝酸セルロースの火薬爆発、
つまり、火薬工学効用です。
爆発成形というのにはとても興味があるとともに、この工学技術は、
すぐに戦争への工学技術視されてしまうのが現在の日本風潮です。
しかし、明確に、車の安全性はシートベルトやエアーバックで、
万一の衝突や転倒事故への安全工学になっていることは確かです。
ところが、エアーバック不良で4名の死亡者を出したことは、
日本の車両デザイン全てが安全性を失ったことになります。
かつて、来春からチャイルドシートが義務づけられることで、
Gマーク賞獲得を目指して、
国産製の一見して研究不足ある大量の応募があったことがあります。
ちょうど私は総合審査委員長であり、審査委員で詳しい人物もおり、
海外の有名車メーカーが、設計者自身が自分の子ども向けで、
チャイルドシート開発をしていたモノがありました。
そのことは、カーデザイン関係誌でも読んで知っていましたから、
そのメーカーからGマーク賞応募はありませんでしたが、
連絡をして、応募してもらいました。狙いは、これが本当のシート、
その事例を国産メーカーに知らしめることでした。
海外製と国産では明確さがあり、
「これを事例に」して欲しい旨を広報することができました。
さて、あらためてあれから国産のチャイルドシートも、
国産独特の工夫やデザイン進化があったようですから、国産製も、
すでにGマーク賞を受賞選定されていましたが、私は一見して、
このアイディアでの商品は危ういのではと懸念してしまいました。
単なるスタイリングで賞選定すべきではありません。
比して、海外製のシート進化を性能・機能をしらべましたが、
これらは別段Gマーク賞選定ではありませんが、
あらためて、Gマーク賞選定審査委員の知見と見識を疑います。
もし、Gマーク賞選定のチャイルドシートが不始末なモノであれば、
それは審査委員会そのものの判定が駄目出しされるでしょう。
この不始末メーカーのエアーバックにはかねてより疑いがあり、
調査されていたことを私はその専門家から聞くことができました。
デザインは単なるスタイリングではありません。
信頼性ある安全性能が確約された機能的な美学が保全されるべきです。
ただ、私はプロのデザイナーとして、国産も海外製も、
車シートデザインそのモノが
すでに時代に遅れたモノになってしまっていると断言しておきます。

「*貿易国策の一つがGマーク賞制度、その審査委員資格*」


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「『危機』・ことばの定義について」


   


     8月 16th, 2013  Posted 1:20 AM

終戦記念日は、歳毎に、私は「敗戦記念日」と思います。
先般も映画「終戦のエンペラー」を観て無念でした。
とりわけ、March 11.2011を受け止めてから、
私は阪大に「危機解決産業創成デザイン重要拠点」
自分の研究室名とし特任でプロジェクトリーダーになっています。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」では、
「危機」というテーマを学術的に追いかけてきました。
7月30日にキックオフにて大阪府警本部長に基調講演後、
この講座の紹介を済ませました。
私の脳裏には、敗戦後以来、また再びの国難を「危機」として、
さらなる学術をプロダクトデザイン実務での問題解決を図る、
ほとんどの周辺学域設定をすませたと思います。
「危機安全学」は、制度設計の学問となったのは、
1960年のキューバ危機から、国際関係論として発生してきました。
今では、日常の防犯・防災から企業危機からテロリスト対策まで、
大きな学問に発展してきましたが、
デザインが接着剤となれば制度設計論から形態設計論になります。
「危機」とは、この文字通りの「危険」と「機会」にあります。
つまり、危険さを機会=チャンスとしての問題解決です。
そしてなんとしても「安全と安心」の確立をすることです。
私の父は、青春を20歳から28歳まで、戦争に従軍し、
焼け野原のふるさと福井に復員し30歳で私が生まれました。
父は今更ながら私を厳格に育てたのは「行学」思想でした。
現在わが国には、国際的な「危機」に取り囲まれています。
「靖国問題」・英霊に礼をつくすことは護らねばなりません。
「教科書問題」・教育での歴史教育を最も最高にします。
「南京問題」・虚像報道で国家までが非難されることに反対です。
「慰安婦問題」・軍事につきまとう事実性を明快にします。
なぜなら、3.11によって、私たちにつきつけられたこと、
それは、地球環境が悪化していくことへの対策です。
さらに、エネルギー問題の根幹を再確認しました。
日本だからこそ、この「危険」を「機会」にして、
「宿痾」=難問解決をデザインで実務的な解決をすることです。


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「やっぱりだった、あの飛行機だった!」


   


     6月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

ニュースキャスターで著名な人と盲目の人が遭難しました。
彼らはプロ級の腕前を持ちながらも、
さすがに、台風から温帯低気圧の凄まじさには負けました。
ヨットが破壊され、遭難での救済を求めたのです。
岩国(厚木かも)基地から海難救助が飛び立ったそうです。
私なりにはきっとあの飛行機が行ったのではと思っていました。
案の上、その機種は知る人ぞ知る名機でした。
「US-2」という水上飛行機でした。
しかし、波高3~4mに着水し、ゴムボートで救助して、
再び、水面が荒れ狂う海から飛び立つのは、
機種もさることながら、大変な飛行術と救難術があったからです。
救助されたニュースキャスターが、泣き声での事情説明。
「11名がたった2名救援のため」という説明は涙声でした。
命が助かるということは、彼らの冒険旅行以上に、
わが国には、素晴らしい飛行機と絶え間ない訓練があったことを
私たちに知らしめてくれました。
彼らの行動の是非はいろいろと個人的な所感が重なるでしょう。
けれども、私には、「やっぱり、あの名機だった!」ということ。
ちょうど、「Ship of the Year」審査会後に、
元船長からの海難救助がどれほど困難かを聞かされていただけに、
私は、その機種と海上自衛隊の存在を確認できました。
そして、航空機にはわが国の飛行機製造技術が、
見事にもしっかりと継承されていることに感動しました。
「US-2」に引き継がれてきたのは、
確かに大東亜戦争(太平洋戦争・GHQに書き直された)でしたが、
航空機の製造技術は遺伝子的に残っていたのです。
これだけの技術がありながらも、
わが国ではジャンボジェットは造れません。
かつて、政府からフランスに出張させられたときに、
トゥールーズでは、日本人のエンジニアが一杯いました。
ドイツ人のデザイナーが言ってました。
「ジャンボジェットが創れるのは我々と日本人だけだ」と。
救難された二人が言っていました。
「すばらしい国家の民だった」と。
わが国には、あの戦争から生まれたかも知れない技術であっても、
おそらく、これからの世界にとって肝要なモノづくりの民です。
そうして、日夜、訓練してくれている人たちもいる国民なのです。


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「日本の倫理性が3Dプリンターの根本を変える!」


   


     5月 31st, 2013  Posted 12:00 AM

3Dプリンターがとても話題になっています。
私自身、そして確実な人たちからの依頼もあって、
光造形から3Dプリンターまでの系譜を書いてきました。
話題になっているのは三つあります。
・大統領が本当は票集めなのに演説に取り入れました。
・モノづくりの傍観にすぎない著作がベストセラーです。
・廉価な3Dプリンターで、拳銃・マシンガンまで造れます。
このような拍車がかかりました。
しかし、未だに18世紀からの兵器が社会安全の擁護道具、
このような認識にしばられている社会性には、
根本的な倫理性は育成されていません。
本来、戦争なんて最も望まなかった、
それこそ「武士道」のあるわが国には、「日本刀」すら、
武器ではなくて「象徴」としてきた私たちには、
潔癖な倫理観があるはずです。
それは宗教でもなく、哲学でもなく、日常感覚に根ざした事です。
いまなお、SF映画でもマシンガンは18世紀の遺物に過ぎません。
その撃ち合いを冷徹に眺めることです。
拳銃?、マシンガン?、ひいては原爆、軍事、つまらないです。
だから、わが国なら、
その軍事・警備の銃器武器こそ変革するべきでしょう。
私が大学人にもどって、
「先端統合デザイン」を「危機管理産業創成デザイン重要拠点」を
目指してきた具体的な理由は、
軍事や警備や防災や防犯を根本から変えることです。
確かに日本でも警察官はじめ自衛隊でも武器を所有しています。
しかし、「武器」そのモノが、
人命尊重で有り、軍備をしないことを認識した「器」=文明です。
それこそ、日本での3Dプリンターは、
元来、光造形でも日本の発明系譜を遵守して、
「失神させるだけの攻撃防止」、この技術とデザインで、
「倫理性」を確実に獲得できる「産業化」を狙っています。
日本の叡智は、倫理性=尊重と敬愛を源泉とするような、
たとえそれが「武器」であっても、
コレを「変革」させれる頭脳と社会システムを保持しています。
私は、たとえ3Dプリンターですら、
倫理性をデザインの奈辺にしたいと思っています。


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「テロという名の殺戮に怒りを込めて」


   


     1月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

アフリカ、私には想像の及ばない場所です。
アルジェリア、きっとあの場のフランス軍の傭兵部隊は、
戦争映画などのイメージを超えるほどの
戦争以上の現実地獄が存在するのでしょう。
彼の地は戦国時代最中のはずだったのです。
テロリズム、このことばは「戦争」や「軍事」や「殺戮」を
どれほど曖昧にしている概念でしょうか。
日本の商売はこの地においても「正義性」をもっていたのかもしれません。
しかし、私は、わが国が敗戦国家として、
軍隊も持たずに世界への進出を
さも「グローバリズム」とどこかで礼賛していることを、
訝しさと偽善的な国家観を拭い去ることはできません。
パスポートには、明確に、「わが国民を絶対に護れ」と記述がありますが、
そのバックグラウンドの制度を私たちは本当は、真実は、
空白なのです。
もし、邦人が拉致され、人質になったなら、
訓練された軍人という職能家が、直ぐにも乗り込んで、
独自の戦術で奪還してこそ、
「国家」であり、「国際的存在性」があるのではないでしょうか。
政治家でも拉致されて、命拾いした人物でなければ、
その残酷さと残忍さなど分かるはずがないのです。
商売をやらせてやっているという低レベルの国家との関係、
その中で「人命優先の申し入れ」なんてありえません。
もし、
自分の家族が、友人が、いや同胞がこのような極限に出逢ったなら・・・
哀しみではなくて怒りがあるべきでしょう。
私は、いじめ問題、さらには体罰問題、聖職と言われる職能の破廉恥さ、
日本の根底にしっかりと根を張ってしまっている不甲斐なさを
思い知るべきでしょう。
わが国には「武士道」という崇高な危機管理システムの伝統がありました。
あの国家が、見せつけてくれたのは、
ほら、日本が商売されている装置システムは無事でしょう、と。
同胞17名中、10名は未だ分からず、でいいのでしょうか。
資源ほしさ、商売だから、それがグローバリズムの根幹なら、
準備すべき制度は、日本には、日本人にはテロリストは、
「とても怖いから」というイメージを植え付けるべきなのです。
まさに「孫子の兵法・用間」、
その制度とその具体化デザインであるべきです。


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「暗号解読の論理演算からコンピューターが始まった」


   


     12月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

世界大戦は暗号解読という知恵比べがありました。
暗号解読に関わった人たちは生き証人として、
次のようなことを述べています。
「戦争を終わらせたい平和な時代のために私たちは関わった」、と。
私は、現代生活においてパソコンが不可欠のものになっていましたが、
その根本的な源流には、戦争=暗号解読=論理演算があったからです。
その最初が、ドイツ・ナチスが開発した「エニグマ暗号機」がありました。
このことはコンピューターの歴史ではそれほど重要視されていません。
そして、ナチスからの暗号解読に苦心していた英国のMI6は、
アラン・チューリングたちがこの解読に関わり、
その結果が、論理演算→二進法につながっていくのです。
私自身がパソコン、
特に、MacとEWSにデザイン手法を乗せてきた背景には、
「論理演算」の知恵に最も興味があるからでした。
これまでこのブログでこのことを書き忘れていたと気づきました。
暗号解読の世界とパソコンの歴史は
どこかで分断されてきたと私は感じています。
つまり、パソコンの歴史の源流、インターネット歴史の源流には、
「戦争」があったということです。
しかし、「戦争」に対して、たとえば暗号解読に関わった数学者たちも
「平和」を懇願していたからです。
人類の最大悪と言われる「戦争回避=平和希求」は、
今日のSNSに至るまで、
「平和」を祈願する人類の理想主義があることを
銘記しなければなりません。
日本が右傾化するというアジアでの評判は、
きわめて偏向した観察だと考えます。
それこそ、自衛隊の幕僚長が語っていた言葉に、
「最も戦争をしたくないのは我々です」ということに表れています。
私は、
平和希求で生まれてきたコンピューターの背景にある「論理演算」にこそ、
理想主義への論理演算という手法が
埋め込まれていると確信しているからです。
だとするなら、
理想主義の実務的手法にある「論理演算」には、
デザイン手法=記号化手続きがあるのだということも、
デザイナー、大学人として、
そろそろ明快にテキスト化すべきだと考えています。
まだまだ書き残すことがいっぱいあると思っているわけです。


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「題名(差別用語ゆえ)で語りきれない作品」


   


     7月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

絵画にとって題名=タイトルは、作家の意図です。
けれども、当時は社会的制約の無かった言葉表現が、
時代と社会によって、題名の絶対的な変更を余儀なくされたら、
作家の狙い・意図・思想は欠損します。
この絵画は描かれた頃、このような人たちが存在していた証です。
四つほど欠損と切断の症例があるものと解釈されています。
 ・先天的な下肢欠損
 ・戦争負傷ゆえの切断
 ・後天的な病気での切断
 ・この絵が存在する場所性・風土病での切断
絵画登場の4人は、上記のそれぞれですが、
彼ら集団を当時は「●●●」(現地呼称)と呼び、
そのまま題名=意図にしていました。
後ろ姿の2人も明らかに障がい者です。
ピーテル・ブリューゲルは、
「●●●だからどうした」という理念があったようです。
●●●の日本語訳はすっかり差別用語です。
「足なえ達or足の不自由な人々」というタイトルになっています。
こうした芸術作品タイトルを差別用語は公認されるべきとの
私の見解と主張を持っています。
私自身が●●●と自称するのは構わないと思って、
講演などでも自称を意図していたところ、
差別用語消去団体から、徹底的な「差別」攻撃を受けました。
この団体との闘争は2年間かかりましたが、
私の主張を彼らは容認では無く、
それ以来、私には「攻撃停止」の旨まで伝えられました。
私が学んだことは、二つあります。
作家の創造性のタイトルは「意図すること」ゆえ、
「意図されている」ことは、
人間社会として容認するべきでしょう。
もう一つは、差別用語が人格否定では無い限り、
人類の資産として語りつぐべき言葉文化です。
これを人類から欠損させるべきではないと確信しています。


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「生はカタストロフィとの接点にある」


   


     5月 28th, 2011  Posted 12:02 AM

「生きている」こと、本当の実感。
このことに気づける人は幸運です。
この幸運さに気づかされること。
この幸運さを忘れてしまっていること。
日常はこの狭間にあるように私は思っています。
気づくのは、人の死を思い知ったこと。
生と死をしっかりと支えてくれているのは、
「文化」という生の余裕で包まれていることでしょう。
忘れていることに気づかされるのは、
日常に破滅・破壊=カタストロフィが生死を分断、
私は助かったということ。
愛する人を失った時、
絶望が取り憑きそうな時、
私自身が、交通被災と心臓発作で、
身体的破壊を体験したからこそ、
この心情と心境と真実を知ったのでしょう。
そして、「文化」が失われるのは、
天災と人災です。
天災、まさに地震・津波・爆発・火災・台風という風景。
人災、交通事故から犯罪被害、そして制御不可能な景観。
今、人類最大の人災的景観とは、戦争と原発事故でした。
「文化」が失われるのは一瞬でした。
結果、私たちが生と死の狭間で、
思い知らされたのは「文明」そのものが破滅すること。
「文明」が失われれば、当然、文化は剥奪されました。
自然の景観も人工的な景観もカタストロフィになれば、
私たちに取り憑いてくるのは「絶望」に落とされます。
しかし、私たちは、失ってしまった文化と文明を、
何度も何度も、
新たな文明づくりに挑んできた歴史があったことこそ、
「希望」の本質だったと定義しておきたいものです。
つまり、「生」とはもろくて弱くて壊れそうなことです。
しかも、毎日の日常、その傍らにはカタストロフィが、
「生」を奪い取ろうとしていることを忘れてはなりません。
もう一度「文明」づくりで、自然と対決した結果として、
また新たな「文化」に包まれることを願望します。

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「歴史的文脈のエネルギー=原子力の修辞性」


   


     5月 9th, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力への論争は激烈です。
この論争には脱原発公言が勝ち馬です。
原子力を制御できるのは
爆発条件を付与する想定のみ。
ナガサキ・ヒロシマのトラウマは、
フクシマでさらに原発アレルギーを再発させました。
「安全神話」は修辞性=レトリックに過ぎず、
修辞性という加飾性など剥ぎ取られて当然でした。
2007年、大学人・私の発言を封じ込められた体験があります。
原子力学者達はこの加飾性を認めても私の提言を阻止しました。
結果は無残な現在に至っていると私は判断しています。
ふるさと福井に原発を持つ一人としての冷徹な提言でした。
この現実では歴史の文脈の最下層をみつめるまなざしが必要です。
まなざしは原子力は今なお蒸気機関であることに注視すべきです。
つまり、蒸気機関はその性能によって爆発は当然なことです。
そしてその原料は、森林→石炭→石油と変遷してきました。
ヨーロッパの森がすべからく伐採されてしまったこと、
それから「産業革命」が始まったことは忘却されています。
やがて森林の代替を地下の石炭に見いだし、
新たなエネルギー源の収奪が国際政治地政学の大きな背景となり、
世界大戦の具体的目標は、石炭の収奪だったわけです。
それを論理的にイデオロギーの対立化に見せかけたのは、
「隠喩性という病い」の蔓延だったと私は理解しています。
石炭→石油へと移行していけば産業経済の中心は石油資本に集中。
わが国が石炭→石油ということにおいては、
世界的な孤立を余儀されることになります。
これこそ歴史的な国際政治の強要だったと見ておくべきでしょう。
しかも、国内での炭鉱労働・労働争議にイデオロギー闘争も、
まさに同次元でなおかつ同位相で重なっていきます。
ところが今、地球から枯渇寸前となっている石油は、
天然ガスとなり、石油流通というよりガスパイプの配置が、
イデオロギーから宗教対立と言わざるを得なくなるのです。
この事情は、戦争をテロリズムと言い換えることになります。
石油よりもさらに科学と技術のまさに融合は、
そのままウラン鉱の発見、原子力からのエネルギー変換は、
二つの事象につながっていくのです。
核弾頭という原爆武器と、その使用防止は平和利用と修辞されます。
拡大する電力消費エネルギーとしての原子力発電所建設です。
しかも、宇宙船地球号として合意認識を無視した、
国民主権下での原子力発電所管理は各国家体制に委ねてきた、
人類全ての怠慢性であったことを認めておくべきでしょう。
そして、一方では、ポストインダストリーが情報社会になり、
そのエネルギーの根幹である電力消費は格段に増加していきます。
私は、今、原子力への対立構造を、
あたかも世界市民的管理という
またしても幻想に押しこめようとするの歴史文脈無き思想を、
机上的な修辞として告発しておくべきと考えています。
エネルギーが隠喩性から「神話」という修辞性に置き換えること、
ゆえにヒロシマをフクシマにしてしまったことは大失策です。
しかもこの大失策を「脱原発」へ連続させることは、
エネルギーの歴史的文脈性、その熟読不足と考えざるをえません。

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11月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 24th, 2010  Posted 12:05 AM

11月23日先負(丁丑)

戦争は、勝った負けた。
逃走は、早い遅い。
盜走は、
捕まるか捕まらないかだろう。

何を盗み出すか、
そしてどう捕まらないかが
問題となるのだ。

『デザインの極道論』量感


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