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『家庭にあるべきロボットの「形態論」と「身体論」』


   


     11月 6th, 2017  Posted 12:00 AM




エンターテイメントロボットいうAIBOがこれからの家庭でのロボット。
1999年、私はスタッフもインターネット通販に申し込みをしました。
そうしたら、なんと2台も当選になり、仕方無く2台手にいれました。
しかもこれはGマーク賞で、グランプリ候補となり、議論を随分しました。
そこで、哲学者の中村雄二郎先生から、
ロボットの「形態論」と「身体論」が提示されて、
私はその論理に心惹かれてその後「ロボットデザイン基礎学」を大学人として
恩師からも依頼があってシラバスを要求があれば数校に提示しました。
しかし、ソニーの経営不振で2006年には生産中止になりました。
表向きは生産中止だけれど開発は連続していたことは知っていました。
ロボットデザインにおける「形態論」は当時、
メカノイドとヒューマノイドという区別がありましたが、
中村先生からの「身体論」では安全と安心がアスリートから引用されました。
その後、私デザインでは「舞」と「踊」があり、石黒教授のアンドロイドや、
ロボット工学会などで講演をして、学会から感謝状なども受けました。
2006年に中止されてから、再び、aiboとして市場投入されました。
しかしながら正直、Wi-FiやAI というシステムの援用などがありますが、
あまり大きな進化をしているとは思えませんでした。理由は三つあります。
まず、「形態論」としてはアニメ形態でのペット擬に固守している意味不明
「身体論」としては役割や効能性での安全・安心が全く見当たりません。
エンターテイメント性は電子ペットのロボット性が
やたら多く商品化していますが、全てが玩具的存在性だけになっていて、
それこそ、今登場し始めているスマートホーム仕様が充実かも、です。
私の物欲には全く刺激がありませんでした。レプリカントを待ちます。
最近のロボットが明確に「不気味の谷」などの論理も無視されています。
たとえば、iPhoneなどのsiriは徐々にではありますが、
「水を飲む頃」とか、「睡眠負債がこれだけあります」とか、
「深呼吸を」など指示があります。
最も、私自身はAIやAR、IoTは、企業デザイン戦略に組み込んでいますが、
自分の生活の中では、その明確な分別論をもっています。
初代AIBOはワイフが思い出したかのようにたまに遊び相手、
しかし、その一台は修理必要のようです。


* 「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」
* 「ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ」
* 「ロボット・『踊』の意図すること」
* 「Nomenclator・ロボット、GUIからAUIへの提示」
* 『ロボットに工学設計はあってもデザインされていない』


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『出版システムそのものまで「デザイン」されたこと』


   


     8月 26th, 2017  Posted 12:00 AM



半年で二冊の書籍が出版されました。
これは出版システムの「デザイン」でもあると指摘することができます。
それは私たち工業デザイン界の
大御所である黒川雅之先生からの著作でした。
「野生の衝動」がこの2月に出版され、
先般は「PARADOX」も私にも贈本していただきました。
黒川先生は、元来は建築出身ですが、GKデザインでIDの世界観が入り、
数多くのデザインを成し遂げられました。
私が赤坂でフリー直後に、いわゆるファンレターを初めて書き、
返信をいただき感激しました。
以後、照明器具のデザインチームにも参加、先生監督で作品化。
bio賞とICSID(国際インダストリアルデザイナーズ協議会)特別賞、
この二つを私が授賞しましたが、会議は海外であったために、
出席されておられた先生が私に代わって受け取っていただきました。
「ギャラリー・間」、私の個展開催も先生が監修者でもありました。
しかし、先生からも喧嘩師を自称する私には
時折、論理背景づけでは叱責されることもあります。
この二冊の著作は確実に「物」と「空間」に喜怒哀楽「美しさ」がある、
この一文を持ってしても私はまだまだ鍛えられることがあると自省します。
おそらく、言語空間自体の使い方を再度自問させらる内容であったことです。
また先生は母校・金沢美術工芸大学・大学院スタート時に大学院教授でした。
よって、民藝という正確な表記とともにアノニマスの功罪論がありました。
かつて、SD誌に「カタストロフィー」のデザイン論が掲載されていて、
当時美大生であった私は「カタストロフィーがデザインに与える影響」が、
見事に美しいイラストレーションとともに掲載され、
そこから、私は先生の「物」を「モノ」と表現すると共に、
理論と存在が、私の中で醸成されたいったのだと思っています。
今般の出版はすべからくアジア人としてデザイン要因が8つ、
そして72の文章ゆえ、根本に九つの金剛界曼荼羅が、
明確に私たちデザイナーはイメージを要求されていると読み取りました。
おそらく、これからの私なりのモノから空間は、
先生からの提示である空間と物との「逆説」ゆえに生まれる「美しさ」を
私も生涯かけて取り組むことを指示された想いで一杯になりました。

#「野生の衝動」
#「PARADOX

* 『正しいデザイン手法としてのオマージュを熟知せよ』
* 『「場のちから」の「ば」と「ち」にあるデザイン』
* 『光陰へはただ祈るだけだと思い想っています
* 『アライアンスとして語るべきアンビエント』
* 「わが日常の仏様と幸と合掌と」


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『先輩は77歳での出版、恩師88歳の喜寿の会企画』


   


     6月 25th, 2017  Posted 12:00 AM



一昨日は、日本中が元アナウンサー、
その彼女の逝去に人間の悲哀と夫・歌舞伎役者の言葉を受け止めました。
その日、金沢美術工芸大学の工業デザイン専攻の先輩と後輩たちで、
同窓会と先輩77歳記念の「野次喜多本・喜多謙一の出会い百景」完成と、
恩師である平野拓夫先生88歳お祝いの会企画、打ち合わせをしました。
金沢美大の工業デザインは日本の工業製品、
車から精密機械、家電に至るまでを最も美しくデザインしてきました。
日本で最も小さな公立大学ですが、私たちの世代の先輩・後輩関係は、
それこそ、恩師の厳しいデザイナー訓練を受けた関係は伝統的な絆です。
おそらく、FBでのネットワーク充実ぶりも国内では最高の関係でしょう。
先輩である喜多健一氏は元ブラザーのデザイン部長であり、
私の先輩としては10歳年上ですが、
名古屋時代もお世話になり、さることながら77歳にて出版もされました。
私もその本で紹介もされましたが、
常に先輩の指示には何をおいても後輩自覚とデザイナー技能自信、
そして、日本の工業デザイン界ではトップ意識と誇りを守ってきました。
しかし、残念ながら現在の金沢美大にこの伝統があるかというと、
私見では、「すでに美大でのデザイナー育成は終わっている」のです。
現代の工業デザインはカーデザイナーを志望しながらも免許が無いとか、
他美大では、平然とした盗作も多くてやがてこれは国際問題かも心配、
私は未だに大学人であるとともに現役のデザイナーとして、
恩師達と先輩達にはこの伝統を遵守しています。
かねてより喜多先輩の人的交流の大きさは知っていましたが、
帯文が宝塚出身タレント遼河はるひ女史であり、
それこそ歌手の松田聖子さんの結婚式にまで出席されていたのでした。
空手部の先輩でもあり喧嘩早い私を何かにつけても私の支援者でした。
そして日本に最初のデザインを戦後最初の国費留学生、平野先生88歳、
喜寿の会を先輩の提案を支える一人になりました。
金沢美大、先輩と後輩そして伝統的な日本で最高だったデザイン教育を
改めて先輩の「喜多謙一の出会い百景」で学び直した一日でした。
恩師平野先生から、私は日本デザイン界の様々を引き継いでいます。
それも喜多先輩たちや後輩たちからの支援あってのことです。

#「野次喜多本・喜多謙一の出会い百景」
株式会社ギャラリーステーション
ISBN978-4-86047-265-8


* 「最も小さな公立大学・金沢美術工芸大学70周年」
* 『開学70周年「金の美」展の自分デザイン作品展示』
* 『工業デザイン教育での「手」のトレーニング』
* 『金沢美大には伝統的なアノニマスデザインがあった!』
* 「司法最高権威のインテリア=恩師の作品」
* 「誤解されたデザイン=デザインは意匠とともに問題解決」


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『藤原行成の書体との出会いは先生からの指示だった』


   


     9月 4th, 2016  Posted 12:00 AM



車イスの身体になり、
父からの要望と、すでに東京で体調が最悪で、
福井にUターンしました。 一年ほどの療養から、
自分は福井県下の伝統工芸にインダストリアルデザイン、
その導入を目指している時に、美大の教授であった故・小松芳光先生と
偶然にお目にかかりました。その時に、先生に質問をしました。
「先生、伝統工芸にデザイン導入をしたいのですが?」、
「それなら、君は古今和歌集と新古今和歌集から
もう一度マルセルデュシャンまでをやり直しなさい」と指示を受け、
(古今和歌集?新古今?マルセルデュシャン?)
(何だ?それ?)でしたが、
「素焼きで杯をつくるだろう、それを割ると破片が出来る」
(んーーー?)「まさに、マルセルデュシャンだね」(?)
「その破片に漆を塗って、それを硯にして書をしたためる」
このような指示を受け、ともかく古今集、新古今から
後拾遺和歌集に出逢ったのです。
その残されていた書の文字は判読が出来て「美しい書体」でした。
それが自分で探していた書体で藤原行成でした。
彼の書体では、ウ冠、辶、氵、にんべん、扌、などの書体に
自分はこれを臨書したいと思っています。
藤原行政が生きた時代は平安時代であり、そんな時期の書体を
「美しい」と感じ取ることができるというのは、
まず、これを感得出来る幸運さと
書体部位に潜んでいる漢字形態=漢字部位の美しさを
自分デザインの部位、「寸は尺よりも長し」を生涯携える
表現者として、大切に大事にしたいと思っています。
小松芳光先生からの指示が今では自分に染み渡っています。



* 『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』
* 『伝統工芸産地を補助金漬けから開放し法律の改正が必要』
* 「生涯最も使うアルファベット『K』」
* 「ヘルベチカは文字の結論になっている」
* 「六古窯・越前焼ー若い才能が復元から再興を始めだした」


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『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』


   


     6月 7th, 2016  Posted 12:00 AM



次世代デザインを提示していくのは、現在デザイナーの使命です。
しかし、現実には、デザイン系大学のほとんどの教員は、
自分のデザイン経験だけを教示しています。
それはデザインの根本に大きな間違いがあるのです。
「デザインとは何か?」を自分の経験だけで、しかも成功体験があれば、
それこそ「何がデザインになるか?」ということには
接近できないからです。
「コンシリエンスデザイン」を提案しています。
その原語はすでに死語化していますが、
探り出したsilienceについて、ここに書きとどめることから
改めて思考の深度に近づいてみます。
silienceとは、
人間には日常、その思考に深さがあることには気づかないことがあります。
たとえば、気づかされることもなく、褒められることも無いけれども、
時には感心せざるをえない熟考された確実で正当な考え方があるものです。
それは、通りすがりなのに饒舌に語られている批判とか、
大道芸でありながらも感心せざるをえない名も無き芸人の大技、
あるいは無名だけれどもすぐれた芸術的な才能に
はっとするようなことです。
これはまったく匿名的で、誰かに賞賛を浴びるものではないにしても、
いわゆる市井に潜んでいる知恵・知識として
見過ごすことができないのです。
silienceということばに近いほど、
沈黙の中に閉じ込められているということです。
こうした、決して光り輝きを自らが発するわけではない、
日常的、匿名的、無名性の中でも、知恵の集合体をあえて掘り出して、
なおかつ、こうしたことを「結合させる」ことは、
konvinationと言ったシュンペンターに繋がっています。
これが新結合=innovationであったことに極めて近い発想論理です。
silienceが結合することは、
隠れた知恵・知識がconsilienceだということです。
デザインが匿名性=アノニマスで支持されたことを再復活させることです。

*『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』
*『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』
*『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
*『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』
*『リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う』


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『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


   


     4月 16th, 2016  Posted 12:00 AM



「Inclusive Design」があたかもユニバーサルデザインや
バリアフリーデザインとの明確な差異があると言われています。
これらはこれまで以上のコンセプトとして次世代デザインとなってます。
InclusiveにはExclusiveが対極しているために、
排他的なデザインということがこのデザインの論理背景になっています。
が、これほど根本的な論理性を逸脱したデザイン解釈は大間違いです。
理由は二つあります。
まず、電子工学的なXOR回路を考えれば、Inclusiveとはどういう回路?
もう一つはInclusiveとExclusiveは人称関係という正確な言語論理です。
つまり、一人称のデザイン=私だけのデザイン、
二人称=配偶者、恋人、身内や友人の対面する貴女のデザイン、
そして、彼、彼女、彼ら、彼女らという三人称のデザインが
言語学の人称としてインクルーシブ性があるということです。
一人称・二人称ははっきりと対面しますから、
デザインしたモノ・コトについて直接的な対話が可能です。
ところが、三人称で対面出来ない彼らは
すでにエクスクルーシブ性が含まれてしまいます。
つまり、エクスクルーシブ性とは、対話・メッセージ性が
排除されたグルーブ全体を指示しています。
したがって、インクルーシブ性という排他性を無くすという論理、
それはすでに成り立っていないということです。
もっと、明言すればデザインには、
インクルーシブ性は人称デザインとして
まず自分のため、そして、
その評価をあなたにというインクルーシブ性があり、
第三者には排斥してきた老人や障がい者も対象とすることは
デザインの進歩が語れるに過ぎないだけのことです。


*『ケータイの人称会話からのオントロジー』
*『Inclusive Designの定義に向かって』
*『一人称・二人称がInclusiveの基本定義』
*『つつましさによるインクルーシブデザインへ』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』


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『象と蟻、その表現法はまったく変わってしまった』


   


     8月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM



「ガリヴァー旅行記」を書いたジョナサン・スウィフト、
彼の書いた言葉に、
「象は実物より小さく描かれ、蟻は実物より大きく画かれる」という
的確な指摘があります。
なるほど、この写真も象は実物より小さく蟻は実物より大きいのです。
美大時代も、精密な鉛筆デッサンの訓練は、ほぼ実寸、
もしくは1.1倍で描かされたものです。
プロのデザイナーになってからは、小さなモノの図面は5倍図で、
できる限りモックアップモデルは実物大で制作してきました。
現在もモデルは実物大です。
デザインするモノは実物大を守っています。
しかし建築は縮小モデルが当たり前になっています。
絨毯などの下図は実物大であり、スウィフトの指摘は文明で
人間が人工化していくときに、人間という大きさから、
人工物の設計表現のあり方を指示していることを認識すべきです。
図面作成では二つの発見を書き残す必要があると私は考えています。
かつて私の祖先は、宮大工図面は縮小図であっても、発想のままに
用紙を継ぎ足して描いていました。
それは設計の想像力が用紙の大きさに囚われない考え方でした。
またCADシステムでは、それこそどんなに大きな建造物であっても、
拡大と縮小は自由自在になっていることです。
今、私は設計=デザインは、実物をコンピューター画面の中では
自由自在であり、3D-CADであれば、自在に描くことができれば、
それは今では3Dプリンティングや光造形で自在に実物の拡大化も縮小化も
極めて簡単になっているということです。
頭蓋骨を光造形で制作したときに2倍の大きさで制作して、
それを見た瞬間に、あらたな想像力を刺激されました。
また、同様にマイクロ光造形では、血小板サイズのロボット化も
可能になっています。
すなわち、私たちはコンピューター・デジタル設計で、
象は実物大以上が制作可能となり、蟻はマイクロ光造形まで
設計=デザインとモックアップモデルが可能になっていることです。


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