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Posts Tagged ‘携帯電話’


「モンテカルロ、そして車載携帯電話もあったカマロ」


   


     9月 13th, 2017  Posted 12:00 AM



モンザで私の行動範囲はとても広がりました。
ともかく、もうマンションも入院と共に引き払っていた私は、
懸命に退院を誰よりも早くとだけ考えてリハビリテーションに励みました。
基本になったのは、チーフが東芝の玉川工場(医療機器専門)図書館で、
見つけ出してくれた分厚い本でした。
米国でベトナム戦争傷病兵、
その中で車椅子になってしまった人のための訓練でした。
その、日本のリハ訓練の半分で退院出来るというプログラムに、
この病院のリハ訓練日程を半分にして取り組んだことです。
素早くステップを踏んでいる私は車椅子障害者から苛めを受けました。
これはいずれ書き残したいと思っています。
ともかく赤坂にデザインスタジオを持ち、車もモンザよりもっとというので、
シボレー・モンテカルロにしましたが、
余りのロングノーズで、赤坂の小路の坂では上りでは先が見えないこと。
3ヶ月ですでに車椅子対応に改善したにも関わらず、
シボレー・カマロ・ベルリネッタにしました。
これには、車載用の携帯電話をほとんど最初に取り付けたぐらいです。
これも最初は国会議員だけというのを言いがかりの論理で取り付け。
時には交番前歩道に乗り上げてここに電話してとかやらなくなるのですから、
こんな理由を一杯並べて担当者は私が三日通ったらOKでした。
この車載携帯電話だと、上手いラーメン屋に出かけて、電話で店の前とか、
最初は仰天されますが、電話をして食べ回ったこともあります。
当時はどうせ40になったら、寿命はなくなるのだからという荒技行動でした。
しかし、結局、このカマロで 56豪雪前夜に福井にUターンしました。
福井から東京には、このカマロをかなりの速度で乗り回していたのですが、
私には運転することをやめさせようという周囲の声で、
私はこれまた、New Yorkで見かけた美しいボルボのステーションワゴンには
専門の運転手付きで乗ることになるのです。
ともかく、北陸自動車道はとても運転が楽しい高速道路であり、
福井県内の伝統工芸の産地から若狭地方の原電も見て回り、
これは危険な建物と直感したぐらいです。
いつもこのカマロは、とても力強い車だったと思います。
カマロは11年間、マイナーチェンジが無い車でした。



* 「私の小さなふるさと・福井県」
* 『思い出の38豪雪と56豪雪、雪と対決してきた我が人生』
* 「車イスは器械だから、『自力』の身体化は必然訓練」
* 「慈愛は慈善には決してつながらず」
* 『モノに無頓着であってはならない!』


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『モノに無頓着であってはならない!』


   


     10月 31st, 2014  Posted 12:00 AM



iPhone6 Plusがあれば、もうそれでいいのかもしれない。
そんなことを自分の生涯にいくたびも納得をつけてきたようです。
いわゆる携帯電話が車載用になったときから、
車倚子の私は、いち早くほぼ国会議員の人が車載用からのように
使い始めてきました。
私は職能的にも、モノ(人工的な物)を多分詳細に自分用に、
拘り続けてきたと思います。それはなるべく自分用は、
自分のデザインでと考えてそれを職業の対象にしてきました。
なんといっても、時計、メガネ、万年筆、そして今ではiPhoneです。
したがって、この周辺もこれでなくてはならないという不文律が
私には明確にあります。
それこそ、今やケータイもはっきりいえば、2機種しかありません。
それほど、実際のダンディズムにはモノを身体化する意味ありです。
大きな理由があります。
「大物主の命」と「事代主の命」に日本人は従うべきです。
結果、身に付ける特にモノは決定されているのです。
この手帳をみれば、おそらく、人類が最も「手帳」の最高は、
いわばこのブランドに決まってきます。
万年筆って、最高のモノと尋ねれば、それが2500万円のモノもある、
ということまではほとんど知られていません。
これはローラーボールペンですが現在、最高のモノづくり成果です。
したがって、いわゆるファッション雑誌を見ていても、
なんとセンスの無いモノ選び雑誌は、必ず、消滅していきます。
まして、スマホとなれば、何を選別して使っているかは、
その人物の存在性=価値感を表していることになります。
私は尋ねられればそのモノを選んでは本当は間違いですと言いますが
最も身近にするモノを見れば、その人物の生き様は、
自ずと、「大物主の命」と、会話不能の知性を知ってしまいます。
とりわけ、現代ツールであるスマホは、
「事代主の命」の伝統と対峙していなければならないのです。
したがって、商業主義としての商品ともなれば、
その商品供給、その企業家のダンディズムの品性は明らかです。
恥ずかしくもなく、よくこんなモノを商品にしてまでも
儲けたいのか、とか思うと、殴ってやりたくなるものです。


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『ヘッドセットの地道な進化は継続するだろうか』


   


     5月 30th, 2014  Posted 12:00 AM



携帯電話が国内に登場した時、ちょうど私は赤坂で、
フリーランスのデザイナーになり車椅子ながら外車で遊んでいました。
そして、車載用電話の最初のユーザーになったと思います。
以後、ショルダータイプの携帯電話となり、
携帯電話のデザインにも2年程取り組みました。
が、国内の電話会社の時代遅れと喧嘩を繰り返してその仕事は、
いつもごとく無くなりました。けれども、
MOTOROLAなど海外企業の進化を徹底的に観ていました。
そして、iPhone直前にBlack Berryが登場したときに、
あの携帯に附属したかのようにヘッドセットが出てきました。
私はヘッドセットはほとんど実使用しながら収集もして、
性能評価をデザイナーとして評価を積み重ねてきました。
この連関性から、ヘッドホンとヘッドセット、
それにはイヤホンのあり方を使用し観てきたと思っています。
おそらく、人間の耳孔のかたちは全てが違うのでしょう。
まだ、まったく最適なヘッドセットはありません。
しかし、性能の進化とともに、
モバイルのアプリでの補完が進化してきているようですが、
ヘッドセットの効用性そのものが欠落しているようです。
ともかく、Hi-Fi性は全く叶っていませんが、
ヘッドセットとそのアプリケーションは地味に進化はしています。
私はあくまでもデジタルガジェットによって、
モバイル系は、その便利さがインターラクションデザインの
明らかな一つの分野になるものと判断しています。
その確かな根拠は一つだけあります。
それは、ヘッドセット企業が、ベンチャー企業として、
様々なデジタルガジェット企業として進歩していきています。
残念ながら、わが国にはこうした起業要素がありながら、
デジタルガジェットから、本来のデジタル起業家はまだ居ません。


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「スタートレックという未来考古学のメディア」


   


     9月 14th, 2012  Posted 12:00 AM



「スタートレック」は1969年の月面着陸が一つのイベントです。
しかし、このストーリーは、
そのまま20世紀から31世紀までの歴史を遡及することにあります。
ストーリーは1944年からスタートしシリーズ構成されていて、
この熱狂的ファンをトレッキーと呼んでいます。
そのトレッキーにとって、シンボルが「コミュニケーター」であり、
これが現代の携帯電話の原型・アーキタイプと言っていいでしょう。
私は、携帯電話のデザインにも取り組んできましたが、
最終的なモックアップモデルは、ソニーに向けてデザイン開発しました。
ある時期にはドコモで、「ドコモスタンダード」という
人間工学関連のマニュアル開発を一年やりました。
そしてFOMAの登場を見越してデザイン開発をしましたが、
当時のドコモトップたちにあきれ果てプレゼンを会議途中で放棄しました。
彼らは激怒していたようですが、
案の上、彼らが「ガラパゴス化」したのです。
以後、ソニーからの特別依頼でケータイをデザインしました。
その直後にスマートフォンが登場しましたが、
私には未だに不満が残っています。
なぜなら、「スタートレック・コミュニケーター」、
この示唆していた夢は未だに開発されていません。
これは「コミュニケーター」のガジェットに過ぎませんが、
まさに、20世紀から31世紀まで、
そのエピソードが集中している26世紀を挟んで、
すべて考古学的な視点、つまり、私はこれを未来考古学、
その編年体の中に存在するツールやメディアにこそ、
人類の夢、
人類のとめどない想像力がいっぱい存在していると思っています。
だから、コミュニケーター➡スマートホン➡ケータイを遡及する、
真摯な態度がデザイナーには必要だと考えています。
iPhoneアプリで、このガジェットそのままがありますが、
デザイナーはここからも大きなヒントを得るはずです。
サムソンとアップルの訴訟問題も、
ここから傍観すると実に想像力にとってはつまらない問題です。


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『資本主義からの逃走』
「イノベーションの錯乱作用」


   


     8月 15th, 2010  Posted 1:26 AM

「社会階級論」
コンピュータ、特にパソコンが登場した頃には、
「電脳」と中国風な呼び方がありました。
電子端末機やケータイ、今や、ガラケー(わが国の孤立している携帯電話)、
そして電子出版などは、イノベーションだろうか、となげかけつつ、
私は「イノベーションにあらず」と断言しています。
まずは、イノベーション=技術革新という日本の基本的な認識違いを指摘しています。
つまり、イノベーションを提示したシュンペンター・「社会階級論」1927年には、
次の裁決が予知されています。
「暫時的な経済には、
 社会主義的な管理体系の可能性が準備され、
 個人的な企業能力者の無用による
 ブルジョア階級の衰退が予想できる。
  そして、
 資本主義文明は崩壊する」

とまで予知断言されているのです。
1929年の大恐慌を、彼の予言はあまりにも見事に的中させました。
そして連綿とくすぶってきた資本主義文明の脆弱さは、
まさに現在の日本そのもののように思えるのです。
景気・価値・モノ・制度に対する「革新」が及ぼす錯乱作用の結果だと考えます。
資本主義文明は、「技術革新」の結果が電脳から電子出版へのあたかも進化だったと考えても、
この文明の結果は崩壊ということになります。
私はわが国自身がすでに崩壊していることに気づかず、
まだまだ資本主義そのものへの諦観が「逃走」と言い続けているのです。
無論、私は電脳が大好きであり、電脳による価値・制度・モノの革新は確信しています。
しかし、景気への錯乱作用はまったく資本主義至上主義者には予測不可能となっています。
ここが最大の問題であり、とりわけ、わが国はまず「政治的」な錯乱から逃走ができないのです。
私は電脳を花とすれば、道元の示唆に重なります。
愛着・棄嫌
『花(=電脳)愛着に散り、
草(=これが何かですが)棄嫌におふるのみなり』 だとさえ思っています。


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『資本主義からの逃走』
「ケータイはツールか、メディアか、
     それは使用者・所有者の人格が決定している」


   


     3月 18th, 2010  Posted 9:39 AM

Tool or Media
私はモノのデザインをしています。
モノを所有する、使用する、いづれもユーザーと呼びます。
たとえば、ポルシェという憧れの車があります。
ポルシェを所有している人は、
その人自身は、「使用観」だけで所有しているかもしれません。
これは、ポルシェが「ツール=移動する手段具」です。
しかし、いつかはあの車を「所有」したいという人にとっては、
ポルシェは「メディア=移動具よりも顕示性表現の媒体」です。
モノへの所有観を自己表現するとき、
そのモノは「メディア」になります。
しかし、
モノへの使用観をあるいは使用感覚を軸にする人にとって、
そのモノは「ツール」です。
もっともモノが、「ツールでありメディア」になるのは、
モノの「存在性」=オントロジーになっていくと思います。
私は、きわめて「所有観・所有感」にこだわっています。
それは、自分が選んで所有していることは、告白すれば、
モノで、自分の存在性をも強く演出していることです。
たとえば、
モノへのこだわり感覚は、「所有してなおかつ使用感覚」が、
「望ましくて、好ましい」=価値観が私的であってほしいのです。
私は、これまで携帯電話が自動車用からスタートしたときから、
この感覚を、自分に差し戻して、
自分とケータイとを、「ツール」なのか、「メディア」なのか、
徹底的に考え抜いてきました。
Mobile Phone as Media
結果、
明らかに、「ケータイ」は、「メディア」なのです。
無論ツールとしての機能と性能は最高であってほしいのです。
残念ながら、私自身が「私のために」社会システム、
すなわち、生産システムから流通システムに載せて、
「製品化」から「商品」にしたモノは皆無です。
とりわけ、デザイナーにはそのことを徹底して、
自問自答してほしいのです。
結論は、モノ、たとえばケータイ、
その「ツール」であるのか「メディア」であるのかは、
ユーザーの人格の投影であることは間違いありません。
ちなみに、現在、私が愛用しているのは、
いづれもホワイト色のiPhoneとBlack berryで、
メガネテンプルのカラー毎に合わせた、
それぞれカラーのHeadsetです。


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『資本主義からの逃走』
 「e-JAPAN、常に失敗する政治政策だから・・・・7」


   


     1月 14th, 2010  Posted 1:00 AM



e-JAPAN から i-Japan


すでにデジタル社会になった時から、
たとえば、Junetがすでに動き出した時にも、
わが国の政治は無関心でした。
その後、私はほとんどのパソコンからスパコンまで、
当時の政治が何を重要視し、
「遅れながらも追随」しようとしたか知っています。
中でも「出来るかも」と思ったのは、「Σ-Project」、
そして「e-JAPAN」がありましたが、
これはもうネーミングで大きな間違いがありました。
すでに、i-Macが、ある種のブームになっていました。
つまり、「e-冠詞」の時代から「i-冠詞」へと、
時代は志向して、社会は「i-冠詞」を希求する、
ということが見え始めていました。
「i-Article」の時代と社会がwebになっていたのです。
すなわちi=虚数=imaginary numberのように、
難しい表現では「フェーザ表示」が起動したのです。
私は、「i-冠詞」=虚数というバーチャル語彙表示、
だと言いたいのです。
だから、「i-Japan」構想が不可欠だったのです。
「e-JAPAN」から、日本の携帯電話、
その技術は「世界から取り残されました」。
ちょうどDoCoMoがFOMAを世界基準にという、
そんな企画に、私も参画したことがありました。
私の発想は、多分、理解されなかったのでしょうが、
プレゼンテーション中断し、その仕事を放棄しました。
以後、ケータイは日本だけの「特殊な文化」に育成。


政治ー産業ー消費ー制度ー風俗


私は、それはそれでいいと思っていますが、
私自身は、政治ー産業ー消費ー制度ー風俗を傍観です。
結局、もはや日本では、「スマートフォン」さえ、
技術開発とデザインは不可能産業になっています。
その発端は、政治政策「e-JAPAN」のかけ声だ!
と思っています。


e から i


なぜ「eからi」だったのかは、重大な課題です。


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12月25日Staff Blog


   


     12月 25th, 2009  Posted 7:13 PM

12月25日

X’mas に心変わり?!な
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)
BlackBerryなのにのWhiteのBB入手。

今、携帯電話と言えるモノが、
世界基準な携帯電話は、
iPhoneと、BlackBerryだけです。
世界のビジネスの現場では、
これ以外は時代から残された感じです。
BOSS(川崎和男)は、
二つを使い分けるとか、言ってます。
ある高名なBOSSが敬愛する先生が
使い分けておられて、
すっかり感心したからでしょう。
すぐに、自分で試す!
という性格ですからね。

091225blackberry


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