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Posts Tagged ‘政治’


11月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 5th, 2011  Posted 9:30 AM

11月5日 甲子(先勝)

政治というのは、
まさしく巨大な
問題の連峰のようなものだ。
その連峰のすそ野に
社会問題が次々と
起ってくる。

それが起るタイミングが
時代の潮流と結託するから、
さらに難しくなるわけだ。

『デザインの極道論』むずかしい


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『資本主義からの逃走』
   「祭に感じる感性への道程」


   


     6月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

この文字は、「肉を手で持ち上げて、神に捧げている」とのことです。
肉を神様に、ということになれば、
清水をかけ、塩をかけ、お酒をかけて、丁寧に清めます。

そして、この文字は宀=うかんむりがありますから、
屋内に清められた肉が神様に捧げられていることになります。
意味の拡大が起こります。
屋内の隅々まで清めるがごとくに、検分し検証し、
清められているかどうかを綿密に確認することになります。
洞察・考察・観察、そして警察や検察にまで至っています。
「察する」というのは、
客観的であると同時に、清められているかという感性的な認識だと考えます。
そして、「気持ちを察する」というのは「思いやり」にまでつながっています。
さて、もう一度、「祭」にもどれば、
祭は、「感檄」し、
「感動」させることに満ちあふれていなければならないということにもなります。
私は、祭には、
祈りや願いが叶えられたことへの「感謝」を示す儀式=イベント性があります。
神への「察し」=思いやり=感謝のサイクルがここにも明確に表れています。

そうなると、私たちは常識的に、
「祭り」=「政(まつりごと)」だということは熟知しています。
果たして、
「政」が、「政治」は、社会の隅々まで「察して」くれているのだろうか、ということです。
私は、デザインという営為は、ユーザーの使い勝手を「察する」ことが基本です。
私が、政治が忘却していることがデザインにある、
と指摘を繰り返すのは「感性」={感檄・感動・感謝}が備わっているからです。


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5月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:47 PM

5月31日 先負(辛巳)

政治とは、理想主義を現実化する、
まさしくデザイン的行動である。

デザイン的行動には倫理観は必需である。

『プラトンのオルゴール』
統合化していくデザインの意味


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1月14日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 14th, 2010  Posted 9:00 AM

1月14日 仏滅(甲子 )

世界が、
それこそ環境も政治も社会現象も
経済事情も不整脈に陥っている。

なんとかして、
社会にガンビットを
施さなければならない。

一度機能を弱体化しておき、
万全の機能にまで高めていく
というやり方だ。

『デザインの極道論』あつい


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『資本主義からの逃走』
 「e-JAPAN、常に失敗する政治政策だから・・・・7」


   


     1月 14th, 2010  Posted 1:00 AM

e-JAPAN から i-Japan

すでにデジタル社会になった時から、
たとえば、Junetがすでに動き出した時にも、
わが国の政治は無関心でした。
その後、私はほとんどのパソコンからスパコンまで、
当時の政治が何を重要視し、
「遅れながらも追随」しようとしたか知っています。
中でも「出来るかも」と思ったのは、「Σ-Project」、
そして「e-JAPAN」がありましたが、
これはもうネーミングで大きな間違いがありました。
すでに、i-Macが、ある種のブームになっていました。
つまり、「e-冠詞」の時代から「i-冠詞」へと、
時代は志向して、社会は「i-冠詞」を希求する、
ということが見え始めていました。
「i-Article」の時代と社会がwebになっていたのです。
すなわちi=虚数=imaginary numberのように、
難しい表現では「フェーザ表示」が起動したのです。
私は、「i-冠詞」=虚数というバーチャル語彙表示、
だと言いたいのです。
だから、「i-Japan」構想が不可欠だったのです。
「e-JAPAN」から、日本の携帯電話、
その技術は「世界から取り残されました」。
ちょうどDoCoMoがFOMAを世界基準にという、
そんな企画に、私も参画したことがありました。
私の発想は、多分、理解されなかったのでしょうが、
プレゼンテーション中断し、その仕事を放棄しました。
以後、ケータイは日本だけの「特殊な文化」に育成。

政治ー産業ー消費ー制度ー風俗

私は、それはそれでいいと思っていますが、
私自身は、政治ー産業ー消費ー制度ー風俗を傍観です。
結局、もはや日本では、「スマートフォン」さえ、
技術開発とデザインは不可能産業になっています。
その発端は、政治政策「e-JAPAN」のかけ声だ!
と思っています。

e から i

なぜ「eからi」だったのかは、重大な課題です。


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『資本主義からの逃走』  
*「政権交代は静かな革命だが、
   バランスを崩しつつあるかも・・・」*


   


     12月 29th, 2009  Posted 9:00 AM

日本の政権交代が「静・革命」であってほしいのです。
私はこのことを一市民・一国民として願っています。
しかし、どうみても政治方向の選択は、
革新でもなければ、無論、保守でもありません。
「バランス感覚を失ったまま、社会主義的な政治決定」が
進行しているように思えてなりません。

そして、
そうした傾向に対して、あらゆる専門的な職能も、
大学人もまったく発言もしないのです。
その状況が私は怖いし、
インテリ階層の無責任さを感じます。
あらゆる意味で人間存在への思索において、
バランス感覚を失っているのかもしれないと思います。

四季感覚

日本には、「四季感覚」があります。
「四季感覚」は、
日本人のバランス感覚を育んでくれたのです。
私は北陸生まれなので、冬になれば、「雪」景色が、
ほとんど私の遺伝子から肉体にあると思います。

教え子が訪ねてくれます。
ほとんどが、インハウス(企業内)デザイナーです。
必死に担当分野に取り組んでいます。
彼らの将来を、この国の政治に任せていいのだろうか?
とさえ、思えるのです。
GDPに対して192%の借金国家となっている日本、
とてもあやふやな政治指導、
指導力無能さを国民は断罪もできないのです。
そして、デザイン界での出来事を
若いデザイナーは勘違いをしています。
いい加減になってきた「デザイン制度」は
見限って見ているようです。
さて、教え子のどれだけが、
日本のデザインを牽引していってくれるのでしょうか?

そのためにやはり「理想主義」に政権交代がバランスを
取ってほしいと願わずにはいられません。
私は、このまま「過激さ」を失わずに、
2010年を迎えたいと思っています。

なぜなら、教え子たちの未来、日本の未来で、
彼らの「デザイン」が実現して、
「豊かな国家」
それは、決して「社会主義的な国家」ではありません。
社会主義の過ちは、20世紀末に確認したはずです。


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『資本主義からの逃走』
  「政教一体と政教分離は民主主義とは無縁」


   


     12月 5th, 2009  Posted 7:54 PM

戦後の日本は、
金科玉条のごとく「政教分離を遵守」してきました。
その意味と意義、機能性と効能性はあったのでしょうか。
私は、まったく無かったと思ってきました。
政教分離を唱えつつも、
 ● 宗教団体をバックにした政党もあり、
 ● 仏教も神道もすべからく飲み込んできた政党と
 ● 宗教排撃ごとき思想によりそっている政党も存在します。
したがって、こうした玉石混淆の政教に関する論理は、
「全く社会的効能性は無かった」ものと考えるべきでしょう。

すなわち、
私は、政教一体であろうが、政教分離であろうが、
そこに公然と唱えられてきた民主主義は、
いわば先進的な資本主義国家体制の共同謀議にすぎません。
ここから、先の私の思想はペンを止めることにします。
なぜなら、
私のペンが私自身を社会的に抹殺、自死へ誘うと思うからです。

私が注目し、
「宗教」を洞察してきた対象の「宗教」は2つあります。
「禅宗」と「シェーカー教」です。

□「禅宗」は、私のふるさと福井であり、
その総本山である「永平寺」です。
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なんとも私の育った環境に大きな影響があったからです。

もうひとつは、
 □「シェーカー教」です。
ボストン郊外に何度か訪ねました。
実際にはすでに観光地化していました。
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それは、「家具」であり「車椅子デザインのためでした。
しかし、「シェーカー教」の教義とその実践である
共同生活、手仕事、労働への敬虔さ、
そのデザインに心奪われました。

そして、
この二つの「宗教哲学」とその「実践」に、
まったく、民主主義は皆無だということがわかりました。
そこから、「いのち」を支えうる「宗教」と「政治」は、
その人間個々の「いのち」の系譜は完全に断絶します。
宗教での「死生観」は、
「政治」どころではない思想が、連綿と連鎖し、
そして、「生きる人格」を決定づけています。
この断絶を受け入れられる強固な「生涯」を
私は選択しました。
結果、
私は民主主義は無効だということを認識しました。
  もっとおおらかで、
  もっと高潔で
  もっと品格のある
「集団的な意志決定=生き様」があります。
私はそれを分別しています。
だから資本主義を静観し、
決して巻き込まれない「生き方」を
デザインに配置したのです。


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『資本主義からの逃走』
 「現代アートの象徴性からデザインでの創生へ」


   


     10月 28th, 2009  Posted 10:38 PM

資本主義の崩壊は、1927年に「予見」されています。
それは、「大恐慌」の2年前のことです。
それから20世紀の戦乱となり、冷戦につながりました。
共産主義・社会主義・資本主義・民主主義という
理念の崩壊は、1970年代からだと私は思っています。
なぜなら、時代変革の「予見」は、経済学・哲学などよりも、
「現代アート」にもっもと端的に、象徴されているから、
感覚、感性で「予見」の正当さを理解できてしまうのです。

その「予見成立」の理由は、単純明快にまとめられます。
ひとつ、「南北問題」、とてもなつかしい言葉です。
ひとつは、「宇宙船地球号」。
もうひとつが、「コンピュータ」です。
ともかくこの三つを置き換えると、

● 先進国と途上国の貧富格差とあらたな民族紛争。
● 地球環境問題、温暖化やCO2やサスティナビリティ。
● パソコンとインターネットでの情報意識社会化。

ということになるでしょう。
二つの現代アートが象徴しています。
まず、地球を象徴化した作品と、
tomas-saraceno・Universes in Universe : Tomas Saraceno

人間の生命を象徴化した作品です。
rafael-lozano-hemmer・Pulse room : Rafael Lozano-Hemmer

地球は、まさしくwebsite=蜘蛛の巣のように、
情報に包み込まれているのです。
包まれているのではなくて、
「包み込まれている」ことにこそ、
時代認識の象徴がある。
その時代認識は、
資本主義と民主主義に包まれているのか、
「包み込まれている」のかということは、
大きな差異があるということになります。

そして、
もう一つの、観客である人間の生命をそのまま、
脈拍を電灯の点滅で具体的に感じ取らせつつ、
空間、それは地球でしょう。
そこでの「自己の存在性」を再認識させる作品です。
私は、この二つの現代アートに具現化されている
「包み込まれている」という認識は、
ただただ、それこそ、Bottom of the Pyramidの
トップゾーンの1億人だけが、現代文化として、
平和に、いや平然と受け入れることが可能です。

結局、
「地球に存在、生きているすべて」の人々が、
認識=包み込まれているわけではありませんから、
そこに、資本主義って?、民主主義って?ということ。

「包み込まれているすべて70億人の認識」には、
決してならないとするなら、
Bottom of the Pyramidの根本や基盤や理念は、
再創生されるべきではないかと私は思います。

私は現代アートの象徴性を読み取りながら、
再創生のデザインがあるべきだと考えているのです。
しかし、哀しいかな、現代アートが示しているのを、
理解し、さらに「予見」できるのは、
トップゾーン1億人の中の、一握りの人たちだけです。


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『資本主義からの逃走』
 「観念論の構造と感覚論の機能」


   


     10月 16th, 2009  Posted 7:00 AM

「観念」と「感覚」の構造と機能が
イデオロギーの四句分別になっています。

ideology2

「観念」が主義主張されるとなれば、
その構造には、
「神話性」や「政治性」が備わるものです。

主義主張する人物には、
決まって、「カリスマ性」が生まれやすくなります。
その「カリスマ性」が
神話性のシステムを自然と引き込むものです。
それが、感覚的に機能を発揮すると、
イデオロギーは、共有感覚をともなって、
連帯意識を強化するものになります。

また、神話性を打ち消しつつ、
その主義主張がある種の支配構造を生み出します。
これが、「政治的な体系」、
すわわち支配システムとして機能を持ち始めます。
この政治的なシステムは、
制度性すら装置化して、
「拘束的な機能」になることがあります。

ともかく、神話性のシステムは、
連帯感覚を強化する働きがあり、
政治的あるいは制度化ということにまで至れば、
「拘束性」という不自由さを与える装置になるわけです。

「構造」、つまり関係性をシステムと化すのは、
「神話性」と「政治性」を、資本主義は全否定しました。
この全否定から、「民主主義」が派生したのでしょう。

この「関係性」への反撃論が
私は「資本論」だったと判断することができます。
「神話」と「政治」の結びつきを解き放つために、
「政教分離」というまことしやかさが
「民主主義」に配置されていたのでしょう。
連帯感は必ずその集団を拘束することにもなるわけです。

イデオロギーを終焉させるには、
観念をベースとした概念形態が、
意識装置の機能として、
連帯と拘束を解放する必要があると考えます。


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