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Posts Tagged ‘教科書’


『バイブルとテキストでは著作権と商標権は闘えぬ』


   


     8月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「点・線・面」はデザイナーのバイブルです。
「造形思考」はテキストです。
「点は限りなく正方形になる」と記したカンデンスキーは、
現代の液晶ピクセルを予想していたと私は確信しています。
線と曲線の関係性は、カオスに響く音楽論で、
パウルクレーは、デザイナーの教科書にしてくれました。
幅ある縦線と円形には、「ヘアーライン」という視覚補正が必要です。
オリンピックのエンブレム、そのデザインは、
盗用という極めて失礼千万な批判あるいは非難が取り憑いていて、
デザインはその平面図形の比較で「似ている、似ていない」を喧噪。
そして盗用というのは何事でしょうか。
ベルギーの劇場マークは、デザインの「応答」作品にすぎません。
東京オリンピックのエンブレムデザインは、
デザイナーの言説から「回答」作品ですから、
盗用というのは職能への大侮辱です。
釈明という失敬さをマスコミは平気で乱用していることは許せません。
ただし、私はプロとして、「ヘアーライン補正」という技能を
それぞれに解釈と解説と批評を与えてしまえば、
ベルギーの単なる劇場名と場所名の組み合わせは、
確かに、ベルヌ条約の無方式主義の著作権で訴訟をしてくる事、
それは補償金目当てでしょうか。
エンブレムデザインをマドリッド協定議定書での
商標権と対決させるのではデザインを応答作品でしかない
ベルギーデザインの幼稚さを保護しただけに過ぎません。
比して、
わが国の回答作品を商標権で護ることには正直大きな不利があります。
著作権と商標権での対立は
八百屋と魚屋のどっちがおいしいかの議論でしかないからです。
が、応答作品と回答作品では
デザインの職能倫理性は日本に正当性があります。
無念なことは、釈明会見というマスコミの姿勢はデザイナー虐めです。
「盗作」とはもっと別次元にあることは確かですが、
日本のデザイナーの正当性を私たちは護り抜くべきだと、
私は思っていますし、ベルギーの言いがかりなど無視すべきです。
そして、日本もベルギーも、バイブルそしてテキストも勉強不足と
「ヘアーライン補正」訓練不足があることは否めません。
本来、デザインは解答作品を審査委員会のたとえギルド性があっても
日本人デザイナーを著作権から護りぬくべきでしょう。
なぜなら、世界中がローカルなマークを知ったと言う話題でしかない、
つまりベルギーの応答作品が告知広報しただけのことです。
この応答と回答の対立でオリンピックは遠くなっているのは事実です。


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『研究棟看板「Consilience Design Interdisciplinary Studio」』


   


     4月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」は、
英訳するのに困りました。
コンシリエンスデザインは、明らかにコンシリエンスという概念は
出来上がっていて、この論理性は未来を確実にしています。
看医工学という、看護学・保健学・医学・工学は、
これまでの医工連携での限界性を打ち破る学際性が明確にありますが、
医工連携に固守している輩には、もう誤魔化しが不可能なことを
指示しているのですが、看護理工学会では看医工学という名辞は
大好評でした。
コンシリエンスは文理融合をデザインが超越させます。
そこで、コンシリエンスデザイン学際化スタジオが的確でした。
この2年は「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を
単純に受け入れていました。が、従兄弟は信頼・安全性工学では、
それも宇宙開発事業での展開で権威でしたから、
「危機は管理出来ない」と言われて、それから私は、
すでに教科書や、資格制度を洗い直し、「危機管理デザイン賞」の
審査委員長も退任しました。
「危機の管理は不可能である」と「危機は解決すること」から、
危機解決学へのデザインそれは学際的でなければを組み立てました。
「前例が無い」と言われれば言われるほど、
確実にこれはデザイン実務でこそ、危機、それも管理では、
リスク=起こるかも知れない危険だけではなくて、
クライシス=起こってしまった危険を問題として即解決学になりました。
これから、私は危険とは、生命が失われることが最大の問題です。
だからこそ、医学を取り囲む学術だけではなくて、デザインゆえに
芸術を組み入れた文理融合までの統合的な学際化をめざします。
学際化を果たす教育・研究・開発を産官学にまでと意図しています。
「Consilience Design Interdisciplinary Studio」が至極、
私には的確だと思っています。


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『ビートルズに出会った世代の幸運さ』


   


     11月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

敗戦後に私は生まれています。
1947・1948・1949年代生まれは「団塊の世代」、競争社会でした。
私にとってはこの呼称はまともな名辞だとは思っていませんが、
私自身が1949年のこの世代であることをひきずっています。
経済成長・大学闘争・石油ショック・バブル・バブル崩壊と
時代的な経済変動をまともに受け、その成就に晒されてきました。
そのなかで、この世代ほとんどが大きな影響を受けているのは、
ビートルズの音楽であったこと、それは周知のことですが、
私はオーディオからデザイン世界の社会人になりましたから、
もう一つカセットテープがビートルズ音楽に与えたことがあります。
したがって、この作品も私の代表作であり、
今は金沢21世紀現代美術館のパーマネントコレクションですが、
これはビートルズのオマージュと私自身の思いをこめています。
赤盤・青盤・白盤、そのままに、ビートルズの代表曲を
オルゴールも、すべて著作権のもとで発注した曲を仕掛けました。
「商品化」は何度か試みましたが、生産性の問題がクリアできず、
すっかりと今ではある意味ではアート性のデザイン作品です。
これが私の代表作ということを言いたいわけではなくて、
ビートルズの音楽性以上に彼らの音楽や活動に及ばず、
存在性に人生での生き方のきっかけを与えられたこと、その意味性、
これらを持ち得た世代の幸運さについては書き残す意義があります。
私自身、書道も絵画も道具を要しましたが、
音楽はずる賢く考えて教科書だけゆえに高校ではコレを学びました。
にもかかわらず、美大に進学し、書は厳しいトレーニングを受け、
ビートルズしか知らなかった私が
クラシックも図譜で指導されて、社会人になれたようです。
が、今なお、私にはビートルズという存在が生涯を支えてます。
つまり、今、このようなショッキングな時代状況が無いことを
私は次世代にとっては、大きな損失のような気がしてなりません。
ビートルズのような存在がないこれまでを疎ましく思っています。

「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」
「『鏡』の存在を知り尽くすこと」
「この画家をもっと知らせたい」


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『「真善美」をプラトンに教えられたから生きてきた』


   


     11月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

私が高校時代に最も大好きだったのは「倫理社会」でした。
日本には、当時、この教科書は5冊しかなくて、
しかも最も薄かったのです。書籍は薄いのが最も簡潔でした。
これまで何かを学ぶテキストは最も薄いのを求めます。
担当教諭は、私に残りの4冊を与えてくれたので、
おそらく、倫理社会が得意な科目になりました。
そして出会ったのがプラトンであり、「真善美」が世界の基本、
このいわゆる「イデア論」を知りましたが、
自分が生涯にこの三つなどは出来るわけがないから、ともかく、
一つだけを選ぼうというのが高校時代に生き方を決めた手がかり。
真って、わからないし、善を貫ける気性とはとても自称できない。
なんとなく、「美しい」ってことは感覚的には分かるかも知れない、
この程度だったと思っています。
結局、美大そのものが「美」に近づく手段に最も近接していました。
要は「美しいって何なんだろう?」、この答えがわかるはずはない、
かも知れないけれど、「美しいって何なんだろう?」っていう、
難しくいえば「イデア論」があるから、死ぬまで考えている自分、
その自分が存在していることを知ることができているのだと思います。
私は12人を選んで「プラトンのオルゴール」展は私の代表作ですが、
肝心のプラトンのオルゴールは凹鏡球面の中にある実物球は、
虚像を浮かび上がらせることができます。
これはそのまま、実体である自分は凹鏡球面にあれば虚像の私です。
虚像の私が本当は実体なのかもしれません。
凹鏡球面が現実の時空間なのかもしれません。
だから、多分、私は選びぬいた「美」と自分の関係は、
この「プラトンのオルゴール」だと生涯幾たびも書いていくでしょう。
自分は美だけを自分の生涯に置いたことは正解だったと思っています。
プラトンが「イデア論」を書き残してくれたからではなくて、
「イデア論」が手元にあったから生きていく核心が私にありました。

「原点回帰と思っている作品」


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『始めてオーダーをしてみる+NIKE ID』


   


     8月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

先般、韓国チャンシンINCから、阪大の私の研究室に、
デザイン発想法の研修申し込みが届きました。
発想に関わる手法ならば決めてもらったことで、ということになり、
引き受けたところ12名ものメンバーが来てくれました。
最初、英語でしたが、スタッフにいる韓国人にすべて通訳となり、
英語・韓国語が交差する面白い交流ができました。
私からのテーマは「図解発想=DIAGRAM DEVELOPMENT」を出し、
事例は質問に合わせて、沢山の質問を受けながら進めました。
私はマインドマップ法などは全く意味無しと考えていますから、
「図解発想法」は相当に練り上げた思想からの発想手続きです。
いづれ教科書をと考えている一つです。
彼らの日常ワークはナイキ等を主体にしたシューズデザインでした。
シューズだからといって偏った装飾的なファッションデザインでなく
彼らにとっては、問題解決の発想だったことは全く正解でしたから、
この発想法では、ブーレーンストーミングなどの無意味さも指摘。
発想手法は、これまでのデザイナー経験では相当にあると思います。
彼らからは、私とワイフにシューズをいただきました。
ワイフはとても喜んでいて、それで思い出したのです。
2001年、Gマーク審査委員長の時にグランプリ候補だった、
NIKE IDのオーダーシステムを自分のシューズ発注をと考えて、
最も最先端シューズ、新素材構成をMacでやってみました。
この手続きはとても分かりやすくて、注文をしました。
受け付けました→生産に入りました→・・・と連絡が来ます。
審査時には日本人ならではの発想でしたが、もう15年も前に、
オーダーシステムは出来上がっていたのです。
おそらく、これから3D-Printingとの関係はこのネットワークです。
発注で試行錯誤を楽しみ、生産と受取までの交流が可能なことです。
私は、この方式は本当に素晴らしいと思っています。
そしてその時には、どうもChromeOSが最適な気がしてなりません。

NIKE iD


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『「危機解決」という学域の再設定を基本にするべきである』


   


     6月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

阪大を退官後、「危機管理」という設定をしてきました。
危機管理学というのはすでに教科書にもなり、
行政の専門分野にもなり、最近は大学でも危機管理学が学域です。
しかし私は当初より疑念があり危機管理学には違和感がありました。
そこで、インクルーシブデザイン的には、危機解決学という領域、
この領域の論理構築と実務設定をめざしてきました。
そうして、明確に断言出来ることは、
「危機」は「管理」するものではないということです。
「危機」は危険な事態を機会=チャンスとして解決を図ることです。
危険な状態を管理=マネージメントするのでは手遅れです。
危険な事態を則機会にして解決実務には管理する必要はないのです。
これは論理的に明快です。
また、危機には大別すれば、CrisisとRiskがあります。
Crisis・クライシスとは起こってしまった危機状況であり、
Risk・リスクとは起こるかもしれないと言う予測での危機事態です。
したがって、危機管理とデザインは結びつきません。
むしろ、危機解決=Crisis & Risk Solutionが正当です。
単純に危機管理=危機のマネージメントがあってデザインは間違い。
この論理付けを後押ししてくれたのは、信頼安全工学の第一人者、
それも私の従弟であり、宇宙航空学での実績者でした。
私は、あらためて、「危機解決学のデザイン医工学」にします。
なぜなら、危機とは最悪の事態=命の危険がまずあります。
危機解決は「命を護る」ことを大前提にしてのデザイン実務です。
したがって、「危機管理学」というのはある種言い訳の学域でした。
私は危機管理学の教科書・講義内容の一新を訴求します。
これまでの危機管理学では最悪の命の危険性を回避できません。
「危機解決学はクライシスとリスクを対象」としてデザインです。
そのデザインとは、
再度、インクルーシブデザインの実務だということです。

『「危機管理学」という学域の再構成へ』
危機解決産業創成デザイン重要拠点
「寄附講座で開設するデザイン講座を決める」


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『「織物・布の感性的評価軸=オノマトペ」産地福井から発信』


   


     11月 12th, 2013  Posted 12:00 AM

織物・布、そしてふるさとの「羽二重」を見つめてきました。
そして、これまでは教科書的で内容の概観的評価を、
ようやく、ふるさとの織物産地の若手を集結して、
「オノマトペ」=擬声語をさらに深度をもって、手触り感覚から、
「布の基準化」をまとめてきました。
すでに25年にわたって織物と接してきた私の結果をまとめます。
最初は、三宅一生氏の「プリーツプリーツ」の評論から、
私はなんとしても織物・布・編み物・ファブリック・テキスタイル
こうした、特に「手触り感覚」を集大成したいと考えてきました。
擬音語と擬態語それぞれをひらがな・カタカナにしても、
私たちの「感覚 – 感性」には公約数的・公倍数的な評価軸が可能。
この感覚は、
かつて織物職人は、暗闇でも布に触った瞬間に、
その布地の「こし・はり・ぬめり・ふくらみ・きしみ・しゃり」、
この感覚に加えて、「しなやかさ」こそ
布性能と品質性を確認可能ならしめたと聞きます。
つまり日本語はこの七つで「織物」の性能・品質が分別可能です。
この評価軸のために、私は最終的には、子ども達と盲目の人に、
あらためて力を借りたいと思うほどです。
私にスタッフ達と若手織物従事者の方々でまとめること、
この最終目標が見えてきたと考えています。
おそらく、ファッションを語る上でも、
織物の品性には「基準」が不可欠ですがこの欠落こそ、
ファッションを安易にし過ぎてきたものと判断評価しています。
だからこそ、私はこのデザインにあたっての、
布の意味性をもっと明確にしていく所存です。
なぜ、私がモノの素材性をさらに詳細で緻密にしていくのかは、
この「オノマトペ」的な感性評価軸から創造の革新を求めます。


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「書店本棚での一般的な『デザイン』認識が残っている」


   


     8月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

私はこの40余年、プロのデザイナーとして、
「デザインは問題解決のかたち的最適解を求める手法」。
この定義だけを訴求してきました。
しかし、今日も立ち寄った書店の本棚のデザイン書コーナーでは、
「装飾=デザイン」という類の著作集に混在していました。
決して、私はデザイン=装飾を否定しているわけではありません。
むしろ、今、徹底的に批判するのは、
デザイン=装飾オンリーの学校や科目、時には教科書の記述と、
装飾家をデザイン賞の審査委員になっている顕彰制度は、
私の生涯を持って、断固として批判し非難し破壊したいことです。
デザイン賞制度を傍観するとき、「この人誰?」という、
そのような顕彰制度はあってはならないと思います。
この本棚には、おそらく、デザインにとっての基準的な定本、
「口紅から機関車まで」がありました。
日本が敗戦後のタバコパッケージ「Peace」のデザイナーだった
レイモンド・ローウィ著作は元外務大臣・藤山愛一郎の邦訳。
この著作が現代の工業デザインからデザイン全般を語り、
しかもこれがその当時の外務大臣だったことに大意義があります。
デザインが問題解決の代表的な手法であるがゆえに、
デザインされた形態は空間であり、言語であり、結果、記号です。
デザインが職能として認識された民俗毎の認識が、
国際的な乖離が一時はありました。
その代表がわが国だったとも言えます。
デザインが洋装とともに一般的な認識が拡大してきたことです。
私自身、「デザイナーです」と答えれば、
「洋服の・・・」と幾たびも言われてきました。
私が、電器メーカーに就職したときも、
「ポスターを描く職業」だと思われてきました。
しかし、今、私はデザインを学ぶ学生には、
問題解決であり、未来を創生出来る唯一の職能ですということを、
最も主張しています。
すでに私の教え子も、形態設計よりも制度設計に、
デザイン手法を果たし始めています。


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「徳富蘇峰の評価も忘れられて・・・・」


   


     7月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

坂本龍馬評価・無血革命と言われた明治維新、
私は日本人が集団化したときの評価を、正当に観ることが肝要。
このことを私の生き様の中心に決めてきました。
だから私の判断が全て正しいとも思ってはいませんし、
私自身、意地であっても固守するという気概を肝心にしています。
かつて、ある事で、
「おまえは、友情と憂国とどちらが大切か!?」と聞かれて、
「憂国であり、たとえ虚像であっても憂国無き友情など無視!」。
こんなことで絶交経験もあります。
そういう意味では、橋本左内のごとくを選びます。
彼は15歳にして以下の「啓発録」を書きました。
        ● 去稚心・稚心を捨てる
        ● 振気 ・気概を発揮
        ● 立志 ・志を立てる
        ● 勉学 ・学問を尊ぶ
        ● 朋友 ・友人を選ぶ
この五つは子どもの頃から、たたき込まれてきたと思っています。
福井県では必ず「立志式」が慣行となり、
「啓発録」という教科書も独自にありますし、
改訂を楽しみにしています。
だからこそ、小説であたかも明治維新の歴史的史実を疑います。
むしろ、わが国のジャーナリズム発祥人の一人である徳富蘇峰、
彼が、数少ない橋本左内自筆の書を所有し、
奥書きをしたためていた事実を心から喜んでいます。
適塾といえば、福沢諭吉は塾長でした。
しかも、橋本左内と生年は同時です。
左内は1849年に入塾ですが、諭吉は1854年に入塾です。
そして1859年に左内は惨殺されました。26歳です。
1860年「咸臨丸」に諭吉は乗りますが、
艦長・勝海舟とは「犬猿の仲」になったと聞きます。
諭吉が生涯、体制派ではない理由、
その心底には同塾生への想いがあったと思いたいのです。
徳富蘇峰もきっとその想いだからこそ取得保管したのでしょう。
私もこの五条で生きのびる覚悟です。


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「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」


   


     12月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

自分のアイデンティティは、ふるさとに在るということが大事です。
そしてこの大事さの確認には、
ふるさとが輩出した偉人の存在を認識し、
素直な敬愛が大切だと私は思って生きてきました。
 杉田玄白・「解体新書」、日本初の解剖医学者
 松平春嶽・福井藩主、明治維新を支えた見識人
 梅田雲浜・安政の大獄で獄死というほどの反体制政治犯
 日下部太郎・二番目の国費留学生、留学大学で今なお伝説
 由利公正・五箇条のご誓文の執筆政治家
 岡倉天心・福井藩出身の武家の子息として生まれる
私はその時代時代、
特に明治維新から近代国家を創ってきた偉人への敬愛は、
自分を勇気づける大きな一つの手段だと思っています。
もちろん、
それは彼らが歴史上も偉人であるからというだけではありません。
自分を育んでくれた子供の頃、
その当時叱られたおじちゃん達やおばちゃん達も敬愛しています。
彼らはその象徴だと考えています。
子供の教育で大事なことの一つに、「偉人伝の読書」というのが、
世界的にも指摘されています。
山口県では吉田松陰と橋本左内が、
安政の大獄で牢獄で交わし合った詠歌が話題になったこともあります。
熊本で講演したとき、熊本県の関係者から、
横井小楠が越前藩にはお世話になって、と冗談交じりの会話をしました。
確かに、
横井小楠と橋本左内が越前打刃物産地への取り決め書きの本物を見た時は、
当時のあの若さで二人が越前藩産業に苦心していたことに感激しました。
現在私は、大阪大学の微生物研究所初代所長・藤野恒三郎名誉教授の
「杉田玄白から福沢諭吉・近代日本の医学史」の再版を企画しています。
これほどまとまった著作は、
日本の近代医学史として、
大切に教科書にすべきだとも考えているからです。
藤野恒三郎も私の敬愛する食中毒発見をしたドクターであり、
魯迅の先生と言われている藤野厳九郎の甥です。
私はふるさとの偉人への敬愛そのものが私の一つの思想だと思っています。
そして、もっとも敬愛する人は、と質問を受ければ、
「父と恩師達と橋本左内」と答えることにしています。
そういう意味では、
ふるさとがあるということは幸運な人生だと感じています。


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