kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘整理’


『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』


   


     8月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

私の企画戦略には必ず立ち戻る基本があります。
それはインド思想の木火土金水と仏教思想の風地火水空です。
この四句分別によって25 のマトリックスが生まれます。
それは25のコンセプトが生まれるということにつながります。
少なからずこれは世界観での25の問題点が整理されたコンセプトです。
しかし、これだけ全てを列挙すると、二つの疑問にぶつかります。
まず、デザインでそのようなことをやってもらいたいとは・・・
これで台無しにして仕事をどれだけ失ってきたでしょうか。
デザインでそこまで語ってほしくは無かった・・・
これで仕事をしたくない行政マン、役人(人に役立つ人)を知り、
彼らの生息生理をほとんど知ってしまいました。
このことで、若い頃はクライアントに喧嘩を売り喧嘩師になりました。
最近は利口になって、インド思想にも仏教思想にもある火と水を
主体的に語っていくことを中核にしています。
無論、両方の思想の核心にある火と水には同意性と差異性があります。
それを論理的に学び直したのはガストン・バシュラールでした。
バシュラールは、明確に水と火は対照的な著作を残しています。
そして彼の著作を度外視していたつまらない輩がいたこともあります。
私にとって、現実的には、水と火、それぞれがCGになる過程を
まさに米国で立ち会ってそのプログラミングを見ることができたこと。
これは生涯の思い出になっています。
しかも、このNatural Phenomenaというコードネームには、
明らかにバシュラールが基底で語られていたことです。
火も水も、デジタルとして燃えさかることと水滴や流れまでが、
制御と否制御が起こってしまうことでしたが、
結局、火は燃えさかっても熱くはなくて破壊することがありません。
水も自然と水滴から大洪水も決して起こらないことです。
これがデジタルの限界でありながらも、自然よりも勢いがあります。
私は、自宅にデジタルの全く無温度の火と水を配置します。
それこそ、自然と人工を対比させた日常を側に置いてみることで、
自然=アナログを絶対にデジタルで調和も制御も出来ないことを
言い聞かせる手法だと思っています。


目次を見る

『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』


   


     8月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を定義化してから、
どうしても、私自身が説得不足を感じていたことがありました。
それは「統合」についての整理された論理が必要でした。
学術と芸術の統合というコンシリエンスの基底論理でした。
まだ30代の頃、CIブーム時にはCI=「企業イメージの統一」論へ
CIデザイン論の再構築という論文をデザイン専門誌に書きました。
「統一」から「統合」をW.S.ランデッカーの考察から学んだことが
私はとても気になり、その論文をバックナンバーから探しました。
しかしどうしても見つからずに、この専門誌発行元に問い合わせ、
それが見つかってきて、あらためて私はとても驚きました。
なんとそれはMacintosh 512KでMacDrawでの図解で描かれていました。
そして「企業イメージの統一」CI論を企業の戦略的効果の消滅として、
「社会は、いつの時代の変動もその局面を強調して、
将来への予測とその準備を強要するものである。」という書き出しは
今も健在であり、常套化したデザイン手法=企業イメージの統一から
いち早く逃れるべきである、ということを指摘していました。
企業イメージの統一=CI論はケインズの経済学を引きずっていました。
そのための統一から統合を、私は今なお主張し続けていることです。
W.S.ランデッカーは、「統合」を以下の四つで整理していました。
 ● 機能的統合
 ● 伝達網的統合
 ● 規模的統合
 ● 文化的統合 でした。
私はやっと思いだしてとても大きなヒントになる予感です。
この四つでアイデンティティ=存在性の再考が可能という予感。
それこそ今、話題騒然としている、オリンピックエンブレム問題も、
エンブレムデザインでは、東京オリンピックのイメージ訴求は
決して統一は困難であり、今なお著作権でベルギーが訴訟しようが、
東京は商標登録しているからという対決姿勢だけの不毛さは、
「イメージの統一」に寄りかかっているからに他なりません。
重大な事は、オリンピック・パラリンピックともに、
イメージの統合のために、そのエンブレムが、
機能的・伝達網的・規模的・文化的な四つの統合性があっただろうか、
この質問を投げかければ、
文化的統合はすでに壊れているということです。
それは、文化的統合とは、無知と差別を解消することですが、
エンブレムは、オリンピックとパラリンピックには、
差異性、いや差別性をデザインしたということです。
もっと、厳密に言うとケインズの経済学が亡霊だと気づかない、
そんな21世紀がまだまだ続いているということです。
ここまで気づかない能力だと思いますが書いておきます。

*CI=C.I.=コーポレート・アイデンティフィケーション


目次を見る

『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』


   


     8月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

レタリングにはセリフ体とサンセリフ体があります。
これはレタリングの基本的な知識です。セリフは形素に過ぎません。
だからセリフを主体的にするのは疑問ですが前衛と理解します。
セリフ体というのは日本語では明朝体、サンセリフはゴシック体です。
これはデザイナーになるための基本的な書体描画トレーニングであり、
バウハウス時代(ドイツで創設さえれたデザイナー学校)時代には
ハーバート・バイヤーによってセリフ体は徹底した基本が整理され、
おそらくこのトレーニング教育がアルファベット作成の根本です。
今、私の母校ではこの訓練があるのかどうか知りませんが、
私の世代ではこの根本を泣きたくなるほど訓練されています。
私はCaslonでセリフを、Futuraでサンセリフをデザインストローク、
つまり定規無しフリーハンドで、身体が暗記するほど訓練をしました。
したがって、バイヤーの創作したサンセリフ体は、
現代世界共通で公的な利用が当然であるHelveticaでは遵守されてます。
このレタリング基本が無いアルファベットは「アルファベット風」の
単なる色彩構成に過ぎず真のデザインとは言えないでしょう。
しかしデザイン系大学でこのトレーニング訓練が無くなっている様で、
そのようなロゴタイプづくりやレタリングが氾濫しているようです。
これでは欧州では本来徹底して否定されても仕方ありません。
今話題の、ベルギーの劇場マークも東京オリンピックエンブレムも、
両方とも言うなればこの基本訓練が全くありません。
セルフ体でもサンセリフ体であっても円と直線の関係は、
「ヘアーライン補正」欠落のデザインはアマチュア作品です。
このことを度外視したデザイン風の色彩構成をデザインとは
絶対に呼ばないでいただきたい。プロフェッショナルデザインが
これでは専門職的な社会的な責務が果たされていないからです。
ベルギーも日本も、デザイナー訓練が全く果たされていないことを
私はプロのデザイナーとして、デザイン学者として書き残します。
エンブレムデザインでの商標権を著作権で訴訟とかいうベルギーも
デザイン職能倫理を両方が無くて何が訴訟争いだというのでしょうか。
デザインを台無しにしていることを私は指摘しておきたいと考えます。
こうしたデザイン基本訓練無しの教育を受けてきたデザイナー達が
哀れな闘争をしはじめていることを私は非難しなければなりません。
両方のデザイナーの能力がバイヤーの論理知識無しに呆れます。
私の疑いは日々深まり、これが社会批判の根元かと想う次第です。
デザイン系大学のレタリング教育を見直すべきです。
プロフェッショナルデザインとして社会批判は当然だと想います。


目次を見る

『華厳経に入ろうと思う・森政弘先生の講義から』


   


     1月 12th, 2014  Posted 12:00 AM

私が仏教関係の書籍を最も読みあさったのは29歳でした。
それは車倚子生活を余儀なくされたので、
「なぜ、自分にこのような生涯が・・・」という疑問からでした。
したがって、仏教関連の書籍は相当に持っていますが、
先般、森政弘先生の講義を受けて、
すぐに先生の「仏教新論」とともに、
講義の核心であった「華厳経」はこれから徹底的に読破を決定。
届いた「華厳経」の口語全訳は上下二巻でこの厚さがあります。
少なからず教養的に知っている程度では森先生の講義本質には、
私はとても到達はできないと考えました。
「華厳経」は、様々な仏様同士の会話であり、
この経典が仏教の骨格であり、あの道元もこの引用がありました。
森先生は、坊さんが葬式で読むあの「お経」の意味に興味があり、
この「お経」から哲学的な思考とその結論を知ったという話です。
いわゆる「般若心経」の解説本のいい加減さも批判されました。
私にとって「読書する」ということは、
一人っ子で育ったこともあってか、とても好きな領域です。
私は常に思います。
「読書」が何よりも好きだったことが、
そういう家庭でそだったことがとても幸運だったと思います。
「大学人の間は持っていなさい」と恩師に言われて、
名古屋から大阪にほとんどの書籍を移しました。
もう書籍などいらないとすら思っていましたが、
結局、自宅の寝室は常に書籍だらけになってしまいました。
ともかく、整理をし直して、
これからこの「華厳経」の世界にどっぷりと入ってみます。
最近は、電子本であれば読書も簡単ですが、
この上下二巻は、本の香りがします。
これを読み終えたなら、また私の活動の何かが変わるでしょう。


目次を見る

「リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う」


   


     5月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

現在、出版界は相当に難しい時代になったようです。
自分のインタビューが掲載されています。
だからというわけでは無いのです。
が、この著作「リアル・アノニマスデザイン」は労作です。
私もこの本の企画の人たちから、ホテルで質問を受けました。
企画者は、次世代のデザイン評論では定評があった人物。
そして、幾度か、校正もさせていただきました。
無論、私の独断は、「発言すれば問題発言、という風潮」には、
きわめて正直にプロとしての受け答えをしています。
私なら、そこまで言うかもしれないということも重々承知です。
そしてあれからの編集時間を思うと、
これだけの専門家、それも次世代、次・次世代ですから、
デザイン・都市・建築・メディアの担い手に、
恩師であった柳宗理氏の「アノニマス」をキーワードにして、
専門家、それぞれの解釈が述べられています。
私などは、インタビューされた最長老の中に入るでしょう。
編集ではきっと気を遣われたのではと思います。
「アノニマス」無名性、あるいは匿名性です。
「ヴァナキュラー」土着的な全く無名性との関わりを同世代、
ある建築家の意見も真っ当でした。
デザイナーや建築家にとって、それぞれの活動、
その成果としての製品・商品、作品にとってはその存在性では、
作り手の社会的な位置を確認するには、
誰もが悩む大きな問題だと私は思っています。
私は、金沢美術工芸大学入学直後に、
柳宗理先生にはこのキーワードは強調された体験があります。
それ以後も数回、「アノニマス」については、
自分でも記述したり、インタビューを受けたり、
「自分が考えるアノニマスデザインのモノ」を提示しました。
だから、私には明確に自分とアノニマスの関係では、
すっかり整理がついています。
それどころか、アノニマスを強調する脆弱さとその反発力も、
理解し終わっている課題にすぎません。
ところが、次世代の専門家の様々な解釈を読めば、
もう一度、「アノニマス」とデザインの関係について、
私の再洞察を要求されました。
再考を教示されるということが、私は「労作」ゆえに、
新たな課題、問題を与えられたと判断したことになります。
この著作の冒頭には、
まだ歩いていた頃の自分の写真が掲載されていました。
それを眺めると、私はもはや、
この世界に二度やってきているという印象があります。
「アノニマスデザイン」はこれからもおそらく、
職能家の社会的な存在性に深く関与していくと思います。


目次を見る

「新幹線ホームのエレベーターは再デザイン必要」


   


     11月 26th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子になって、まず不便極まりなかったのが鉄道でした。
ある政治家秘書の方と陳情に行ったことがあります。
その後、扇千景大臣が視察して3年後に、
新幹線ホームにエレベーターが設置されました。
だから、車椅子の者にとっては結構便利になりましたが、
これからの高齢社会を考えると、
駅ホームとエレベーターの設置数はもっと増加させるべきでしょう。
しかも、日本人マナーはすこぶる悪くて、
障害者も妊婦も優先されるわけどころか、
階段を使うより楽だから、
平然とエレベーター利用者は数多いと言っていいでしょう。
ガラスで封じ込められたユニット的機器としてのエレベーター、
そのデザインは、醜悪な形態言語になっています。
そして、エレベーター機構技術が
進化しているとは言い難いと私は思っています。
透明で機構や実装構造が見えるというのは、
それなりの技術成果かもしれませんが、
機構整理されたデザインにまで完成度はありません。
まず、地震になれば、エレベーターは停止させなければなりません。
駅構内やホームが火事ということはほとんどありえないでしょうが、
火事には使用不可能となる機器システムです。
私は、まず、公衆が利用・使用し、
駅が所有するエレベーターの「記号性」を問い直しておきたいと思います。
この透明化された機器システムが「意味していること」と、
「意味されている」存在性を再考すべきだと提案しておきます。
それは、公的なモノである性能性・機能性・効能性、
こうした「意味作用」が
エレベーターの造形言語は何であっただろうかということです。
おそらく、この造形言語を追い求めれば、
新たなエレベーター技術を進化させる革新的な発想を
造形言語の意図からうながすことが出来ると確信している次第です。


目次を見る

「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」?「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」?「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


目次を見る

「もう一つは音場システム」


   


     6月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

確実に「音場」空間をつくり出すには、
無指向性のスピーカーシステムが最適です。
美大の卒業制作は、無指向性のシステムでした。
それ以来、無指向性スピーカーには興味がつきません。
そしてB&O BeoLab5は、
ほとんどロボット的なシステムであり、
室内の大きさや、人数、室内の家具配置をセンシングし、
指向性を自動的に制御してくれます。
そして、音楽ソースはBeoCenter2で、
CDはほとんどリッピングしてあるので、
最低50枚だけをこれでの「音場づくり」、
すなわちBGM環境にしています。
私がオーディオファイルとして思うこと、
それは、そろそろ「音場」と「音像」が選択できる環境、
そのシステムが欲しいということです。
整理すると、
「音像」というのは、まさにスピーカーシステムの中央に、
歌手なり演奏者が存在していること。
「音場」とは、空間のどこにいても、
BGMとしての音楽空間になっていてくれることです。
これは、身体を包み込んでくれます。
「音像」と「音場」は明確に、
身体と空間の関係性を「より感覚化」してくれるはずです。


目次を見る

1月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 19th, 2012  Posted 7:42 PM

1月19日 先勝(己卯)

些細なきっかけから生まれた「発想」を
「伝達」するまでに、
そのプレゼンテーターはどういう経緯で
頭の中を整理していったのだろうか。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


目次を見る

「アクロバット演奏ゆえに試聴可能」


   


     12月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

子供の頃から、何かにとりつかれるとついつい、
やり終えないと本来のことが出来ません。
その癖は未だに直っていません。
試験の前日だったり、今だと仕事の締め切り前だったり、
医学研究科での講義内容を整理するのに、
自分の研究の整理が相当あるにもかかわらず、
ヘッドホンの試聴のためにはフランツ・リスト。
そう思い込んでしまってから聴き比べを辞めること不可能。
Franz Lisztは1811/10/22-1886/7/31を生きました。
彼は1800年代中頃の作曲家でありつつ、
彼を超えるピアニストはいないとまで言われた音楽家。
なにしろ、アクロバット演奏とまで言われた、
「見る演奏」、まさに今のロックコンサートであり、
それは「リサイタル」という演奏形式は
彼が創り出した形式説があるほど。
したがって、彼作曲の演奏はかなり困難ですから、
ヘッドホンの再生において、
私は四つのポイント試聴をすることができます。
ピアノ曲であるために、低音から高音までの音の動きです。
この音の動きはテンポの再現性をヘッドホンに求めてきます。
つまり、ヘッドホン駆動部の音のキレが局部音場だけに
直接頭部内で響きます。
リストゆえにクラッシックの音域で確認すれば、
それはそのままロックやジャズの再生の基本につながっています。
だから、リストの曲は試聴用としてぴったりなのです。
最も代表的な「ラ・カンパネラ」のスタートですら、
もう十分に「音の再生の動き」が確かめられます。
今、結核の遺伝子検査からワクチン接種を、
シリンジ開発の事例としてのプレゼン準備は
予想以上に資料がどんどんと増えてしまいました。
この資料を傍に積み上げながらも、今のところ、
これが決め手のヘッドホンだろうと思いつつ、
ついついリストの曲を聴き比べてしまいます。
このブログを書き上げることで、
一応、リスト離れをしたいと思って書いています。

目次を見る