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Posts Tagged ‘文化’


「題名(差別用語ゆえ)で語りきれない作品」


   


     7月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

絵画にとって題名=タイトルは、作家の意図です。
けれども、当時は社会的制約の無かった言葉表現が、
時代と社会によって、題名の絶対的な変更を余儀なくされたら、
作家の狙い・意図・思想は欠損します。
この絵画は描かれた頃、このような人たちが存在していた証です。
四つほど欠損と切断の症例があるものと解釈されています。
 ・先天的な下肢欠損
 ・戦争負傷ゆえの切断
 ・後天的な病気での切断
 ・この絵が存在する場所性・風土病での切断
絵画登場の4人は、上記のそれぞれですが、
彼ら集団を当時は「●●●」(現地呼称)と呼び、
そのまま題名=意図にしていました。
後ろ姿の2人も明らかに障がい者です。
ピーテル・ブリューゲルは、
「●●●だからどうした」という理念があったようです。
●●●の日本語訳はすっかり差別用語です。
「足なえ達or足の不自由な人々」というタイトルになっています。
こうした芸術作品タイトルを差別用語は公認されるべきとの
私の見解と主張を持っています。
私自身が●●●と自称するのは構わないと思って、
講演などでも自称を意図していたところ、
差別用語消去団体から、徹底的な「差別」攻撃を受けました。
この団体との闘争は2年間かかりましたが、
私の主張を彼らは容認では無く、
それ以来、私には「攻撃停止」の旨まで伝えられました。
私が学んだことは、二つあります。
作家の創造性のタイトルは「意図すること」ゆえ、
「意図されている」ことは、
人間社会として容認するべきでしょう。
もう一つは、差別用語が人格否定では無い限り、
人類の資産として語りつぐべき言葉文化です。
これを人類から欠損させるべきではないと確信しています。


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「いっちょらい」


   


     3月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

有田に来ています。
身につけているのは、「いっちょらい」のモノです。
「いっちょらい」というのは福井弁です。
私の発音は未だに福井弁が消えていないようです。
京都生まれ京都育ちのワイフからしばしば指摘されます。
しかし、奈良と京都の文化を支えていたのは、
越前と美濃だという確信があります。
だから私は越前生まれを誇りにしていますから、
福井弁のまま生きていくでしょう。
今出張中ですが、
身につけているのは、すべからく私が選び抜いたモノですから、
多分、形見になるモノばかりです。
時計も私のコレクションの中では特別注文したモノです。
今、日本人のある時計師の方にもいづれ頼みたいモノがあります。
財布はもうこれほどのクロコダイルでしかも青染めは出てこないでしょう。
ブレスレットは、時計に合わせて自作したビーズのブレスレットです。
今年修士修了生には手作りのブレスレットを贈りました。
結構、私の手作りは人気があるようです。
時々、見せびらかすと「いい」と言われると、
ついついプレゼントしてしまいます。
なかなか時間が無いので、ちょっとの息抜きに造ります。
すべての教え子に贈ってやりたいと考えています。
つまり、ブレスレットで手かせとして呪縛してやろうという魂胆です。
カレッジリングも自分の大学卒業年度72アンティークリングを
いつも探して集めているコレクションの一つです。
自分の研究室生にはカレッジリングデザインして
造ってやりたいと考えています。
もう一つのリングは、
私なりにこのデザイナーとは闘ってきたライバルの作品です。
ともかく、私の「いっちょらい」を出張中ゆえに身につけています。
もう自分の時間制限が見え始めていますから、
「いっちょらい」に、
自分の生活を包んでおきたいというのが念願になっています。
有田の新作は、工房工場も訪問し、
スタッフの皆さんに挨拶ができました。

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9月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 3rd, 2011  Posted 10:00 AM

9月3日 先勝(辛酉)

一人のデザイナーとしての政治信条は、
大学時代からまったく変化していない。

行学の限りを尽くして、日本人であり、
日本の伝統・自然・文化を
誠実に次世代に受け渡していくだけである。

『デザインという先手』手段


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8月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 7th, 2011  Posted 10:00 AM

8月7日 友引(甲午)

社会に取って、
教育に最も象徴的な
理念と手法があるということが、
その社会の文化の核心ではないかと思う。

『デザインという先手』「手法」


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「現代文房具はどうして面白いのか」


   


     6月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

文房具は、私はなぜか好きです。
おそらく嫌いな人はいないでしょう。
そして、文房具の種類は圧倒的に膨大。
これは文化と直結しているモノの大体系です。
「書く」という行為、
人間が表現をする「書く」という所作を取り囲んでいます。
基本は、「紙」と「鉛筆」、消しゴムであり、
やがて、紙周辺、鉛筆の進化、
書いても訂正するというためのモノに広がっています。
そして、さらに電子化と情報処理が加わって、
文房具のアイテムは格段に増殖している世界に私たちは居ます。
「鉛筆」というモノの発明が、
私たちが表現する世界をさらに拡大し、
表現された事を記録し、残していく所作の道具や器具も、
文房具になっていくわけです。
あらゆる鉛筆への興味は、
筆からペン、万年筆、さらには電子ペン、
それらが趣味収集の対象にしているの事が、
私の生涯をすべからく表していると言ってもいいわけです。
ちなみに、私はどんな服装の時でも、
「ペンの類」が無いと不安になります。
だから、ちょっとした外出でも、
それに見合ったペン=ボールペンなり万年筆を携帯します。
出張ともなれば、万年筆は使わずとも6本は選びます。
万年筆の新製品には心を奪われます。
そして実は、万年筆の軸がプラスチックの場合、
このレジンの流行がメガネフレームの流行と連動していることを
知っている人はいないのではないかと思っています。

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『資本主義からの逃走』
「上海万博が影響するのは呉語文化圏だけかもしれない」


   


     5月 10th, 2010  Posted 12:01 AM

万博は教育
万国博覧会は、国際的な人類叡智の制度デザインです。
いわゆる「万博」の基本意図は「教育」が核心だからです。
したがって、これまで世界的に万国博覧会が人類にもたらしてきたことは、
「文明」の進展を「文化」的な日常生活の共有でした。
かつて1970年、日本での万博以後には、
明確にその影響が「歴史・産業と文化」として反映されてきました。
「文明」は明らかに、科学と技術による主導性によって、
産業経済のさらなる活性化によって文化体制を促進させることになります。
オリンピックも、万博と同様に、社会基盤の意図的整備によって、
産業経済の活性化への動機付けであることです。
万博もオリンピックも、「資本主義経済」を遵守したものであったわけです。
しかし、北京オリンピックも、上海万博も、
背景としている政治体制はこれまでとは全く異なっていることに
私たちは最も注目しなければならないと考えるべきです。
万博の影響とは
歴史的にみれば、モスクワオリンピック以後と、北京オリンピック、
その二つを対照化しておく必要があるのではないかと私は指摘しておきます。
この二つの対照性や、
この国家イベント以後はジャーナリズム的な検証は
ほとんど無かったのではないかと判断しています。
ひきかえ、上海万博以後の中国経済の最大活性化へ、
日本経済、交易効果、文化交流意欲への期待感が
余りにも冷静さを失っているのではないだろうか、というのが私の評価です。
私は、無論、中国経済と日本との良質な国際関係を望みます。
しかし、政治体制=軍事体制と日本の国家体制を、
反射的に対照化した見方が必要だと思います。
七方言、それぞれの文化圏
私は次の視点が必要だと考えています。
まず、日本から中国を見るには、
人口対比と人口構造=年齢構成での人口対決があります。
これは軍事対決が隠避されているということです。
また、中国のどこを見るかという点では、
「格差社会」と「政治体制=市場経済主義」と
日本での資本主義体制の脆弱性をも対比する必要があるでしょう。
私は、結論として、中国は明らかに多言語国であること。
それは言語的には七方言があります。
これを大きく大別しても5言語となり、
それぞれの言語文化があるということです。
呉語国家イベント
すなわち、上海万博の影響は、
上海語=呉語文化圏だけでのイベント、
呉語文化圏での万博にすぎないという見方も重要だと考えています。
上海大学の教授との会話で、
「北京ですか?国が違いますから、北京の大学で問題となる発言を聞きたい」
という流ちょうな日本語を思い出すのです。


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『資本主義からの逃走』
  *「これだけ遅れてどうする、日本のケータイ!」*


   


     2月 7th, 2010  Posted 6:00 AM

Japanese ケータイ
今、私は、若手デザイナーの仕事ぶり、
その評価や批判はしたくありません。
しかし、日本の文明や文化に影響があるとなれば、
やはり、評価を述べておかざるをえません。
なぜなら、それはデザイナーの責務ではないからです。
特に、日本のケータイ、ケータイデザインです。
もう、国際的にも日本のケータイは、「特殊・特別」。
特別といっても、特別に優れているわけでは無く、
特殊というのは、取り残されている特殊性です。
これは、日本のケータイ電話通信企業が、
完全な「鎖国」にならざるをえないほど無能、
そして追い込まれているからでしょう。
「デザイナー・ケータイ」は、
当初は、デザイナーの力量と技術がマッチして、
「国内的にだけヒット」しました。
私はすでに、そうしたケータイの世界的な通信環境や
通信ネットワークの選択と進化方法が間違っている、
という警告を、文章や講演で語ったので、
「嫌がられ」・「怖がられ」デザイン依頼は皆無でした。
大手の通信企業に、人間工学的(?不信工学)な検証での
設計基準づくりはしました。役だったとも思っていません。
なぜなら、それすら読み取れないデザイナーも多いのです。
それから、映像通信をケータイ化の技術開発は、
あまりにも管理職、その無能力さでお断りしました。
いや、「ヤーメタ!」という次第です。
その後は、ある企業トップから特別依頼を受けました。
まったく革新的ケータイ、
特に、INPUTディバイスを提案しました。
その直後に、iPhoneの登場です。
でも、まったく私のコンセプトや、
コンテンツが違うので、いつの日か、
この思考でのデザインは実現できると、思っています。
●問題は、若手デザイナーは「通信・ネットワーク」を、
「ケータイの形態」だけの発想は辞めるべきです。
●それを要求する通信企業のケータイキャリアに、
異論を言う勇気を持ってほしいのです。
●そのためには、日本発・日本初の「技術知識」への、
大きな夢を抱いてほしいのです。

私は、3月に「ケータイ国際フォーラム」で、
「消えていく、コンピュータと新たなケータイの形」を
提案してみるつもりです。

Mobile Phone

made in Japan


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『資本主義からの逃走』
 「景気循環論から離脱させるデザインをめざす」


   


     12月 22nd, 2009  Posted 10:00 AM

循環させるための付加価値

資本主義でほとんど完全防御されていた経済性の循環。
しかし、「循環」には、必ず、異変が起こります。
そのことは、マルクス以後、様々な経済学者によって、
また様々の資本の投機と回収、あるいは資本の貸借など、
その手法論や合理的な運用が論理化されてきました。
私は、「モノづくり」の初期段階で、
デザイン」を投機してきました。
それは「回収」されるべき利益構造が、まったく、
資本論はじめ経済的な論理では説明も解釈も困難でした。
そこで私が見つけたのは、「感覚」で受け止める「価値」、
モノの「存在」でした。
私の資本主義からの離脱はこの発見時から始まったのす。
まず、大きな疑問が常にありました。
「特殊解」と受けとめられる「かたち形態」には、
決して、「価値」、それこそ「付加価値」であろうが、
「全体価値」であろうがその「存在」が意識化されません。

特殊解的な形態

したがって、
そうした「特殊解」的な「かたち」には、
一般的な「価値」すら生まれず、「存在」させた、という
「事実」だけが残りました。
この「事実」だけがデザイナーの「労働対価」だとすれば
デザイナーには、
「景気」というある種の指標は無関係だということです。
この構造が、
とりわけ、日本の企業にとっては好都合だったのです。

景気からの離脱

デザイナーの存在、頭脳的、感覚的、時に芸術的労働者は
「付加価値を創出」する職能集団に仕立て上げることが、
最も容易に組織化することができました。
だから、デザインを「付加価値」と言い切ったのです。
その「付加価値」は、「欲望を刺激」して、
「欲しい」、「買いたい」、という、
流行ファッション・風俗・サブカルチュアに、
仕立て上げました。
私は、この一見、
文化へと交代させたかのような「循環」と「代謝」から、
私のデザインを離脱させることで、
「景気」とは無縁の「モノづくり」のデザイン職能を
めざしてきたと思っています。


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