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Posts Tagged ‘断言’


05月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

05月11日 先勝(戊戌)


夢想、白日夢などは
想像力による妄想と
言い切ることが可能。
たとえ妄想であっても、
「心的表象」=イメージである。
このイメージは、
感覚的な認識力と断言可能か?



川崎和男の発想表現手法


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『正方形という形素は要素と要因を2通りで提示』


   


     4月 20th, 2017  Posted 12:00 AM



正方形というかたち:形素に引きつけられてきた私の一生です。
もうこのことを断言出来る頃になりました。
正方形には4つの直角と4つの辺の長さが一定であること。
正方形には前夜も告白した斜辺は√2に形素仕掛けが可能です。
さらに正方形は円の外接・内接でそれこそベンチャーキャピタルを
サインカーブで描くことができるのです。
こうした正方形の定義が明確にあって、
それを配置する基本が2つあるのです。
この正方形の配置が2つ基本に存在している形態言語の意味性には、
要因と要素の視覚化を正方形で提示することが可能になるのです。
それこそ、かたちとして自然界では、
見つけ出す工夫を仕掛けられたのだと
私は思ってきました。
正方形の配置が2つあることは
ひょっとすれば神=Creatorが人間に考察を求めてきたこです。
直角で4辺にあるA・B・C・Dは
長さ=Lineが等しく、
これらが形素の要因を与えています。
もう一つの配置は正方形の頂点、
a・b・c・dはPointとして要素になるのです。
私がデザイナーという職能で辿りついたのが正方形の配置が2つ基本でした。
そこで、この正方形の√2や直角性、
4辺の長さは要因として
私の中にある自然界から命じられた美、おそらく美でしょう。
その要素と要因だったと私というcreatorは思っています。


* 『サインカーブ的なデザイン主導での製品化と商品展開』
* 『デザイン思考には造形言語論と形態言語論が欠落』
* 『PPMはすでに図表表現が異なっている=KK適塾』
* 『Max Billの賞杯があったことを思い出した』
* 『Line発想により倫理性としての機能が明確化する』


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01月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

01月12日 友引(己亥)


今では、デザインには
多くの人が興味をいだきます。
デザインと感性
デザインとセンスなど
それは想像力と創造力が
対比されますが、
多分、この関係を
私は断言出来るでしょう。



川崎和男の発想表現手法


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『歴史的な条項言説を正しく使用しなければならない』


   


     1月 7th, 2017  Posted 12:00 AM



私たちは時々、常に知的な常識を表面的な記憶ではなく、
その真意と深意に立ち戻らなければならないと思います。
その最大の理由は、表面的な意味に縛られていて、
本当はなぜ、
歴史的にも私たちには再検証しておくことが必要になるからです。
それは、時代、時流での人間の意識には、
性善説の人たちと性悪説の人たちの
とてつもない嫌な社会的な衝突があるからです。
私が今、自信をもって断言出来ることは、
この時代は、いや21世紀に入ってから、
デジタルの世界・インターネット時代は
それほどでもなかったのに、おそらくSNSが人間社会を二分したのです。
それは世界的にも、自分勝手さが放置されるとともに、
その放置は宗教哲学的にさえ、食い止めることができなかったことです。
今、世界は地球は地球市民とかに性善説な世界観を与えていますが、
実は、ナショナリズムが各国で台頭してきて、
グローバリズムなんて嘘だとは言ってはいけない風潮があるのです。
世界全体を見渡して私の評価・判断を言うことはむずかしいですが、
私の世界、それも日本のデザイン界を眺め渡すと、
物真似?、コピー?、いや、盗作が平然と起こり、
さらには未だに「デザインとは何か?」、この低レベルな発言や講演は、
デザイン教育にまで及んでいることです。
そこで、私が自分の歴史的な知的な深度ある常識を
性善説も性悪説も超越した、古典的な記述を投げかけておきます。
ハンムラビ法典の196/197条?項目、
「目には目を、歯には歯を」という懲罰条項を思い出し、
その真意と深意の正当な報復の現代解釈を持ち出しておくことにします。
「かわいいはデザイン評価にはなりえない」
「工藝とデザインの美学性の正当性を語り直す」
「デザインコンテクストの商売利用」に、この条項を与え直します。



* 「テロという名の殺戮に怒りを込めて」
* 「アーティスト、デザイナーにだけ降りてくること」
* 「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」
* 「グローバリゼーションはローカリズムの対極だろうか」
* 『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


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『アートの主観性とデザインの客観性、明確な分別』


   


     11月 14th, 2016  Posted 12:00 AM



私は金沢美術工芸大学でデザインを学びました。
そしてすでにデザイナーとしてのデザイン活動は40数年になります。
よく質問されるのは、デザインと芸術、アートとデザインの違いです。
この質問:課題=Question、回答=Answerとなれば、
明確に答えることが出来ます。
この図の左はマルセル・デュシャン:アートであり、
右は自分の「デジタルアッサンブラージュ」というデザインです。
アートは「主観的」であり、
デザインは「客観的」なモノと簡潔に断言することができます。
正直、アート、デザイン、工芸、建築、美術、音楽において、
主観性と客観性が分別出来るかとなれば、
この質問への応答、あるいは回答は難しいことは当然です。
しかし、アートとは、アーティストの主観が表現に向かうことであり、
デザインはデザイナーの客観、つまり、作り手や使い手の立場を熟考した、
その結論的な答の表現だと言い切ることが可能です。
これは、たとえばアート作品への評価も、
アーティストという作家の主観性が徹底的な客観的な判断に委ねられます。
デザイン評価は、最初はデザイナーや評論家の主観性を持ち寄りますが、
最終的にはそれらの主観性それぞれが作り手・使い手の立場という客観にて
評価は限定されるわけです。
アートは主観的な想いを客観性に判断を任せ、
デザインは客観的な想いを作り手・使い手の主観性に委ねている、
これがアートとデザインのはっきりした分別です。



* 『「金の美」展の出展説明表示プレート』
* 『診る・看る・観る・視るを取り囲む安全と安心の環境』
* 『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』
* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


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10月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 31st, 2016  Posted 12:00 AM

10月31日 仏滅(丙戌)


創造をするには
想像力が無い限り、
絶対に
創造・モノづくりは
出来ないと断言できる。



川崎和男の発想表現手法


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『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』


   


     7月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM



踏みつけたくなるタイトルがあります。
それは「●●●●●●とは何か?」、という文章タイトルです。
たとえば、「デザインとは何か?」とか、「建築とは何か?」という、
とりわけ自分のプロ意識、職能意識にとっての
いわば質問形式のタイトルです。
そしてこれまでも科学的な知識を述べてきた書籍、講演、
あるいは運動などで、このような質問形式のタイトルが出てくると、
まずセンスの無さ=無能なる自分修練の浅薄さを感じます。
なぜなら「●●とは何か?」を全否定した芸術評論家の衝撃な思考のあり方、
あるいは、とりわけ「現代芸術のあり方」理念の
初期認識論を読んでいないからです。
「現代芸術」ほどその解釈や思考はとても困難なはずですから、
いわゆるハウツー本などで
この問いかけから始まる書籍は捨て去って構いません。
ところがハウツー本でもないのに、
この質問方式は能無しの典型だと断言できます。
これには二つ論理性で理由がつけることが可能です。
一つは、情報化時代直前に、この質問形式では、
これからの知的思考方法は時代遅れになるということ。
そのためには「■■■■が●●になる。」ということで、
「●●とは何か?」では無い論理組み立てが要るという発想があったのです。
もう一つは、「●●とは何か?」という質問での答えには、
三つの答の分類が出来るのです。それは、質問が
話題:Topicsであれば応答:Replyであり、
課題:Questionであれば回答:Answerであり、
問題:Problemであれば解答:Solutionになるということです。
したがって、「●●とは何か?」という質問での答が
応答、回答、解答のいずれかであったとして、
単なる応答や回答であるなら、その論理性は崩れています。
新たで明確な論理的な答であるなら解答でなければ意味はありません。
この写真の書籍での第一章からの質問形成では応答にすぎません。
よって、こうした書籍内容は能無しと判断しておきます。

*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』
*『デザインは機能美ではありえない』
*『記号論・文庫版になった定本だから再熟考対象だ』


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『美しさの判定は言語判定での倫理に宿っている。』


   


     6月 21st, 2016  Posted 12:00 AM



おそらく現代も、特に「イノベーション」をとか、
「デザイン思考」だとか、
「ソリューション」という言葉が多用されています。
そこには必ず「コンセプト」という、あたかもデザイン効果があるという
そのような企画が大氾濫しています。
しかし、これらでは明らかにデザイン成果はゼロだと断言します。
企業経営とデザイン=企業デザインと経営のイノベーション、
あるいは
伝統工芸とデザイン=産地活性化のデザインイノベーション、
この二つが明確に自分には見えています。
ところが、これらの成果・成功を、デザインで意図している背景には
「コンセプト」・「ソリューション」・「イノベーション」が
必ず存在していることを最も自分は危惧しています。
「イノベーション」の原意とそこからの歴史を思い出していただきたい。
「ソリューション」のテーマは「問題」でなければなりません。
ところが、ソリューションでの答は応答であり、回答に過ぎず、
そうした答えがイノベーションに成ることは決してありえません。
それらのデザイン成果をあたかも生み出すであろう、
それこそ「デザイン思考」には
ぴったりと「コンセプト」が張り付いています。
観自在からの概念や観念ではなくて、
あくまでも言語性と記号性の問題です。
そこにはstory:物語、argument:議論というライン性が明確にあります。
すなわち、思考のブラックホール、論理の対象性、
これらを破壊する発想は決して「コンセプト」には存在していないのです。
この感性を強化しているのは知性でも理性でもありません。
それは倫理性・倫理観という健全な想像力です。
この想像力は限定された人間にのみ存在していることを判定すべきです。
デザイン意図とデザイン内容に、
「造形言語」と「形態言語」によるデザイン、その造形手法は決して
「コンセプト」や「デザイン思考」はありえないのです。
最大の理由は、デザイン造形でのイノベーションとは、
「美しさ」を判断する倫理性があるかどうかだと思っているからです。

*『デザインは解である』
*『デザインは記号論的な『造形言語と形態言語』での論理化』
*『「形と性能」・デザイン成果=造形言語と形態言語』
*『盤・盆・膳」という文化は木に宿る』
*『現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ』


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『Line発想により倫理性としての機能が明確化する』


   


     6月 19th, 2016  Posted 12:00 AM



Lineと言えば、
現代はSNSの一つの代表的なスマートホンの手法です。
しかしこれ以前に、米国の日常語=ほぼスラングに登場したlineには、
”a story or argument used to seduce someone”という意味があります。
この現代的な使用語の登場こそ、これまでのconceptでは到底困難であった
イメージや印象をすべて捨て去ることが可能です。
特に、「美的」であることの包囲性がconceptにあれば、
それは論理を超えた倫理性の必要性を再訴求することでした。
つまり、プラトンが「美しさ」を判断の決定要因に用いたということは、
論理ではなくて倫理的な判断によるものです。
倫理的な判断は、それこそカントの「純粋理性批判」で、
ようやく「感性」と「理性」を同格とした判断基準が最重要視されます。
デザインにとって、
「感性」と「理性」の合致性は「倫理性」になるわけです。
それは間違い無く「機能美」とデザインの再考を余儀なくしています。
まさに機能論はデザインの登場で語られる以前から論議されてきた
実際的な美学的な理性判断であったということです。
その理性判断の曖昧さを感性的な見方には理性判断と同等と決定した、
それこそカントの判断すらconcept発想は破壊してきたと断言しておきます。
もはや伝統となったことを曖昧にしてきたことがconcept発想であった、
というのがデザインでの美の創出で明確になったのです。
黒は全てを飲み込むブラックホールであり、
それは思考・論理をも飲み込むでしょうが、
ブラックホールとホワイトホールに設けた境界ラインに、
実は倫理としての「美学的な」決定ラインが表れていると主張します。
コンセプトという境界が、物語性すなわちアフォーダンスの配置は
決して登場させられない機能の再構成と構造を決めるでしょう。
その決定によって、性能・効能、そして機能として個別的、複合的、
さらに、統合的な倫理感覚をLine発想が可能になります。
それこそ、初めてコンセプト発想を解放することとなり、
その拡大的かつ深度を知ってもらいたいと自分は真剣に考えています。

*『コンセプト主義からの解放=デザインテクノロジスト』
*『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』
*『モノの神話性から物語り性がアフォーダンスを超えていた』
*『難問解決の大ヒントは「素材」開発デザインの美です』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


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『コンセプトから逃走してほしい・・・』


   


     6月 17th, 2016  Posted 1:00 AM



おそらく20世紀後半に、人間の思考は、
「コンセプト」に呪縛されてきたとようやく指摘できます。
この言葉は側に「概念」という訳語を
日本語解釈には持っています。
しかし、概念とコンセプト、あるいはconceptについて、
自分はデザイナーとして確かに寄りかかっていたことは
自白しておかなければなりません。
そして、デザインを教育する立場では、
まず、「概念」と「観念」についても、無論、哲学用語からも、
さらには「概念」と「観念」の間にconcept=コンセプトを置いた講義、
それだけでは自分自身が「コンセプト」のまともなあるいは正当な
その定義を確実に伝えたという経験はありません。
もっとも「コンセプト」を多用しているそれこそ、企業の開発、
あるいは大学での研究などにおいても、
「コンセプト学」などは皆無と断言していいでしょう。
したがって、自分が「コンセプト」とは何か?という説明では、
「端的に一言で言い切ってしまえる印象」ということが
的を得ていると一応思ってきました。
でも、これすら自分のデザイン活動の中で大きな疑念がありました。
特に大学人になってから、それこそ一流の学者たちが、
日常的に多用している「コンセプト」ということになると、
この疑念は明白に、思考的、哲学的、科学的な
「大間違い」であると言い切れるようになりました。
例えば、
黒というコンセプトと白というコンセプトと言い切った場合、
「コンセプト」で語られた白であれ、黒であれ、
印象の曖昧さしか残っていないということです。
断言すれば、黒は全てを飲み込み、いや包含していて、
白は反射して、概念でも観念でもありえない事実でしかありません。
かねてより、「観自在」に委ねられた人間の発想・着想、そして思考には
もっと連綿とした対立や対比が「ライン」で連続しているのです。
「コンセプト」を早く捨てることを推奨します。

*『空間へのdolly的な隠喩性という手法』
*『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』
*『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
*『照明の文化論としての陰翳礼讃』
*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


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