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Posts Tagged ‘断言’


『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』


   


     12月 24th, 2015  Posted 12:00 AM

工業デザイナー仲間と話をすると必ずこの車の話になります。
フェラーリでも、ポルシェでも、ランボルギーニでもなく、
ボンドカーになってしまいます。
成金趣味を超える所有と使用、
その価値は爆買する中国人には売らない主義、
それを今も護りどこまでデジタル化を許しアナログ性を護り抜くべきかは
企業現在のモノづくりの限界設定であり、
価値感のあり方に対する「閾値」決定論になっていると私は考えています。
「価値論」の根本は今流行の「デザイン思考」では決して到達しません。
なぜなら、
デザインには三つの方向があります。
相互作用力と重力=現在時代力、電磁力=経済と文化と歴史です。
さらに思考には、思うことと考えること、
この三つが反映されてこその「デザイン思考」には大欠落があります。
それは「野生の思考」から「デザイン思考」が
生まれたわけではないのです。
元来、デザイナーの方法論がビジネススクール以上の方法論、
それも「イノベーション」を導き出すというのであれば、
シュンペンター発想が歪曲された資本主義上では成立不可能なことです。
そこで私の使命は「コンシリエンスデザイン」に辿り着きました。
日本のモノづくり原点から一度は経済的な大試練を受けた、
新たな公益な資本主義と
デザインの統合主義=コンシリエンスデザインです。
具体的に私は一つのカーデザインにその具体性を唯一見いだしています。
だからデザイナー仲間が集まるとこの車、ボンドカーになるのです。
そのディテールには風=風圧と速度を曲面造形の抵抗とその解消解答です。
これはコンシリエンスデザインとレジリエンスデザインのシンボルです。
レジリエンスデザインというのは、一言で断言してしまえば、
ストレスには決して押しつぶされない抵抗自力の端正力です。
人間は決して自然とは調和などできるわけがなく、
しかも人間には有限があります。
生きていくことが死んでいくことへの道程であり、
そのことを忘れて生きているにも関わらず、年老いて直ぐに気づくのです。
ボンドカーにある曲面造形には、風圧抵抗:前進しなければならないこと、
その抵抗を真正面で受け止めて、
後方では見事に重力で地面に張り付くという造形での解決策です。
私は安易に「デザイン思考」とは呼ばずに、
「コンシリエンスデザイン」と呼んでいます。


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『医工連携を看医工学ベクトルとしてさらに強化』


   


     12月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

「KK塾」で、私はコンシリエンスデザインを冒頭に紹介しています。
今回は、医工連携+デザインで看医工学がコンシリエンスデザインと
極めて密接な関係があることを語りました。
まず、ベクトルとして医学と工学を再定義しても「デザイン思考」では、
語り切ることが不可能なことを伝えました。
その最大の理由は、デザイナー的な思考方法での欠落部が多いことです。
しかも「デザイン思考」は米国からのコピーで、ブーム化しただけです。
医学と工学に、看護学と保健学が加わってこそ、
医工連携では、とても現実的な形態設計もさらに制度設計も困難です。
それこそ、コンシリエンスデザインであり、
これがデザイン思考というブームでは不完全なことをまずは二次元、
二次元ベクトルでの要素を増やすことの提唱をしました。
医学と看護学は安心を与え
医学と工学で対症治療になること、
それも対症療法という曖昧さを排除しました。
さらに、保健学が工学に与えることが安全になり、
看護学と保健学が予防になることをベクトル的に示すことで
看医工学こそ、
医工連携+デザインの真のベクトル的な論理としました。
今回の「KK塾」での私のコンシリエンスデザインこそ、
デザイン思考をブームから解放して、
これが日本からの発信になるという提言にしました。
実は問題は、この2次元上でのベクトル展開だけでは
とても語り切れるものではないことを
次回の「KK塾」につなげることをつたえました。
これは、滋賀医科大+国家プロジェクトEDGEでの基調講演を
さらに深めたものになったものと思います。
私は、2次元上での思考展開では、
いつまでもニュートン的なベクトル展開の限界があると思ってきました。
これこそこれからの実務デザインで、
その革新性につながっていくと考えています。
これはコンシリエンスデザインが
次世紀デザインの基本理念になるでしょう。
今回の「KK塾」の提唱性であり、それは前回、テクノロジストであり、
阪大招聘教授とした濱口氏への講演からのヒントへの回答でした。
しかも、
今回、東大大学院で世界最小のマイクロナノロボット開発者、
生田幸士教授に、
「ブーム」となった時点で、その思考、その行動、
その実績は終わっていると断言してもらいました。
私は、ニュートン的ベクトルでの領域学、その実力を
量子力学、すなわち3次元的アナロジー化していくことを次回示します。


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『次世代デザインの「KK塾」スタートです』


   


     10月 20th, 2015  Posted 12:00 AM

阪大の医学系研究科に移籍してから、
文理融合や医工連携では限界があることを開発実務毎に
大きく感じてきました。
特に、「危機管理工学とデザイン」の関係には大疑問があり
それこそ3.11復興事態が危機管理工学中心主義は間違いです。
そこで、「危機解決実務としてのコンシリエンスデザイン」を
私は提唱するとともに、この後期から医学系研究科にて講義を開始。
と同時に「KK塾」を学術界や産業界での第一人者の専門家を
私の評価基準で
選びに選んでこの講座の講演者になっていただきました。
デザインは未だにデコレーションと同義ですし、しかも、
エンブレム問題や盗作問題でますますデザインの理解は下降しました。
私は、マネージメントやマーケティングが
デザインと同次元で扱われていることをズーッと批判してきました。
本来のマネージメントは短絡的な管理ではありません。
マーケティングはいつも儲け話が先行しています。
学術+芸術の統合=コンシリエンスと断言しても、
統合の概念がこれも問題解決=デザインを曖昧にします。
統合を
 ●「規模的統合」
 ●「ネットワーク的統合」
 ●「機能的統合」
 ●「文化的統合」
という四つの明確な方向性と統合力の大きさで、
問題解決=デザインを明確にしていく講座を開設します。
コンシリエンスデザインであるだけに、
私は講演者それぞれが第一人者である実例を大事に、
その根底思想や手続き、妨害事項、それでも成果評価を
語ってもらうつもりです。
講演者は全てが文理融合した頭脳と行動力で社会的かつ国際的な
実績者たちばかりです。
今、デザイナーの発想方法は「デザイン思考」として語られています。
しかしデザイナーにはセンスが求められていますから、
この講座では、まず、私たちが現代世相から未来創出の
問題点そのものを明白にすることから始めてもらうつもりです。
人類にとっての最大な問題は、「生き延びること」につきます。
しかし、私たち日本人は3.11で、天災と人災でもう一度、
自分たちの生活様式に対し、再熟考を要求されています。
私は敗戦を体験し、先進国家だけに未来をデザイン設計する立場なのです。
もはや、これまでのデザイン系大学では近接不可能な
次世代デザイン=コンシリエンスデザインがこの塾で社会化します。
この講座では、コンシリエンスデザインを
私は看医工学に向けてより正確な質問と対談を講演者とやってみます。

* Website-HP


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10月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 17th, 2015  Posted 12:00 AM

10月17日 先負(壬戌)

私はデザインの基本は発想、
その発想は「スケッチ」にある。
物を見る・観ることだと
これまでのデザイナー経験では
確実に断言出来る。

川崎和男の発想表現手法


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『手づくりから物事デザインと事物デザインを決める』


   


     10月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

私は工業デザイナーゆえに工業製品の確実さを最も信頼しています。
だから「大嫌いなモノづくり」に『手づくり』があります。
現代手づくりの大間違いは、手づくりだから一点一点違いがあります。
これは嘘です。本来、手づくりならば、正確無比でなければなりません。
そういう意味では、私が手づくりで認めているのに、
この万年筆とボールペンが在りますが
これらのいわゆる作家二人は亡くなりました。
だから最期の製品だということです。
もうこの手づくりは無くなるでしょう。
ボールペンは跡継ぎは、この手法をすべて機械づくりにしてしまいました。
残念ながら、もう選ぶことが出来ません。
手づくりには、手造りと手作りがあります。
万年筆は手造りであり、ボールペンは手作りです。
この違いが分からないデザイナーが増えてきました。
それが、人の手が入っていて「手づくりの良さ」とか言われると、
それこそ、物事のデザインと事物のデザイン、この差異性も論理化できない
デザインの無知さを指摘しないわけにはいきません。
すでにデザインはモノからコトに変わってきました、
という言われ方があり、
これは物事のデザインです。
ところが、コトのデザインが出来ているから、
これぞグッドデザインというのは、大間違いです。
事物のデザインとはおそらくIoT=Internet of Thingsになります。
ところが、IoTを語るITベンチャー企業は、
30年後には1000社が2.8社残るどころか、
5年後ほとんどが消滅していると断言しておきます。
手づくりは、手作りと手造りが、
物事のデザインと事物のデザインを成し遂げなければなりません。
アートもデザインもその差異性も語れないのに、ともかくデザインを
簡単に誇張している作品に、これまたマスコミが絡みついているのです。
正確無比なデザインが手づくりの万年筆を探し出すことは
とても困難になってしまいました。
それこそ、この万年筆もボールペンも米国の作家でしたが、
もう亡くなってしまったのです。
今、この傾向がペルシャ絨毯の世界にも広がっています。
幸いなことは、日本の本当に数少ない伝統工芸産地の
ある才能には残っていることです。
物事のデザインと事物のデザインをI2Tにしていくには、
真の「手づくり」、その正確無比さをデザイナーが
語り直す必要があるようです。


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『ゴジラというアンプ思想はアンプジラ2000に継承』


   


     9月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

このところオーディオマニアで話題になっていることです。
GODZiLLAというパワーアンプの話です。
私が東芝で結局最後の仕事になってしまったSZ-1000という
エレクトレットコンデンサーカートリッジの
イコライザーアンプに直結した話にもどります。
理由は、私はオーディオの世界で社会人デザイナーになり、
おそらくありとあらゆるオーディオ機器は聴いたと断言できます。
正直、当時のアンプで,今も定評があるアンプは
私にはさほど大したことはありませんでした。
ある日、このイコライザーアンプはプリアンプなので、
パワーアンプを探していました。
そんな時、どこからか板金そのままで荒々しい、
とても商品とは言えないアンプが来ました。
一台は完全に分解されていましたが、
この時期にはトロイダルコイルの開発で国内メーカを、
探していました。電源部はトロイダルの話が蔓延していました。
それ以上に、荒々しいレタリングで素人が書き殴った
GODZiLLA:ゴジラは、日本の怪獣映画で、
パワー最大という印象がありました。
そのレタリングがシルク印刷されていてそれも焼き付けされていない程。
これはとても商品では無いと思いました。
当時この評価記事があったらしいのですがあり得ないと思っています。
なぜならこのアンプと鳴らすべきスピーカーシステムはJBLから独立して、
レッドツェペリンの後押しでできたメーカーで2名がAurex提携で来日。
私は磯子の音響工場で彼らと話して,彼らから来ないかと誘われました。
私はこのメーカーに企業留学を決めて交渉をしていました。
彼らから、このスピーカーシステムはJBLを超えるが、
それにはこのゴジラしかないと言われていました。
無論、このゴジラのアンプはアンプジラでした。
このスピーカーシステムを知っている人はまだ出会っていません。
しかし、ゴジラもアンプジラも製造物責任法が丁度できたのに、
使用者納得であり、製造物責任は今も放棄しないと使えません。
それは、このアンプで感電したり、
スピーカーシステムが破壊されたりしても「使う」ということです。
そして、ジェームズ・ボンジョルノの存在を知りました。
私は、SZ-1000は必ずこのアンプを繋いでならしていましたが、
表向きにはAurexのパワーアンプでした。
アンプジラ2000はようやく大阪に行ってから手にいれました。
しかし、そのためには整流器が当然必要であり、
電源コードもメディカルコードでなければなりませんし、
このアンプの下も本当は金素材ですが、
私はインド産の石材を使っています。
アンプジラ2000はジェームズ・ボンジョルノの最後の作品です。
彼はもう逝きました。
?


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『Beogram9000でアナログ感を鍛え直すべきか』


   


     9月 14th, 2015  Posted 12:00 AM

このところ自宅の倉庫を片付けてもらっています。
収集していたオーディオ機器、
それはAurexで自分がデザインし、
当時はとても買えなかった作品です。
ちょうど、作品だと思って収集したときに、
金沢21世紀美術館で、自分の個展ができましたから、
一室はAurex関連だけを展示することができました。
幸いにまだ使える機器もあり、部品用もあります。
そして、あとは使っていない機器です。
そうした中にはBeocenter9000とBeogram9000があります。
どうしてもBeogram9000は、カートリッジも含めて、
もう一度、LPレコード盤を自宅に持ち込もうと考えました。
収納時には徹底的に清掃してあったので、まだ使えます。
ただし、
LPレコード盤は3000枚ほどを整理して70枚程度しかありませんが、
すべてオーディオチェック盤としていたモノと、
DAMで45回転LPでの優れたシリーズ盤
「マニアを追い越せ大作戦」の一部だけです。
このシリーズは
今、マスターテープも残っていてようやくHPも立ち上がりました。
そんなこともあって、
Beogram9000を復活させようかと考えはじめました。
ところが問題は、これはDINでのOUTPUTゆえに、
プリアンプはLINNゆえのRCAに変換しなければなりません。
その前に,一度分解をして総合的なチェック後かと思いつつも、
あと2台ぐらいLPプレーヤーは必要ということになると、
それはどうしてもワイフには許してもらえそうもありません。
最近、このFBにはオーディオマニアだけのHPがあり、
そこでは、
LPレコード機器、SMEのアームや、カートリッジが登場しています。
ここではとてもマニアックな話が多くてワクワクします。
この会話に加わるには、
思い出さなければいけないことが沢山あります。
特にアンプとカートリッジは思い出さなければ、
会話についていけなせん。
先般は、ある試聴用曲では、
今も私が常に使っているだけにそれこそ紹介も交えて
書き込むことができました。
なんといっても、
デザインよりもオーディオの講義をしたいぐらいですから。
自分が社会人デザイナーになったのも
オーディオの世界からスタートしたのは、
なんとも幸運なことでした。
それがデザインの基本になっているがゆえに、
多分、オーディオビジュアルにおいても、アナログからデジタルでは、
やはり、デジタルという技術進化は
アナログ世界観が身体化していないことには、
絶対に無理だと断言できるのです。
そうなると、
やはり、Beogram9000は自宅に再度設定しなければなりません。


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『照明の文化論としての陰翳礼讃』


   


     8月 31st, 2015  Posted 12:00 AM

日本には文化として照明には二つのことばとその結果の漢字があります。
ひかりとあかり、その結果として影があり、影には、陰と翳です。
ひかりとは、見つめられない、まぶしさがあり、
あかりは、見つめることができる炎である焚き火や蝋燭の炎でしょう。
古来、日本人には、まぶしさとあかりそれぞれのコントロールは、
障子の存在であったと私は理解しています。
そして、このひかりとあかりを制御してきた影の存在を体系化した
文化として谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」という美学論を持ちました。
この記述は、なんとも廁の美学性まで語られるのです。
私は「陰翳礼讃」こそ、今なお熟読されるべき照明論だと考えます。
「陰翳礼讃」は一言で断言すると、
太陽の光線は朝日、夕焼け、木漏れ日を障子という素材で、
光線=ひかりを見事にあかりとその陰翳効果にしていくのです。
現代技術は、ひかりのコントロールに焦点があたっていますが、
私が最も重要だと考えているのは、陰翳の技術というより手法です。
光はその光度を限りなくアップさせることは可能になってきました。
そのことで、私たちの視覚能力は狂ってきたこともあります。
たとえば、液晶LCDモニターからブルーライト光線が多くて、
ブルーライト削減かカットの眼鏡が最もらしく語られます。
しかしこれは大きな間違いであり,重要なのはドライアイ対策です。
同様に,空間の明るさは、灯りとしての照度が暗がりの制御であり、
それは暗闇に差し込んでくる一条のあかり、木漏れ日のまぶしさまで
人間の視覚能力の対応性を築くことだと私は考えています。
あかりごこちこそ、陰翳礼讃につながっている照明論です。
すなわち、暗がりのなかでの灯りを造形言語=designing languageで
照明のデザインを行い、その結果としての陰翳こそ、
形態言語=designed languageとしての結果認識だと理解します。
照明論は明白にLEDとWifiとIRと電磁波そして放射能の制御に
私はこれからの照明論の統合性=コンシリエンスデザイン現象が
あると言い切ることができます。
それは機能論としてのひかりの安全、規模論としてあかりの安心、
ネットワーク論としての無線化技術、文化論としての陰翳です。


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『広報誌がまだジャーナリズムである』


   


     8月 10th, 2015  Posted 12:00 AM

私は福井在住の頃、福井県行政のまさに敵あつかいでした。
それは福井県行政がいまだに時代遅れ、を指摘するからでした。
県行政からは広報誌など名古屋にはまったく送付無しでした。
今は福井市と越前市から「広報誌」が届きます。
つまり、全国にこうした広報誌はどれだけ発行されているでしょうか。
私は今も越前市の広報大使をしているので毎月の日毎の企画を知ります。
決してこうした広報誌が行政の税から作成されていたとしても、
いわゆる「ジャーナリズム」の基本の基本は全うされています。
だから一般マスコミの雑誌出版は消尽すべきだと断言します。
もはや出版業界そのものが低迷どころかもう時代的な即応性を
失ってしまっていますから、ジャーナリズムそのものは、
新たなメディア、それはインターネットでのHP以上があるのに、
すべての出版業界は発明も出来ないのには私は呆れています。
呆れると言うより、ジャーナリズムの基本理念を喪失してる業界の
能力レベルが時代的に露呈してきただけの実話に過ぎません。
私にとって、デザイン系・建築系・技術系・芸術系などは
現代は全てが行政の発行する広報誌以下のレベルに成り果てています。
その理由を決定的に記しておきたいと考えます。
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
現代を記事として出版しようがHPアップしようが時代読解力無しです。
そして、得てして出版は未来を語ろうとしても、
それらはすべて取材して編集、
それも編集学に無知な記事だと勘違いしているのが出版業界であり、
マスコミもサブカルチャー雑誌も、行政の単なる「日々の記録」を
決して超えることが出来ません。
かつて私は17年もある雑誌に連載をしていましたが、
それは出版としての経済投資効果を得られずに出版が終焉しました。
私はその変わりがこのHPでの小さな物語というジャーナリズムとして
それは自分自身への編集学そのものだと考えています。


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『デザインディレクター・職能名の定義をしておきたい」


   


     1月 31st, 2015  Posted 12:00 AM

「デザインディレクター」という職能名が一般化してきています。
そこで、よく、私が聞かれることに、
「デザイナーとディレクター」とはどう違うのですか?ということ。
これはまるで異なっています。
デザインディレクターということについては、
丁度バブルが来る直前に、
数名が毎月ある会合をしてきた時期がありました。
だから、デザインディレクターという職能名を決めていたメンバーは
限られていますし、その時の事情を知っている工業デザイナーです。
工業デザインも、インダストリアルデザインから、
プロダクトデザインに変わってきていました。定義が違います。
当時は、「日本D機構」の組織化をねらって議論をしていたのです。
実際は、ある著名グラフィックデザイナーにマーク一連を依頼し、
その周辺も出来上がっていました。そのメンバー達だけが、
このデザインディレクターという職能名を知っています。
まず、デザインディレクターとは、工業デザインが主であること。
工業デザインは、少なからず、10年は必要になると考えています。
その工業デザインを含んでさらにデザイン全体価値を監督可能なこと
これが最も大事なことであり、それは限られた才能と実績が必要です。
製品デザインから、製造プロセスから商品化すべてでの
製品・商品の全体価値、その創造と管理運営が出来るコトです。
したがって、安易にデザインディレクターと自称している輩は、
すぐにバレるでしょう。スケッチも描けない、情報化環境もできない。
ましてや、金型製造から管理、商品計画の展開も出来ない、
そんなデザイン職能は、決して長続きしませんし、
その人物のデザイン能力すら疑われると私は判断と評価をしています。
先般も、「これデザイナーに頼んだのですが・・・」と
私に尋ねられると、私は即座に断言決着を言い渡しています。
「これはデザインどころか、ましてディレクターの仕事ではありません」。
もし、心配なら、当時議論をしていたメンバーに問い合わせ下さい。
それって、誰?、そして間違い職能者?、いづれ書き残します。

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