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Posts Tagged ‘日常’


『日本人の常備薬としていまなお傍らにあります』


   


     8月 20th, 2017  Posted 12:00 AM



赤坂でフリーランスのデザイナーにならざるをえなかった私は、
40歳までの寿命と告げられてもレコード針メーカー・ナガオカでは
ジュエルトーンブランドをディレクションしていました。
が、企業方針と合わずにスタジオも辞め、福井に帰りました。
身体も相当に悪化していましたが、治癒も兼ねて
よく県内を車(カマロベルリネッタ)でドライブしていました。
福井のさらに田舎街で、古びた仁丹の看板の横に
私デザインの「Aurex」看板があって(そうか、こんな所まであったんだ)
とても感激して仁丹の看板を見た思い出が今もくっきりと残っています。
そして幼少の頃には、おじさんたちがそれこそみんな
仁丹を現代のフリスクのように、口に含んでいました。
これも日本人、日本民族とともに仁丹がありました。
そうすると、「正露丸」も思い出します。
そしてこの「正露丸」は商標権での問題視は知られていますが、
日清戦争時での下痢や脚気に対して、森鴎外なども企画した
日露戦争に向けて腸チフスや脚気問題解決の医学的で大変な発明でした。
が、「征露丸」だったことは忘れられていると思います。
そして腸チフスに対して、
私は福井県出身である藤野恒三郎大阪大学名誉教授を思い出します。
彼は腸ビブリオ炎の発見者でした。
そうして「征露丸」から「正露丸」は、今なお有効だと思います。
New Yorkで一度、日本人旅行者の3人女性グループが、
見ず知らずでしたが、深夜に私のホテルルームをノックしてきたのです。
友人の下痢が止まらないということで、
海外では常に私は携行していた「正露丸」を渡しました。
翌朝、そのグループに感謝されました。
それほど「正露丸」は今も日本人には大切な日常の常備薬になっています。
また仁丹はああした銀粒状の薬剤は、多種、民間療法的に生まれたのです。
仁丹、正露丸は日本民族の常備薬だと思っています。


* 『静電気、あたかもスタンガンでレコード盤から塵を取る』
* 「ヘッドホンにはヘッドホンアンプ必要なり」
* 『医薬品業界の誤った市場認識と経営方針・大錯誤』
* 「大阪大学の歴史の一つに、藤野恒三郎の存在」
* 「相当困難だと思う」


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『泡=うたかたの機能性には確約がある』


   


     6月 2nd, 2017  Posted 12:00 AM



「流れに浮かぶうたかたの・・・」という、
人生の「うたかた」を鴨長明は、
「方丈記」で無常観の最たるレトリックに使っています。
このレトリックは、人生その生涯は「泡のごとく」守られているようで
一瞬に消えていくことを表現しています。
もはや私も方丈記が身に染みていく実感の日常です。
先般、飯舘村にて、除染の現実を直視してきました。
それは「セルロース戦略」の基幹産業化を考慮した一つの現場実験でした。
私の研究室ではこの実験や飯舘村検証のために招聘教授も一人参画。
私の直感では、泡フォームでの除染剤はある新素材での可能性を確信。
私のほぼこの確信性は確約事項になりました。
ここ10年程度でしょうか?
美肌のための洗顔は泡フォームの石鹸剤です。
泡については以前、洗剤とウレタンフォームでの台所用品で、
泡をいくつか実験をしその結果を商品化もしましたが、
母体企業が乗っ取られて商品化継続は中止されました。
一つは中国での100円ショップ商品でのコピーに敗北したからです。
これには知財権の問題が絡んでいます。
結局、中国のモノづくりは、全く知財権は不要とされています。
正直、「契約」による業務やデザイン対価の契約は、
日本人の商い慣習には見合っていませんが、
いわゆるグローバル化貿易では、知財権は重要課題です。
私自身、知財権には公的にも2008年頃から取り組んできました。
それは、無体財産権である著作権と、工業意匠権が中心です。
そういう意味ではこの世界にいわゆる今流行の忖度は無関係ですが、
私自身はパブリックドメイン、地球人の対価という一つの権力です。
最近は権力と行学の関係が狂っています。
しかし、日本人の生き方としては、
「夢のまた夢なり」とこの「うたかた」だと再認識しています。
それでも美白保持が洗顔フォームのごとく、
泡フォームの性能性は大きな機能性があります。


* 「泡・バブルって、やっぱり凄いんだって思います」
* 『100円ショップの明晰さと確実に連鎖する美知らず』
* 『知財権は意匠権によってコンシリエンスデザインとなる』
* 「知財権・意匠権改変の対象となった商品開発」
* 「未構築・非構築な『知財権』と制度設計」


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『非在性の市松模様、TV背景のデザインはむずかしい』


   


     7月 28th, 2016  Posted 12:00 AM



TVでのコメント場面、その背景です。
実際は、個人的にはもっと新たな背景があるはずと思っています。
しかし、なかなか思いつかず、それでも、プロジェクター投影との
コンビネーションと三つの専門領域を集合させた背景にしました。
これは本日「記者発表の広報」で使用する会場のTV背景デザインです。
最近は大学でのマスコミ発表には、典型的な背景になっています。
TV報道の背景デザインもデザイナーとしては、最も気がかりなことです。
福井でデザインスタジオをやっていた頃は、地元放送局の背景デザインは
日常デザイン業務だったこともありました。
が、とても難しい仕事であったと今も思い出します。
いわゆる舞台背景やそのデザイン表現は、
一時的であっても重大な仕事だったと考えています。
そういう意味ではデザイン対象として完全な裏方仕事だけに難しい仕事です。
自分にとっては、壁面使用へのいくつかのアイディアがあります。
これは展示関連、いわゆるShow-up Methodへのデジタルデザイン、
その展開が考えられます。
自分には、新たな壁面素材とデジタル技術での新しい造形言語になる、
デジタルアッサンブラージュが用途拡大すると思っています。
しかし、このデザインも市松模様です。
別名は市松格子とも呼ばれています。
最近話題のオリンピック・パラリンピックのマークも
市松模様と呼ばれていますが、
このデザインの是非はここでは述べませんが、
この市松模様を立体化する発想はとても新しい発見であったと思います。
市松模様、チェッカーと呼ばれる意味が、こうしたTV背景でも、
現代のある意味づけを確実にラング化したことは間違いありません。
背景という、非在性を明確にする困難なデザイン対象だと思っています。


* 『新素材ブランドの確立をめざす・「羽二重 HUBTAE」から』
* 『TV番組の役割は終わっていることを再確認!』
* 『デジタルアッサンブラージュでの映像音場照明空間』
* 『東日本大震災のNHKジャーナリスト講演から』
* 「たとえ『市松模様でも』デザイン戦略の妙技」


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『「手・掌を清潔に」するモノとコトのデザイン実務』


   


     7月 15th, 2016  Posted 12:00 AM



「手あるいは掌」をきれいにすること。
手を洗うことは外出したら必ず、これは感染症を防止する日常的な常識です。
ここ数年で、病院はもちろんのこと公の場所や店舗などでも手の消毒剤を
どこでも目にすることができます。
しかし、病院ですら、これを常に使っているのは、
医療従事者、医師や看護師さんは当然ですが、来院者が使っている、
その現場は、自分は常に意識して見てきましたが、ゼロです。
企業の入り口にも必ず設置されていますが、これを使用している人を
全くみたことがありません。
理由は、面倒なこともありますが、何と言っても「手が濡れる」という
この印象が強いからかも知れません。
自分自身は、こうした手の消毒剤を全て使ってきましたが、
高級な消毒剤は、直ぐに乾燥してしまいますが、これではまた、
手を洗うコトと手を消毒するという日常性には大きな隔たりがあります。
自分にとっては、やはり、自動的に手をかざせば、消毒剤が掌に乗り、
それでも水でしっかりと洗い流すことが「手洗い」になります。
わが研究室は「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」であり、
基本は「完全無菌と抗体保健」をデザイン対象にしています。
無菌に拘れば、身体は弱体化するというこの矛盾への難問解決が、
コンシリエンスデザイン・レジリエンスデザインを実務化する目標と目的です。
したがって、この「手洗い」の革新をこの3年狙って、
「全く新しい日常的な手・掌の清潔」を目指してきました。
この実装は7月28日に正式に記者発表をすることになりました。
これまでも多少、このブログで紹介してきた「動物実験」でのエビデンス、
これは医療関係での学術的な証左事実の確認です。
そしてこれを学術論文として発表をデザイナー自身がやります。
このデザイン実務は明白な「ビジネスデザインモデル」になるでしょう。
そして、こうしたことに次世代デザイナーが向かってほしいと願っています。


*『看医工学へのレジリエンスからコンシリエンスデザイン』
*『デザインはすでにここまでが必然となっている』
*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』
*『IoMeTのためのMedical LogとConnect nome』
*『コンシリエンスデザイン看医工学の危機解決対象・MERS』


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『Silienceの原意・・・デザインが何になるかという意義』


   


     6月 7th, 2016  Posted 12:00 AM



次世代デザインを提示していくのは、現在デザイナーの使命です。
しかし、現実には、デザイン系大学のほとんどの教員は、
自分のデザイン経験だけを教示しています。
それはデザインの根本に大きな間違いがあるのです。
「デザインとは何か?」を自分の経験だけで、しかも成功体験があれば、
それこそ「何がデザインになるか?」ということには
接近できないからです。
「コンシリエンスデザイン」を提案しています。
その原語はすでに死語化していますが、
探り出したsilienceについて、ここに書きとどめることから
改めて思考の深度に近づいてみます。
silienceとは、
人間には日常、その思考に深さがあることには気づかないことがあります。
たとえば、気づかされることもなく、褒められることも無いけれども、
時には感心せざるをえない熟考された確実で正当な考え方があるものです。
それは、通りすがりなのに饒舌に語られている批判とか、
大道芸でありながらも感心せざるをえない名も無き芸人の大技、
あるいは無名だけれどもすぐれた芸術的な才能に
はっとするようなことです。
これはまったく匿名的で、誰かに賞賛を浴びるものではないにしても、
いわゆる市井に潜んでいる知恵・知識として
見過ごすことができないのです。
silienceということばに近いほど、
沈黙の中に閉じ込められているということです。
こうした、決して光り輝きを自らが発するわけではない、
日常的、匿名的、無名性の中でも、知恵の集合体をあえて掘り出して、
なおかつ、こうしたことを「結合させる」ことは、
konvinationと言ったシュンペンターに繋がっています。
これが新結合=innovationであったことに極めて近い発想論理です。
silienceが結合することは、
隠れた知恵・知識がconsilienceだということです。
デザインが匿名性=アノニマスで支持されたことを再復活させることです。

*『シュンペンターと象形文字を同次元に考える』
*『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』
*『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
*『ベンチャー企業を再考する!・カンブリア宮殿特番に出て』
*『リアル・アノニマス・デザイン=労作だと思う』


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『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』


   


     4月 24th, 2016  Posted 12:00 AM


デザインは表現営為です。
したがってデザインされた表現の形態は言語だと言えます。
そこで、デザイン形態=「デザイン言語」と呼びます。
そのデザイン言語は、意味する意図(intention)を
造形言語=designing language、
意味されている内容(contents)を
形態言語=designed languageと、その二つで成立しています。
そして最近、この言語の背景にある知識や知恵という根幹こそsilience、
いわゆる日常ではほとんど無意識である「知性の核心」だと理解しました。
この無意識である知性こそデザイナーの知的背景だと決定できます。
コンシリエンスデザインこそ、知性の統合されたデザイナー能力であり、
言語表現に込められた意図と内容は、
すでに目論まれていたプライミング効果、
すなわちデザインの効用と効果を成し遂げるものになると断言します。
自分としては、コンシリエンスデザインという位置づけは、
明確にデザイン手法、その論理を言語化して、
その意味論は記号論へと向かわせることが出来たと自負しています。
これまでのデザインはすぐに機能で語られ、
装飾ある形態論に終始していましたが、
ここから明らかに小論的な論理を持って、
記号学に向かってきていると明言します。
さらに、デザイン知性は必ずスケッチでその言語展開が必要です。
それは「手」で描かれた発想表現が
プライミング効果になるということです。


*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『記号論は脱構築に向かっていった「かたち論」』
*『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』
*『Padスケッチにすっかり馴れ親しんだ!』


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『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』


   


     4月 20th, 2016  Posted 12:00 AM



おそらく、「コンシリエンス」という新造語を作成した
ウイリアム・ヒューエルは「silience」という言葉を原型に、
con+silience=consilienceとしたのではと辿りつきました。
「silience」というすでに英語でも死語化している意味を探りました。
しかし、これは単なるデザイナーの戯言的な解釈と考えてください。
「silience」には、日常何も考えない、つまり無意識ながら、
あるとき、ハッとするほど重大な、
それこそ隠れていた宝石のようなキー単語に辿り着くことがあるという、
そんな発想の言葉が「silience」だということです。
たとえば、自分の進路がゴミだらけだとしても、
そのゴミの中に、突然キラリと光るダイヤモンドがある、かもしれない
そんな柔軟性をゴミだらけの道筋でも発見できる能力=言葉です。
だから私はデザイナーとして、
18世紀のウイリアム・ヒューエルからエドワード・オズボーンによって、
「知の統合」=コンシリエンスに至ったのなら、
paraとmetaを加えることで、さらにコンシリエンスとレジリエンスを
思考拡大していきたいと考えています。
これはかつて、アルキメデスが「メタ理論」をまとめたことを応用可能?
と考えているからです。
少なからず、レジリエンス=re+silienceとは、
redesignのごとく、silienceの否定ですが、
それこそ、積極的な否定という意味での、ストレスやプレッシャーを
「無意識の知性」で克己するという重大な意味になるからです。
パラシリエンスは、知的前提でのプライミング性があり、
メタシリエンスは、知的拡大を図ってエフェクト性があるということです。


*『芸術で学術は語り切ることができる』
*『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『コンシリエンスデザインの基盤は危機解決学である』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


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『ロラン・バルトの言説の断片は章立て連続の時代だ』


   


     9月 12th, 2015  Posted 12:00 AM



fragment=フラグメントというのは、
ラテン語の語源的には「割れたもの」であり、
英仏両語では、断片、さらには断章とも邦訳されます。
私は記号論やあるいは編集というのはことばの世界観で語られます。
だから、ロラン・バルトの「モードの体系」は、
デザイン・建築によっては必読の教科書といって紹介してきました。
そこから「零度のエクルチュール」にでも至ろうものなら、
ことばの日常、書くことと書かれることは、意図と内容やさらには、
言語と会話であり、ラング=辞書的言葉とパロール=会話的言葉に
きっちりと辿り着く思想になると考えてきました。
だから、ロラン・バルトは私が影響を受けた人物にすべきかどうか、
迷いに迷った人物でした。
それはミッシェル・フーコー、ガストン・バシュラールとほぼ同列でした。
学生に教えなかったのは、
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」でした。
実際、恋愛は狂気だと語られてきましたが、
バルトの言説でしかも断片的な殴り書きとしては、明確に語られました。
「恋愛は狂気である。
しかし、狂気だと言い切れる私は狂ってはいない・・・・」
彼のこの断章の書籍を、文章を塊として、全ページをそのままに、
グラフィックパターン化したスカーフの存在を知りました。
この作者がなぜ、バルトを選びバルト著作書籍パターンを選んだのか。
それこそ、バルト自身は「作者とは何か」ということから
「何が作者になるのだろうか」を文章で問いただしていました。
昨夜私は、「現在の特に雑誌はつまらない」と批判しましたが、
そんなことはなくて、これでいいという多分若者もいました。
だとするなら、私はこの批判をもっと強めなければなりません。
それこそ、先般もTVドラマが映画化された作品を観ましたが、
それにも、「観るべき映画は選ぶべき」と言われました。
最も賛同できますが、
私の興味は映画作品の俳優たちだけではありません。
それは作家である原作者から監督、キャスト全般以上に、
今ではCG・SFXから音響システムなどの
膨大なモノづくり支援者や企業存在までです。
ようやく、映画館が7.1ch化してきました。
そんなことも含めると、このスカーフデザインでは、
作家の展覧会をしなければならないほどに、
ロラン・バルトが語り直されて来た現実です。
つまり現代の見事な
デザイン=設計学と編集学の再考が必要だということです。


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『失われてしまっているジャーナリズムは雑誌に歴然』


   


     9月 11th, 2015  Posted 12:00 AM



30~40代の頃、私は国内外の雑誌を30~40冊は読んでいました。
最近は、時折、本屋さんの店頭で立ち読みする程度で、
あとは電子ブックの雑誌やワイフの読む女性ファッション誌などです。
学生時代や社会人デザイナー成り立て当時は、オーディオや音楽雑誌で、
若いときにはデザイナーなら少なくとも購買も15冊と言っていたものです。
ところが、最近の雑誌よりも企業広報誌やカード会社の広報誌の方が
雑誌内容にはまとまりがあるようです。
いわゆるファッション系は年齢もあってか,興味があまりありません。
そして商業誌丸出しというか、時計などは流行づくりが丸見えです。
私がプロとしての眼鏡などは
知識不足どころか誤記の多さには呆れています。
オーディオ・ビジュアル、さらにPC関連雑誌などは
まったく時代遅れであり、
オーディオなどは連載をしてみてすぐにその雑誌が
商業誌ゆえの哀れさで自分から連載を辞めました。
車などは、もうほとんど興味がわきません。
今、興味は専門誌である万年筆や鉄道関連程度です。
もっとも専門であるデザイン関係誌は、
国内外が時代遅れ甚だしくて、全く読みません。
結局は、インターネットでのサイトの情報が時間対応しています。
新聞?はもう定期購読しなくなって10年にはなるでしょう。
ファッション系などでは、
やはり定番的なブランド系雑誌はグラフィックス的には優れています。
雑誌情報では何が欠落してきたかということになります。
多分、三つあるのだろうと思っています。
一つは編集人としての職人魂でこれを伝えようという程の専門性が大欠落、
一つは雑誌ジャーナリズム思想などもう喪失しています。
逆に私が凄いと思っている万年筆などはまだまだ学べる時代性があります。
一方、眼鏡など専門性の大欠落には、腹立ちを覚えます。
これはオーディオビジュアルや車などは、
ジャーナリストや評論家が居ないのでしょう。
先般、教え子で大新聞の記者に、
「ジャーナリズムって、一言で私に伝えなさい」と聞き返したところ、
半分だけ応えました。
私は、ジャーナリズムはどんなジャンルであれ、
情報の市井的な日常で、権力それは商業的な圧力を、それこそ、
「ペンは剣より強し」による情報編集力での教示性だと答ました。
すでに私はもう老年ですが、とりわけファッション性は、
「モードの体系」を超えるほどのジャーナリズムを求めています。
そして
私自身の日常の編集力を生み出すジャーナリズムは失いたくありません。


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『10年ぶりに書庫奥で見つけ出した日本語辞典』


   


     9月 8th, 2015  Posted 12:00 AM



自宅の地下に倉庫=書庫と駐車場があります。
正直、大阪に来てこの10年、書庫に赤坂・福井・名古屋と、
ずーっと持っていた辞典シリーズがありました。
しかし、どれだけ探しても見つからず、
この「ことば」の意味を徹底的に調べたいという時は、
この辞書には解説が必ずあるはずと思ってきました。
先日、ワイフとスタッフが書庫の最奥部に行き、
このシリーズ全巻がそろってあるのを見つけました。
本当は、自宅には書籍を最初は一冊も置かないことに決めていました。
そして、もう購買することも辞めようとぐらい思い、
相当に名古屋時代に処分してきましたが、
書籍は毎月増え続けています。
なんとか電子書籍にすべくと思っていますが、なんとも書籍のページ感覚は
私には捨てがたくて、PAD内よりも本そのものに戻ってしまいます。
そこで、おそらく日本語辞典となれば、広辞苑・大辞林・
そして明解国語辞典ですが、
これらはすでに電子書籍で十分、けれどもこのシリーズは、
日常の傍らに置いておきたくて、
地下から持ち上げて自宅に配置することにしました。
自宅には書籍があっても読み終われば地下書庫行きルールを辞めました。
当然にワイフの反対がありましたが、
スタッフを巻き込んでこれは自宅にあるべきを主張しました。
私がこれまでも「ことば」に拘ってきたのは、
デザインは「かたち」を追求しますが、
建築界ほど「ことば」はありませんでした。
そのことが若いときから、
「ことばとかたちの相対論」が生涯のテーマでした。
それから数冊の本を書き出版もしました。連載記事が本になりました。
私は日本語のことばひとつひとつの原意が気になって仕方ありません。
漢字はなんと言っても同郷の白川静氏、
そして相反していた藤堂明保氏を確かめます。
さらに奥深い意味性ではこの辞典シリーズに向かわなければなりません。
この10年、どれほど書庫を探したかわかりませんが、
書庫の最も奥にこれが収納されていたのです。
今、影干しをして自宅のシェルフを決めてこれを置いておくつもりです。
一冊毎に開けてみれば、なんとも辞書の香りがしてきます。
この匂い好きです。


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