kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘暗記’


「資本主義からの逃走」
     「心を諳に、そうして意は巡る」


   


     1月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

音と言と諳記
「音」と対称する言葉。
それは「言」と言われてます。
そして、この二つが心の中に存在。
それが諳誦の「諳」ということになります。
現代表記は「暗誦」になってしまいました。
漢字表記が表意性よりも表音性で変えられていますから、
いわゆる旧漢字が無くなって、本来の「意」味が変貌してしまうのは残念なことです。
漢字を確認するときに、旧漢字との照合は大切なことだと思っています。
さて、「音」は、口内に刃物が向けられているがゆえに、
明確な発音ができない、「もぐもぐ」した発音になります。
「音」には明確な発音の言葉性はありません。
しかし、「言」は、その刃物をはき出したように刃先が外に出ています。
したがって、言葉は刃物のように明確で、
その明確さ故に人を傷つけるということにもなるのかもしれません。
言葉は人を傷つける性質はここにあるのでしょう。
「音」と「言」は対極であり、対称性があるということです。
「諳誦」とは、諳記=暗記するために、
まだまだ明確でないことを意識化していく作業と考えることになります。
諳から識へ
「意」は古代インドでのmanasや英語でのmindに表れているように、霊性や生命性から、
やがては仏教や哲学の基本「識」(=vijñ ā na・ヴィジュナーニャム)につながっていきます。
その前提に「諳」が意の中で巡り巡っている気がするのです。
結果、「意識」が形成されて、私はこの意識の存在が「生」ということだと認識しています。


目次を見る

11月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 21st, 2010  Posted 9:30 AM

11月21日先勝(乙亥)

若者たちが学校という場に
分配されていく。

ただひたすら
勉学=暗記に埋没して、
マークシートを塗りつぶす
作業をこなした結果、
大学という場に配分される。

その場は、
一般社会の組織とは
まったく異次元の世界に
押し込められるのだ。

『デザインの極道論』量感


目次を見る

9月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 7th, 2010  Posted 10:00 AM

9月7日 大安(庚申)

「諳」(アン、そらんじる)というのは、
明確なことばになることであり、
音というのは、
口の中にものがつまっていてもぐもぐした
不明確な状態を示す。

今でこそ、暗記という書き方をするが、
「諳記」という書き方が
古典的には正しい。

『デザインは言語道断』致知


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「『観』を『感』としている現代性をみつめる」


   


     5月 12th, 2010  Posted 2:31 AM

観自在
「観自在」は、般若心経の書き出し、冒頭文です。
般若心経は、かつては暗記させられた思い出があります。
もっとも、私は幼稚園も転園しています。
最初はキリスト教系の幼稚園でしたが、
「もう来ないでほしい」と母は言われたらしくて、
仏教系の幼稚園に「入れられました」。
とっても厳しい園長さんは尼さんだったのです。
尼僧さんでしたから、
いつも尼僧黒衣姿でいつも叱られていた記憶があります。
その園長さんに対して、私の反抗は、
ほとんど「泣き叫んでもわがままは通らなかった」のです。
「観自在」は、その頃、体の中に入ってきた気がしています。

自在性
観という言葉には、端的に「心で見る」という意味を重ねると、
私なりには、想像力の自在性にほかなりません。
しかし、私の幼児記憶には「自在性」などわかるはずはなく、
デザイナーというプロになって、あらためて、
「観自在」という言葉と対峙しなければならなくなったと思うのです。
そして、結論は、
「観」には、洞察的な深度=哲学的ということが含まれている気がします。
ところが、なんでも「感性」だとか「感覚」ということへの価値感が言われ、
まさしく、デザインは「感性」の極致などとまで言われます。
私はデザインと感性とには相当の距離観があります。距離感ではありません。

感と観
そうなると、「感・観・?・・・なに、それ?」と、
私は思ってしまいます。
 直感なのか、直観なのか、
 野生なのか、野性なのか、
「感自在」もあり・・・?とか、想像してしまいます。
私は、「流行感覚」の大事さや大切さも理解できます。
しかし、観音はあっても、感音はありえないのです。
となれば、
あらためて「観」と「感」をデザインの論理に照合させる必要性を「感」じています。
その感覚は、私の「観想」だと考えます。
現代、「感覚」だと感じることを、
佇んでこそ、「観自在」を見直す必要を観るのです。
そこから、現代性、現代感覚、時代性、時代感覚を再考するべきと思っています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「デザイン解としての回答、その強度」


   


     3月 9th, 2010  Posted 12:01 AM

結果判断という課題
結果判断から考えを深めていくには、
その結果を様々な観点からとらえ直さなければなりません。
結果をまず問題としてみるなら、
いくつかの「考察」方法が必要です。
問題というのも、結果に対する意識の中では、
話題・課題・問題という分別が必要です。
そして、話題ならばそれは思いつきで答えればいいのです。
回答
ところが、課題となると、「回答」を求めることになります。
その「回答」というのは、「回」という文字形態が示すように、
二重構造を持っています。
課題=Questionに対する回答=Answerです。
したがってすでに課題には、
自分の知る・知らないにかかわらず、一般解がある!と
考えて構わないでしょう。
それは、思考方法を「学」として学んできた算数や数学は、
常に、問題=課題に対しては、
回答に至る手続きを知る、あるいは暗記しておけば、
必ず、「答え」にたどり着くわけです。
二重構造の強さ
私が、二重構造というのは「回答」の世界観です。
デザイン教育では、まず「課題」を与えて、
デザイン回答をやらせます。
それは、デザイン思考のトレーニングとして、
このデザイン解では、あれが足らないとか、
機能性を果たしていないとか、さらに問題が発生する、
という訓練です。
つまり、「回答」として提示されたデザイン解には、
二重性があるという見抜き方が必要です。
二重性には、性能的には「強度」があります。
すなわち、デザインは「綺麗事」だというある意味では、
開き直りの強さこそ、「回答」としてのデザイン解、
その強さだとひとまず考えておきたいと思います。


目次を見る