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Posts Tagged ‘東京’


『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


   


     9月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

美大生1年生の夏休みに、私は福井に帰省してアルバイトを探しました。
当時、福井市には唯一のデザイン事務所がありました。
グラフィック関係の事務所で、その頃でも、
パッケージデザインの依頼があると、
パッケージ年鑑をクライアントに見せて、
そこから「なんとなくこのような感じで・・・」という依頼に
学生だった私は激高して、アルバイト一日目で辞めました。
その時地元にUHSの福井テレビが出来て、
そのマーク募集がありました。
「道楽学校」という父に逆らって夜は、
このマークデザインをして金沢に戻るとき、
母に郵送での応募を頼んで金沢の下宿に帰ったところ、
私のロゴタイプが入賞して採用になりました。
このロゴタイプが私が社会へのデザインを提示した最初の仕事でした。
昔使っていた書籍にこの新聞切り抜きが入っていました。
1969年の私のデザインは
福井テレビ20周年で新しいマークに変わりました。
今では決して見ることができない「テストパターン」に、
私のデザインは、まだレタリング教育中でしたが、
社会への最初の提示作品になりました。
賞金も覚えています。10万円です。初任給が4万円の時代ですから、
私はこの賞金で
カメラ「ニコマートと三脚とマクロレンズ」を買うことができました。
東京で交通被災をして体はボロボロになって福井にもどりました。
その時には、東芝でC.I.を徹底的に学んでいたために、
福井テレビにCIの申し込みをしましたが、理解をえられませんでした。
ところが、テレビ局は今も2局しかありませんから、
福井テレビに私がCI提案をしている話が福井放送=FBCにも聞こえ、
福井テレビでは採用されなかったCIを
福井放送で新たなマークからCI全般を担当しました。
だから、当時は高校時代の友人には、
「お前は嫌なやつだ。深夜テレビ終了時に、
福井テレビも福井放送もお前のデザインで終わる」と言われる羽目でした。
2.3年前には福井放送も私のデザインしたマークは終わりました。
福井放送のマークを
私のデザインのままでと主張してくれる社員の方々もいましたが、
私は「時代とともにマークのデザインが変わって当然」と応えました。
グラフィックデザインでは決してやれないデザイン分野は、
今やユーザーインターフェイスや
エクスペリエンスデザインがあるように、
マークに動画性を持たせることだと思っています。
 FTB=ftbマークは、
最初のデザインから微調整的に変更されましたが20年使われました。


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『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』


   


     8月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を定義化してから、
どうしても、私自身が説得不足を感じていたことがありました。
それは「統合」についての整理された論理が必要でした。
学術と芸術の統合というコンシリエンスの基底論理でした。
まだ30代の頃、CIブーム時にはCI=「企業イメージの統一」論へ
CIデザイン論の再構築という論文をデザイン専門誌に書きました。
「統一」から「統合」をW.S.ランデッカーの考察から学んだことが
私はとても気になり、その論文をバックナンバーから探しました。
しかしどうしても見つからずに、この専門誌発行元に問い合わせ、
それが見つかってきて、あらためて私はとても驚きました。
なんとそれはMacintosh 512KでMacDrawでの図解で描かれていました。
そして「企業イメージの統一」CI論を企業の戦略的効果の消滅として、
「社会は、いつの時代の変動もその局面を強調して、
将来への予測とその準備を強要するものである。」という書き出しは
今も健在であり、常套化したデザイン手法=企業イメージの統一から
いち早く逃れるべきである、ということを指摘していました。
企業イメージの統一=CI論はケインズの経済学を引きずっていました。
そのための統一から統合を、私は今なお主張し続けていることです。
W.S.ランデッカーは、「統合」を以下の四つで整理していました。
 ● 機能的統合
 ● 伝達網的統合
 ● 規模的統合
 ● 文化的統合 でした。
私はやっと思いだしてとても大きなヒントになる予感です。
この四つでアイデンティティ=存在性の再考が可能という予感。
それこそ今、話題騒然としている、オリンピックエンブレム問題も、
エンブレムデザインでは、東京オリンピックのイメージ訴求は
決して統一は困難であり、今なお著作権でベルギーが訴訟しようが、
東京は商標登録しているからという対決姿勢だけの不毛さは、
「イメージの統一」に寄りかかっているからに他なりません。
重大な事は、オリンピック・パラリンピックともに、
イメージの統合のために、そのエンブレムが、
機能的・伝達網的・規模的・文化的な四つの統合性があっただろうか、
この質問を投げかければ、
文化的統合はすでに壊れているということです。
それは、文化的統合とは、無知と差別を解消することですが、
エンブレムは、オリンピックとパラリンピックには、
差異性、いや差別性をデザインしたということです。
もっと、厳密に言うとケインズの経済学が亡霊だと気づかない、
そんな21世紀がまだまだ続いているということです。
ここまで気づかない能力だと思いますが書いておきます。

*CI=C.I.=コーポレート・アイデンティフィケーション


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『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』


   


     8月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

元来、デザインは応用美術とか図案や装飾美術からという源流があり、
意匠になり、設計になり、そして策略や資源と時代変遷してきました。
しかし、私は美大時代、工業デザイン専攻では、
すでに、発明の設計実務学、問題解決学として
学習と訓練を受けてきました。
美大卒業し、家電入社したときには意匠部でした。
したがって、デザインの真意論・本質論・技術論・文化論では、
ようやく、産業から健康、文化として
文理融合と学術芸術の統合として、
「コンシリエンスデザイン」にたどり着きました。
ところが、楽しみにしていた東京オリンピックでは、
建築とグラフィックに、統合的なディレクター不在と経済効果での
アスリート興業商業主義の悪用としか思えないデザインの大勘違いが
横行し始めています。
建築コンペも狂い、エンブレム選別も知識不足の商業デザイナーでは
コピーだ、ジェネリックだ、せめてアプロプリエーションぐらいの
ハイレベルにも到達せずに、
情報社会で低レベルマスコミに混乱させられています。
そこで、かって35年前に私が伝統工芸産地で包丁、
キッチンナイフの「一体化」と新素材開発、刃先アール寸法など、
問題解決の解答デザインをしました。
ところが、たとえば、ほとんど最初に素材でダマスカス鋼風が、
あたかも刃物という恥ずかしいほどの
能なし刃物産業が世界的に流行しています。
オリジナルデザイナーの没後に、
デザイナー名を騙って自分デザインとは、
ジェネリック家具で氾濫を始めています。
そこに、TPPでの著作権問題を米国主導にするとは、
多くの官僚と議員たちの権力志向の能無しレベルを加速しています。
やがて、私、没後には
私のオリジナル=問題解決=デザインは消滅するのでしょう。
せめても生きているときには、恩師の作品やオリジナル性には
脳外喧嘩師でありたいと決心しています。
ともかく、官僚と議員からデザインの離脱を宣言しておきます。
つまり、オリンピック・パラリンピックを支えるべきデザインが
根本で間違ったがゆえに、夢は消えたのです。


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『東京老化と地方消滅にデザイン戦略を』


   


     7月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

ふるさと福井は人口がとうとう78.5万人という弱小地方になりました。
比して、隣の石川県金沢市は北陸新幹線によって、
観光都市は京都の公家文化と対抗して武家文化の街になっています。
地方が消滅し、東京は老化するとかいう本を読んで、
私はこのような議論で如何にも地方創生とか、
地方復活とか言われると、正直、まず東京での議論そのものが変です。
18歳から都会生活に入り、30から46までを福井で暮らしました。
福井では伝統工芸や地場産業にデザイン導入を様々にトライし、
デザイン効果も上げましたが、この地方産業はやがて駄目になる。
東京の大企業も、ベンチャー企業も必ず駄目になる、
この想像は正直すべて当たってきました。
しかし、私が関与してきた企業や産地は決してデザイン効果をあげる!
これは全て成功してきたと自負しています。
大阪を生活の軸にして、京都・福井・東京が副軸的な活動範囲です。
最近、京都の四条大通りが車線幅改正の工事が開始されていますが、
電動車いすで、この舗装は一時的であってほしいと思いますが、
最も安価なアスファルト舗装では醜さは格別なほど醜態です。
所詮、行政の工事ですからほとんど期待ができません。
私の住居のある谷町4丁目の地下鉄駅のエレベーター駅工事は、
毎月毎月工期完成が延びにのびています。
これが企業活動であるなら許せない事だと思います。
せめて、京都の主要大通りの歩道拡張工事です。
せめて、都市計画に
もっとデザイン戦略が入ってほしいものだと私は願ってしまいます。


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『JBL4343の上には造形美のあるモノを置く』


   


     6月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

私の自宅で最も権威性のある場所。
それは、私が常に目にするのはフリーランスデザイナーになって、
絶対に使用しようと考えていたJBL4343の右側トップ面に
選んだモノを置いてます。
まだ、若き金属彫刻家、
いや、金属オブジェ作家の早川氏のロボット的オブジェと、
徳田正彦氏(徳田八十吉)の九谷焼、
恩師であった柳宗理先生の茶器、
そして、倉俣史朗先生のアクリル花瓶です。
写真の色会わせにバカラのガラス器も置きました。
ここはいつも迷います。
JBL4343は5.5回目のメインテナンスを終え、
あと10年は大丈夫ということで、
エージングがようやく1ヶ月を過ごし、
あと半年はかかるかもという状態です。
このスピーカーは、東芝に籍を置いたままフリーになり、
ふるさと福井時代は、パイオニアのサービスマンの方に、
名古屋時代から、
今までも新たなサービスマンの方に面倒をみてきてもらいました。
私のデザイン活動を東京・福井・名古屋・大阪と見てきてくれました。
だから、このスピーカーシステムの上で、
私のデザイン活動を見守ってもらうモノ、
私はここは選び抜いています。
徳田八十吉氏の作品は、私は高校時代に衝撃を受けました。
そうしたら美大の先輩。
在米日本大使館の入り口には、氏の大皿があり、説明を受ける前に私から、
さも私の作品のごとく説明をしたものでした。
ともかく、倉俣史朗氏と柳宗理氏の作品、
この造形には今はやりのデザイン思考など、
全く無関係であり、若手金属オブジェ作家の作品は、
二回個展会場に通って選んだモノです。
これらの作品には、私の所にやってきたそれぞれの経過があります。
そして、造形の美しさは、私を刺激してくれています。
少なからず、
自分の作品でこの作品群の中で、明らかな存在感が無いモノは、
私のデザイン=造形言語から形態言語として、
完成はしないことになります。
したがって、モノを所有し使用するに至るには、
これらのモノとともに
絶対に呼吸をしてくれるかということになります。
したがって、もう一方のJBL4343の上の作品は、
まだ決定打がありませんが、
工芸作品として美大後輩の作品もあります。
それこそ、やや先輩風で、私にはもっと安く売ってくれ、
と言ったモノですが、
後輩がこの作品づくりで、
やはり、彼の工芸作家としての力量があります。
だから、
このスピーカーシステムに乗ってこない作品を私は評価をしていません。


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『彼は映画の社会的メッセージを知り尽くしている』


   


     3月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

私は可能なら月3本は必ず映画を京都で観ることにしています。
なぜ、京都か?
大阪は映画館の清掃がダメ、東京は不親切、京都と金沢が一番です。
「アメリカン・スナイパー」を観ました。
いつものごとく、ワイフはストーリーに入り混んでいて、
泣いていましたし、観たくなかった悲し過ぎると言い続けています。
それは実話の映画化であり、この映画が訴求することは、
明確にジャーナリズムであり、製作から監督は、
高齢になったクリント・イーストウッドでした。
スナイパーの実録としては映画ストーリー演出ですが、
実際なら1000mを超えるスナイパーならば、風力と実弾性能での
相当の腕前があったと思いますが、
明白にスナイパー実録として、反戦映画であるということですが、
現状での戦争・テロ・防衛などは熟慮を余儀なくされる映画でした。
今や、戦場で先進国家からの兵士であれば、
知性的であればあるほど、リハビリテーションは戦場よりも
先進国家の平和感では絶対に精神的病気に至ることは明らかです。
ワイフは言います。実話だからしばらく耐えられない、と。
当然の感覚だと私も大賛成ですが、
私には、このテロからの現代戦争方式を「モノで変える」ことが
どうしてもやり通すことだと考え込んで、精神的には、
モノの暴力性の革新をと追い込まれている自分に出会っています。
現代戦争は石油文明と宗教と経済が現代を追い込んでいるのです。
武器とは元来、戦いを止める道具であり、殺人道具ではなく、
これを宗教が道具感を奪い取っていることは明らかです。
宗教と経済が、ひとまず、石油文明をせき立てているのです。
そういう意味では、神道の哲学観は優れていたと考えます。
「神はおらず」。
そして「サイコロも振っていません」!
戦争にヒーローなどは絶対にいないのです。
あくまでもジャーナリズム=日々の記録を創った監督技が
私を追い込んでいます。


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『私の大疑問は電力というエネルギーへの不配慮』


   


     2月 11th, 2014  Posted 12:00 AM

東京の大雪、そして都知事選への判断結果の曖昧さでした。
二人の首相経験者老体の提言には科学的大誤解だらけです。
私は「反原発」論者ではありません。
反原発でもあり半原発でもあるから「範原発」志向です。
というよりも、電力会社は国策企業そのものであり、
私が撮りためている写真(右)を見ても明らかです。
このようないい加減な仕事で誤魔化し続けてきた電力会社は分断。
しかもこれが景観法でも無視されている電柱の配線です。
一方(左)の太陽パネルへの過信性も大間違いです。
このソーラーパネルは大量に設置しても2割程度の電力で、
何が再生エネルギーだと言うのでしょうか!大疑問です。
私は、現代生活で最も重大な電力エネルギーの社会基盤、
その手法と社会設定での大間違いに気づくべきでしょう。
電柱で、変電器や碍子、そして配線のこの乱雑さがそのまま、
実は電力エネルギーへの企業志向のいい加減さや、
私たち自身にも気づくべきことが多すぎると思うのです。
太陽パネルが出始めた直後私は、これから大誤解されるこのモノに
大反論を書いて追い詰められた経験があります。
それから徹底的にこの進化を追いかけてきましたが、
まったく進化はしていませんからこのメイン企業倒産は当然です。
現に、このパネル設置住宅でのメンテナンス企業は、
とても儲かっていて成長企業になっています。
しかし、この企業自身で働いている人たちは、決して、
自分の住宅の屋根にこのパネルユーザーでは無いということです。
私の原発への考え方、太陽パネルへの考え方は、
科学的に、そして人類のあるべき思考手法と決定論においては、
熟知結果だと自負しています。
ともかく、決定的に断言できることは、
太陽パネルであれ、この電柱の現在も「美しくありません」。
プラトンに従えば、「迷ったなら、美しい物事が正しい」のです。

【ブログの関連記事】
『講演テーマで最近もっとも多い医学とデザインの「範」』
「生きることの模範・範疇・範囲として」
「太陽・二つのアナロジー物語・その2」


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『パソコンの小さな歴史の物語り』


   


     2月 5th, 2014  Posted 12:00 AM

パソコンの登場とともに私の生涯には、MacとEWSがありました。
ともかくデザインツールとしてだけではなく、私の感性の中で、
コンピュータの進展とともに、その功罪を分別してきました。
したがって、コンピュータ・デジタル・ネットワークとは、
特に自分の青春が終わったと意識したときから、
大きな歴史と小さな歴史を体験してきたと思っています。
ちなみに、自分の青春の終わりはジョン・レノンの暗殺でした。
東京を離れてふるさとに帰り、伝統工芸とパソコンがありました。
パソコン、特に、Macintoshとの小さな歴史には、
大抵の人にとってはそんな時代もあったかという物語りです。
3.5インチのフロッピーディスクの時代がありました。
1980年代の教え子が聞いてはいたけれど初めて見たということで、
私はとてもびっくりしたことがあります。
3.5インチのフロッピーディスクの時代には、
ブルーのディスクが黒になり、
突如、カラーのフロッピーディスクが登場しました。
それは、無機質になろうとしていたパソコン周囲が煌めきました。
そんな小さな物語りをいくつも私は体験してきた気がします。
それこそ、私がオーディオ機器のデザインだけではなく、
オーディオアクセサリーデザインにも一杯取り組みました。
本当は大きな物語りの歴史が社会にある以上に重大なことです。
それは小さな物語りを創ってきた人物との出逢いと深い関係、
それこそ人生の偉大な思い出だったのだと思います。
「川崎さん、これ実現したよ」とカラーフロッピーがありました。
まだベンチャー企業と騒がれることもなかった時に、
その企業は様々な闘いをしていました。
そして、私の活動をまったく目立たずに根本を支えてくれました。
同年代のそんな企業のリーダーが逝ってしまいました。
体調的には無理をして、大阪にまで逢いにきてくれたのでしょう。
彼が私に期待してくれたことをやり遂げるつもりです。
「まだいっぱいやることあるのに」と、すごく無念です。
小さな物語りをいっぱい創ってくれたからこそ、
大きな物語りが成り立っていたことを私は熟知しています。
もう一度逢いたいよ、Kさん!


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『「百貨店の終焉」が始まっていると見ている』


   


     1月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

私が社会人としてスタートしたのは銀座でした。
有楽町の阪急ビル7階の東京芝浦電気の意匠部からでした。
だから、銀座7丁目に東芝のショールームデザインも担当でした。
それだけに銀座の変容ぶりは見逃すことができません。
当時の銀座ではほとんど入ったことのない百貨店・松坂屋。
その松坂屋は名古屋時代にその歴史を追いかけたことがあります。
デパートメントストアが欧州でスタート以前に、
呉服屋松坂屋は存在していました。
エレベーターガールやお子様ランチも松坂屋だったと思います。
一度は、Forever21か何かになってワイフと入った程度ですが、
今、2017年開業予定ながらまだ明確な目標の無い建築中が存在。
私は、日本の百貨店がスーパーマーケット、大型店舗、さらには
チェーンストアからコンビニという店舗形式は、
おそらくショッピングがクラウド化とともに、
購買形式の大変革で、現在、大阪に乱立するデパート・大型店舗は
間違い無く、倒産するか購買販売形式の大変動になるでしょう。
ベンチャー企業、飲食店が10年継続不可能なように、
街の景観とともに、この中途半端な建築中かもしれない姿すら
大変革していくものと考えています。
銀座が東京、日本の消費文化の見本だと考えると、
まだ目標も目的も不透明なビル解体と店舗ビルの建築には、
この建設中らしき景観には「何かが欠落していく」情景を見ます。
今やクラウドのネットワークに入り込んでショッピングすることは
大阪が相当に遅れて大店舗がそろいながら、
百貨店販売の失敗事例が、この建設中らしき包装店舗に、
私は、街・シンボルである銀座の一画はとても奇妙な風景です。
つまり、情景には人間がいますが、
風景には想像外の日食・月食・天災がつつまれているのです。


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『1984年からMacintoshとの付き合いが私の重大経験』


   


     1月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は車椅子生活になってふるさと福井に帰ることになりました。
ふるさとには高校時代の友人達がすでにそれぞれ分野のリーダーでした。
中でも、親友・玉木(現福井キヤノン事務機会長)は、
すぐにデザイン活動で苦心している私を物心両面で支援してくれました。
彼の会社のショールームにMacintosh128kがありました。
私は「とても高額なおもちゃのコンピュータ」を借りました。
彼に、「このコンピュータがきっと世界を変える」と話しました。
彼は私の予言を素直に聞き入れてくれてセールス戦略にとりあげ、
Mac512kは自らが講習会を受け、16台即持ち帰ってきました。
私はApple?もLisaもじっくりと知り尽くそうとしていただけに、
Macintosh128kの商品発表は鮮烈でした。
その頃、VENUS-P(通信衛星)で米国のDIALOGにアクセスするという話が、
もっともらしく当時の雑誌紹介はすべてが嘘でした。
なぜなら、Mac512kとMacTerminal、電話カプラー300bpsで、
私はDIALOGに福井は40円/分、東京は80円/分、名古屋は60円/分でした。
このようなことを書き始めていたこともあって、その後からすっかり、
Macの世界に入っていきました。
1991年から2年半は、とうとう福井で7つのコードネームで新製品開発、
Apple社からは弁護士や開発チームがやってくるほどでした。
私はジョンスカーリーの直属のデザインコンサルタントを務めました。
クパチーノApple本社でのプレゼンテーションでは、
黄色人種としての立場までいっぱい体験しました。
日本・東京はバブル経済であり、私は「何かが変だ」と思っていました。
さらに大電産業グループが私にeX-DESIGN(株)を全面支援してくれました。
福井で車椅子の私に1億4000万円のEMSを与えたのは、
その頃の福井県青年会議所の主要メンバーや地元の金融機関でした。
MS-DOSはじめSmallTalk、いくつかのプログラム言語を独学しました。
心臓障害になり、デザインも諦めていた私は、
気づけば、名古屋市立大学に光造形システムとその環境が与えられました。
先般、日本のグラフィック界の二人の代表人物に、
ジョッブスが最後に置き土産にしたと思える書体の話もしたところです。
私の30代からこの35年をMac文明とMac文化があったことは確かです。


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