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Posts Tagged ‘東日本大震災’


「危機解決産業の創成をデザイン重要拠点として活動開始」


   


     8月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

3D-Printing、先般は大阪大学でイベントを開催しましたが、
日本では、その中心人物やマスコミに来場していただきました。
大阪大学の吹田キャンパスは市内から遠いのですが、
350余名を集客し、阪大からは「特別教授2名」も壇上で講演。
関西から確実に国内の中核になれることを確認しました。
そして、欧米には、これが3D-Printerであるべきということを
企画計画書にまとめて、対象産業を決めました。
最近は、量販店で廉価な3D-Printerが販売されはじめました。
これは「大きな誤解」が国内でブームになる様相です。
ところが、米国での3D-PrinterブームはMAKERSというブームと、
まったく連動していますが、米国でブームはOKです。
にもかかわらず、大企業が「金型まで可能」という報道を
うながしてしまいましたが、私は「全否定」しました。
いづれそんな時代が来てほしいと思いますが、今は無理です。
だから、国内がそのブームに連鎖する必要はまったくありません。
しかも米国では、要の3D-Printer企業はwebsiteに国外からの
アクセスを封鎖しています。彼らは国家機密にしています。
最近、地方行政で、PCとPrinterは支援していないということで、
3D-Printerは支援できないという所もあると聞きました。
行政担当者の真面目な馬鹿さ加減を知りました。
したがって、日本は、独自の3D-Printing(技術)と、
3D-Printer(機器)は別個の開発進展を図るべきです。
この源である「光造形=ラピッドプロトタイピング」も日本の技術、
米国での進展は確かにMAKERS発想につながりましたが、
私は、日本こそ本当の進化で世界を先導するべきと考えています。
したがって、大阪大学大学院主催で定期講座を開設します。
「危機解決産業創成デザイン重要拠点」が、
大阪中心地の阪大中之島センターにて、
 ・「3D-Printing」の本当のあり方、
 ・「PKD」デザインでの国際貢献、
 ・「までいProject」東日本大震災の復興と予想される災害対策、
この計画をそれぞれに、講座を企業人向けに開催していきます。


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「TV番組の役割は終わっていることを再確認!」


   


     5月 15th, 2013  Posted 12:00 AM

NHKのドキュメンタリー番組を見詰めていて、
私はもはや、こうした類の番組意図、その不明瞭さと、
現代日本を見る眼差しに愕然としました。
ひょっとすれば、視聴者の方々は「流石に日本なら」と、
思われた人々も多かったかもしれません。
わが国の産業経済の根幹である「モノづくり」現場は、
「メイド・イン・ジャパン」を目指して、
これほど「逆襲のシナリオ」があったんだと思ったことでしょう。
しかし、私は40余年、現役のデザイナーとしても、
さらに大学人としても、わが国の産業界・企業界・行政界に
しっかりと根ざして活動をしてきた立場では呆れ果てました。
大企業の組織変更が行われて、中小企業のようにとか、
やはり、歴史に残りそうも無い経営陣を見る悲しみがありました。
しかも、NHKには、未だに企業活動の分類の単純さが温存し、
それを国外に向けての新しいメリットづくりという断定には、
NHK取材者たちの知識不足を再確認しました。
結局、まとめには3Dプリンターが登場しました。
ラピッドプロトタイプが日本発明であって、
それがどうして国際競争からはじき出されても、
それでもまだどう成果を目指しているのかは見過ごされています。
私なりには、四つの視座と視界が消滅していました。
まず、
 「日本の創造性=デザインが語られていなかったこと」。
 「企業運営・管理・維持のリーダー力の欠如」。
 「未来のモノづくりが何を人類に与えてくれるのだろうか」。
 「ビジネスモデルがすでに時代遅れ発想になっていること」。
この少なくとも四つは語ってほしいとつくづく思いました。
プロとして、さらにラピッドプロトタイピング=光造形はじめ、
3Dプリンターの虚実を見極める、
私なりの経験視野と想像視界に映っていることは皆無でした。
さらに、わが国の、教育制度、少子化どころか、
天災=東日本大震災と
人災=原発事故、
この二つを抱え込んだ国家の真実が、企業活動に期待する本質等、
こうしたことはまったく見えませんでした。
だから、勘違いしないでほしいのです。
もはやマスコミ・TV番組が示唆する時代を引きずっていることが、
最大の国家問題だということです。
「メイド・イン・ジャパン」は「逆襲」するシナリオでしょうか。
私ならば、もし「逆襲」というよりも、
わが国だから、日本人だから、という「想像から創造」を、
その原動力、その環境、その企業性を語ると考えます。


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「大きなヒントだ!『危機とは、何が危機か』」


   


     5月 7th, 2013  Posted 12:00 AM

「March.11.2011」を体験した私自身の運命。
私はデザイナーという天職である幸運があり、しかも車倚子生活。
自分の生涯でこの国難と真正面に対峙しなければなりません。
そして、大学を退任しましたが、
「までい-Project」=東日本大震災の復興デザイン計画と、
それをさらに大きな視野で捉え直す「危機管理」へのデザイン。
これが私にとって最期の仕事になると常に言い聞かせています。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を率いています。
しかし、危機管理学・危機管理工学、
さらに、危機に対するデザイン、プロダクトデザインの学際化。
この学際化で「危機への臨機応変なデザイン」と、
その「産業化」をめざしています。
問題は、「危機とは何か」ということ、
私の定義づけの言い換えは、「何が危機か」です。
おそらくこれからも、このFBで、
その「応答・回答・解答」デザインを記述していくでしょう。
資料を読み込んできましたが、
最近、この「危機とは何か」について、
真正面からしかも冒頭で、
この考察を「ことば」にした本にやっと出会いました。
とても大きなヒントです。
というよりも、私の人生でこうしたことは度々起こります。
それは、常にこの「問題提起」を掲げていれば、
誰かにささやかれたように、思考のヒントを目前にするのです。
まず一回読んで、さらに私が読みあさった資料から、
この考察のままでいいのだろうか、と再思考します。
結論は、
まだ浅薄過ぎると言うのはこの学者への反論のようですが、
それは、私がデザイナーであり、大学人として、
しかも「危機管理デザイン賞」を選別する責務での判断です。
さらには、「危機管理を成就する産業そのもの」に、
プロダクトデザインで主導していくことだけに、
私は、これだけの定義では無いと明言しておきます。
危機管理学と工学とプロダクトデザイン、
この三つの学際化によって、
この天災と人災、日常が「危機状況」に対して、
わが国の産業化をと考えています。


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「『3.11』復興デザイン計画をこれから開始する」


   


     3月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

私の生涯において、交通被災で車椅子生活はまさに想定外でした。
しかし、東日本大震災と福島原発事故は今なお私を打ちのめしています。
10ヶ月間、私はひたすら「復興計画デザイン案」を書いてきました。
そして、自分が障害者になった以上に
これほどの「哀しみと悲しみ」に対峙したことはありませんでした。
とてつもないほどの記録を読みました。
とてもデザインという職能では、
この復興に立ち向かえないと何度も思い知らされてきました。
1000年に一度というなら、
その事を体験せざるをえなかった自分の生涯に位置づけること、
それが「行学」としての
デザイナーの生き様だと自分に言い聞かせてきました。
当初から、私は「真手」=までいという東北地方の言葉を
タイトルにしようと思いました。
ふるさとでデザイン実務をした者ゆえの発想だったと思います。
政府を信じない、大企業を信じない、
学者を信じない、東京流発想を信じない、
これは現代地方の奈辺意識だと確信しています。
地方でデザイン活動をしてきたからこそ、
東京からの発想を持ち込んだところで、
特に、被災地の信頼は受けられるはずがないと思っています。
そしてここに掲げたデザイン計画は
「壮大」でなければならないと考えてきました。
これが資金的にも技術的にも可能ならしめる組織・企業はどこかと考え、
自分なりの選択で持ち込んでプレゼンテーションをしてきました。
このブログタイトル「までい」とは、
真摯に、地道に、真剣に、誠実に、という東北の言葉です。
私自身、残された時間、体力はすでに視界に入ってきました。
技術的可能性を持って、いよいよ現地に入って、
「制度設計案」のプレゼンテーションをする段階になりました。
私自身の「真手」さで、このプロジェクトの実現に、
一人のデザイナーとして向かう決心と覚悟です。
これから、この計画の実現への
困難さや可能になったことをここで記録していきます。

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「これからの命五年は保障された年でした。」


   


     12月 31st, 2011  Posted 12:00 AM

2010年9月末に私は東芝の原子力研究所を訪ねました。
「あと20年、貿易立国・日本は大丈夫」、
原子力技術の進展ぶりに驚愕しました。
「はやぶさ」と「南極観測船・しらせ」に、
わが国の高密度技術あってこそ、
私なりのデザインは寄り添えられるという確信でした。
3.11 PM2:46 M9.0 東日本大震災
大地震・大津波・フクシマ原電事故は、
わが国を「ゼロ」にしてしまいました。
3月からほぼ半年は、瓦礫と破壊された東北景観に涙しました。
そして、1000年に一度を、すでに残されたわが生涯に、
真正面から「祈望と企望」にして対象化しました。
ところが体内のICDが電池切れ、またもや入院手術。
けれども、中国と韓国では、
「国際貢献のデザイン」を講演するチャンスをいただきました。
キーボード・スポーツ眼鏡フレーム・血圧計を世に出しました。
講演も「3.11以後のデザイン」を次世代に語りました。
東芝にもどって、
「復興計画●●●PROJECT」に取り組んだ年となりました。
来年、この提案が受け入れられるかどうかです。
提案はたとえ東芝で出来なくとも後世に残す覚悟でいます。
それは、自分へのある種の決着です。
デザイナーとしての生涯の証です。
身体は、新たなICDでまた五年の心臓制御は保障されました。
日本のデザイン界は低迷しデザイン行政は為体です。
それは日本の政権交代の大失敗と連関しています。
正直、心なき中傷も受けますがそんなものは、
命がけを体験してきた私に届くわけがありません。
私は、地道に懸命さで、
そして最も過激で敵をつくろうが生命の限りを使い果たす覚悟です。
祖父や父の世代がやっと敗戦からつくり直した日本を、
もう一度、私はデザイナーとして大学人として、
私の微力を捧げます。

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「12月のデコレーションと絢爛豪華」


   


     12月 2nd, 2011  Posted 12:32 AM

12月は決まって「デコレーション」が似合っています。
まず、クリスマスツリーや、
夜は、照明が煌びやかで歳末というより、
クリスマスを感じます。
しかし、今年は東日本大震災・原発事故という国難を
私たちは背負い込みました。
そして、まだまだ油断ができそうにありません。
慣れたくはありませんが、
時々日本列島は地震がどこかで起こっています。
被災地が揺れるとたまらなく悲しくなります。
だから正直「デコレーション」が今年は何か空しく感じるのです。
もっとも、デザインが装飾という言葉に重ねられている一般認識。
私は、デザインとデコレーションの明白な違い、
そしてデコレーションの意味をすでに40年も語ってきたと思います。
きっと、死ぬまでデザインとデコレーションを語るのでしょう。
けれども、クリスマスを待ち受ける今年のデコレーション、
今年、日本の様々な街に飾られている
色々なデコレーションへの「きもち」は、
何かを心に刻み込んでおく必要があると私は思っています。
寒暖のリズムは激しく変化し、
適うなら、もうわが列島は揺れないでほしいと願います。
ワイフに告げました。
若いときに「絢爛豪華な装飾いっぱい=デコレーション」なんて、
大嫌いだったのに、最近はそんなデコレーションのある
デザインをやってみたい。
しかし、デコレーションと絢爛豪華は絶対に違うのです。
おそらくなんとしても日本文化の絢爛豪華には伝統がありました。
それはデコレーションとは全く異なっていたと思います。
わが国は、デコレーションではない絢爛豪華が必要な国家なのです。

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「仮面社会=ペルソナか、マスカレードか」


   


     11月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

資本主義社会の終焉は、
民主主義構造を脆弱にして、これをも破壊するだろう。
この予感を大学人になって以来持ち続けてきました。
その兆候というより、現実化・現前というより
事件が取り巻き始めてきました。
東日本大震災も原電事故、そしてこれから起こりうること、
すべてに、「仮面」ある人と策略が見え隠れしています。
「やっぱり、あの企業は」とか、
日和見的な企業人=経営者とか大学人が出てきています。
彼らや彼らの組織は仮面を被っていたにすぎないのです。
企業がブランドと呼ぶものは仮面だったのかもしれません。
ペルソナとはパーソナリティの原意であり、
マスカレードとは実体を化粧し隠匿させる美的手法です。
いづれも、日本的伝統、伝統的美学・倫理性の前では、
「剥ぎ取られるべき」ものにすぎません。
「能面」の表情には、陰影でその能面という仮面下の
実体をさらけ出す美学的手段があります。
資本主義を手段化し、経営トップだけが「経営=自己利益獲得」、
技術者は知的使い捨て労働者にしていただけです。
民主主義こそ、人類の最高理想主義とかに、
そろそれその仮面=マスカレードとペルソナを
剥ぎ取る時期が到来してきたのでしょう。
それは、さらに仮面を被った国際関係の中にこそ、
巨大で太刀打ち困難な「国家危機」すらまちうけています。
私は、日本の伝統芸「能」の根本に、
仮面、ペルソナか、マスカレードか、
この分別を見極める日本民族の美的智恵があると通告しておきます。
本来、社会的リーダーたる人のが、
もし仮面だけならば、剥ぎ取るべきでしょう。

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「政治主導の脱原発は闇の新神話」


   


     8月 16th, 2011  Posted 12:00 AM

終戦記念日を再認識します。
敗戦がもたらしたこと、
このトラウマと果敢な抵抗が日本を
パラダイス国家にしてきました。
それは現在、日本という制度を
今回の東日本大震災とフクシマ原発事故で失って、
ようやくパラダイスだったと気づかされた感があります。
もっとも、阪神大震災のときにも、
「国家は天災についてはなんら個人保証はしない」、
(1995年5月19日参議院予算委員会での発言)
当時の首相の言葉でした。村山談話などすべてが、
代議員なのに「反国家体制づくりのリーダー」発言。
そして、「政権交代」へと大衆は希望を託しました。
しかし私は半分は社会主義的イデオロギー残存する基盤、
この政党政治には辟易感あり政権交代は失敗予知を確信、
「少なからず、政治は社会構造を変えられない能力」
ということにほぼ決定解を持つようになっていました。
日本人の良さは、一つの方向でまとまりますが、
これは長所であれば、時には短所になります。
東日本大震災でものの見事に政治能力は不全なことを、
私たちに知らしめてくれました。
終戦記念日です。すでに当時の方々は高齢者です。
父たちの世代が復興・復活してくれた日本制度は、
国際的にもとても優れていましたが、
もはや全滅状況に追い込まれています。
現首相は哲学無き「脱原発」を宣言しています。
安全神話で国民には騙されてきた思いが強いだけに、
なんだかこれには国民は追随していますが、
果たして?、この首相のふらついた意思決定を信頼?
具体的に言えば、ソーラーや風力などまだまだ未完成。
このような代替エネルギーに電力依存という話は、
あらためて政界の指導者発言にはもっと疑念必要だと
私は考えています。
私の発言は反「脱原発」=原子力推進派と思われますが、
もっと新エネルギー技術には、
ソーラーの大欠点や風力での未熟技術を知るべきです。
さらに、現首相と政商との会談が日本のベクトルなんて
とても信頼できません。
まして、新電力開発にはデザインが不可欠です。
被災地である阿武隈丘陵地帯あたりの方言があります。
「までい」という言葉だそうです。
「までい」=丁寧に、じっくりと、という意味です。
イタリア発祥の「スローライフ」に近い意味印象です。
この4ヶ月「東日本復興デザイン計画書」づくり。
{物質・情報・エネルギー・水}に対して放射能問題。
Smart Grid・ Smart Meter・ Ambient Allianceなど、
カタカナ英語があたかも未来への希望に見えますが、
これは「東京流発想」です。
私はふるさと・福井県の伝統工芸に飛び込んだとき、
ほとんど東京流デザイン用語を使っていて、
産地のみんなからは、
賛同を得ることができなかった経験があります。
したがって、私は少なからず「現場のことば」、
たとえば「までい」という意味性を受け止めて、
これを現代の先端技術+デザイン=復興技術化へという
そんな復興デザイン計画発想が不可欠だと考えています。
そして、政治が語り始めている「脱原発」などには、
仕組まれ隠避された「闇の新神話」があると判断しています。

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「義務あるいは責務原子力へ」


   


     4月 3rd, 2011  Posted 12:44 AM

この天災被害は一つの事象ではなく、
被害者それぞれの事件だという認識が必要です。
しかし、明確に原電事故は一つの人災的な象徴事件です。
したがって、
東日本大震災という名辞に問題意識が入っています。
だから、この対応策を発想していくことは問題解決として、
「応答」でしかありません。
現政権の応答態度は、当然、非難されてしまうのです。
たとえ応答であってもその答え方に「激励」が欠落しています。
被災者は「激励がこもった応答」なら納得するでしょう。
すでに3週間です。
東日本大震災による原電事故という問題認識も誤りです。
だから、問題解決は「応答」処置をつないでいるだけです。
しかもこの応答には復旧ではなく「修繕」です。
ところがその方法論は訓練されてきたとは思えません。
原発には「反原発」と「原発推進」の対決が歴史性を蓄えています。
少なくとも、この対決は今後必ず私たちを二分するでしょう。
この二分を「仕方無し」としてきた歴史が糾弾されるべきです。
つまり、「原発推進」も「反原発」も20世紀の遺物です。
私は「義務原子力」を世界が一丸になって取り組むスタートが、
福島原発と天災が啓示になっているものと判断しています。
私を推進派と反原発の人からから見られていますが、
私は「義務原子力」、「責務原子力」であり、
原発からの冷静で知的な進歩をデザイン対象にしたいのです。
もう、原子力蒸気機関での発電は終焉させる手法が不可欠です。
蒸気機関で連続湯沸かし機電力=エネルギーという発想から、
なんとしても抜け出す必要があると考えています。
具体的にはフランスの原子力技術にも限界があるということです。
日本こそ本当の技術立国として、被曝経験結果、今回の事故から、
大きな教訓で、「義務原子力」、
あるいは「責務原子力」に果敢に向かってほしいのです。
でなければ、復興の企望につながりません。

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「資本主義からの逃走」
 「天災の現実に人災を重ねない人智決断が必要」


   


     3月 16th, 2011  Posted 12:00 AM


自然の驚異は想像力を超えること。
だから、私たちは天災に屈してしまう。
人類の歴史では当然のことでした。
それでも天災に人智で対決してきたのです。
ほとんど敗北することがあっても屈しない姿勢を保守してきたのです。
東日本大震災は天災でしたが、人災が覆いかぶさろうとしています。
福島原発事故の状況に私たちは大きな恐怖に追い込まれています。
世界経済にも翻弄される事態に巻き込まれつつあります。
しかし、すでの世界各国からの支援は90ヶ国以上になりました。
天災に対して、人類全体が、私たち日本人を支えてくれようとしています。
私たち日本人のマナーが評価されていますが、
日本人としての伝統的倫理観は今こそさらに強固にしていくべきでしょう。
そして世界のまなざしは、天災事象のシーンから、
原電事故と経済的な動向に視界は変わろうとしています。
となれば、私たち日本人が、
復興への意欲や意志を明確に見せなければなりません。
復興決断をしていること、
この勇気や決意に全世界から信頼感を持ってもらわなければなりません。
今、日本からの現実情報が不透明だとか、
経済対抗策の不十分さを指摘する海外報道もでてきました。
パニックを押さえ込むためよりも、
正確で透明で、だから何を成すべきかを知らしめる情報発信、
これを関係筋がしなければ「人災」を招き入れてしまいます。
引き替えて、海外報道は想定外をはずし、
現実の危険性を明確詳細に伝えています。
「自然に勝てない」とするなら、
天災という地球自然の暴力には、
何が何でも人智と蓄えを使い果たしてでも、
「人災」を重ねない勇気ある決断行動が必要だということです。


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