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Posts Tagged ‘横井小楠’


『素材産地からWブランドのアライアンスイニシアティブ』


   


     3月 8th, 2016  Posted 12:00 AM



産業のスタートは繊維産業でした。
五か条のご誓文を書いた由利公正は国家の殖産興業を考えた最初の人物。
彼が橋下左内、横井小楠から学んだ結果は富岡製糸場に結実しますが、
すでに生糸は海外から認められなくなっていました。
結果、細井順子女史らの「縦糸2本横糸1本」の「羽二重」は
世界制覇をします。
羽二重でのパラシュートを陵駕するためがナイロンの発明であったのです。
「羽二重」は人絹から今では高密度ポリエステル産業に発展してきました。
繊維には長い間に繊維性能が七つありました。
 ・「しなやかさ」
 ・「ふくらみ」
 ・「はり」
 ・「こし」
 ・「ぬめり」
 ・「しゃり」
 ・「きしみ」。
この七つの感性評価が繊維・布の基軸になることはありませんでした。
私たちはこの七つの感性評価をオノマトペでの研究で、
明確に手本・見本にするマーク表現をしてきました。
僕自身が母方の実家周辺は
いわゆる「機織り屋さん」が幸盛を極めて来た時期、
僕の遊び場は小学校より大きな機屋工場でした。
ふるさと福井に、私は「ダブルブランド戦略」を準備しました。
まず、ふるさと福井は「素材産地」として「羽二重=HUBTAE」にて
メーカーでは、企業毎、商品アイテム毎をブランド化します。
そして、「素材」はさらに新素材から新たな製品化・商品化を産地から
高密度素材開発からの「記号商品」を発表していくことになるでしょう。
素材には確実な感性評価基軸のマークが、素材性能を表します。
すでに、新素材は新たな繊維としての試作を開始しています。
この新素材はやがては医療用として、細胞シートになる可能性があります。
いずれ衣食住の基本である繊維は
日本の新たな素材産業を創成するでしょう。
その大きなきっかけが、繊維の歴史から、
それはコンセプトではなくて
LINEとしての新産業のアライアンスイニシアティブを
かつて、由利公正が意図していた
日本の主産業になると僕は確信しています。


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『落下傘としても羽二重は最高品質だった』


   


     10月 19th, 2015  Posted 12:00 AM



2012年からふるさと福井の繊維産業の一新化に関わっています。
ともかく、歴史から福井の繊維を語り直そうと考えています。
それは「羽二重」が絹織物の名品となって
日本からの貿易輸出品だったこと。
ゆえに羽二重から人絹取引所まで生まれ、
今はポリエステル繊維が中心になっていますが、
羽二重が最高に優れていたのは、
これが落下傘=パラシュート素材でした。
富岡製糸場は由利公正が西洋の絹糸を学ばせた最初の工場でしたが、
生糸では欧州とは競合が出来ないことから、
縦糸2本に横糸1本で羽二重こそ、最高の絹織物でした。
そして、日本には落下傘部隊が誕生し、
それは左上がその部隊のマークだったらしいのです。
羽二重でのパラシュートは、最高のモノであったらしく、
そのパラシュート生産の産地が第二次大戦時には、
米国から大変な空襲を受けて、福井は焼け野原でした。
当時、米国兵たちもパラシュートは持ち帰って、
ウェディングドレスにしたものらしく、
羽二重織物を超えるために、ナイロンが出来たとさえ言われています。
由利公正と言えば
五箇条の御誓文・東京府知事ですが、
それは橋下左内と横井小楠の殖産興業の興し方から学んだことでした。
絹織物は羽二重が世界を制し
日本の輸出品筆頭は九谷焼磁器を凌ぐばかりか
落下傘部隊創設も、
パラシュートとしても最高であったことは知られていません。
生糸産業、羽二重産業、それは人絹織物とまでなり、
人絹取引所は、
その文化までが福井にはあったようでした。
私自身が子どもの頃は親戚の織物工場は学校より大きいものでした。
ところが、最近では羽二重は、お土産物の羽二重餅が知られていて
羽二重が最高の絹織物ゆえに落下傘までが進歩していましたが、
このようなことはすっかり忘れられています。
かつて、福井大学では繊維工学が隆盛していましたが、
繊維工学科はもはや信州大学にしかありません。
私は、生糸→羽二重→人絹→ポリエステルを
さらに進化させた高機能ポリエステルでの新たな商品アイテムづくりが
私にとって、パラシュートを陵駕する、
トランスポテーションや防災、医療、全く新たな産業を
生み出してくれるものと思って
デザイン戦略=問題解決戦略を織物産地に、
その象徴が、羽二重での落下傘=パラシュートだと
私は考えています。


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『ふるさと福井で改めて「羽二重」ブランドを講演』


   


     3月 29th, 2015  Posted 12:00 AM


「羽二重」は日本が貿易立国として、九谷焼の次に大ヒットした
代表的な商品でした。
この歴史的な裏側には由利公正がいました。
由利公正は「五箇条のご誓文」起草者であり、
初代の東京府知事、明治維新政府のリーダーでした。
富岡製糸場も、西陣織りにも、彼の存在がありその背後には、
橋本左内と横井小楠がいたことを私は語り継ぎたいと考えています。
昨年9月に東京で「羽二重」ブランドを歴史・科学・未来で
発表をしました。これは福井県織物工業組合の青年部会でした。
それから、なんとしてももっと拡大をしたくて、
福井県織物工業組合の総会にて講演をしました。
羽二重に至る、歴史性としての偉人達の活躍ぶりから、
科学的には、織物の素材性能を七つの布特性を学術的にまでまとめ、
未来は、まったく新たな織物編物の繊維素材と、
その製品開発の多用性をデザイナーとして紹介をしました。
正直、デザイナーの私としては、25年前、福井在住時には
新ブランドで今では当たり前になっているインナーバックをすでに
福井で提示していましたが、当時は潰されてしまいました。
ようやく新ブランドが福井地元で理解され始めたのかもしれません。
すでに、私のところには新テキスタイルの開発や、
その商品化、見本市への特別参加要請も来ています。
おそらく、羽二重というのは、絹織物ですが、
新ポリエステルからカーボン繊維、さらにはボロン繊維までを
私はこれまで適用されなかったアイディア展開をと狙っています。
したがって、「今日の講演は難しかった」と言われましたが、
私は敢えてテキスタイルが次世代開発の直前にあることを
懸命に伝えたつもりです。
当然、かってパラシュートが素晴らしいので、
敗戦時には米国に徹底的にf福井は爆撃を受け破壊されました。
もう一度、世界で最高の繊維・織物・編物・テキスタイルで
「未来を織り込む」産地づくりにデザイン智恵を出す覚悟です。

 


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『新ブランドのイニシャル商品「大袱紗」の歴史に思う』


   


     8月 10th, 2014  Posted 12:00 AM



絹織物の歴史は奈良時代から養蚕=繭から生糸の智恵が進化します。
明治期には生糸の輸出では、限界がきますが、
由利公正は、橋本左内と横井小楠から学んだ殖産製造制度から、
欧州視察で絹織物の実際を見聞して、織物職人3名を派遣します。
彼らは、富岡製糸場を指導し、西陣織りを再興して、
その技術に、経糸を二本に緯糸一本で「羽二重」という光絹技術が
やがて人絹となって、現代のポリエステル産業につながっていきます。
明治期が始まる大きな要素は、適塾・ペリー来航・安政の大獄、
ここから、咸臨丸の渡航1860から、1870年代にようやく、
わが国の文明開化の中軸は織物産業が輸出経済となったことです。
私は1800年代の歴史は徹底的に暗記するほど、
この頃の産業全体を関係づけてきたと思っています。が、
いつも、幕藩体制の維新が決して無血革命ではなく、
安政年間のあまりにも悲惨なこと、安政の大獄と安政の大地震が
現代への歴史起点だったと何度も確認しています。
小説では坂本龍馬や福澤諭吉に焦点があてられていて、それこそが、
あたかも歴史の体裁になっていますがこの大誤解に対抗しています。
わが最大の敬愛者・橋本左内は26歳で斬首され、龍馬も暗殺、
横井小楠も大誤解のなかで暗殺されてしまうのです。
生きのびたことが歴史に燦然と輝いてしまいます。
由利公正(藩士・三岡三郎)は五箇条のご誓文=船中八策原本と
銀座がレンガづくりの都市計画になりますが、
やはり、私には、日本が明治期を迎えて、文明開化の華やかさには、
一方で、大獄と大飢饉があり、斬首と暗殺の歴史哀情に悲嘆します。
特に橋本左内は16歳で「啓発録」を書き26歳までのたった10年間に、
凝縮された思想と行動に限り無い敬意を抱いています。
新ブランドの最初「O-FUKUSA」は彼へのオマージュです。


「蚕・繭・絹・・・観察が『技』を決める」
「『SILK』Projectが示唆している重大さ」
「芸術という技法が引用したことから」
「憧憬の人物、その実筆書状を探す」
「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」


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「安政の決定事項にデザイン導入してから・・・」


   


     7月 30th, 2013  Posted 12:00 AM



私はふるさと福井の伝統工芸にデザインを導入してきました。
750年の越前打刃物に「タケフナイフビレッジ」を、
デザインの導入によって産地を形成しすでに30周年になります。
すでに第一世代10名と第二世代15名になりました。25名です。
その背景には、この「定書」があります。
越前打刃物に伝わるこの書に登場する浅井(あざい)家は、
そのまま第一世代がメンバーにいます。
第一世代と第二世代が阪大の私の研究室を訪問してくれました。
第二世代に私は考え抜いた「産地モノづくり戦略」を話しました。
この「定書」という制度設計を成し遂げたのは、
まだ20代の橋本左内と熊本藩から越前藩の明道館に招いた、
横井小楠だったことが史実的にも確かめられています。
彼らの当時には藩政にとっても産業のあり方を述べていました。
だから、私はいつも、このように考えるのです。
「もし彼らの才能であったなら・・・どうしていただろう」と。
日本全国には、わが国の美学的結晶の伝統工芸があります。
絶対に不可欠なことは「デザインの導入」です。
30年、流行的なヒット商品を狙ってはきませんでした。
むしろ、現代の時間との共時性と産地技術の伝統性でした。
決して大儲けの産地になったわけではありませんが、
確実な「刃物のあり方」を伝統技にデザインを参画しました。
私は「働きがいと生きがい」を
未来の刃物に発見し、着実な日常性と産地存在性でした。
私は、新たな刃物を提案したいと思っています。
第二世代には、国内外で展覧会・流通・新たな存在性の確立です。
新たなデザイナーもそろそろ見つけ出したと思っています。
なぜならば、この「定書」にある制度設計を基盤にして、
情報時代から次世代時代を創出してもらいたいのです。
「タケフナイフビレッジ」を継体天皇の青春時代を送った、
その場に建設するまで10年かかりました。
その場に第二世代が全国から集まってくれました。
次の30年を根付かせるために私の役割を発見するつもりです。


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「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」


   


     7月 27th, 2013  Posted 12:00 AM



私の年表づくりは「安政」に焦点を当てています。
理由は、すこぶる明快に思想を貫いた偉人への想いからです。
梅田雲浜は、故郷に疎まれ、
「お前の藩にはすごい人物がいる」と言われて、
その藩は気づきます。
彼は、病死?獄死?ですが、私は拷問死だったと思うのです。
橋本左内と吉田松陰は、顔さえ会わせずに、牢番に聞かされて、
お互いの尊敬を詩で交わし会います。
この詩を忘れてならないと思っています。
横井小楠の働きぶり、才能、身体を橋本左内は書状に書きました。
斬首直前の書状で確認ができます。
二人が越前打刃物の「定書」をあの若さで取り決めています。
横井小楠はキリスト教徒では無いにも関わらず、
京都で惨殺されてしまいます。
その時には、左内はすでに斬首されていたのですから、
彼の思いを追いかけてみるだけです。
「安政」は、ペリー黒船来航や大震災を迎えたがゆえに、
徳川体制によって定められた年号でした。
悪政の時に限って、わが国は大天災を迎えていることは確かです。
この人たちの思いが、一人のヒーローを小説化して、
それが一般化されている、あたかも歴史を私は疑うのです。
「安政」、この年間にこそ「明治維新」として、
私たち近代、現代の、
混乱が彼らの非業の死の中に封印されている気がしてなりません。
これまで、私は自分の講演で、折りあらば、彼らを語りました。
初めて、私は「適塾・橋本左内と先端デザイン」を話します。
泣き出してしまうかもわかりません。
なぜなら、彼らの生き方を支えた日本という小さな国家、
その開国にあたっての理想と思想だけの生きがいに、
心から私は、彼らを手本にしたいからです。
「デザインは宿痾の解決」だからこそ、
先端デザイン基本を「安政」の忌まわしき年間に確かめるのです。


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「憧憬の人物、その実筆書状を探す」


   


     7月 24th, 2013  Posted 12:00 AM



明治維新において、そのヒーローを坂本龍馬と人は言います。
私は大きな間違いだと思ってきました。
彼はその書状・手紙が多量にあっただけであり、
それほどの思想があったわけではありません。
小説になりやすかっただけの人物だから、あたかも歴史扱い。
江戸城の無血開城だとか、明治維新を無血革命も大間違いです。
「安政の大獄」は明治維新のために拷問・獄死・自決だけでなく、
斬首、その日の気分で優秀な能力を惨殺しました。
大勢の優秀な憂国の士の能力は血染められたのです。
子どもの頃から、私のヒーローは「橋本左内」です。
かつて、越前市(元・武生市)で越前打刃物の展示がありました。
その時、橋本左内と横井小楠、二人の「定め書き」を見ました。
その記憶をどうしても確実にしたくて、
市長に私自身も書状を書きました。
返事はさりげない「デジタル記録づくり」を知らされましたが、
納得いかずに、秘書課長あてにメール。
「そのようなものは存在しません」
私は執拗に「あるはず」。
「確かにありましたから、データを送付」。
これではないと確認すると、徹底的に調べました。
ありました。福井県が買い取って所蔵していたものでした。
写真撮影には2週間、書類審査があって・・・、
切れました。
何がなんで写真がほしいのです。
手をつくして、データをいただきました。
「デジタルデータにする」というその方法違っています。
おそらくそうした手法を全ての行政は知らないと思います。
私なりに送付されたデータでプレゼン資料を作りました。
15歳で彼は「啓発録」を書き、
16歳で大阪の「適塾」=大阪大学医学研究科源流に学び、
20歳で福井藩藩医となりますが、
一時、大老候補となった松平春嶽と江戸に出ます。
25歳、滋賀藩の井伊直弼大老によって政治犯となります。
その斬首刑直前の4通の書状を
徳富蘇峰が一時所有は明らかでした。
その4通の書状を見ながら、
26歳、斬首されました。
10年間の彼の行動は「書」が無いだけに今なお闇ですが、
「適塾175周年記念大阪大学の講演」で、
私は先端デザインの下敷きとして語るつもりでいます。


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「三匹の狛犬は活断層から護ってくれるはず・・・」


   


     5月 17th, 2012  Posted 12:00 AM



私は三匹の狛犬で護られています。
まずは、越前市(武生市合併)に1300年代から、
千代鶴国安(二人説もあり)が、
刀を一振り製作する毎に、
武器=人殺し利器にならぬようと願いをかけ、
砥石を素材にして作ったと言われている狛犬です。
千代鶴国安は京都の刀剣作りからドロップアウトして、
国府であった武生市で野鍛冶を始め草刈り鎌を発明し、
それがやがては福井藩の重要な物産品になりました。
橋本左内や横井小楠が、この物産品製造でのルールを取り決め、
その古文書が残っています。
750年の伝統工芸産地・越前打刃物を私はブランド化しました。
「タケフナイフビレッジ」には、
神殿=祠と劇場=工房までを整備し、すでに30余年になります。
「タケフナイフビレッジ」のシンボルマークにもしています。
そしてペアである狛犬は、
九谷焼でわが家の玄関に鎮座しています。
なにしろ自宅は大阪中央区の地上100m32階にあります。
隣に大阪城がありますが、見下ろす高さです。
明石大橋までが見渡せます。
しかも最近に分かったことは「上町断層」直近です。
南海地震があれば、この断層は3.3m隆起し、
震度は7.2とか予知されています。
だから、この狛犬には絶対に護り抜いてもらいたいのです。
名古屋から大阪に引っ越したときに、
なんとしても狛犬でしかも九谷焼を探し求めました。
そうしたら、その想いを抱いた直後にわが家にやってきました。
絶対に、タケフの狛犬が派遣してくれたと確信しています。
必ず活断層からこの狛犬たちが私たちを護ってくれるはずです。


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